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際限なき裁きの爪  作者: チビ大熊猫
終編 第5章.越境
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103.犬児


 女が子を産んだ。


 子は重度の先天性難聴だった。女は子を病院ではなく男の家で産んだ。故にひどい有り様で、女はその過程で死んだ。男は助産師ではない。当たり前だ。そして赤子の症状も分かりはしない。摘出後の対応も、育て方も何一つ分からない中で、男は寂れた浮浪者の溜まり場へ息子を置き去りにした。希望的観測があるわけではない。責任もない。ただ、確実に誰かの目には留まり易い場所だった。当然出生届などなく、戸籍は存在しない。音の無い世界で、みなしごは不恰好に泣き叫んだ。


 一人の物好きの女が拾った。乳をあげ、それとなく見繕ったまんまをやった。その殆どは冷めた粥だった。賞味期限の切れた、コンビニエンスストアの廃棄物。それを沸かしたお湯でふやかしたものを自らが食べ、残飯を赤子に与えた。冷めたものを再び温める手段がなかった、もしくは面倒なだけだった。ペットはそれを嬉々として飲み込んだ。

 次第に女に飽きが生じて別の女の手に渡った。次の女は子の体を弄んだ。人間という動物を一方的に触ったりぶったり出来ることに物珍しさや快感を覚えた。子の肉体に生傷が増えていった。大きな暴力はしない。けれどもぬいぐるみでも扱うように、女は子の体の自由を支配した。やがてそれにも飽きがきた。

 次の女は優しく子を育てた。柔らかな声を掛け、食べ物を与え、胸の中で子を揺らした。子は初めての愛撫を経験した。それはものの三日程度だった。子が歩けるようになると、それを見て足を叩いたり、下半身を突くなどして転倒させた。そういう遊びに興じていた。女は子同様、傷の多い肌をしていた。肌の色も青い斑点の模様を形づくっていた。子がその遊びに耐えるようになってくると、面白くない女は子を手放した。


 子は六つになるまでたらい回しにされた。それまで受動的に生命活動を維持し続けた。

 六つの頃、少年は生意気だと捨てられた。一人で生きていかねばならなくなった。これまでも似たような過酷さであったが、少年にはそれが分からない。良いことも悪いことも、幸も不幸も、普通も異常も少年の中では曖昧なものとして溶け合っていた。空腹だけはありとあらゆる指標として生物的に理解していた。

 ごみを漁る毎日。万引きもした。必死で逃げた。食べ物を盗んだ少年を見た大人の形相は、今まで目にしてきた女達の顔とは違っていた。本能的に体が逃走を選んだ。自然と逃げ足の速さが身についていった。

 日々を過ごしていく中で、外が齎す目に入る情報の多さに戸惑いつつも、聴覚が無い分、観察力が優れた。

 ある日、万引きを追いかけてきた店員が転倒した。後頭部を打った店員は動かなくなった。少年は店員をつついた。赤い液体が地面に広がっていた。この液体は見覚えがあるが、量が少し多い印象を受けた。

 その様子を見ていた大人の男二人組から声を掛けられた。もちろん視界に足元が入ったから分かった。男らは小遣い稼ぎを提案した。少年には今一つ理解出来ない。頼まれるということも、お金を稼ぐというものも。

 この頃は、無視されるか敵意を向けられるかの二択だった他者。それ以外で久しぶりに自分と接してくれる人間に出会った。

 はじめは物分かりの悪さに男らは苛立ったが、まずは工程を覚えさせることからだと、盗ってきてほしい品物の写真を見せるようにした。それに従い、目当てのものを盗む。間違えたこともあったが、基本的には頼まれたものを運んだ。小回りの利く体で店員から何度も逃げ果せた。

 金を渡された。使い方が分からない様子でいると、それは食料に変換された。温かいものだった。

 無我夢中でコンビニ弁当に食らいついた。プラスチックで口を切った。男らが嗤っていた。食べ物の境目が分からなかった。今まで盗んだもののビニールなどは、食べてしまおうがあまりよく分かっていなかった。おいしくない、味がしない、飲み込みづらいものを吐き出すことが時たまある程度だった。

 たくさんの人間から窃盗を依頼されるようになった。その為に必要なことやすべき準備もした。最低限の世の情報や仕組みを強制させられた。最初はゲームのようなものだったのかもしれない。男らは賭けを始めた。野に放ったものが戦利品を手に入れてくるか、楽しげに観察した。賭けに負けた男は少年へ拳を振り上げた。はじめに出会った男らはいつの間にか消え、入れ替わり立ち替わり新しい顔が増えていった。

 次なる段階として、店員を殺した時の再現をするように少年の目の前で殺人が行われた。そこで人の死を知った。認識した。

 男らは何度かそれを繰り返した。少年はどうすれば人が死ぬかを目で見て覚えた。すると同じことをするよう強要してきた。窃盗の際と同じく、写真を見せられる。“これをああすればいい”。

 大人に力で敵わないことは分かっていた。気づかれる前に殺す。その技術を向上させる。何度か失敗もした。しかし一度の成功は多大なる経験値を与えた。初めての殺人は、休憩中に裏口で喫煙しながらケータイを眺める男の背後から、頭へコンクリートブロックを振り下ろした時だった。

 体が成長するにつれ、経験と共に様々な実行手段が増えていった。

 裏路地での喧嘩やそれに伴う殺人。そんなものを見つければ必ず凝視し、殺し方だけでない戦い方を吸収した。痛めつけ方とも言えるもの。人体の動きや制限を見て学び、仕組みや痛みの基準を見て学んだ。関節がどう動くか、何をどうすれば苦しむか。言葉が分からず文字の文化・技術もない青年は、感覚的にのみ“覚えて”いった。

 当然武器も身につけた。軽くて小回りの利くものを好んで使った。刃物であれば大抵の人間は急所次第で簡単に殺せた。

 そんな日々を重ねて幾年が経ち、誰も知らぬ男の年齢は二十八に差し掛かっていた。数千回数万回目にしようが、言語なんて高等なものは、意欲がなければ身につかない。対して、“日課”はこなす程に熟練する。

 男は何も吸収することが無いまま、死体だけを積み上げていった。卓越していく己の技量。明日の我が身を保たせる為だけの日々。


 無音の研鑽は、やがて男を一つの頂へ置き去りにした。



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