65.出国
一気に攻め出るモノクローム。
部屋を縦横無尽に駆け回り、一本、そしてもう一本と触手を切っていく。
「ぐっ! ふざけるな……お前、断罪者とか語ってるらしいな。気持ち悪いんだよ、“同じ”くせにそうやって普通面してるのが……!!」
右手の裾からも同数の触手を飛び出させる。
「もう遊ばない……。死んじゃえっ!」
触手の先端から針が飛び出す。もう、“掴む”では、許してくれないだろう。
「クラゲの毒針か? 食らわねえよっ!」
ジェリーフィッシュの部屋のカメラをジャックして、その様子を見ている亜莉紗。
(時間は掛かったけど、なんとか“入れて”良かった……組織って言うより個人で経営してるようで助かったわ。にしても彼、坊や程じゃないにしろ、結構動き回れるのね。スーツの恩恵もあるんだろうけど)
回りの置物は壊れ、アクリルガラスにも僅かながら亀裂が入っている。このままジェリーフィッシュの頭に血が上ったまま、考え無しに触手を振るえば、ここは水槽の水で溢れかえってしまう。
その前に決着をつける必要がある。
「子供のくせに、人殺し……挙げ句の果てには、自分と同じくらいの年齢も殺しているのか?」
「だからどうした? 僕は僕のやりたいようにする……。“これ”はその為の手段だっ!」
救いようが無い。モノクロームはそう見限った。
避ける動作から流れるように、扉側の壁を踏み台に、全力で対象へと一直線に跳んでいく。
「近寄るな、雑魚がぁ!!」
残る九本の触手全てを一人に向ける。しかし触手は空を掴む。尾を引くマントを掠めながら。
ジェリーフィッシュを“通過”し、背後へと降り立つモノクローム。
「ば、かな……っっ」
(あれ……?)
ゆっくりと視界が横に“ずれていく”。上下は回転し、自らの胴体を見上げた。
「断罪完了———」
触手の全ては機能を停止し、罅割れたガラスから水が滴り漏れ出ている音だけが響いている。
彼本人と連動していたようで、彼が死した後で自律して反撃を行うというものでもないらしい。マスクと学生服を切り離したことで、事は一通りの収束を迎えた。
「無事なのね? 早いとこずらかりなさい。明日にでも龍の捜索を始めるわよ」
亜莉紗からの通信が入る。
「明日? 今からでも……」
「馬鹿おっしゃい。こっちでバイタル見てるわよ。今日は帰って休みなさい。追ってこっちから連絡するわ」
(そんなものまで仕込んでいたのか……)
亜莉紗の指示通り、今日のところはこれで活動を終了することにした。
言われずとも、自分の体が限界な程、ジェリーフィッシュとの戦いは苛烈を極めたことは分かっていた。スーツの性能が上がったことで、負担は軽減されたとはいえ、かえって全力以上を出してしまったのだ。脳の無意識のブレーキを解除してしまったとでも言うべきか。
ガタが来て使い物にならなくなっては本末転倒だ。モノクロームは家に戻り、亜莉砂への連絡までの間、“日常”へと戻ることにした。
もちろん、亜莉紗へ連絡を取らないというだけで、無理はしない程度に“普段の活動”は継続することにした。
あれから数日。
部長である徳井が今日も吠える。
「あのなあ。俺はなあ、何年も努力して今の地位になった。けどな、もちろんこんなとこで止まる気はないぞ? もっと上を目指して稼ぐつもりだ。だが、お前みたいな無能のせいで昇進が止まってるんだよ! いい加減上司の俺に恩返しの一つでもしてくれないか? あァ!?」
ストレス発散の場はただ一つ。九六部へのイビリ。
体裁が何よりも大切で優先すべき事項という人間は珍しく無い。九六部はいつものこと、心を無にして聞き流していた。そうすれば、いずれ止むからだ。
“連絡”はない。
九六部徹として、モノクロームとして。二重生活を続けている以上、“暇”なんてものはもう一生訪れない。そんな中で、連絡待ちの事項をいつまでも考えている余裕など無く、協力の頼まれたことをわざわざ催促する時間も無い。だが、ジェリーフィッシュを殺し、ここまで関わった以上、頭のどこかにはいつもラプトルの姿があった。
自分とて仮にも彼に触発された身。
ラプトルと考えが相容れぬことはあっても、“行動を起こした”、その一点に置いてはリスペクトに近しい感情を抱いていた。
「聞いているのか!? いつもいつもお前は何考えているかわからん面しやがって……。入りたてはまだマシだったんだがな、お前は変わったよ。“最悪の人間にな”」
「誰のせいだよ……」「毎回あんたの尻拭いしてるからだろ」「そっちは最初から最悪っ」
またも徳井が目を光らせる。デスクから陰口を洩らす部下達がさっと目を逸らす。
「大体お前なあ」
あの日から常にポケットに入れている通信機が、強く振動する。
「! すいませんっ」そう言ってそそくさと仕事場を飛び出す九六部。
「なっ……!」
残された徳井は呆気にとられた。
早足で通話に出ながらトイレへ駆け込む。
「進展かっ!? 随分遅かったなっ」
気が気でなかったのだろう。声からも伝わってくる。亜莉紗はくすりと笑った。
「あら、思ったより考えてくれていたのね」
九六部は冷静さを取り戻すように息を整える。
「……当たり前だろ。さっさと終わらせたいんだ」
九六部の顔が見えてくるようだ。
「まあいいわ。……もう五月に入ってしまった。悠長なことはしてられないわ。この数日で集められた情報を元に動いて貰うわ」
「継続して犯罪組織の情報を渡すと約束しろよ?」
「分かってるわ」
「ならいい」
社交辞令程度の言葉を交わした後、本題へと入る亜莉紗。
「龍自体には割とすぐに辿り着けたわ。今も定期的に“そういう仕事”を引き受けてるみたい。用心棒と兼ねてね。そして肝心なのはこれとは別のサイドビジネスについて。元々裏の世界の住人である彼にこう言うのも変だけど、護衛が“表”の仕事なら、こちらの副業は“裏”の仕事。詳細はもちろん伏せてあるし、要人しか招待されないVIP仕様になってるわ。恐らく、ここにラプトルは囚われてる」
香港は龍と呼ばれる男の庭。考え無しに飛び込んでも成功は見込めないだろう。
「サイドビジネスか……」
「招待、という言葉に引っかかってね、そう言うからには何か“会員制”のものだと思ったの。そしたらビンゴ。香港のお偉いさんのパソコンになんとか侵入して情報を掻き集めたら、何やらそのお偉いさん含め、多くの要人が入り浸ってるところがあるじゃない」
ハッキングはお手の物か。九六部は驚くことなくそのまま話を聞いた。
「内容は、“地下格闘技の賭試合”。ありがちね。そこには狙われて力を失い失墜した自国の要人や、拉致された外国人、後の無い貧民なんかが命を賭として戦わされているみたい。言わば金持ちの道楽ね」
(賭試合……)
ラプトルの所在が分かり、囚われてる場所の詳細も分かった。今現在、彼は賭けの為に、その身を酷使させられているのだろうか。
「会員制か。なら、俺に要人になれと? それともそこに囚われる側としての潜入か?」
意外にも、まともで慎重な策を提案する九六部に思わず失笑する亜莉紗。
「あはっ、そんなの必要ないわよ。あなたはそのまま侵入すればいいだけ」
反対に、強引な提案をする亜莉紗に驚く九六部。仲間を救出する作戦という手前、もっと慎重を期して動くと思っていた。
「もちろんその為の準備はしっかりするわよ? これだけ大切なビジネスなら警備もしっかりしてるでしょうし、万一あなたが抜けれても、見つかったことによる警戒で、さらにラプトルを救出するのが困難になる可能性もあるしね。要は、地形の把握・混乱に乗じて助ける、この二点が重要になってくるわ。その中で、もしラプトルに協力を仰げれば尚良し。とりあえず、一週間後には、香港に発ってもらうわ。“準備”しておいて」
怒涛の亜莉紗に気圧される九六部。
「あ、ああ。……それって、結構かかるか?」
「何言ってるのっ! 国外の事ともなると、現地に行かないことには分からないこともあるわ。だからあなたに調べてもらうんじゃない。通信機は通じるようにしておくから安心して」
「な、るほど、了、解した……」
九六部は、亜莉紗の指示に、否応なく従う事となった。
五月十一日。東京国際空港。
「何も、見送りに来てくれなくてもよかったんだぞ。わざわざ仕事まで休んで」
香港へと発つ当日、百合渚は休みを取り、九六部を見送りに空港まで来ていた。
「ほんっと、仕事人間のテッちゃんが大量に有給取ったって聞いて、びっくりしたわよ!」
「無理を承知だったんだがな。部下達が部長に掛け合ってくれたんだ」
「人望あったんだ……」
「そう、なのかな……。まあ、一ヶ月も取れてよかった。日頃馬鹿真面目に働いてたおかげだな。けど……いつ戻れるか分からないから、それ以降は普通に欠勤扱いになるらしい。欠勤が十日を越えればクビだってさ」
「はあ、ほんと何してんだか。思い立ったように国外に行くなんて……こんな大事でも、何も話してくれないんだね」
伏目がちに百合渚が呟く。当然だ。いつも隠し事をしている恋人が、突然外国に行くと言うのだから。
九六部は優しく百合渚の頬に手を添える。
「済まない。帰りは眼鏡を買ってくるよ。きっとどんな物でも似合うだろうが、選りすぐりの一品をプレゼントする」
現在、百合渚が掛けている眼鏡も、二年前に九六部が彼女の誕生日に送った物だ。
「……バカ。女の子はサプライズが好きなんだゾ。そういうのは隠してていいっての……」
胸にポンと軽く当たる拳の感触が、どこか寂しげに思えた。
電光掲示板の表示が切り替わる。
「っと、もうそろそろだ。ゲートに行ってくる」
そう言って、胸の中で俯いている百合渚を引き剥がす。
「ちょっ、待っ」
百合渚の言葉を制するように唇を重ねる。
「んっ……」
「じゃあ、またな」
九六部は振り返ることなく遠ざかっていった。
これが彼にとって良い事なのか悪い事なのかは分からない。だがここ最近、いつも暗く辛そうな表情だった彼が、なんだか明るくなってきているようなことを百合渚は知っていた。