8.新しい日常
シングウジインダストリーの一件は、翌日の正午には日本全土に知れ渡っていた。
ただ一人、あの場で逃げ果せていた男がいた。名を王前嵩久という。男はすんでのところで一命を取り留め、彈とソード、真宮寺の一戦の一部始終をカメラに収めていた。独自のルートであらゆるサイトにアップ、週刊誌に情報を流した。
ヒーローの、初めての鮮明に姿の映った映像。それが広まるのにそう時間は掛からなかった。
彈の姿のみが映っていたため、世はヒーローが単独で悪逆な秘密結社を打ち倒したと持て囃した。同時に真宮寺雅隆が発した”ラプトル”という呼称が、意図せず民衆に定着しつつあった。
反面、五百を超える人員は過半数が死に絶えた。このことからラプトルには殺人者のレッテルが貼られた。ヒーローの声に疑問を浮かべる者が増えるきっかけとなった。
真宮寺雅隆、ソードの二名は逮捕され、無期懲役の判決を受けた。
新宿の大量殺人から長きにわたり、人々を震え上がらせた事件はようやく終結を迎える。
彈は大学を辞め、土木工事のアルバイトを始めた。
レッドは彈に遺産を残していた。シングウジインダストリーに乗り込む直前、亜莉紗に伝えたのだ。
「全部やってくれ。使い道もこれといってなかった。結構貯まってるはずだからよ、あいつの資金源にでもしてくれ」
彈はそれに未だ手をつけずにいた。
手頃な肉体労働があってよかった。トレーニングの一環になる。彈は重い大量の土を土木用一輪車の荷台に乗せて運ぶ。
「兄ちゃん、今日もいい働きだな。若いんだからずっとバイトじゃあれだろ? 将来のこともちゃんと考えとけよー」
親身になってくれる上司。職場環境は悪くない。仕事はキツいが慣れるまでの我慢だ。大学を辞めた俺を快く迎えてくれた。
「ありがとうございます」
汗を拭い作業を続ける。
「将来……か」
「休憩ー!」
昼食に入る。
ホッと一息をつく。すると声がかかった。
「震条! 客だぞー」
声の先へ向かうと、そこにはみづきがいた。
「可愛い彼女さんだな」
ニヤニヤしながら先輩の武田が肩に手を置き去っていく。
「……やっと見つけました。どうして大学を辞めたんですか?」
みづきは少し怒っているようだった。
「よくここがわかったね」
「すごく探したんですよ」
彈はふと思う。
「なんか口調違くない?」
みづきは真剣に答える。
「……あたし同級生なんかじゃありません」
やけに素直に答えるみづきに驚く彈。
「あたし、明星みづきっていいます。明星ひかりの妹です」
脳裏にあの時のニュースの映像が浮かんだ。
『明星ひかりさん、佐々木果穂さんが遺体で発見されました』
勇希の友人の女の子。殺された被害者の遺族が接触してきたというのか。
「勇希と仲良かった子か……なんで俺に?」
怪訝な表情の彈。
「あんな事件ひどすぎます……。警察の捜査も、打ち切られてこそいないけど、もう手付かず。大人達もメソメソ悲しんでるだけで動こうとしない。こんなのおかしいですよ!」
まるで自分を見ているようだった。
「震条さんが被害者の一人、芦川勇希さんと親しくされていたのは知っています。だからこそ、三人の葬儀の時、一人だけ涙を流さないあなたに興味が沸いたんです。それから大学にも顔を出していないようだったし、一人で事件の犯人達を追ってるんですよね!? 私も手伝います! なのにどうして大学を辞めてこんなところで働いてるんですか!」
そういうことか。彈は穏やかな表情を見せる。
「残念だけど、君の考えは外れてるよ。俺はちょっと、別にやりたいことが見つかっただけさ」
「えっ……」
ひどく驚いているみづき。その顔はみるみる失望の色に変わっていく。
「なら、本当は何をしているんですか……?」
顔色を変えずに答える彈。
「本当も何も、今はアルバイトで精一杯だよ」
本心の見えない笑顔に後ずさる。
「そうじゃなくてっ……」
小声を漏らした後、涙を浮かべその場を立ち去るみづき。
「あたしはあたしのやり方で犯人共を見つけ出してやるんだから……」
もう誰だって巻き込みたくはない。一般人なら尚更だ。一人でいい。一人で事足りるくらい自分を鍛えればいいだけだ。
彈の考えは頑なだった。
軽快にお馴染みの音楽が流れる。夕方六時、人気のワイドショーだ。
「こんばんは。ユーガタプレスのお時間です」
壮年のキャスターが挨拶をする。
「さ、今日のトピックを見て行きましょう。本日はなんと言ってもこれ。『ヒーローの在り方、そして超人の存在の真偽』!」
ラプトルを中心とした大きなボードとフリップが用意される。
「ここ最近は凄惨な事件が続きました。その影響で、人々から笑顔が消えていき、暗い雰囲気が漂っていましたね。そこに、颯爽と現れたのが何を隠そうヒーロー、ラプトルです! 彼はたった一人で新宿を恐怖に陥れた悪の組織を壊滅させたのです! ……ジャーナリストの縦ヶ澤さん。ヒーローについて、ラプトルと呼ばれる人物についてどう思われていますか」
コメンテーターの男の一人が喋り始める。
「いや〜彼ね。私も初めは割りと肯定的だったんですが、この間の一件で人を殺めちゃったわけじゃないですか。それも一人や二人じゃない。そんな殺人犯をヒーローだなんて『はい、そうです』と認めることはできませんよね」
スタジオにいる殆どの人間が首を縦に振っていた。
「まあしかし、この世の中に一石を投じるという点では、彼の出現は意味あるもの、必然とも言えるでしょう」
オールバックの元刑事、凌木市架が語る。
「現に、警察がやられてしまった国民の不安感をなんとか拭ってくれたのは彼ですよ。まあ元警察の僕が言えたことじゃないんですけどね」
スタジオの笑いを誘う。
「非常に聞きにくい質問ではあるんですが、凌木さんご自身は現役時代、警察の力不足を感じたことは?」
キャスターが質問する。
「そうですねえ。力不足と感じたことは正直無いんですが……僕達の手に余るほど、悪人が力をつけてきた。犯罪の規模や程度が大きくなってきた、と思わざるを得ませんね」
芸人の麻野眞一郎が割って入る。
「今回のシングウジインダストリーの一連の事件。なんでも、高い技術の宣伝が主な理由だったなんて言われてはりますが、企業本社からは様々なハイテク機器が見つかったとか。それを警察さん達が応用して警備の大幅強化! とか出来ませんの? 自衛隊の軍事力アップ! とか」
また一笑い。
「それが出来るよう努力はしているんじゃないですか?」
微笑みながら凌木は答えた。
常にアンテナは広く張っておけ。
レッドの教えの一つだ。彼の死後、より一層情報収集には力を入れた。主に亜莉紗からの情報が殆どなのだが。
暗い夜道。
今、彈もといラプトルの前にはレッドがマークしていた”血の鎧の男”が姿を見せていた。
超重要危険人物とまで業界では言われているようだ。彼が人智を超えた力を持つという者の筆頭であることは間違いない。
全身スーツのようにぴたりと張り付いた血液のようなもの。血の鎧なんて呼ばれているからそうなんだろう。光の当たる角度によって様々に色を変える。美しい———とさえ思うほどに。
尖った後頭部が後ろに飛び出ている。奇妙な外見だ。
男は周りを見渡していた。幸い影に隠れているのは気付かれていなさそうだ。道の端にある側溝に身を屈める。不審に思った彈は静観をやめ、思わず声を掛けた。事が起きてからでは遅い。
「何をしている?」
「!」
ゆっくりと振り返るその男の腕には……一匹の仔猫が弱々しく抱えられていた。
「へ?」
「じゃあ、遠くで捨て猫の入ってた段ボールが空になってたから探してた……と?」
「ああ」
なんとも気が抜けた。拍子抜けをした。
「君は、ラプトルだろ? 有名人に会えてうれしいよ」
「知ってるのか?」
「今、君を知らない人は少ないんじゃないかな。それくらい渦中の人だよ、君は。自覚がない?」
人々に認知されている。深く考えたことはなかった。
少しは犯罪の抑制に繋がるのだろうか。いやそれより弊害の方が多そうだ。自分目当てでソードのような輩が増えるかもしれない。もしくは正体を暴こうとする者も現れるかも。身の振り方を改める必要がある。
「お互い正体は詮索しないでおこう。俺も追われている身だからな。大方、君は俺を知ってはいたんだろう? この姿にさほど驚いていない」
男が尋ねる。
「まあな。あんたの姿はちらほら出回っているからな」
静かに猫を撫でているままの男。顔が覆われていて表情が分からない。いや、それはこちらも似たようなものか。
「それにしても、猫を助けるくらいなら“そんな姿”にならない方が目立たないんじゃないか? 話したところあんた、“普通”の人間のようだし」
男は猫を両手で抱え上げ、こちらに向けた。
「俺、猫アレルギーなんだ」
猫がこちらを見ている。またも彈の調子が狂う。
「この状態だと症状が出ないんだよ。それだけさ」
優しい人なんだろう。目撃情報だって研究目的や売買目的で狙われているというものばかりで、彼が自発的に人を殺めたなどといった話は聞かなかった。
「この子は近くの動物保護施設に届けるよ。ヒーローさんと話せて良かった」
「そんな。こっちの台詞だよ。ずいぶん親切なんだな」
男は笑ったように見えた。
「じゃあまた」
「ああ」
二人は逆方向に別れた。彈がふと振り返ると、辺りにはすでに誰の気配もなかった。
「血の鎧の男にあった!? 詳しく聞かせなさいよ」
亜莉紗が興奮気味に聞いてくる。
「別に何かしたってわけじゃないけど、良い人だったよ」
パソコンでテレビ電話越しの彼女が肩を落とす。
「はあ〜死ななくて良かったわね坊や」
「交戦的には見えなかったし、危険人物ってのは噂が尾ひれをつけているだけだと思う」
「全く。あんたはイカれてるのかマトモなのかほんと分かんない子ね」
「あんたにだけは今後も世話になるよ。頼りにしてる」
彼女には苦労をかける。
レッドの事を知った彼女は顔にこそ出さなかったが、ひどく落ち込んでるように見えた。
“裏”に詳しい彼女の知識やコネは強みだ。その気になれば様々な手回しだって出来るだろう。電子機器にも強いおかげで事件や騒ぎをすぐさま見つけ出し、彈が実行部隊のように事を片付ける。毎日連絡のとれる相手では無いが、これほど信頼できて心強い味方はいない。
「ふーん、仔猫ねえ……まあ今回は大丈夫でも、そいつの言った通り坊やはもう有名人よ。半年活動して、あなたを狙う人間も出てきてる」
彈の表情が強張る。
「有名な殺し屋や請負人がゴロゴロと狙ってるかもよ〜?」
「そのときは……返り討ちにしてやる」
あははと笑う亜莉紗。
「この装備だってある。簡単には負けないさ。ダニエル本人にも伝えたいんだが、やっぱり忙しいか?」
どうかしら、と亜莉紗は手を広げる。
パソコンから一つのデータが送られてくる。ファイルを開く彈。
「……最近だと丁度四日前に一人の中国人が入国してるわ。通称”壊し屋の龍”。人体を完膚なきまでに破壊することからそう呼ばれてるみたい。普段は用心棒としてチャイニーズマフィアに属してるみたいだけど、そういった暗殺まがいのことも副業感覚でやってるって。相当腕の立つ男よ。一応頭に入れておいて」
彈は黙って男の写真を見つめていた。
仕事から帰り、玄関の電気を点ける。
マンションの一室。ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを弛める。部屋の明かりはつけずに冷蔵庫から缶ビールを取り出す。胸ポケットに入れた煙草に火をつけ、片手で開けたビールを胃に流し込む。テレビを点ける。放火事件が報じられていた。
無精髭を生やした中年の男は呟いた。
「ヒーローか……」
テレビの光だけが照らし出す、男の口角は上がっていた。
室内に所狭しと人が座っている。
一様に深緑の意匠を揃えた全員が手を組み祈りを捧げていた。
中央に立つは、変わった服装に全身を包み、頭巾のようなものを被っている男。
「悪人共が蔓延る社会。……害虫どもは駆除せねばなりません。我々が社会にとっての農薬となるのです」
「教祖様! 教祖様!」
皆が声を揃える。
「祖よ! 汚れた世の中を変えましょう!」脇の小柄な男が猛る。
場は異様な雰囲気で満ちていた。
「待てっ!」
逃げ惑う青年。
路地裏に逃げ込んだがその先は行き止まりだった。派手に転んだ青年は怯えた顔で追手を見る。
「拡張者……もう逃さねえぞ」
息を荒くした男どもが詰め寄る。
「何、ちょっと手伝って欲しいことがあるだけだ。乱暴はしない。ほら、こっちへこい」
「いやだ、なんでこんな力……っっ!」
自らの手を見つめ、苛立ちを隠せない青年。顔を上げ、追手の男達の横にある連なったごみや立てかかった鉄パイプを、“触れることなく倒す”。金属音が響いた。
「う、うわあ!」
男達を足止めし、その場から立ち去る。
「ご、ごめんなさい……!」
とあるボクシングジム。
何人ものプロ選手、練習生が倒れている。
「お前っ! 実力を隠していたのか……!」
ジムの会長らしき男に詰め寄る、拳を赤く染めた赤黒い髪の男。
「まさか先日のヘビー級チャンプをやったってのもお前か……?」
「あんたにはガキの頃から世話になったよ。ボクシングを通してこんなにも戦いの楽しさ、素晴らしさ、高揚感を教えてくれたんだからな……!」
男は涙を流していた。頬を濡らしたまま、にやりと笑い、目の前の恩師を手にかけた。
「つまらねえ。つまらねえ。……もっと命の駆け引きをさせろ。くくっ、あ〜、そう思ってた退屈な毎日にもおさらばだ。もう我慢はしない。ヒーローも犯罪者もみんな、みんなみんな、喰ってやる」
男はその手のグローブを外した。
“普通”ではない者達が蠢き始めていた。