第二話、 用心棒依頼 遂行編
依頼に関する話し合いが終わり、ウォルン工房を出て宿を探すエルヴァとアル。
後ろをつけてくる冒険者は相変わらずで、今では先ほどより人数が少し増えたような気さえする。
「なーあー、エールー。鬱陶しいんだけど。せめて撒かねえ?」
「……あー、そうだな。撒くだけじゃどうせまた来るだろうから……あ、ちょうどいい」
目を閉じたままではあるが、エルヴァは周囲を見回す仕草をし……やがて、大通りの途中にあった広場の隅で、ちょっとしたイベントをしているであろう箇所を見つける。
何人もの冒険者が円形に集まっており、その中心で起こっているのは軽い模擬戦。
「ベルダに銀貨二枚!」
「バカ、ロギルに銀貨五枚だろ?」
「俺はロギルに銀貨十枚賭けるぜ!」
引き締まった筋肉を携え、拳を構えて軽快なステップを踏む男は、ベルダと呼ばれている三十代ほどの男と向き合っている。
戦う前に観戦者同士が銀貨や青銅貨を賭け合う。
そして戦う者同士も、挑戦者は銀貨を一枚、ロギルの方はその日の儲け全てを賭けに出し、勝者は賞金としてその掛け金をもらうことが出来る。
つまり挑戦者が勝った場合は、ロギルがその日稼いだ金を全て受け取れる……という仕組みのようだ。
だがロギルはCランク冒険者。近々Bランクに昇格するのではないかと噂される手練れだった。一般の冒険者が、そう簡単に勝てる相手ではない。
「じゃ、行くぜ」
ベルダがそう一声かけると、ロギルに向けて距離を詰める。そして溜めを入れた拳を、ロギルに放つ。一般人からすれば、十分に鋭い動き、そして重い一撃だ。
ロギルはそれを軽く回避し、ベルダの腹にカウンターを放つ。
これは、冒険者から見ても十分鋭く、そして重い拳だった。
ベルダは自分の一撃が躱されたことに意識が向いてしまい、ロギルの攻撃に反応するのが遅れ……鳩尾を殴られ、地面に沈没した。
『うおおおおおおおお!』
「あーっ、やっぱり駄目だったかあ」
「ほんとに、やべえよな」
「さあ、次は誰が来る? 誰でもいいぞ」
観戦者集団の外側に運ばれていくベルダを横目に、ロギルは周囲を見回す。
「おい、銀貨は俺が払うからよ、お前行けよ」
「やだよ、俺はまだDランク冒険者だぜ? 勝てるわけないだろ」
「そういうお前が行けよ」
「やだね。俺は前に戦ったことがあるが、全然歯が立たなかった」
「お、おい、見ろ」
「ん? 君は……」
対戦相手が見つからないロギルの前に現れたのは、まだ二十にも満たないであろう青年だった。
赤みのかかった白髪に整った顔立ちが印象的な美青年で、周囲が静まっている中、ロギルは面白そうだと笑みを浮かべる。
まだ若いとはいえ、その佇まいは一流の冒険者や熟練の冒険者と大差ない……いや、それ以上の実力を思わせた。
少しして、周囲の観衆が一斉に笑い出した。
「おーい、坊ちゃん! ここはお遊びの場所じゃないぞー!」
「よっしゃ! 坊主の勇気に銀貨十枚賭けてやる!」
「んじゃ俺は十五枚賭けてやんよ」
「がっははは、目ェ閉じたまんまで、どうやって戦うってんだ!」
「まあまあ、あの坊主もきっと一旗揚げたかったんだろうよ。頑張れよ! 俺はあんま金はねえが、銀貨五枚賭けてやる!」
ロギルは少し煩わしそうに眼を細めた。あの若者の実力が一ミリも理解できないなど、可哀そうで哀れな奴らだと。
「……クズどもが」
皆で好き勝手に騒ぐ中、ロギルはそんな声を聞いた気がした。
だが今は、この目の前にいる青年が先だと意識を戻す。華奢で、男にしては少し小柄ではあるが、そのうちに秘められたパワーはとてつもないだろう。
「君が次の挑戦者、でいいのかい?」
「ああ。いくら賭ければいい?」
「いくらでも。無理のない程度に賭けることをお勧めするよ。俺が勝ったらその金を、君が勝ったら俺が今日稼いだ金は全て君に譲る……そんなルールさ。簡単だろう?」
ロギルは青年――エルヴァに好戦的な笑みを浮かべながら、これから繰り広げられるだろう模擬戦のイメージを組み始めるのだった。
(どうせなら派手に目立ってやるか)
内心でそんなことを呟きながら、エルヴァは腰のポーチから金貨一枚を取り出し、ベルダとかいう男が先ほどやっていたのに倣って、地面へと放り投げた。
その様子を見て目を剥いたのは周りの観衆たちである。まさかそれほど歳もいっていない若い青年から、金貨が飛び出してくるとは思わなかったのだろう。
「……なるほど。ずいぶんとやってくれるね。君、そんなに自信があるのかい?」
「まあ、喧嘩には慣れてるんでな」
腕を組み、片足に体重を寄せて立つエルヴァ。リラックスをしているようにしか見えないエルヴァに対し、ロギルは妙な緊張感に見舞われていた。
どう見ても、相手は自分よりも格上の実力者である。これは賭け事やちょっとした小遣い稼ぎ云々よりも、このような強者と戦えるという機会を無駄にしないよう思考を巡らせるべきだとロギルは判断した。
ロギルもただふざけてこのようなことをしているわけではない。この街にいる、そしてこの国にいる様々な冒険者と模擬戦――あくまでも武器を使わない、素手での勝負だが――を重ねることで、力の増長を図ってきた。
実際にそれが功を成し、今やロギルはもうCランク、もうすぐでBに昇格できるのではないかとまで言われるようになった。
そんな向上心のある冒険者が、エルヴァという強者を前に、手を抜くといったことをするはずがなかった。
「じゃあ、始めていいかい」
柔らかい口調とは裏腹に、獰猛な笑みを浮かべてエルヴァを観察するロギルは、手加減をするといった様子ではなかった。
それに気づいた何人かの冒険者が、ようやくエルヴァの秘めているかも知れない潜在能力に気づいたらしく、周りで騒いでいる者たちを放って、固唾を呑んで様子を見守る。
「ああ」
相変わらずエルヴァはリラックスしたラフな構え……と呼んでいいのかは微妙だが、そんな立ち姿を見て、流石のロギルも眉を動かさずにはいられないだろう。
自分相手など、構える必要もない、と。
正確にはエルヴァにとって戦闘前の構えなど無駄であると思っているし、この状態からでも常にすぐ動けるようでなければ、いくら技術があっても奇襲などの対策などできないと、そう考えている。
常日頃構えながら奇襲に備えるのは御免だと、そういうことだった。
つまりそんなエルヴァにとって、このラフな立ち姿こそが戦闘開始前の構え……というべきなのだろう。
しかしそんなことを察しようもないロギルは、冷静になろうと息を大きく吸い、吐く。
一瞬だけ脚の力を抜き、腰を落とす。そして再び脚に力を入れた時には、エルヴァとの距離を縮めていた。
元の二人の距離は約十メートル。お互い戦士であり、冒険者にとっては十分至近距離だ。対応が遅くなれば、それは命取りとなる。
五メートル。エルヴァはまだ動かない。
三メートル。……まだ動かない。
二メートル。ようやくエルヴァに動きが見え始める。
一メートル。すでにお互いの腕が届く距離。エルヴァは半身を捻ってロギルの拳を躱す仕草を見せる。
だがロギルにとってそれは予想済み。躱されることを前提とした拳は、こちらが本命だとばかりに軌道を変え、鋭い一撃をエルヴァのその華奢な体に叩きこもうとする。
だがそれすらも紙一重で躱したエルヴァは、容赦なく拳をロギルの脇腹に叩きこんだ。
「ぐっ!」
予想以上に重い一撃だった。しかも的確にツボを突いてきている。
ロギルは地面に倒れ込み、予想だにしなかった結果に辺りがしんと静まり返る。
「いててて……もう少し、手加減、してくれても、いいじゃないか」
「悪いな、これでもだいぶ抑えた」
「これでだいぶ抑えた? 普通なら一瞬で気絶する威力だよ……」
ロギルは平然と……というには少し苦しいが、エルヴァと会話がしっかりできている。それだけでも、ロギルの防御力の高さが窺える。
本来なら痛すぎて話すどころか周りの音を聞くだけの余裕すらもないはずなのだ。それなのにロギルは周りの音声を拾うどころか、対戦相手であるエルヴァと話をできるくらいには防御力が高かった。
「まだやるか?」
「もちろん。君のような強者と手合わせができるなんて、滅多にない幸運だと思わないと」
痛みに耐えながらも再び立ち上がったロギルに対し、エルヴァは内心でロギルに対する評価を一段階だけ上げた。
自分の髪や容姿を見ても欲望の視線を向けることはなく、見た目で判断せず実力差を知った上で自らの技術向上のために前向きに取り組んでいる。
そして、痛みに耐えながらすぐに降参しない粘り強さ。
現代の冒険者には、皆無というわけではないが、数少ない人材と言えるだろう。
「わかった。あと少しだけなら付き合ってやる」
「有難き幸せだねえ。君どこを拠点にしているんだい? 王都じゃあんまり見かけないけど」
「どうでもいい。さっさと始めよう」
「それは残念だ」
あわよくば名前も聞いて、暇なときにでも手合わせをお願いしたいところだったが、これ以上追及しては返って相手の印象を悪くすると、そう考えたのだろう。ロギルはあっさり引き下がる。
エルヴァは、今度はこちらから行くぞとばかりにロギルとの距離を詰める。ロギルは冷静にそれを迎え撃つ態勢を取り、エルヴァとの模擬戦を有意義にしていく。
一方でそんなエルヴァとロギルを見ながら、ひとりアルは欠伸をしていた。
今回は先ほどからずっと後ろをついてきた愚か者に力を見せつけてやるのが目的であるとはいえ、エルヴァが他人に付き合うなんて珍しいし、彼のやりたいようにやらせてやろうというのがアルの本音ではある。だがアルにとって、この拳の打ち合いは見ていてもあまり面白くないどころか、欠伸が自然と出てきてしまうほどの退屈さだった。
それに気づいたのか、もうそろそろいいだろうと判断したエルヴァは切りの良さそうなところで決着をつける。
「……はあ、参った」
ロギルの前にあるのはエルヴァの拳。
鋭く尚且つ重い、当たれば歯が折れ、鼻の骨は砕け、程なくして戦闘不能になっていただろう。
ロギルは地面に転がるエルヴァの金貨を拾うと、懐から銀貨の詰まった革袋を取り出し、エルヴァに渡す。
「賞金だ。今回は有意義だった、こんなのじゃ足りないくらいだが、ありがとう。また機会があれば模擬戦をして欲しい」
「…………」
エルヴァはそれを無言で返し、賞金はついでともらっておくことにする。
ロギルとエルヴァが拳を交えている間に我に返っていた冒険者たちが、やがて歓声を上げる。
予想以上の結果に、冒険者はエルヴァへ注目の視線を浴びせる。
「待たせたな。行こう」
「まったく、遅い」
ぷく、とわざとらしく頬を膨らませるアルへ、エルヴァは愛おしそうな笑みを浮かべて軽く頭を撫でる。
「…………」
周囲で自分たちの様子を見ている冒険者を一瞥してから、アルを連れてさっさと宿へ向かっていった。エルヴァの強さを目の当たりにした冒険者たちは、何を言われるでもなく道を開ける。
流石に後をつけていた冒険者たちも諦めたのか、後をつけてくる者はもういなかった。
宿を見つけた二人は、とりあえずということで十日分の料金を払い、二人部屋に入り込む。
設備も警備もしっかりとしていて、各部屋に冷房も効かせた、一つ一つの部屋は広くて過ごしやすいちょっとした高級宿だ。
部屋に入るなり生活魔術で部屋全体を掃除し始めたアルは、エルヴァと共に行動し、時間が経つに連れて潔癖症が酷くなった。
その証拠に、外のものに触れる外出中は白い手袋をしている。
剣を握る時も手袋は外さないのだが、帰ったら必ず手入れをして全体を満遍なく掃除するのはもはや癖である。
手袋も同じように術式を組んでしっかり洗うと、窓辺に干して乾かす。エルヴァと共に即行で入浴を済ませ、服も洗い、あとは夕食まで自由時間。
エルヴァはソファに腰かけると、アルに対してさあ来いと言わんばかりの顔で――おそらく他人からすれば見事なまでの真顔だが――両腕を広げてみせる。
それを見たアルはいつの間にか手に分厚い本を持ちながら、とことことエルヴァの下へ近づき、遠慮なくその膝の上に座る。
それを満足そうに受け止めたエルヴァは、アルを懐に収め、その温もりを堪能し、アルは手に持っていた本を開いて読み始めるのだった。
依頼主との話し合いを終え、エルヴァがロギルとの模擬戦をしたその翌日。
朝の六時頃、エルヴァとアルの姿はウォルン工房の前にあった。
アルがその扉をノックし、返事を受けると、そのまま遠慮なく中へ入っていった。
「いらっしゃい」
応接間兼執務室となっている表の部屋で出迎えてくれたのは、昨日のベイルとは違う男だった。
柔らかい物腰で、ちゃんと友好的な態度で接してくる若い男だ。
「パウロに聞いてるかなー? 今日から一か月間用心棒をするアルだ。こっちはエルヴァ」
「はい、聞いています。本日から、どうぞよろしくお願いしますね。あ、立ち話もなんですし、こちらに座っててください。基本、向こうが乗り込んでこない限りは暇でしょうし、お茶の用意もしますので」
「そうさせてもらうよ」
アルは相変わらず笑みを浮かべたままそう答えると、エルヴァと共に、奥の方にあるソファに腰かける。
この鍛冶屋では、やはり王都でも指折りの鍛冶師の工房であるだけあって、依頼の相談に来る者はたくさんいるのだろう。
部屋の中央にあるソファはテーブルを挟んで向かい合っており、昨日パウロと話し合いをしたのと同様、打ち合わせなどができるようになっているのだろう。
対してエルヴァとアルが座った場所のように、一人用のソファが小さなテーブルを挟んで向かい合っているのがいくつか存在している。
つまりこのスペースは、順番待ちの客が腰を下ろして待つ場所となっているのだろう。
「にしても、本当にお若いんですね」
紅茶を持ってきた若い男が、笑みを浮かべながらそう言う。
その言葉に、エルヴァとアルを侮るといった色はない。むしろ尊敬するような、それでいて羨ましがるような……二人を見下げるのではなく、見上げるような態度を取っていた。
そのことを好印象に思ったのか、アルは少しだけ素の笑みを含みながら声をかける。
「そういうあんたも見かけによらないよな」
「あれ、そうですかね」
男は頬を掻きながら苦笑めいた顔をしてそう呟く。
ここで働いているからには、パウロの弟子ということなのだろう。
そしてパウロの弟子ということは、当然鍛冶師としての修業を積んでいるということだ。
柔らかい物腰に温厚な性格を表すかのような口調は、とてもではないが初対面では鍛冶師だとは思わない。
職人というのは自らの拘りが強い者が多く、自然と頑固な性格になる者が多い。……いや、正確には、頑固で拘りが強いからこそ職人になれた、という方が正しいだろう。
ただ物事に例外はつきものである。
目の前の男などそれの典型的な例だろう。
柔らかな物腰とは裏腹に、その体は一般人よりも鍛え抜かれているし、一見すれば優しい瞳の奥には何か強い意志の気配が隠されている。
それを一目で見抜いたアルも大概だが、自分よりも歳下にしか見えない冒険者に自分の身を預けるというのに、妙なプライドなど持たずにあっさり二人を見上げる男も男だろう。
「ま、別にいいけどさ。……で、親方さんは?」
アルが紅茶を一口飲んでから尋ねられた言葉に、男は作業部屋の方に視線を向けながら答える。
「今、取り込み中なんですよ。今日発注の武器の最終調節に入っているみたいで」
「ふうん。そっか。まあいいや、とりあえず親方さんが来るまではここでのんびりさせてもらうよ」
紅茶をテーブルに置き、男に笑みを向けるアル。エルヴァはただ淡々と紅茶が冷めるのを待ちながら新聞紙を眺めているだけだ。
目を閉じているというのに文字など見えているのだろうかと疑問を抱くも、突っ込んでも仕方ないだろうと気にしないことにして、自らも仕事をするために持ち場へと戻っていく。
「……さて。アル、話を聞こうか」
「なーんだ、ばれてたかー」
相も変わらず笑みを浮かべたままのアルがそう答えると、新聞紙を畳んだエルヴァのその美しく整った眉が少しだけ心外そうに歪む。
「何年付き添ってると思ってる」
「はいはい、そうでした」
そんなエルヴァを軽くあしらったアルは、やがて今までの笑みは何だったのかと、誰が見ても驚くの一択しかないような真剣な顔つきになって告げる。
「んまお察しの通りすぐにでも来るだろうな。このタイミングで俺らを雇ったパウロの判断は間違ってなかったってことだ。ヴェルディの三男は何をしてくるか想像は出来るがとにかく面倒臭い。まあともあれ、俺らはこの一か月で、この工房の用心棒が出来りゃそれでいい」
「なるほどな。ま、荒らさせなきゃいい話だし、そう難しい話でははいだろ」
少しだけ冷めてきた紅茶に息を吹きかけ、上唇で温度を確認してから飲み込むエルヴァ。こう見えて、彼はかなりの猫舌なのである。
「……なんだ」
「いや?」
それを笑顔で眺めるのはアルだ。
普段はエルヴァほどには決して表に出さないものの、アルも相当なエルヴァ教……いや、エルヴァ狂である。
エルヴァの行動、所作、仕草……一つ一つが愛おしくて、愛おしくて、エルヴァに気づかれないような範囲ではあるが、アルは常にエルヴァの観察を怠らない。
ただでさえアルの言動や仕草、感情や思考に敏感であるはずのエルヴァが、未だにそれに気づけていない理由は、やはりエルヴァも他に類を見ない天然……アルが天性のドジとも言うべき性質を持っているのならば、エルヴァは天性の天然とも言うべき性質を持っているからだろう。
天然と言えばアルも同じなのだが、やはりドジという性質があってこそであって、エルヴァほどのレベルにまでは達していない。
ともあれ、エルヴァはなぜ自分がアルに眺められているのかわからず首を傾げながらも、気にせず紅茶を飲む。大好きな……最愛の相棒に眺められて決して悪い気はしないどころか、ただ嬉しかったからだ。
そんな風にして、エルヴァとアルは依頼を遂行していく。
依頼を受諾して一週間が経った。
その間に二回ほど、ヴェルディ工房からの者と思われる冒険者からの嫌がらせがあった。
本来、腕の良い鍛冶師を敵に回すなど冒険者としてあり得ない行為である。
だが、もし、腕の良い鍛冶師など知らない、王都に来たばかりの者ならどうだろう。ヴェルディが、自分こそが王都一の鍛冶師であり、ウォルン工房は自分の客を奪い、どこぞの質の良い武器屋で購入した武器を高く売っているなどと言いふらせはどうだろう。
一流の冒険者ならともかく、Dランク以下の、相手の嘘も碌に見抜けないような、あるいは碌に情報も集められないような浅はかな者は、すぐにその口車に乗せられ、こちらへ乗り込んでくるのだ。
一回目は工房を荒そうとしてきたので、アルが交渉――という名の脅し――をすることで、二人組の冒険者は帰っていった。
だが二回目の襲撃では、実際にパウロの弟子たるベイルに暴力を振るおうとした。それを察知したエルヴァが、ソファに座っていた状態から瞬時に移動し、その拳を止めた。
きっかけは交渉だった。
その冒険者は、ヴェルディに頼まれたのか、このウォルン工房を畳むよう持ち掛けてきたのだ。最悪場所を移すというのであればそれでもいい、自分たちの邪魔さえしなければ良いのだと。
だが当然、工房を畳むなど論外だし、場所を移動するにもかなりの費用が掛かるのだ。別に余裕があるというわけでもなく、場所が悪いわけでもなく、客に困っているわけでもないウォルン工房がわざわざ引っ越しをする必要などないのだ。
そもそも後から来たのはヴェルディの方である。
単純に立地が悪いというのであれば、客が来なくても工房を維持していられるくらいの財力があるのだから、移動をするのならヴェルディの方が移動すればいいだけの話。ここよりも立地の条件が良い物件などいくらでもあるのだから。
場合によっては暴力を振るってもいいと言われていたようで、交渉決裂は許さないと、その冒険者は語った。
だが他人のご都合などエルヴァやアルには関係ない。自分たちは自分たちに課せられた護衛という仕事をこなすだけで、他に対する干渉は一切不要なのだから。
そんなこんなで過ごしてきた一週間。今日も今日とて出勤の時間、少しだけ早めに工房に着いた二人はあるもの……いや、者を目にする。
「あれ、客かなあ?」
「さあ」
エルヴァには興味がないのだろう。特に何を言うでもなく淡々とアルの隣を歩くだけだ。
アルが客かと疑問に思いながら歩いて行くと、ウォルン工房の扉の前に立っていたのは若い男と、その取り巻きか護衛らしき数人の男だ。
若い男の方は特に特徴のない平凡な顔立ちだが、育ちの良さそうな質の良い服装は、平民が着るようなものではない。
「工房はまだ開く時間ではございませんが」
にこにこと人の好い笑みを浮かべたアルが、育ちの良さそうな男に問いかける。
「平民が気易く声をかけるな。……お前、この工房の者か? ならちょうどいい、この扉を開けろ」
「無理な相談ですね」
「なんだと?」
「別に、私たちがこの工房の者だなんて一言も言っておりませんよ。実際、私たちはこの工房で働く者ではなく、あくまで雇われているに過ぎない、ただの冒険者ですから」
アルは笑顔を決して崩さない。
その笑みはとても友好的に見えるが、エルヴァだけは知っていた。アルのこの微笑み方は、ゴミを見るような眼差しであるということを。用件も言わず、ただ扉を開けろと命令してきた男が気に食わないのだ。
「冒険者だと? は、薄汚い低ランク冒険者ごときがこの私と話をするだと? この私が誰かわかっておらぬのか? わからないようだから名乗ってやる。私はヴェルディ子爵家が三男、イーリス・ヴェルディである。お前たちにもう用はない、さっさと私から離れろ」
同じ空気を吸いたくないとばかりに白いハンカチを口と鼻に当て、野良犬を追い払うかのように手を振るイーリス。
朝の早い王都の住人は、それこそイーリスにこそ不愉快そうな視線を向けていた。何故このような早朝から、こんな下種に遭遇せねばならないのかと。
ましてやイーリスはまだ歳若い冒険者を相手に見下すような――実際に見下しているのだが――視線を送りながら、し、し、と手を振っているのだから、不愉快になるなという方が無理だった。
だがアルは退かない。
「そういうわけにはいきませんので。少ししたらここの親方も来ます。それまでは我慢なさってくださいまし」
平民にしては敬語に慣れている……どころか、言葉遣いの一つ一つ、既に洗練されたものさえ感じる。
イーリスはそんなことは当然だと気にも留めなかったが、本来ならばあり得ないことである。
平民は貴族や王族と関わることなど普通ならばあるはずもないため、言葉遣いに関する教育はされない。それどころか、子供のころからちゃんとした教育を受けられる者の数の方が少ないのだ。
国によっては、ある年齢までの教育を義務とするところもあるが、ほとんどは教育などまともに受けられない。
このレラン王国は、その数少ない義務教育のある国の一つではあるが、当然、社交界に出るわけでもない平民に、簡単な敬語はともかく、使う機会のないより高位の敬語など教えるはずもない。
「エルヴァ、アル。来てたの、か……」
やがて工房の前にやってきたのは、パウロの弟子のひとりである男。
二十代後半の好青年で、他の弟子同様、この一週間である程度親しくなった相手だ。
その男が、工房の前に何故かいるイーリスを見て固まる。
当然だろう。数か月間にも渡って自分たちに嫌がらせをしてきた相手の顔を、この男が知らないはずはないのだから。
「お、おはようございます……な、なんの御用でしょうか」
それでも、嫌な相手でも、対応しないわけにはいかない。
今すぐにでも殴ってやりたい衝動を抑え、男は何とかそれだけを口にした。
「ここの親方を呼んで来い。話がある」
「親方はもうすぐ来ます。えっと、ど、どうぞ。中へ。お茶の用意をしますね」
そう言って、男は扉の鍵を開け、不本意ながらもイーリスを中へ招き入れる。
普段ならパウロも仲間もいない状況で、こんなことはしなかっただろう。だが今は違う。エルヴァとアルという、確かな実力を持った自分たちの護衛がここにはいるのだ。
もちろん、純粋な力だけでイーリスと勝負をするのなら、男だって負けてやるつもりはないし、負ける気もしない。
だが相手は子爵家の三男。当然純粋な力で戦っていい相手ではない。
でも、今は状況が違う。この一週間で、エルヴァとアルの実力の一部を垣間見てきただけでなく、この二人は相手が貴族だろうと意にも介さない様子を見せている。そして、意味もなく暴力を振るうわけでもないということもわかっている。
だからこそ、少しずつ、この一週間で生まれてきた信頼感が、今回功を成した形だった。
「……いらっしゃい」
そう声をかけながら工房に入ってきたのは、この工房の主であり、男の師匠でもあり、今回のエルヴァとアルの仕事の雇い主でもある鍛冶師のパウロだった。