75.巨悪の苗
夜中の公園のブランコに揺られながら、二人の沈黙は続いていた。
きいきい。金属の軋む音だけが響く。
「……」
「……」
ときどき目が合えば、互いに逸らす。かれこれ十五分はこうしているかもしれない。
やがて彈は沈黙を破る決意をする。
「円環さんっ」
「ひゃいっ!?」
彈の呼びかけに思わず大きな声を上げてしまう円環。
彈が体を向けるのと同じように円環も向き直す。彼女はその真摯な視線から逃れられずにいた。
「……俺……非道いことを。謝っても謝りきれません」
「……」
「けど、ごめんなさい。そして……“もう、大丈夫です”」
言葉に偽りはない。円環がそう確信出来るのは、目の前の想い人から憑き物が落ちていたからだ。胸のつっかえが消えるようだった。
「よかった……です……。無事で……」
ラプトルの正体を知り、彈を介抱し、彈に襲われたあの日。
満身創痍という他に形容しようのない外傷もそうだが、何より精神面。心が修復不能な程、“壊れている”ように見えた。自分が出来る限りのことはしようと、思いを伝えたつもりだった。
だが、結果として彼は彼女の元を去った。もちろん、感情的になり、彼女の体を貪ったという罪悪感に苛まれてその場を去ったというわけだ。到底赦されざる行為、低俗で野蛮で下劣な非人道的過ち。それは間違いない。しかしそう一蹴するには、震条彈という男はあまりにも“背負い過ぎていた”。
彼が、ラプトルが消えてからというもの、一ヶ月程は彼女の顔から笑みの消えた日々が続いた。沙世はひどく心配したが、円環が心の内を打ち明けることはなかった。
時間が二ヶ月を超える頃、徐々に普段の生活を取り戻すよう仕事場に立ち始めた。喪ったものを乗り越えるように立ち直る。それも何処か心ここに在らず。
彼女にとって、彈の安否が分からず過ごす日常は、味のしないガムを延々と噛んでいるようだった。この間のラプトル復活のニュースも、耳にしている余裕などなかったのだ。
円環の瞳から一雫の涙が溢れ落ちる。
「! 円環さんっ……!?」
慌てふためく彈。
「ずっとずっと……心配で夜も眠れなかったんですよ……?」
「……っっ」
反省をするしかない。こんなに優しい人を悲しませてしまったのだから。
円環の肩を軽く叩く彈。ふと顔を上げると、そこにはマスクをつけたヒーローの姿が。
「えっ」
「……驚いた?」
なんとくだらないことだろう。彼なりの励ましであるということは分かるにしても、あまりにも子供らしい。
「……」
「え、えっ〜と……」
反応の振るわない円環に戸惑いつつも、彈は次の手を考える。
逆立ちになり、片手を外し、片手両足を広げる。曲芸を必死に披露するその姿に思わず吹き出す円環。
「…………ぷっ! あははははは!」
「はは……」
「……“きっと、長い謝罪を事細かくする”。私の考え、間違ってました。震条さんはそんな普通の不器用はしない。だって“超不器用だからっ”」
涙で濡れた瞳を拭い、赤くなった目元を細め、笑う円環。
「なっ!?」
「耳、赤くなってますよっ」
久しぶりに人の心からの笑顔を目にした彈。
(でも、円環さんが笑顔になったんならいいか……)
ヒーローかそうでないかなんて、関係は無かった。
何をしようが、何があろうが、震条彈という一人の人間を待っていた彼女にとって、彈が無事という事以上に大切なことなどなかったのだ。お互いの存在が、生きる上での支えになっていることに気づいていない二人ではない。
「円環さん笑い過ぎですよ)
「……円環で」
「え?」
「もう、あんなことまでしておいて……さんづけは嫌です」
「あ……」
気まずさが二人の顔をより赤らめた。
「じゃあ、俺も……彈で……」
暗く、少し冷える夜空の中、反対に体温を上げる二人には色濃く残る夜となった。
立てる靴音すらも、聞く者の体を震わせるだろう。そう思いさえするほどの、威厳。風格。
空母とも形容出来る、彼の所有物であるクルーズ客船。ヘリポートに何台も“移動手段”が並んでいる。
「何? 確かか?」
ばつの悪い表情で王前が頷く。
苦労して掻き集めた五人の精鋭の全滅。王前の手元の資料には、部隊全員の顔写真に×マークがついているのが確認出来る。
眉間に皺を寄せ、苦言を呈する。
「役立たずが……自滅を好む愚か者のことは考えるだけ無駄だ。……“私がやろう”。その為に来た」
言葉の凄み。それは表面的な意味であり、超常的な意味合いでもある。
高級なスーツ。特徴的な緑の水玉模様は、劇毒を有する動物の、不気味な斑点のようにも見えた。
アイギャレット・シェルシャルル、来日。
「それって、そうとうマズいってことよね……」
自らをアイギャレットの手下、ARMORYのリーダーという男に襲われた。その事実、そして彈の見解を含め、話した。
現状は亜莉紗とダニエル、そして、斉藤にも共有してある。もしかすれば斉藤経由で警察、ジンゴメンにだって知られているかもしれない。それほどの事態だ。
“同類は同じ目に”。ベレー帽の男が言っていた通りなら、モノクロームのような人間も襲われたのだろう。
「元インプレグネブル・ゴッズとして、詳しいコト、教えられる?」
亜莉紗から当然のように向けられるダニエルへの問いかけ。以前にも、それとなく聞いたことがあったが、軽くあしらわれてしまった。
「……うん。言わないととは思ってたんだけど」
言葉をつまらせるダニエル。
「明確な答えを挙げられるかは分からないし、さらなる絶望の上塗りになるかもしれない。それでも構わないかい?」
諄い言い方をするには、それなりのワケがあるのだろう。実際、彈はその力の一端を目の当たりにしている。
「いずれは相対する敵さ」
覚悟を込めた瞳。ダニエルは渋々口を開き始めた。
「まず、能力の細こまかな詳細が言えないのは、彼の口が固く、僕が知らないということではない。“僕も昔に受けたことがあるからさ”」
「?」
言葉の意が上手く汲み取れない。それは、頭の切れる亜莉紗とて同様だった。
「僕は心から信頼されていたし、彼からも身の上話を聞かされたこともあった。けれど、力を受けると心身ともに“硬直するんだ”。二人なら理解は出来る筈」
あの時を思い出す。
「精神力の強くない僕なら尚更だ。前置きはさておき本題に入ろう」
インプレグネブル・ゴッズ。その巨大組織の殆どを一人で作り上げた男。
“それ”は如何程の力か。
「恐怖政治、とでも言うかな。御門悠乃の左目のように、彼は声を使う。“あらゆる生命の恐怖心そのものに触れる力”。端的に言えば、“トラウマ”だよ」
「……」
目を見開きつつも、口を閉ざしたままの彈。
「彼から発せられた声は、そのまま人を縛る鎖となる。その度合いにもよるが、恐怖を植え付けられた相手は、彼に逆らえなくなる。“言うこと”をきくしか無いんだ」
「ウソでしょ……笑えてきたわ」
そんなの、そんなの勝ち目はあるのか? 対抗のしようは無いのではないか? 反則のような力にも思える。
「……」
だが、彈は動けなくなるようなことにはならなかった。御門悠乃にしても、恐ろしい力ではあるが、“立ち向かう”ことは出来た。
「不可能は何度だって経験してる。力が分かれば、対策を講じるだけだ」
彈は内に湧き上がる闘争心を燃やす。
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
「……?」
「何よ、坊やがせっかくメラメラしてるのに」
水を差すようなダニエルの発言に亜莉紗が顔を顰めて言う。対するダニエルは冷静に続けた。
「君達二人は既に、少しだが彼の力を受けてしまっている。つまり、“彼へ敵意を向けることが出来ないんだ”。文字通り、戦意喪失だよ」
「何だと?」
弱気な発言のようにも思えた。だが、ダニエルの表情は真剣そのもの。でたらめを言っている訳ではない。
「でも今はやる気マンマンだ」
ダニエルは首を振る。
「今は彼が居ないからだ。彼を前にした途端、手も足も動かなくなる。現に、今は大丈夫と言ったけど、強く彼のことを頭に浮かべ考えてみるんだ。寒気がする筈だ」
「……!」「?」
首を傾げる亜莉紗に対して、彈は青ざめた顔を見せる。ベレー帽の男と相対した直後の、“あの感覚”。確かに覚えがある。あれが。これが、そうだと言うのか。
「じゃどうしようも無いっての……? お手上げ?」
無謀にも思えるアイギャレット・シェルシャルルの打倒。しかし、冷や汗を流しつつもやはり彈の瞳には変わらず闘志の炎が灯っていた。
「超人だかなんだかしんないけど、俺はやる。やるよ。ここまでやられて……今までだってインプレグネブル・ゴッズの影響の余波による被害は少なくない。一秒でも早く、決着をつける必要がある」
まずは方法を考える必要がある。
闇雲にアイギャレット・シェルシャルルの前に姿を現しても今より強く力をかけられたらおしまいだ。一回で勝負は決してしまうだろう。それに、今感じるこの悪寒が、いざ決戦となったときに同じとは限らない。増幅する、ということもあるかもしれない。
植え付けられたトラウマはそう簡単には払拭出来ない。対策そのものが意味を為さない“最悪”を想定する必要もある。
ダニエルが発言を憚られている為、弱点のようなものも推測は出来ない。そもそもあるかどうかは不明だが。
彈は考えた。
ならば、今のこの状態をフラットに、“無かったこと”にすればいいのではないか。
以前、御門悠乃と対峙した時、彼女の過去を聞いた。そこで引っ掛かっていたことを思い出す。
レッドスプレーに対して、何度も関係を迫ったと言っていた。彼には断られていたような言い方であった為、御門悠乃が力ずくでしていたということだ。実際、“力を使った”などとも言っていた。
彈には引っ掛かっている部分があった。レッドがそう何度も同じ手にかかるとは思えなかったからだ。拒んでいたなら尚の事。
“御門悠乃には記憶を操作する力があるのではないか”。
彈は、長く抱えていた疑問を糸口に、絶望への活路を模索し始めた。