11.光明
目が覚めた。覚めてしまった。
また私の嫌いな一日が始まる。
母の声が聞こえる。いつまでも部屋から出てこない私を叱責している。要望通り、身支度を済ませ下へ降りる。
「おはよう。今日もちゃんと学校いくのよ。せっかくカヲリちゃんとも仲直りしたんだから」
母は知らない。私がいじめられていることを。一度打ち明けたあの日も、女友達との些細な喧嘩だと一蹴されてしまった。
朝ご飯が不味い。味がしないわけではないが、大量のガムでも噛んでいるかのようだ。中々飲み込めない。
「早く食べちゃいなさい」
母は優しい人だ。それは間違いない。
これ以上心配はかけられない。
「お弁当も持った? 教科書もちゃんと揃ってる? 忘れ物ない?」
いつも通り頭を縦に振り、重い扉を押した。
眩しい。
朝日も嫌いだ。まるで、みんなに平等に降り注いでいるかのような顔をしている。私を照らしてはくれないのに。通学路の風景や、並ぶ店の数々を覚えたことはない。
いつだって足元を見て、下を向いているから。
はあ。来てしまった。
ぞろぞろと方向が一緒の学生が増えてきた。
他クラスに顔を覚えられるような私ではない。平然としていれば何のことはない筈だ。
「おっはよーっ!」
目の前にいた女子学生に声をかける。まるで私など視界にすら入っていないかのように。
衝撃の後、尻餅をついてしまった。今日は朝からか。
「あれ? 深鈴さんじゃん! ごめ〜ん、気づかなかった」
橋本カヲリ。私のいじめの主犯格。
よくある話だ。彼女の好きな男子に告白されてしまった。
それだけ。それだけで私の人生はとても楽しくないものになってしまった。
彼女はいわゆるスクールカーストのトップにいた。私は中間層とでも言うだろうか。彼女ともときどき話す仲だった。いじめが始まると告白してきた男の子はまるで自分は無関係だと言わんばかりにそっぽを向いた。
彼女のいじめは最初からハードなものだった。省きや無視といった精神的なものから始まり、足を引っ掛けたり、水を被せたり、机に落書き、上履きに画鋲、ドラマで見たことのあるようなものは一通り受けた。
男子に助けを求めた。女子同士の問題は俺達には分からない、と。
先生に助けを求めた。あの橋本がそんなことするわけないだろ、お前にも非があるんじゃないか? と。
父に助けを求めた。そうか、辛かったな。なら、その状況を1人で変えれるくらい強くなれ、と。
母に助けを求めた。これはさっき言ったか。
教室に着く。
机には罵詈雑言の落書きや雑巾や“ゴム”など汚物の数々。最初に激しいいじめを見た者達はそれが止んだ瞬間、意外にも多少のいじめを、なんとも思わない日常の風景だと思うようになる。クラス中の嘲笑が聞こえる。
疲れた。死のうか。
いや、それも周りに迷惑をかけるだろう。誰にも気付かれずどこかへ消えてしまいたい。
移動教室で足をかけられた。
肩もぶつかった。唾をかけられた。
制服も鞄も上履きも、何度買い直せば良いのだろう。
一日が終わった。とても長いようにも感じたし、終わってしまえばあっという間だった気もする。
帰り道。もう日が暮れるのが早くなってきた。
橋の上を渡る。川を眺めた。ここの川は綺麗なことで有名だ。たいして綺麗でもない人間で溢れているのに。
車の音が聞こえる。真後ろで止まった。
“口を塞がれた”。訳がわからない。男が三、いや四人いる。
「い、嫌っ」
「大人しくしろ! どうせ誰も助けてやくれねえさ」
ここは通学路のはずだ。大声を出せば誰か気づく筈。少し前の道に学生の姿が見えた。
「助……けて……!」
“カヲリが笑っていた”。
ああ。そういうことか。
よく見ればちらほらといる学生達も目を合わせようとしない。
「深鈴光子。お前みたいな奴がいて助かったぜ。存分にお楽しみが出来るからな。へへっ」
「こいつ、ハブられてる割に顔が良いぞ。こりゃしっかり全員相手に出来そうだ」
「そりゃそうだろ、カヲリの“お気に”を振ったんだから」
車に強引に入れられた。
どこに向かっているのだろう。男達は息を荒くし、下半身を膨らませていた。
私は今から犯され死ぬのだろうか。つまらない人生だったな。体をまさぐられ、服を破かれる。
光子は今にも男達の毒牙にかかろうとしていた。
途端に車が停車する。車の中が揺れ、男達と光子は体勢を崩す。
「どうした!?」
「ラ、ラプトルだ……!」
車の前に一人の私刑人が立っていた。
「婦女誘拐なんて屑の考えそうなことだ……なんでお前らみたいなのは消えないんだ……」
彈がゆっくりと近づく。
「ひ、轢いちまえ!」
男達は車を発進させる。
側方に受け身を取り避けた彈は、車の速度が上がりきる前に走り追いかけ運転席のガラスを蹴り破った。
車が進む中、狭い車内で男達を無力化する。助手席の男の頭を掴みフロントガラスに強打。後部座席の二人には光子を避け、両足で左右に蹴りを入れる。
車が暴走している。光子を抱え彈は車を飛び出た。電柱にぶつかることで、車は走りを止めた。
抱えた女子高生をゆっくりと立たせる。
「怪我は無い?」
光子は目の前の状況をうまく飲み込めずにいた。
(え? これって……ラプトル? だっけ。ニュースで見たことある。ヒーローとか言われてる人。私を助けた? いじめられっ子でどうしようもない私を? それもお姫様抱っこだなんて……初めてされた)
「い……おーい、聞こえてる? 意識がまだ朦朧としてるのか。無理もないよ、あんな酷い目にあったんだから」
光子には目の前のヒーローがとてつもなく大きな存在に映っていた。光り、輝いていた。
「わ、私なんかを助けてくれて、ありがとう……ございます……!」
俯きがちに答える光子。
「君が大丈夫なら良かった」
彈の微笑みに精神攻撃をくらう光子。
「……っっ!」
(なんだこれっ。私、いくらいじめられてたからって、いくら異性にすらシカトされてたからって……ち、チョロすぎないか!?)
光子は悶え苦しんでいた。
パトカーの音が聞こえてくる。
「? ……もう行くよ。後は警察にしっかり話すんだ」
彈は近くの建物をいとも簡単に登り、屋根を渡って走り去った。
光子は立ち尽くし、記憶を咀嚼しつつその光景を眺めていた。
「ラプトル、か……人に優しくされるってこんなに気持ちのいいことだったっけ」
足立区某所。
「ここか。流! 褌締め直せよ〜」
「はいっ!」
二人の刑事が足を踏み入れたのは、新興宗教団体”ぺスティサイド”の本拠地。
斉藤は躊躇なく前へ進む。入り口を抜けたエントランスにはすでに何人もの信徒が二人を迎え入れる。皆が深緑色の装束で統一されていた。そして皆が同じ笑顔を浮かべていた。
いかにも、って感じの気味の悪さだな。そう思いながら斉藤は手帳を見せる。
「なんと! 刑事さんでしたか。これはこれは、本日は何用で?」
斉藤は間髪なく続ける。
「いや〜職業柄、宗教団体ってのは一応調べときたいものでして。色々と問題があったりもするので」
信徒達は嫌悪した様子もなく、動揺もしていない。本当にクリーンな団体なのか。斉藤は疑いをさらに強めた。
「……これで以上になります」
建物内の一通りの見学、そして概要の説明。
「『崇める対象を作ってそれに準じた生活を送ることで心身ともに安寧となる』。至って普通の内容でしたね」流が斉藤に耳打ちをする。
腑に落ちない様子の斉藤。
「どういう団体なのかは分かりました。それで、教祖様にお会いすることは出来ないのでしょうか」
信徒はまたも満面の笑みで答える。
「忙しいを言い訳にする教祖様ではごさいません。ただ、今は別の来客とお話し中でして……」
斉藤と流が諦めて帰ろうとエントランスに戻り、外に出ようとした瞬間、奥の扉が開く。
「斉藤じゃないか」
斉藤にとって嫌な声が耳に入った。眉間に皺を寄せ振り返る。
「凌木ぃ……!」
元捜査一課長の凌木市架が姿を見せる。
「久しぶりじゃないか、斉藤。ここを調べに来たのか?」
後に続いてもう一人の男も出てくる。二メートル近い身長の男。
「教祖様!」
こいつが教祖……。斉藤はじろりと全身を観察する。
「凌木刑事! 自分はこの春捜査一課に入った、流牽政といいます!」
「バカ、“元”刑事のこいつに挨拶してどうすんだ」
斉藤が流の頭を叩く。
(しまった……斉藤さんと凌木さんは犬猿の仲だった)
斉藤は凌木には目もくれず教祖の元へ近づいた。
「あなたが教祖の弥岳さんか。どうも、捜査一課斉藤です」
弥岳は笑顔で握手に応じた。
「弥岳黎一です。このぺスティサイドに足を運んで下さりありがとうございます」
斉藤は率直な疑問をぶつける。
「何でここにこいつが……?」
凌木に目を向ける斉藤。
「いやはやコンサルティングのようなもので。刑事さん方がここに来ているよう、最近はうちを良く思わない方達が噂を捏造しているため評判が良くないんですよ。なので元捜査一課でトップを務めていた凌木さんに改善等、ご教授頂いているわけです」
凌木が斉藤に近づく。
「それに俺が一声掛ければ”元”とはいえ、疑いなんて簡単に晴れるからな。安心しろ、ここはごく普通の団体だ」
斉藤は訝しげにしながらも納得する。
「……そうか。ならいいんだがな。弥岳さん。警察には何かと苦手意識もあるかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします」
斉藤は入館時に脱いだジャケットに袖を通した。
「それでは失礼します」
流もそそくさと頭を下げ後を追う。
凌木は斉藤を警戒するべきだと、弥岳に告げた。
「まあ、勘づかれたところで凡人には何も出来ませんよ。知らずのうち、偉大な計画の礎となるだけです」
弥岳は微塵も意に介していない様子だった。
日本の麻薬王とも言われている薬の売人、由眼家吉質。様々なルートから入手した薬を売り捌き巨万の富を築いた大物だ。
「先日のタトゥー男はあの後も頻繁に現れ、”叩きのめす者”。そう呼ばれているそうだ」
「ふん。大層な名だ。好きに暴れおって……」由眼家は苛立っていた。「本当は貴様、あの時始末出来たんじゃないか?」
パラサイトキラー。その道ではレッドスプレー程ではないにしろ名の売れた用心棒だ。金銭を受け取った以上は忠実に雇用主に従う。
「……かもしれない」
予想外の返答に驚く。
「分からないんだ。あんな奴は初めてだ。倒せる自信はあれど、あと一歩踏み込めば命を刈り取られる。そんな気もした」
こいつにそこまで言わせるとは。由眼家はもう一度、赤黒い髪の男について認識し直す必要がある、そう思った。