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際限なき裁きの爪  作者: チビ大熊猫
第3章.墜落
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61.灰色の情景


 時は遡り、震条彈が拉致されてから七日後———。


 男は起床後、すぐに洗面台へ向かった。

 顔を洗う。温水では意味が無い。冷水で脳を起こし、頭を切り替える。肌に冷たさが刺さる。

 パンを焼く。トースターに六枚切りの食パン二枚を放り込む。同時に、モーニングコーヒーの準備も万端だ。

 軽く準備運動をする。準備運動と言っても、自室の姿見の前で首を回し、肩を回し、開脚をするだけ。ゆっくりと片足を顔に近づけ、I字バランスを取る。程なくして、トーストの焼けた音が聞こえる。ポットの水も沸騰していた。

 平たい皿にトースト二枚を雑に乗せる。ブルーベリーのジャムを一枚にさっとひと塗り。もう一枚も同様。ブルーベリーが目に良いと、いつかのテレビ番組で耳にしたからだ。効果の程は知る由もない。

 コーヒーを注ぎ、トーストと一緒にテレビ前のテーブルに持ってくれば、朝食の完成。テレビを付けず、黙々とトースト・コーヒーを交互に口に運ぶ。

 新聞を見る。

『ラプトルが失踪してから一週間 どこへ消えた? 稀代のヒーロー』

(ふっ。ヒーロー、か)

 男は朝食を終えた後、スーツに着替え、家を出た。


「九六部ェ! なんだ? さっきの案は! プレゼンの数字も間違いやがって……やる気があるのかお前は! 責任を(こうむ)るのは俺なんだぞ!? いい加減にしろ!!」

 怒号がオフィスに響き渡る。

 男が上司である徳井に叱責されるのは、この職場では日常茶飯事であった。

 アパレル会社に勤める男の名は九六部(てつ)。何度か転職はしたが、今はここで働いて八年になる、ただのしがない中年サラリーマンだ。

「全く……俺は何回お前のケツを拭けばいいんだ!」

 部下や同僚が冷ややかな視線を送る。

「九六部さん、また部長にイビられてるよ……」「あの資料、俺も作ってるとこ見たけど割と良かったぜ?」「聞いた話だと、なんでも、部長の用意したデータ元が間違ってたらしいぞ」「今の徳井部長が移動してきてから、九六部さんの昇進も無くなったもんな〜」「いい歳して部下いじめかよ」

 陰口に耳を立て、徳井がぎらりと目を光らせる。すると、固まった部下達は蜘蛛の子を散らすよう各自仕事に戻っていった。

「ふんっ。もういい、戻れ。気味の悪い奴め」

「……」

 投げつけられた資料を掻き集め、自らのデスクに戻る九六部。

 深呼吸をし、パソコンを開いた。


 暗い夜空、眠らない街。街の光に照らされないよう、鮮血が陰で舞う。

「ふっ。お前らのような存在も懲りないな。自分の命が惜しいなら、薬物(こんなもの)に手を染めるべきではない」

 都内に潜む、麻薬カルテル。十数人が中毒となり横たわっている。この“事態”に目を向けない程に。

 意識は朦朧とし、異臭が立ち込める。およそ普通とはかけ離れた空間だ。

「こんなことしてヒーロー気取りか? 笑わせんな! この人殺しがっ! ら、ラプトルと違ってあんたは嫌われ者だぜ? へへっ」

 威勢だけは良い。一歩ずつ近寄り、首を絞め壁に叩きつける。

「くっ、放せ……! クスリが欲しいならいくらでもタダでやるよ! だから命だけはっ」

 腹部に蹴りを入れる。唯一最後に残ったこの男は健常者。恐らく“表”で薬を捌く売人だろう。

「ぐっ……ごほっごほっ!」

 この組織は既に何人にも売り捌いている。こういったネットワークは一人の一般人の買い手を見つければ、そこから根を張るように拡大していく。

 友人、知人、仕事仲間。今ではSNSの恩恵もあり、そのスピードは想像を絶する。普通の生活を送っていた人間をクスリ漬けにし、破滅に追いやる。果てはもちろん、死だ。

「“こうなる”ことは予測出来た筈。お前らみたいな大罪人に、明日は必要無い」

「ま、待てっ」

 有無を言わさず首を刎ねる。

「……残りも同じだ。無抵抗でも容赦はしないぞ」


 サイレンの音が聞こえる。

 抵抗した五人を殺したときに発砲された。それが近隣住民に通報されたのだろう。空きビルに人の気配がすれば不審がるのも当然だ。それが銃声なら尚更。

 全員の処刑は完了した。

「耳障りな音だ……大して世界を綺麗にする気のない雑音(ノイズ)。癇に触る」

 モノクロームは踵を返し、その場を後にした。


 自宅に着く。

 高層マンション中腹の一角。

 毎日同じようなことの連続。二重生活が辛いわけではない。とは言えども体は疲れるものなのだ。

 凝った肩に手を当てながら扉に鍵を挿し込み、ドアノブを引く。

 おかしい。扉が開かない。“鍵が閉まった”のだ。

(……? 締め忘れたか?)

 もう一度鍵を回し、中に入る。

 玄関から見えるリビングの扉から明かりが見える。ふと足元を見ると、見慣れた先客の靴が置いてあった。テレビの音がする奥へ進み、扉を開ける。

「来てたのか」

 付けっ放しのテレビを背に、キッチンで料理をしている後ろ姿が見えた。

「ん、お帰り。今日もくたびれてますな」

 交際相手であり半同棲中の女性、本多百合渚。九六部とは交際を始めて四年になる。

「相変わらず荷物が多いわね」

 “仕事”の関係上、スーツケースを常を持ち歩いている。はたから見れば、いつも宿泊の多い外回りの営業にしか見えないだろう。それにしても毎日というのは不自然な他ないが。

「色々あるんだよ」

「中には何が入ってるんだか」

 百合渚はこれ以上詮索はしてこない。気にはなっているようだが九六部に遠慮している節がある。

 九六部の業績も、彼の昇進が止まっていることも、黙って支えてくれている。

「今日は肉じゃが。定番だけど、家族の味。いいでしょ?」

 彼女の料理は絶品だ。プロの料理人も舌を巻くだろう。疲れた体には良薬より効く。

「ああ。ありがとう」

 二つの仕事が終わり、帰宅してからすぐに料理が食べれるということは、何よりもありがたい。それに、こうして待ってくれている人がいることも幸せだ。

 だからこそ、こういった“平和”を脅かす存在は許しておけない。

 二人でテーブルに着く。

 砂糖醤油の香りが鼻をついた。浮いた油が輝いている。牛肉・人参・じゃがいも・いんげん豆、そして、好物の白滝に旨みが絡みついているのが分かる。思わず唾を飲み込んでしまう。焦らなくとも、これを奪う人間など居ないというのに。

 じゃがいもと肉を一緒に口へ運ぶ。

 空腹時の一口めは、冷たくもないのに食べ物が歯に染みるような感覚がある。じわりと口の端から甘みが広がってくる。ほくほくのじゃがいもは崩れ、肉とともに旨みで口を満たす。

「……美味い」

 にやにやと目の前で頬杖を突いた百合渚が嬉しそうに眺める。

「ん、よろしい」

 共に添えられた白ご飯と豆腐の味噌汁が優しくマッチする。まさに日本人といった献立だ。

 九六部の顔は誰が見ても分かるほどに疲れて見える。目の下の隈、少しやつれた頬、全身からだって“いつも体は乳酸でいっぱいです”という雰囲気が滲み出ている。

「大丈夫? また無理してるんじゃない?」

 百合渚が九六部の顔に触れる。

「心配ない、好調だ。お前こそ製薬会社の方は順調か?」

「……はあ〜。あのね、あたしのことはいいの。あなた、自分が思っている以上に酷い見た目してるわよ? なんだか不幸の塊が歩いているみたい」

 ひどい言われようだ。

 だが、ラプトルが消えてから犯罪はまた徐々にその勢いを増しつつある。それを一手に引き受けている以上、負担が増えるのは当然のことだった。

 “あの一件”で様々なことが変わった。

 ラプトルは姿を消した。犯罪は増加しても、警察の手は追いつくかどうかは別の話。ジンゴメンとやらも尽力してはいるが、ラプトル程のネームバリューは無い。加えて、自分がサポートを一身に受けていたスーツの開発主はこの手で葬った。

 今は本当の意味で、“独り”になってしまった。

 元よりそのつもりだが、何故だか心が沈んでいる。さしたる理由も無く。

 武装は切れ味を落とすことなく使えている。ヒーローの失踪した世の中を辛うじて保てるくらいには。

「仕事が忙しいんだ。過労で倒れたりはしないさ、心得てる」

 そう言って黙々と食事を再開する。百合渚の心中は穏やかではない。

(また一人で抱え込んで……あたしじゃ力になれない、か)

 やがて、夜は更けていった。


 校内は昼休憩の時間に差し掛かっていた。

「ラプトル、今頃どうしてるかなあ……」

 あの日からラプトルは姿を消し、ニュースでは連日、突然の“ヒーローの失踪”が報道されている。

(深鈴先輩は、“私達がどうにか出来る問題じゃない。ラプトル様なら大丈夫よ。”なんて言っていたけど、心配で授業に集中すら出来ないよ)

 三年になったというのに、新生活もままならない。

 友人を自らの手で。

 故意ではないにしろ、その事実は人を自死に追い込むのに充分過ぎる動機になる。もし自分が操られた智樹を手にかけてでもいたら、そう思うとゾッとした。

 翌日の四月五日、現場に居た常良燦護からこう言われた。

『後の事は全て大人に任せて、二人とも“普通の生活”に戻って欲しい。まあ、難しいとは思うけど』

 その通りだ。

 “拡張者”であり、ラプトルや犯罪者達と関わった自分に、普通など訪れるものなのか。


「もう一週間が経つんだね」

「坊やにGPSでも付けておくべきだったかしら」

 冗談を笑い飛ばす人間も居ない。亜莉紗はすっかり眠りについている愛夏の頭を撫でている。画面越しにダニエルが不安を漏らす。

「ダンはそう簡単にやられはしない……と、願いたいけどね」

「そうね……。変だわ。仕事仲間が“いなくなる”のなんて慣れている筈なのに、付き合いだって短いのに、どうしてこんな気持ちになるのかしら」

 二人の間に暗く重たい空気が流れる。ふと、一つの考えが亜莉紗の頭によぎる。

「……か、考えたくないけれど、確かに自殺の可能性及び恨みを買った犯罪者に殺されている、という線はあるわ」

「亜莉紗」

 最悪の想定を淡々と話す亜莉紗に動揺するダニエル。

「けれどもし、もし仮に。坊やが拉致されていたら? あまりの状況に私達は、彼が凶行に走ることばかり考えていたけど、普通ならそう考えるのが妥当だわっ。思わず盲目的になっていた……!」

 ダニエルは驚きながらもゆっくりと同意した。彼女の考えが手に取るように分かる。ヒーローは“もう一人”いたということを。

「彼のいなくなった穴を埋めているのは警察だけ? 違うわ。“ヒーロー”は、彼だけの特権ではなかった筈よ」


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