番外編. The tragedy of a summer day-episode of 斉藤文重-
じわじわと蝉が鳴いている。
団扇を煽ぎ、麦茶を飲みながらデスクワークをしている男。警視庁刑事部捜査一課、斉藤文重。
「クールビズとはいえ、この暑さ。節電なんて言ってないで冷房つけさせろってんだ」
ぶつぶつと愚痴を垂れている。
すると、後ろから足音が近づいてくる。警察学校からの同期であり、捜査一課長の凌木市架だ。
「文句を言うんじゃない。それより証拠品の報告書、まだなのか?」
「やってるよ。けど、中々集中出来なくてな。手伝ってくれよ」
「バカ言え。俺だってやっと仕事終わらせたとこなんだ。お前より書類多かったんだぞ?」
「へいへい」
二人は一課のゴールデンコンビとして数々の事件を担当し、その全てを解決してきた。
警察内での評判は飛び抜けて高いものだった。
「そういえば、阿軌さんは元気か?」
「ん? ああ。まあ、ぼちぼちな」
凌木が斉藤のデスクに腰をかける。
「結菜ちゃんも、もう幾つだ?」
「五歳になる。まだまだ元気すぎるくらいだな。お前も早く相手見つけろ。結婚は、家族はいいぞ〜?」
斉藤がケータイを開き、待ち受け画面の家族写真を見せびらかす。凌木は目を逸らし、持っていたコーヒーを口にする。
「俺は、今は仕事だけでいい」
斉藤が冷ややかな視線を送る。
「……はあ〜、これだ。お見合いでもなんでもやってみりゃあいいのにな。お前は堅物すぎるからなあ」
「余計なお世話だ」
突然、斉藤のケータイが鳴る。妻の阿軌からだった。
「おう。うん、熱? ……わかった。近くの病院だな。俺も今日は早上がり出来るようにする。じゃあ」
娘の結菜が発熱をしたようだ。病院に連れて行くという旨を聞いた斉藤は定時での仕事上がりを決心した。
「やっとお外出れる体調になってよかったね。遅くなっちゃったけど、もう少しで呼ばれるからお母さんと頑張ろ」
「うん!」
はじめ結菜の症状は重く、外出出来る様子ではなかったため診察に赴く時間が遅くなってしまった二人。
やや混雑している様子の院内。
入り口に、一人のフードを被った男が入ってくる。真っ直ぐに受付へと進み看護師の一人を抱き寄せる。男の手元には拳銃が携えられていた。
喫煙所で煙草を吸っていた。そこに凌木が入ってくる。
「ん? 斉藤、お前まだ帰ってなかったのか」
大量の吸殻の入った灰皿を見て頭を抱える凌木。
「あと少しで帰る。これを吸いきっとこうと思ってな」
「所帯持ちでも、このヘビースモーカーは治らんな」
そんな話をしていると、慌ただしい声が聞こえてくる。
「? 外が騒がしいな」
喫煙所を出て駆け回る一人に声をかける。
「一体何事だ?」
「病院にて立て篭もりです! なんでも病院中に爆破物を仕掛けているとか!」
二人は顔を見合わせすぐに駆け出した。
男は既に場を制圧し、病院にいる動ける人間全員をかき集め座らせていた。
警備員などの武装も取り上げ、引き続き看護師を人質にとっている。警備員の一人からケータイを取り上げ、男は徐に警察に電話を掛けさせる。
「か、掛かりました!」
「一番偉いやつに変われ」
外では警察が病院を包囲していた。
そこに斉藤と凌木も駆けつける。警部の山形が犯人と話している最中だった。頭を下げる二人。一瞥する山形。
「先程の匿名のメールはお前で間違いないな? 爆破物というのは本当か? 目的はなんだ?」
「まあ、金だろ。爆弾はこの病院のあちこちに十箇所仕掛けさせてもらった。人質を殺されたり、病院を粉々にされたくなけりゃ、一億用意しろ。すぐにだ。あと、確実な逃走手段も欲しいな、ヘリでもなんでもいい」
山形の顔には怒りが伺えた。斉藤達は傍の警察の一人から情報を受ける。
「こちらが立て篭もり中の犯人、渡辺良。二十八歳。現在フリーターで、過去にひったくりで現行犯逮捕されています」
斉藤が目を丸くする。
「こいつ……! 前に俺がとっ捕まえた野郎だ!」
凌木が続けて質問する。
「メールというのは?」
「こちらです。設置箇所こそ記載はされていませんが、各爆弾の詳細な情報、画像が添付されています。これのスイッチを入れられたら病院は大破するでしょう」
斉藤はふざけてやがる、と苛立った。
「更生なんてしちゃあいねえ、とんだ馬鹿野郎だ」
警察は手を焼いていた。
渡辺は通常の精神状態ではなかった。
目の前で幼い子どもが泣き喚いた。先程からずっと小さくぐずっていた少女だ。
「おい、うるさいぞ。泣き止ませろ」
阿軌はすぐに頭を下げる。
「す、すみませんっ。結菜、大丈夫だからね」
必死に泣き止ませるも結菜の声は収まる気配がない。
渡辺は考えた。ガキを人質にした方が少しでも有効かもな、と。
「おい、そのガキよこせ。この女と交換だ」
周囲がどよめく。
「え……。お、お願いしますっ。この子だけは……」
男の一人が立ち上がり叫ぶ。
「交渉を早く進める為なんだろ? 早く交換してくれよ! 俺らの命が懸かってるんだぞ!」
横の老人が割って入る。
「子どもを易々と引き渡せというのか! 貴様は!」
口論をしている様を見て渡辺は天井に銃を発砲し、場を静めた。
「……うるさい。早くしろ」
阿軌が恐る恐る口を開ける。
「せめて、せめて私も一緒に……!」
「好きにしろ」
人質交換。
母娘を人質に取るや否や、抱えていた看護師を解放する。看護師は一目散に逃げ、犯人から離れようとする。
無情にも、渡辺は逃げ去る女の背中を撃ち抜いた。
銃声———。
緊張が走る。斉藤が叫ぶ。
「おいおい、中で何が!? まだ時間まで一時間以上ある筈だぞ!? 興奮しているにしても限度ってものがあるだろ!」
慌ただしい中、間髪入れず次の発砲音。
「山形警部、機動隊突入の準備を」斉藤が進言する。
山形は迷っているようだった。斉藤を制すように凌木が言う。
「爆弾があるんだぞ? おとなしく交渉に応じ、奴を宥め、場の鎮静化を図るのが一番だ」
電話が掛かる。犯人の渡辺からだった。
「用意は出来たか?」
「ま、まだあと一時間以上は待つ約束じゃないのか」
山形が極力刺激をしないように尋ねる。
「おい、何事も一時間前行動って習わなかったのかァ!? ああ!?」
渡辺の怒号が響く。
すると、電話の向こうから少女の鳴き声が聞こえた。警察はまたも動揺する。
「ん? ああ、人質をガキにした。こいつ殺されたくなきゃ一秒でも早くしろ。……おい、ガキの名前は?」
「結菜です……斉藤結菜です」阿軌が答える。
斉藤は固まった。
妻だ。妻の声だ。聞き間違えるはずがない。
なら、さっきのは結菜か?
斉藤が声を上げかけた途端、瞬時に凌木が止める。斉藤は完全に頭に血が上っていた。
「凌木……離せ」
「今の、もしかして阿軌さんか? 冷静になれ。まだ時間はあるはずだ。みんな全力を尽くしてる」
「放せ!! すぐに突入すべきだ!!」
暴れる斉藤を力づくで止める。
「斉藤! 無理に強行手段はとれない! 先の音は警告だ。気持ちはわかるが、多くの命が関わってる。少しでも多い方を助けるため、今はぐっと堪えるんだ。きっと二人も助かるっ」
「遮蔽物が邪魔ならライフルでもなんでも持ってこい! 俺が奴を撃つ!」
「爆弾はどうする!」
二人の怒鳴り合いが続く。渡辺はケータイを耳元から離す。
「なんだ? 揉め事か? 全く……」
ふと少女の顔をみる。
なんだが見覚えがある。ある筈がないのに。
不思議と誰かに似ている気がした。
「大丈夫。きっとお父さんが助けてくれるよ」
母親の言葉が引っかかった。渡辺の脳裏にある忌々しい出来事が甦る。
「……おい、夫の名は?」
「え?」
「お前の旦那の名前だよ! なんだって聞いてんだ!」
病院内に声が響き渡る。
「……文重、斉藤文重です」
俺の人生を便所のクソみたいにした張本人。
激しい憎悪の対象。何故俺がひったくりごときでこんな生活を送らなきゃいけない?
目の前の母娘がひどく疎ましく思えた。
「奴は単独犯だ! それに傍受した映像から見るに軽装じゃないか! スイッチを持っている様子はない! すぐに押せるよう手元にある筈だろ!?」
斉藤は必死に訴える。だが気が動転しているのも事実だった。
山形は凌木に目をやる。
「あれほどの爆弾。爆発すれば建物は倒壊し、恐らく病院内の全員が死亡するでしょう。自分は可能性が一ミリでもあるのなら、慎重に動くべきだと考えます」
警察は未だ判断に手間取っていた。
またも発砲音が響いた。
それも“八発の音が鳴り続けた”。斉藤の顔が青ざめる。病院内が騒がしくなる。数分もしないうちに警備員が渡辺を連れて入り口から出てきた。
警備員は見ていた。犯人が十発入りのグロックを使っていることを。犯人が立て続けに発砲し、残りの弾が無くなった瞬間取り押さえ、逮捕に至ったという。
人質のほぼ全員が救出された。
三名の死亡が確認された。看護師は背部を撃たれ死亡。
斉藤阿軌、結菜親子は頭を撃ち抜かれ絶命。その後三発ずつを体に撃ち込まれていた。
救出後、すぐさま鑑識や爆弾処理班のもと捜査が行われた。数時間をかけ各所を探しまわったが、爆破物らしきものは何一つ見つからなかった。
全くの“でたらめ”だったのだ。
凌木の謝罪の言葉も斉藤の耳にはもはや届かなかった。
事件の収束後、斉藤文重は半年の休職を経て刑事に復帰した。
凌木市架は一年足らずで刑事を辞めた。