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際限なき裁きの爪  作者: チビ大熊猫
終編 第5章.越境
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【最終話】105.答え


 斉藤は流と車内にて、ある家の前で張り込みをしていた。

 人員は総出で護衛に務めている。赤塗りに狙われる可能性のある人物の全てに事情を話し、二十四時間体制で警備をしている。自宅とて相手が赤塗りなら安心は出来ないという者が殆どで、これ以外に手は無かった。

「あら。降ってきましたよ」

 流が雨粒の落ちたフロントガラスを見て言った。ハンドルに体を預け、凭れ掛からせている。視界の先では暗く広がる夜空から静謐な液体が落下していた。

「もう十一時過ぎか」斉藤が時計を確認する。

 あれから警察は赤塗りと遭遇した。その際、数人がかりで応戦。銃を構え、迅速なる発砲をした。赤塗りに当てることは出来なかったが、撃退に成功した。次は必ず逮捕に繋げる。そう誰もが意気込んだ。

「この間は捕まえたかったですね。久々の大きいヤマ、腕が鈍ってたんですかねえ。それかやっぱり奴がとんでもなく凄腕だからか」

 流がぼやく。その場に斉藤と流は不在だったのだ。

「にしても、一度でも見つけれたのはデカい。逃げられたって事実もな。あれだけの力があって、やはり赤塗りは誰でも彼でも殺したいわけじゃないってことが分かった。奴は一貫していた。警察への不快感や敵意みたいなのも特に感じられなかったと聞いたしな」

 警察が目星をつけた全員への配備が完了してから被害は出ていない。しかしそれまでに七名が死亡した。手錠を掛けることは叶わなかった。

「ま、明確な敵意を近接で向ければ流石に危険だろうが」

 こうして今、万全の体制で赤塗りを警戒出来ていることが何よりだ。もう犠牲者は出さない。

「警察は市井の人間を、国民を守る義務がある。その最たる役目を果たせたんだ、万々歳だろ。積極的にそう思うことも大事だぞ」

 斉藤は刑事としての心構えをレクチャーする。無意識なお節介も流にとっては慣れたものだ。

「そういうもんですか」

「そういうもんだ」

 車体に当たる雨の音が外との距離をつくる。まるでこの中の空間が独立していくような。視界が悪くなる程ではない。一軒家には何の変化もない。けれども確かに寒さを感じさせるものがあった。


 雨天。場所はある工事現場。来年完成予定のビルを建設中の広い敷地。車両の動線確保として入り口も広い。大きな白いフラットパネルがぐるりと周りを囲んでいる。地面は砂利や僅かに泥と化した状態の土が黒々と濡れていた。

 彈はただひたすらに屹立していた。コスチュームに着替えラプトルとして出向き、ここで約二時間に渡って待機している。フライトユニットは着けていない。天候もそうだが、赤塗り相手には自然な身軽さが好ましかった。そして右手には布で巻かれた特注のとっておきが握られている。

 以前受けた傷は粗方治っただろう。右脇腹、左腕、右頬。全身のプロテクターに右手の装備もある。確実に赤塗りを仕留める。

 閉じていた目を開く。寒さに少し身を震わせる。風はない。ただ雨が滴っているだけだ。長引かせるつもりはない。相手が現れるまで、何時間だってこうしているつもりだった。

(もし雨が強くなるようなら不利だぞ……)

 亜莉紗から聞いた案にこんなものがあった。“レッドの錆びた大鋸で誘い出す”。大鋸は検察で保管されてから別の場所に移送され管理されていた。赤塗りはインターネットを利用せず、そもそも電子機器すら所持していない為、情報の入手は自分の足だ。すると接触する可能性のある人間は限られる。独力が手詰まりになればゴローの元へ行くだろう。発端の情報の仕入れ先だ。亜莉紗はゴローへ大鋸の存在と場所の情報を渡す。そして誘導した先に警察を配置する。そういう案だった。彈がこうして先んじて一人で待ち伏せをしなければ、いずれ採用されていたであろう。

 背後に小さく音がした。徐々に勢いを強めていく雨のせいで聞き漏らしそうな程だった。

「春雨……にしては少し雨足が強いかな」

 赤塗りが肉薄する。瞬時に接近する首狙いの左手を躱し、布を取り去った武器で顔面を殴打する彈。赤塗りはそのまま吹き飛ばされる。彈の手元には専用のシャベルが携えられていた。全体の輪郭は一般的だが、普通とは異なる機械的な造形。茶色とオレンジを基調としたカラーリング。

(流石にあれだけじゃ仕留め損ねるか)

 赤塗りは砂と泥に塗れた体を起こし、鼻血を拭い、後方へ退いた。前回の閉所とは違いここは野外。空の下で物影に隠れ襲うといった戦法が出来る。彈は先程までと変わらず待ちの姿勢で迎撃に備える。二本の足は移動することなく同じ位置で地を踏み締めている。

 さらに雨は強くなる。どしゃ降りの豪雨。激しく叩きつける雨が距離感覚を狂わせる。雨音で聴覚は覆われ、気温は低下を続けていた。暗い周囲。遠くの街灯の光だけが弱々しく届く。

「ダニエルは今日の天気を予想してたのか? まさかね。……まあ、なんにせよ」

 彈はシャベルを両手で操り回転させ、頭上まで持ってくる。

「マーキング完了」

 そして剣先を縦一直線に地面へ突き刺す。すると取っ手部分の三角形に青白い映像が投影される。格子状の模様の中に二つの丸い光が点滅している。使用者もといシャベルを上空から見た俯瞰の視点になっており、共に周りの人間がレーダーマップ上に映し出される。動かない青いタグが一つ。不規則に動く赤いタグが一つ。

 突き刺した地面を伝う微細な振動と、人間の耳には届かない周波数の音を発生させた反響定位を組み合わせた索敵。シャベルの先端の面部分には、触れた皮膚組織や血液などの情報から個の特定及び記憶を同時にする機能が備わっている。赤塗りの居場所は筒抜けになるハイテク装備。天才の所業。

 タグは再び彈の背後をとった。赤塗りの魔の手が忍び寄る。彈は振り返りざまに頭部目掛けて右のハイキックを放つ。赤塗りは防御に成功した。続けて拳を繰り出そうとするも、シャベルを引き抜いた彈を警戒しバックステップ。彈はシャベルを両手で構える。

「長引かせる気もねえよっ!」

 剣先を前方へ突き出す。避けられることを想定しての攻撃。躱した赤塗りが横蹴りで対応。彈は腹部への直撃を許す。しかし止まらない。

 シャベルを用いた連撃。リーチの差は明白。それに前回と異なる戦い方。赤塗りは何度も攻撃をくらう。彈は棒術の要領でシャベルを自在に操り、多方向から殴りかかる。先端の面で叩き、取っ手で突き、さらには柄を使って押し込んだりと、あらゆる角度での攻めに転じる。

 赤塗りはプッシュダガーを取り出す。リーチの差は拭えないが、刃物の危険性を帯びることが出来る。攻撃の合間を見定め、心臓を狙った。その渾身の右ストレートを当てる勢いでの刺突は、彈のプロテクターによって阻まれた。

「残念、前とは違うっ」

 彈は捻らせていた体のまま左手で握っていたシャベルを下向きから潜らせるように回転させ、赤塗りの右腕を弾いた。蹌踉めいたところに前蹴り、シャベルの面での殴打、右拳の振り下ろし。

 赤塗りは口から血を吐いて上体を折る。息が上がっている。彈が追撃に近づく。シャベルを振る。一度、二度。片手で逆さに持ち、取っ手で突く。赤塗りはこれを回避。即座に彈の腕に飛びついた。前回受けた腕十字と同じ、流れるように虚を突く動きだ。今度は彈の右腕と首を巻き込んだ三角絞め。

「く……っ!」

 コスチュームを着ているせいでよく絞まる。赤塗りが強く力を入れる。意識が途切れればお終いだ。彈は倒れることなく地面すれすれで赤塗りを持ち上げている。しかし足場が悪い。泥濘んでいる。

「ぐっ、うおおおおお!」

 全身の筋肉を総動員し、力の限り振り回す。まだ離れない。次に渾身の右膝蹴りを赤塗りの上背部に向けて放つ。僅かに技が緩んだ。再度体を揺らし、赤塗りを泥の上に放り投げる。

 赤塗りは転がり立ち上がると、仮説コンテナや仮説トイレ、他資材が並ぶ奥へ逃げ込んだ。あと一歩というところ。彈の手の内がばれた上、赤塗りのこの劣勢では怒りよりも一時退避を選ぶ可能性がある。それはいけない。

 彈は急いでその後を追う。

 赤塗りの姿はなかった。コンテナやトイレのような比較的大きなものならまだしも、細かい資材や小型の機械、猫車や鉄パイプ、その他を包んだブルーシート等が散見された。

 周りを様々なもので囲まれた内部。空からの雨は依然降り注いでいるが、先程より狭い場所。不意打ちの脅威は高まる。再びシャベルを突き刺しレーダーを用いる。赤いタグは既に真横にあった。

(まずいっ!)

 彈はすぐさま左を見る。飛びかかる赤塗り。押し倒された彈は泥に塗れた。赤塗りは左手と右足で彈の両腕を押さえる。右の刃先を彈の体へ何度も突き刺す。狙いは服の継ぎ目。そして的確に同じ位置へ当てている。戦闘IQが高く、それを実行出来る技能を兼ね備えていた。

「くそっ!」

 彈が抵抗する。なんとか足で押さえられていた左手を抜き、赤塗りの左肋を殴った。赤塗りは微かに息を漏らしたが、そのまま彈の方へ倒れるようにして右肘で彈の左腕を固定する。その倒れざま、同時に右のダガーを彈の首へ滑らせた。外側の素材が僅かにほつれる。

「うっ! あっぶねっ!」

 彈は足を上げ、赤塗りの背中へ膝、そして後頭部へ爪先での蹴りを当てた。日頃柔軟を怠らない彈だから出来る荒技。赤塗りからのエスケープに成功する。

「はあっ、はあっ」

 お互いに乱れた呼吸。彈は息を整えシャベルを強く握り、構える。赤塗りもダガーの刃先を前方に、確かな眼差しで迎え撃つ。

 雨音が消えたかのよう。二人はシャベルとダガー、そして四肢での打撃を交えながら何十手もの攻防を繰り広げた。息もつかせぬ応酬。赤塗りが蹴り倒した鉄パイプの群れを避ける。時間差で地面を蹴り上げ彈に泥を浴びせる。彈はコンテナを壁にし三角飛びで上方から攻撃。互いに、時に躱し、時に受け、時に当てる。数十秒の旋風の如き戦いは彈がシャベルを落とすことで転換を迎える。

 赤塗りの右の大振り。拳の中の刃先が内に向いている。耳もしくは顳顬などの側頭部を狙った一撃。ラプトルが口元しかマスクで覆っていないが故の狙い。彈はそれを顔を守るべく上げた左の前腕で防ぐ。ばちん。互いの手首がぶつかる。破裂音の後、左手首を返し、赤塗りの右腕に蛇の如く左腕を絡ませる。拳は脇で挟むように、自らの手は赤塗りの肘を外側から通過させ脇下を通り下方から顔目掛けて張り手を突き上げる。掌で顔を打たれた赤塗りが後方へ仰反り、その際に腕もするりと解ける。しかし彈は離れゆく服の肘部分を左手で掴み、さらに手前に引き寄せた。その勢いのまま、構えた右の鉄槌を顔面へ当てる。逃げることの許されぬ二発の連撃だった。

 赤塗りの手から得物が落ちる。彈はすかさず右前にステップで飛び込み、鳩尾へ左膝を減り込ませた。赤塗りの口から唾液が飛散する。倒れゆく頭部を左脇で挟み、腕を回しフロントチョークを極めた。

「頼むっ、大人しくオチてくれ!」

 赤塗りが思い切り暴れる。腕と脚を使い、彈の下半身を攻撃する。殴り、蹴る。そして金的に狙いを定め手を伸ばした時、彈が僅かに跳躍。体を預け、倒れながら左右の足を絡ませる。彈はその際さらに体を潜り込ませ腕を奥へ、胸が赤塗りの後頭部と頸に密着するように組み付く。ニンジャチョーク。地面に倒れた二人。絞める腕を取り払うべく赤塗りが踠く。彈は筋肉を硬直させる。

「これで、最後だ……うおおおおおおおお!!」

 数秒か十数秒か。それだけの時間が、彈にはやけに長く感じられた。

 やがて赤塗りは力なく腕を下ろした。彈は雨の降る空を見上げ、技を解いた。


 二つの手錠で拘束された赤塗りが目を覚ます。彈が正面に居た。

「おはよう。って今は深夜だけど」

 彈はしゃがみ込み、赤塗りに目線を合わせる。

「耳が聞こえないんだろう? 手話はわかるか?」

 彈は覚えたての技術を用いて訊ねる。しかし赤塗りの反応は芳しくない。怒りで我を忘れているというよりは、敗北により少し呆然としている節がある。それでも、手話というものにもピンときていない様子だ。

 彈は腰元からスマートフォンを取り出し画面を見せた。筆談ならと赤塗りへ文字を表示してみせた。やはり赤塗りは変わらずにこちらを見ている。少しだけ眉を顰めて。

 レッドの画像を見せることにした。亜莉紗から貰ったものだ。殺し屋現役時代の写真。宣材写真のようなものでよく出回っていたもの。盗撮などに疎そうなレッドらしい。写真を撮るような間柄ではなかった為、彈が一緒に映ったものは無い。画像を見せると赤塗りは反応を示した。

「やっぱり、この男が死んだことに対する原因である人間への復讐なのか?」

 彈は問い質した。赤塗りはレッドに反応しているばかりだ。読唇術が使えるわけでもないらしかった。

「いつかどこかでレッドに助けられたことでもあるんだろう? そして“憧れた”。一年も時間を空けたのは、人を殺すことの重さか何かをあいつに説かれたからじゃあないのか。『よく考えろ』そんな風に言われたんだろ。それでお前なりに考えた結果がこの一年という時間を作った」

 レッドスプレー。伝説の殺し屋との邂逅。自分より圧倒的に強い存在で、命を救われた。そしてそんな存在にも拘らず、殺しを疎み、考えることの大切さを必死に説いた。それがどれほど伝わったのかは分からない。しかし結果として赤塗りと呼ばれるに至った男。忘れられぬ、彼の日の丸。

 赤塗りが地団駄を踏む。まるで子供のようだった。彈の中で何かが引っ掛かった。喉は恐らく正常。声が出ないわけではない。しかし話すという自己主張をせず、微かに漏れ出る声以外は体を暴れさせ感情を発散させている。手話を知らず、文字が読めず、読唇術も出来ない。当然、黙秘権を行使しているようにも見えない。大人が有しているであろう能力をまるで持っていないように見えた。

 ある一つの考えがよぎる。

「そうか、お前は———“教育を受けてこなかったんだな”」

 人が社会を生きる上で必要なものの一切が欠如している。能動的に物事を考えもしない、受動的の末路。裏社会で献身的な教育など望める筈もなく、殺し屋になった経緯も不明だが、大方の予想は出来る。これだけの実力、一つのことのみに特化した故だろう。

「お前……いや、あなたは。見たところ俺よりは年上そうですね」

 ただの人間だった。それでいて組織でなく個人。彈と同じだった。いや、非戦闘員といえど協力者のいる彈と違い、目の前の男にはおよそ仲間と呼べる者がいなかった。

 情報を貰う。人を殺す。報酬を受け取る。生きることが出来る。

 恐らく、そんな簡単な手順のみをインプットし生活していた。この年齢までそれを疑わなかった。そして大人になった。歳だけを重ねた。決まった日々を繰り返し、動物的に人間社会の中を生き続けてきた。

 この現代が生み出した怪物。赤塗りは、過ぎた力を有した孤児だった。彈は思わず目を細める。

「俺が、責任を取る必要がある」

 そう言ってから、シャベルを強く握り直した。


 拘置所内。

 寂れた面会室。収容されている一人の男が口を開く。

「素性も経歴も分からない、天涯孤独の身。故に、遺恨は残らない」

 胎田宗近は口角を上げ、天井(そら)を仰いだ。

「それでいい。最良の判断だよ、ラプトル———」

 ガラス窓の向かいにいる男の名は王前嵩久。この男は胎田の為にこうして足を運ぶことがある。外の情報を渡す為だ。将来的な見返りを求めて密偵を買って出た。胎田は根っからの悪人ではない。無害あるいは有益な人間に対して約束を反故にしたりはしない。

「社会というシステム上、悪人は消えてなくなることはない。働き蟻の法則のようなものだ。君のやり方では恒久的な平和など絵空事。税は無限ではないし、“金という誰かの労力”をゴミ箱に入れ続ける作業を容認すれば、社会は地に堕ちるどころか忽ち壊れてしまう。だが殺して仕舞えば、その対象の悪だけは”終わらせる”ことが出来る」

 胎田の演説を王前は黙って聞き入れる。こうした人間の相手は慣れていた。皆、なまじ力を持つ危険人物故に言葉の重みは凄まじい。迫力も説得力も、凡百の愚者とはあまりに異なる。

「ラプトル。君は、その一羽撃きで社会に風を起こした。内需とはもはや君という一個人の存在かもしれないね」

 王前のことも面会室内に居る刑務官ですらも視えていない。胎田は国の過去と未来を、透明なヴィジランテに向かって説いた。

「爪、か」

 あの時、彈の言った言葉を思い出す。いつだか自分も口にしたもの。実にくだらない問答だったと記憶している。

「“際限なき裁きの爪”———」

 胎田が呟いた。乾燥した声がひとりでに霧散した。

 監視員も刑務官も胎田の手が回っている。ここでの会話が記録されるのはその私的な検閲を通ったもののみ。その内容が残ることも、外に出ることもない。面会の時間は終わりを告げた。

 幾度の金属音。幾つもの扉を抜け、人を横切り、出口を目指す。拘置所の外に出た王前が独りごちた。

「焼きが回ったかな。でも……ヒーローの行く末、見届けたよ」

 大雨が上がり、空が青々と澄んでいた。

「貸し借りはもう、無しでいいや」


 通信が繋がらない。応答が無い。

 亜莉紗は一通りの作業を終え、自室からリビングに戻る。テーブル上に一枚の書き置きを見つけた。目に入ってしまった。

 紙にはただ一言、「愛夏さんを頼みます」とだけが書かれていた。

 愛夏は部屋で寝ている。亜莉紗は紙を手で握り潰した。深呼吸をする。華奢な背中が小さく上下した。


 スマートフォンの向こうで汽笛の音が聞こえる。斉藤は機器を右耳に当てたまま、左手で煙草を吸った。

「ラプトル。そんな理由を聞いて俺が納得すると思ってるのか?」

「いやあ、あはは」彈の空返事。

 斉藤の言葉に思わず顔を歪める。彈がした話、決断はとても刑事に向けてするものではなかった。

「あははじゃねえだろ。手錠貸してくれっつーから、身柄を引き渡してくれると見込んでお前にやったんだぞ」

「すみません」

 斉藤は電話の奥で肩を落とししょぼくれている若造の姿を想像する。

「ったく。……仲間には言ったのか?」

「いえ」

「お嬢ちゃんには?」

「いいえ」

 声が曇る。了承を得られないであろう事柄。それを自分の勝手を押し通して実行する。ラプトルの結末。

 斉藤は彈の意思を尊重した。恐らく、会ってしまえば別れが辛くなる。だからこそ叱られる覚悟で、嫌われる覚悟で行動に移した。一秒の躊躇が足を竦ませる。長く刑事をやってきて、彈がその若さで背負うものに共感し不憫に思った。ここで茶々をいれる程、野暮なことはない。

(率先して貧乏くじを引こうとする性分は生来のモンだな)

 煙草を吸い、煙を吐く。

「こっちはモノクロームやビーターといった奴らの問題がまだ積み重なってる。無法の強大な力に枷をつける使命がある」

「色々しっちゃかめっちゃかにして、その上で無責任な行動なのは自覚してます。申し訳ありません」

 誠実が体を為した。斉藤はそんなことを思って笑った。

「最後に声を聞くのが俺とはな」

 思えば新宿で命を助けられ、ヒーローに肩入れをするようになった。初めて警察署近くのカフェで素顔の彈に会い、それから輪を掛けて様々なことに見舞われた。不運なこともあったが、犯人逮捕に繋がったものだって少なくない。大人になってからこれほど濃密な二年弱は無いだろう。まさに激動の日々だった。

「ゆっくり休め。“震条”」

 斉藤は通話を切った。

 彈は微笑んだ。斉藤の言葉を聞き終え、スマートフォンからSIMカードを取り出す。小さなそれを折り、本体と共にビニール袋へ包む。後にまとめて処分出来る。


 更生の余地は誰しもにあり、贖罪の機会は誰しもに与えられるべきである。それは永劫変わらない。殺すのでなく、救うのがヒーロー。壊すのでなく、護るのがヒーロー。美辞麗句と笑われようが、貫かなければならないことはある。

 海風が彈の髪を靡かせた。

(俺だって法の外に生きた人間だ。みづきちゃん同様、償うことはある)

 彈は後ろの赤塗りへ声を掛ける。赤塗りの両手には手錠が掛けられている。両足は自由だが、暴れるような様子は見られない。

「あなたが、人を殺さなくてもいいようにします。それが、俺の使命だ」

 赤塗りは地べたに座ったまま、無言で彈を見つめる。突風によってフードが捲られた。汗か血か、黒の短髪が額の生え際にぴたりとついていた。髪は色々な方向へ畝っている。

「俺の両手を伸ばした中にあなたが居た。それだけのこと」

 そう小さく呟いてから、赤塗りと同じ方向を向くように隣へ腰を下ろす。


「きゃっ」

 円環が店前の立て看板を掃除していると、強い風が吹いた。エプロンが音を立てて揺れる。


 警察の手から遠ざけ、法の裁きを受けさせない暴挙は疑いようのない事実だ。けれども、他人の免罪を訴えるなら、願うなら。講釈を垂れるなら、正義を押し付けるなら。己がそれに見合う人間でなければならない。畢竟、自身を赦していないままではそれに値しないのだ。

 己を赦さないというのは無意識下の制約であり、贖罪の陶酔。そして、己を赦すというのはそれを遥かに超える困難な試練であり境地である。

「ユーキって幼馴染とサトルって親友がいてさ」彈が話を始める。「どっちも善い奴らだった。いつも俺を心配してくれて」

 そう言って穏やかな表情をした後、赤塗りの方へ体を向ける。

「名前が必要だ。“犬”も“赤塗り”も、あなたの名前じゃない。聞こえなくたって、大切なものですから」

 ここから始める。三月二十一日。今日が彼の誕生日だ。人生を、歩み直す。

 彈は自らを指差し、ゆっくり大きく口を開けて発音した。

「俺は彈。震条彈です」

 ダ、ン。

「!」

 彈は赤塗りの口元を凝視した。赤塗りの、声にならない声が口を動かした。彈がしたその形を真似る。動きを覚え、何度も同じように繰り返す。

「そう、そう! ……どうします? あなたに(ゆかり)のあるものがいい」

 赤塗りに訊ねる。もちろんすぐに返事は返ってこない。時間をかけて世界を教える。共に学ぶ。

 手話や文字を勉強し、常識を身につけ、己を学んでいく。そして震条彈という個人を認識させ、社会に適応するべく視野を広げさせる。

「まあ、取り敢えず」

 彈は立ち上がり、中腰で右手を差し出した。

「俺とあなたの……門出です」


 その手の意味は、赤塗りにはまだ分からなかった。




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