18.積雪
回し蹴りを避け、反撃。肘打ち、裏拳、そのまま蹌踉めいたモノクロームに二連飛び膝蹴りをお見舞いする。
「ぐっ! ……はっ! 流石に強いなァ! でも俺は止められんぞ!」
変幻自在、多方向から蹴りが飛んでくる。手強い。一筋縄ではいかないとは思っていたが、脚技主体の攻撃がここまで厄介とは。彈はモノクロームの脅威に手こずっていた。
「必ずその女は殺す! そいつだって心ん中じゃそれを望んでいるはずだ!」
彈の後ろには、血に塗れた女が地べたに座り込んでいる。白い息がその色を引き立てていた。
今から十二時間前——。
午前八時。
「パパ! 見て、これパパ!」
少年は自らが描いた家族の絵を見せる。
「……このハンサムな男がパパかっ。上手だなあっ」
父親は息子の頭を撫でた。
「雄哉は画家なんかの才能があるかもしれないな〜」
浮かれている様子の父親。母親が台所から手を拭きながら会話に参加する。
「何何? ママにも見せて?」
少年は得意げに、嬉しそうに母親にも見せてみせる。
「あっ……」
父親が息子を止めようとするも遅かった。画用紙いっぱいに描かれた家族の絵。そこには“四人”の楽しそうな姿が映っていた。
「っっ……よく描けてるわね……」
母親はそそくさとリビングを出た。父親は頭を掻きむしった。またか、と。
少年には姉がいた。いる筈だった。
渡と愛夏は職場で出会った。
広告会社の営業とデザイナー。同じ案件を任されているときに、チームの中でも気が合い、次第に惹かれ合うようになった。
競争の激しさ、上司の小言、仕事の難しさ。当たり前のように大変な毎日を送っていたが、二人で支え合い、なんとか日々を過ごしていた。
地道に残業をこなし続ける渡は周りからの評判も悪くなかった。対して、愛夏は天才肌で実力もあった為、出世コースを順調に歩むと思われていたが、生来の人見知りで人間関係に躓くことが多かった。
やがて二人は結婚した。
お似合いの二人という声もあれば、彼らを妬む声もあった。世の常だろう。
その頃からだろうか。愛夏への嫌がらせも増えたように思える。男には好かれる性格であった。が、反面、同性には邪険にされることも多かった。
鬱。
程度の差はあれど、まさか自分がなるなんて。他人事だと思っていた。改めて病名を口に出されると、心理的にも参った。渡は休職を促し、極力多くの時間を妻に費やし、支えた。
程なくして子を授かった。自分が鬱という、ストレスを過度に感じるようなこの状態で命を身篭る。正直、責任の重さだけで押しつぶされそうになった。
現状だけで夫に多大な迷惑をかけている。職場だってそうだ。ただでさえ悪かった職場環境も、より悪化しているかもしれない。低い自己肯定感を高めることは困難を窮めた。お腹の子に栄養が届いているかも心配であった。
ある日、いつもより強い陣痛に襲われた。あまりの出来事に二人で病院へと駆け込んだ。
流産だった。
娘になる筈だった命はあっけなく消え去った。
自分より不幸な人はたくさんいるだろう。努力している人はたくさんいるだろう。それでも、自分なりに地獄のような日々を頑張って、頑張って、生きてきた。その結果がこれか。
渡はもう疲れた、と家を空けることが多くなった。
人生のどん底にいた愛夏。死という道など何度考えたかわからない。だが、人は社会の中で生きているもの。人との関わりのない人間など居ない。自分が死ぬことでまたしても周りに多大な迷惑をかけるだろう。それはできない。
家で最低限の家事だけをこなし、ダラダラと過ごす日々。遅くに帰ってくる渡は、酒の匂いを纏わせながら賭け事に負けての繰り返し。それでも、彼にしてもらったことは大きい。彼を責める権利なんてなかった。
会社の上司が日中に訪れた。
元々よくしてくれてはいる仲の上司だったので特に深くは考えずに家に入れた。久しぶりに会った上司と世間話をしていると、突然、玄関で見せた優しい表情は見る影をなくした。上司が覆い被さる。
何が起こったか分からなかった。乱暴に服を破り、“事”に及ぶ。悲痛な愛夏の声も全く聞こえていないようだった。あまりの悲鳴に隣の主婦が通報。上司はすぐに現行犯で逮捕された。
彼は大きなプロジェクトの責任者を任されており、大手化粧品会社の大規模広告としての全てを担っていた。だが、取引先との不正なマッチポンプが判明した。取引先のライバル会社をそのまま引用したかのような過去のデザインを用い、炎上商法による話題性を求めた。止める部下の声も聞かず上層の責任者同士での決め事であった。
起用するタレントといい、載せる広告の規模といい、賠償額は数億にものぼった。上司は辞職、離婚をしていた。
溜まった不平不満を発散したかったと言う。手頃で、口の堅そうで、反抗しなさそうな女だから選んだ。そう供述した。夫である渡には“未遂”と伝えた。
ここからやり直そうと二人で話し合った。息子である雄哉が生まれた。夫は知らないだろう、“自分の子ではないことを”。
ふと、リスタートしたはずの自分の過去を思い出す。いつも見て見ぬふりをしてやり過ごした。
雄哉の絵にはとても楽しそうな四人の姿が描かれていただけに胸に迫るものがあった。
おもちゃの車で遊んでいる。雄哉の見えないところで愛夏を宥める渡。
「たかだか五歳の子供だ。悪気はないよ」
「……わかってる」
もうクリスマスが三日前に近づいていた。
三人でケーキやプレゼントを買いに行くことにした。少しでもこういったイベントや行事は楽しんだ方がいい。そんな渡の考えに賛同してのことだ。
街はクリスマスムード一色になっていた。街に出ること自体が少ない愛夏は目を奪われた。下を向いてばかりで景色が見えていなかったんだろう。思わず涙が溢れそうになった。そこに、目尻を拭う指があった。
「隈もひどいもんだな……でも、そんなの笑顔でいくらでもカバーできる。笑っていた方が愛夏らしいよ」
嬉しかった。
私にはこの人がいる。それに雄哉も。それだけでよかった。
三人は雄哉のためのプレゼントを買いにショッピングモールへ足を運んだ。息子が楽しそうにはしゃいでいる。テレビのヒーローもののおもちゃが欲しいと朝から言っていた。おもちゃ売り場に向かった。ずらりと品物が並んでいる。クリスマス商戦の激しさが窺える。
「あった! これ! オラクルの人形!」
日曜の朝からやっている大人気ヒーロー番組、オラクル。黄色を基調とした全身タイツのようなスーツを見に纏い、長いマントを靡かせ、頭に鶏冠のような出っ張りのある、全国の子供のヒーローだ。
「これね! 目が光るし音も鳴るんだよ!」
溢れんばかりの喜びが伝わってくる。けして裕福な家ではないが、息子のこんな表情が見られるならクリスマスが毎月あってもいいくらいだ。愛夏はそう思った。
レジに向かっていた。
ヒーローの品物が並んだ先には女の子用のコーナーが広がっており、人気の魔法少女作品があった。そしてそこには、一組の親子がいた。
「あ! 咲ちゃん!」
渡の後ろから付いてきていて、他の商品を見ていた為、反応に遅れてしまった。
「あら、幼稚園の知り合いの子?」
ふと渡に聞くと、その顔が青ざめていた。雄哉とその女の子は随分仲が良さそうに見えた。
「渡? え、今日仕事じゃなかったの!? うざっ、ありえないんだけど。家族で買い物とか」
母親らしき女性は夫と面識がある様子だった。ひどく口の悪い女性だなと感じた。
「恵未っ! これはっ……違うんだよっ!」
渡は見るからに慌てていた。
「丁度いいじゃん。佐野……愛夏さん? だっけ。あのさ、さっさと離婚してよ。あたしも咲も早く新居で“新しい生活”始めたいからさ」
理解に少し時間を要した。そういうことか。
頭が真っ白になるのはよくあることだったから正直慣れていた。それにしてもこの人も、いや……この男も浮気などするんだな、と思った。
「おいおい、やめてくれよ。今話したら面倒なことになるだろ? それにこいつは不安定な奴なんだから。いつ変な気を起こすか……」
渡は小声で恵未に詰め寄る。
「……そ、そう。子供同士を会わせるくらいの関係だったんだ……私、バカみたい……」
最悪のクリスマスだ。愛夏はひどい吐き気に襲われた。元々の鬱の症状の何倍もひどいものだった。視界が歪んでくる。
ふと目の前の女の子が目に入った。朝の息子の絵が浮かび上がる。“あれは生まれてくる筈だった私の娘なんかじゃない”。———この子だ。
愛夏はその場から走り去った。
「あはっ! 行っちゃったね〜、君の、雄哉君のママ」
雄哉は少し俯いた。娘である咲とは仲良しだが、どうにも母親である恵未には心を開けずにいた。
渡が頭を掻きむしる。
「後でまた話さないとな……。まあ、いいか」
「今日は四人で遊ぶぞ〜!」
異様な光景だった。
さっきまでの家族とは構成が変わるも、同じ店で買い物を続けているのだから。
「万引きだ〜! 誰か捕まえてくれ!」
店員の声が遠くから聞こえた。
「なんだ? クリスマスに万引きなんて大変だなあ」
渡が笑いながらも気にはしなかった。だんだんと万引き犯の足音らしきものが近づいてくる。
「え、おいおい、こっち来るぞ!」
荷物棚の角から包丁を持った女が現れた。哀しい目をしていた。
愛夏は渡を刺した。根元深く。
「……え?」
痛みより驚きの大きさが勝り、渡は状況を掴みきれないまま倒れた。
「い、いやああああああああ!!」恵未が悲鳴を上げる。
本人も子供の二人も腰を抜かし、あるいは足が動かずに立ち尽くしていた。
愛夏の呼吸が荒くなる。
「なんで? いつも私だけ……どうして!!」
女の娘の喉を掻っ切った。続いて地面を這いずり逃げようとする女を踏みつけ背中から一刺しで殺した。
息子が自分を見ていた。血の付いた手でゆっくりと顔を撫でる。息子は泣いていた。声には出さず肩が震え、呼吸が早くなっていた。
「つらい? 怖い? 一緒だね……」
愛夏は包丁を握る手を緩める。
「……ママ、どうしちゃったの……? 皆で、五人で暮らそうよ……!」
息子の腹を刺した。勢いのあまりその小さな体を刃先が貫通していた。
「マ……マ……」
駆けつけた店員や客の悲鳴。
近づかれないようにと包丁を振り回す。やがてサイレンの音が聞こえてきた。愛夏は一目散に店を飛び出し、外を走った。
「いくらラプトルと言えど、その女を助ける価値はあるのか? 子供を含めた四人を殺した大罪人だぞ」
靴も脱げ、ボロボロの足で命からがら逃げていた。
全身が返り血に塗れている。右手には血の付いた包丁。この女性が犯人なのは間違いないだろう。それでも、彈はこの女性を何故か見捨てられなかった。
ただ殺しをさせない。モノクロームと対峙している理由はそれだけではない。この女性は“同じ眼”をしていた。復讐に囚われていたあの頃の自分と。
到底普通の精神状態ではない。レッドに言われ、鏡を見て気づくまでは自分があんなにひどい顔をしているとは思わなかった。
この世の全てを憎んでいるかのような、この世の全てに絶望しているかのような形容しがたい瞳。
「犯罪の大小は関係ない。言ったはずだ、押し付ける気はないが、俺は殺しはしない。そして……“俺の前では殺させない”」
三人を諌めるように、雪が降り始めた。