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際限なき裁きの爪  作者: チビ大熊猫
終編 第5章.越境
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102.嗅覚


 切迫した空気。

「赤塗り……!」

 件の殺し屋が早くも目の前に現れた。恐ろしい形相だ。それは塗布された色のせいなのか。奥の表情は分かりづらい。

 前腕部の尺骨頭が確認出来る程度に袖口を軽く捲っている。素手だ。お互い微動だにせず一分の時間が経過した。やがて動き出す。

 先んじたのは彈だった。先手必勝、カウンター狙いは得策でない。やられる前にやる。

 ジャブを小刻みに、いくつかの膝蹴りと連携して放つ。背丈は赤塗りの方が高いようだが、体重は同程度だろう。攻撃は通じる。

 赤塗りは彈の拳を巧みに躱す。手で捌かれる僅かな隙、同時に肘を掴まれ斜め下に引かれる。体勢を崩す彈。顔面及び顎狙いの膝。即座にもう片方の手をクッションに挟んだがダメージを完全には消しきれなかった。

「くっ」

 赤塗りは掴んだ左手を放さずに逃がすことなく再度手前下方に引き、衝突する彈の顎に右の掌を合わせ、後ろに仰け反らせる形で回転させる。さながら合気道の真似事。彈は上背部で受け身を取る。落ちた彈へ顔面の踏みつけ。彈は体を回し避ける。起き上がるべく起立を目指す彈へ赤塗りの無情な追撃。膝立ちで滑り込むように側面から彈の背後へ回り手足を絡ませる。首に腕、胴と腕の上に脚が被さる。肉体の自由が奪われる。まだ極まりきってはいない。徐々に力は強くなる。

(死、ぬ……?)

 まだ下半身に若干の余裕があった。不安定ながらも脚の力のみで立ち上がり、バク宙の要領で頭を叩きつける。寸前で赤塗りはエスケイプに成功。彈はそのまま後転で威力を殺す。

 強い。赤塗り・犬と呼ばれているこの男は間違いなく自分を殺す力がある。彈はそう確信した。

(こいつは……やばいっ)

 彈が左手を突き出す。相手も右手で同様の動作。左手と右手が絡む。互いが指の間にそれぞれを挟み込む形になる。睨み合い。力んだままの力比べもそこそこに、彈が外側へ捻る。赤塗りが蹌踉めく。彈は赤塗りの下を向いた右肘を破壊すべく左の膝を上げた。当たる直前、赤塗りは側転で体ごと腕を回転させる。彈の手は離れ、膝蹴りは空振りした。

「っ!」

 赤塗りは止まらない。彈の牽制の右ストレートを潜り、跳躍。流れるような飛び腕十字を組む。再び床に倒れる彈。テーブルにぶつかる。赤塗りも背にしたソファによって体勢が甘くなる。まだ間接は極まっていない。彈は右腕側に上体を寄せ体を折り畳み、赤塗りの顔面へ再度左の膝を当てる。横を向いた膝を赤塗りは避けられない。後ろにはソファ。しかし、彈が折り畳むようにして繰り出したそれはフックのような弧を描く軌道になってしまっていた。赤塗りは右から迫るそれに対しスリッピングアウェーで衝撃を分散させる。技を解き、今度は彈の近づいた脚を狙い、左膝の裏に右手を通す。

(まずいっ!)

 彈はすかさず屈伸の要領で体を一直線に伸ばし、反発で後方へ位置する。再び膠着。

(投げ・絞め・極めが上手い……! グラウンドやグラップリング周りの技術はあっちが上、寝技に持ち込ませちゃ駄目だ)

 周囲を確認する。瞳が縦横無尽に動く。立った彈に合わせるように赤塗りもゆらりと体を起こす。互いを探るように徐に位置を変え、赤塗りがキッチンとリビングの仕切りを背にした。両者、腰を落とし前傾になる。

 赤塗りの低空タックル。彈も正面からぶつかる形で構える。刹那の差で赤塗りより遅く彈は動いた。膝を僅かに曲げる。目線は赤塗りの微かに上。跳躍前の反射行動。赤塗りは低空から体をやや上に上げて調整する。それが仇となった。運動エネルギーはなくならない。彈は膝をさらに曲げ、体側へ転がり込む。以前(ロン)へ使った手法だ。単純なフェイントほど実力者に通用する。

 赤塗りは右足を突っ張り、自らの勢いを殺す。その間、彈は仕切りの奥、キッチン側から垂れ下がっていた近くのコードを手に取った。振り返る赤塗りと同じタイミング・方向で動き、背後を取り続けたまま即座に体へ巻き、拘束。抵抗の際に上げた左手ごと首を絞める。左手首にコードが食い込む。千鳥足の赤塗り。引っ張られたコードの先、エスプレッソマシンが重みのある音を響かせ床に落ちる。衝撃でさらに二人の体が揺れる。彈は力を緩めない。ここで逃げられれば再び訪れる好機を待つしかなくなる。そしてその可能性は限りなく低い。目一杯絞め続ける。

 その時。脇腹に熱が走った。火傷する程の熱さ。視線を下ろすと、赤塗りが後ろに回した右手が当てられていた。拳が離れると、今度は明確な痛みを感じた。指の間から煌めきを覗かせる。その先から尾を引く赤い血液。

「ぐっ……!」

 二撃目の刺突。これを受ければ腹部は蜂の巣になるのは必至。やむなくコードを手放す彈。

 私服での戦闘は一度、マキビシとの決戦時で経験した以来だった。しかもあれは打撃戦。薄手のニットに血が滲む。創傷は出血を伴うという点で非常に面倒だ。今この場で止血する暇はない。

 赤塗りがこちらへ向き直す。右拳の先に飛び出る、掌に収まるであろう大きさの刃。刃渡は目測で約五センチ程度。リーチは短くとも刃物であることには違いない。打撃を打撃として警戒出来なくなる。

 当然の如く赤塗りは右を主体に“線”の攻撃を繰り出す。網の目のような斬撃に彈は身を捩らせ躱していく。タイミングを見極め、ジャブで好機を測る彈の“点”の攻撃。赤塗りは呼吸を合わせるようにそれを潜り避ける。そして強烈な左ボディ。重い振動が響く。

「うっ!」

(打撃もいけるってか……っ)

 横薙ぎの刃。彈は防御に前腕を配置し、後方へ退がる。ニットの袖近くが切れる。左腕から血がとろりと流れ落ちた。

 赤塗りは右の利き手を引き、構える。

 思考の(いとま)は無い。速攻。左右にフェイントを入れつつ接近。赤塗りが右の刃を前方へ突き出す。避ける彈。続いて左のフック。彈は寸前で躱し、瞬く間に手を絡めた。肘固め。赤塗りが上体を振り回されるように崩す。しかしその最中、自身の首と肩の間から斜め上へ向けて右の刃を彈へ伸ばす。彈は体を思い切り反らせ手を放す。同時に地面を蹴り、宙で倒れながらも赤塗りの大腿部へ蟹挟み。

(よしっ!)

 関節が折れ曲がる。赤塗りが倒れた先はキッチンへの仕切りが壁となっていた。上背部と後頭部を壁にぶつけ、そのまま下へ滑り落ちる。

 彈は足を抜き、拘束を試みる。赤塗りと眼が合う。全く闘志が消えていない。

 左手に持ち替えた刃が彈の顔に迫る。彈の右は壁。判断に迷い、左へ逃げるも右の頬に刃先を掠める。右頬に一本の横線が出来た。

 痛みも束の間、赤塗りが襲いかかり馬乗りになる。拳と刃。交互に向かいくるそれを、何とか下から捌き、避け、迎撃する。

(殺される!!)

 彈は死神の存在を喉元に感じた。右脇腹、左前腕、右頬の出血。この状況下では、死を待つ以外の手立てが無いように思えた。

 音。

 鳴り響くスマートフォンの着信。殺伐とした中を切り裂く快活なメロディが流れる。

(亜莉紗!)

 彈は微かな光明を見た。現場を発見し、突入までは連絡をとっていた。それから、普段通りの彈ならものの数分で犯人を制圧し亜莉紗へ連絡を入れている。しかし今は十分ほどが経ったろうか。何もアクションのない彈に、彼女が異変を察知してもおかしくない。

 すると彈はあることに気づいた。赤塗りの攻撃がまるで失速しない。まるで何も起きていないかのように、彈への殺意に一つの変化も見られなかったのだ。

 何かが、変だった。

「耳が……聞こえないのか?」

 彈は言葉を発した。投げかけた。

 赤塗りの動きが止まる。やはり表情は分かりづらい。暗い室内であるからに余計にそうだ。だが明確に変わったのは彈だった。襲いかかられ、今の今まで戦闘下にあった彈。互いに剥き出しの敵意。それが、一瞬にして消え去った。本人の気づくところか否か、彈はまるで子を心配する親のような顔になっていた。

 赤塗りが止まったのは見知らぬ反応だったから。殺す対象が何を言っても分からない。死が近づくにつれ言葉数が減ったり増したりするのには個人差がある。饒舌になる人間だってよく理解もせず煩わしい為に殺した。交渉も弁明も赤塗りには届くことが無かった。

 それなのに目の前の男は、死に瀕する状況で見たことのない眼をした。実力がある人間であるのに、闘争本能を自ら削除していた。不思議だった。

 分からないものは、怖かった。

 赤塗りが離れる。立ち上がり後ろ歩きで距離をつくる。彈を目で捉えたまま、窓を開け逃亡した。

 彈は室内で、規則的に聞こえる自らの荒い呼吸に耳を傾けるだけだった。


「とにかく。そんなやばい相手と戦って無事だったのが何よりよ」亜莉紗は険しかった顔を解き、胸を撫で下ろした。

「何とかね」

 彈はリビングで上半身の服を脱ぎ、ダニエルに介抱されていた。消毒が済んだので今はガーゼの上から包帯を巻いている。

「でも、彼が聾者だなんて初耳だわ。あんなに名高く実力のある殺し屋が、まさかそんなハンディキャップを背負っているなんてね。誰が想像するかしら。誰も信じないんじゃない?」

 所感を述べる亜莉紗。同感だった。彈自身、未だに信じられることではなかった。

「ああ」

 対峙して感じた手応え。恐らくだが、一対一、ことこの一点においてあの男は最強であるかもしれない。それだけの驚異的な強さを感じた。

 もちろん超人ではない。

 身体能力が凄まじく高いわけではない。筋力があるわけでも、機械仕掛けでもない。ましてや雷を出したりもしない。でも強い。確実に相手を殺すことに特化した動き。何故耳の聞こえない彼があそこまでの力を得たのか。脱帽する。

 そしてラプトルに対する強い敵愾心。

 弥岳黎一やモノクローム、胎田宗近のような崇高な大義があるわけでも、アイギャレット・シェルシャルルのような利益の為でもない。ソードや鷸水薊瞰のような快楽犯でもなく、マキビシや(ロン)、カイアス・エヴォルソンのような享楽からの私情を孕んだ復讐とも少し違う。明確な殺意は感じたが、激情というより使命感のような。機械的、自動的な動機の雰囲気があった。

 交戦中、赤塗りは一度も言葉を発さなかった。

「話を聞くに聾唖って感じでもあるけど……って、今こういう言い方はあんまりよくないか。ま、どっちにしろ彼と意思疎通及び話し合いでの解決は無理そうね。元々裏の人間なんて実力行使が最善策と思ってる連中だらけだし」

 彈は黙ったままだった。ダニエルは手を動かしながら口を開ける。

「コスチュームさえあればこんなことにはなってなかったよ。それに、僕の発明品だって」

 彈が赤塗りに負けた。けれどラプトルはまだだ。ダニエルはその事実を蔑ろにはしたくなかった。不意打ちであることも、相手が武器を持っていたこともそれに当たる。関係を深め信頼を置いてきた友人の力になりたかった。

「ありがとう。でも次は絶対負けない。必ず倒すよ」

 ダニエルは彈の処置を終えた。ヒーローの言葉を信じた。社会は平和だ、何も気にする必要なんてない。

「元々脳筋の坊やには関係なさそうね。あたしも頑張って足跡を追ってみるわ」

 赤塗りはラプトルに強い殺意・悪意を持っている。その事実はあまりにも危険だ。大切な人が狙われることだってあり得る。彈にとってあの日、ラプトルが生まれることになった日の悪夢が重なる。震条彈という男の人生の分かれ道。新たな人格、もう一つの生き方の誕生。あの惨劇を想起し、激しい焦燥と恐怖に駆られる。そしてもし、もしそうなれば、自らの怒りを抑えることは出来ないだろう。

 和解。それがどれほど困難かを彈は今日(こんにち)までに嫌という程思い知った。どれだけの労力を割いても、どれだけ奔走しても、どれだけ万全を期して警戒に努めても、悪しき結果は付き纏ってきた。もうそんなことはあってはならない。

 彈は二人へ薄い微笑みを返した。


 顎髭ともみあげの繋がった男が顔を綻ばせる。峯岸商事と表記してある磨り硝子の扉。男は自らの職場である事務所に居た。黒い光沢を輝かせる柔らかな椅子に体を沈み込ませ鎮座している。

「レッドスプレーが消え、それに加え真宮寺雅隆にソードの“出てくる”可能性までもが無くなったのはありがたいな。実に愉快愉快」そう言って高笑い。

 赤塗りは男の頭頂部を見下ろしていた。呼吸の聞こえぬ犬。

 後ろから左手で頭頂部を、右手で顎を持ち、反対方向へ引っ張るよう反時計回りに捻る。

「うぐっ」

 男は絶命した。


 赤塗りが耳の聴こえない人間など誰も知らなかった。高い実力による任務遂行能力もそうだが、誰一人として彼に興味を持たなかったが故だった。

 社会から、裏社会から。赤塗りは完全に孤立していた。



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