無気力令嬢は1001回目の死を迎える
※ハッピーエンドにはなりません。
私が一体誰なのか、もはや覚えていない。
分かっているのは、私が体験している人生が乙女ゲームの世界のものだという事だけ。前世、の記憶だと言えるのかすらもすでにあやふやだけど、最初の頃の私がそう表現していたような気がする。
私はこの世界で、悪役令嬢のアリシア・アルティメスとして生活している。
私が意識を持つのは、学園に入学する日。学園長の長い話を聞きながら、長い眠りから目覚めるように私の意識が蘇る。
だけど蘇るのは意識だけ。アリシアの体は勝手に動き、思ってもいない事を喋る。もしかしたらアリシア自身が何か考えているのかもしれないけど、それは私にはわからない。
感情が共有できない体なのに、感覚だけは伝わってくる。熱い飲み物を飲めば熱を感じるし、怪我を負ったら痛みも感じる。
私の意識が宿るアリシアの結末は悲惨だ。絞殺、刺殺、毒殺、拷問、処刑。痛みを伴う最後に何度も叫んだ。勿論、声には出ていなかったけど。
どうしようもない状況から目を背ける事も出来ずに殺される事――1000回。
私の心はとっくの昔に死んだ。
そしてまた、どうしようもない生活が始まる。学園長の話は4回目ぐらいで聞くのをやめた。椅子から伝わる冷たさに、感覚はやっぱりついてきているのだと落胆し、肩を落とす。
「あれ?」
漏れた声は聞き慣れたアリシアのものなのに、その内容は私が意識したものだった。
ゆっくりと膝の上に置かれている手を持ち上げようとすると、何の抵抗もなく、それが当たり前だというように容易く浮いた。
1001回目にして、私は体の主導権を手に入れたのだと悟り――気を失った。
目覚めた私の目に飛び込んできたのは、真っ白な天井。右に左にと意識して眼球を動かし、やはり気のせいではなかったと再確認する。
体を動かすのなんて久し振りなのに、思った通りに動く体が怖くて、アリシアはどこに行ってしまったのだろうと不安にもなった。
今までは私の事ではない、アリシアの人生なのだと思う事で少しでも痛みを和らげようとしていた。
だけど今回はそうもいかない。他人事のように思う事すら出来ず、私は私の意識のまま、あの無残な結末を体験しないといけない。
「何で、今更……」
震える唇から漏れる掠れた声も私の思ったままで、アリシアのものではない、私の声なのだと思い知らされる。
これが例えば2回目だとか、そうでなくても10回目とかだったら何とかしようと頑張る事が出来たかもしれない。
だけど、今の私には努力するための気力すら沸いてこない。
ヒロインの相手役は5人いるが、誰がお相手になるのかはその時々で変わるし、細部に変化があったりもするのにアリシアが殺される事に関してだけは一貫していた。
だからきっとそういうものなのだと、私の中に刻まれている。
ゆっくりと体を起こす。外から覗けないようにと引かれている白いカーテンが視界を遮っている。
カーテンを引いてみると、整然とした机と薬品棚が見えた。どうやら入学式で倒れた私は保健室に担ぎ込まれたらしい。
私以外には誰もいない。まだ入学式の途中なのか、廊下からも外からも人の気配は感じない。
しんと静まり返った空間に、世界が私だけになってたらいいのにと思わず夢想してしまう。
だけどそんな事はありえない。今までそんな展開はなかった。
そっと扉を開けて外の様子を窺ってみたけど、廊下には人っ子一人見当たらない。
私の靴音だけが響く廊下を、目的の場所に向かって一直線に突き進んでいく。
もう痛い思いはしたくない。あんな最後を迎えたくない。
ただその一心で辿り着いたのは、透き通った水面が光を反射する湖のある裏庭。
私は湖の中を覗き込んで、深さが十分にある事を確認する。
1002回目には意識だけになってますように、と願いながら湖の中に体を落とした。
じわりじわりと締め付けられた時よりも、縄の痛みが無い分マシだった。息苦しいけれど、毒を飲まされた時と違って内蔵を焼くような痛みもない。
ああ、なんて心地よい最後なのだろう。
心地よさに身をゆだねようとした時、私の体が持ち上がった。空気を感じ、体の中に入り込んだ水を吐きだそうと体が勝手にせき込む。
「何、をしてるんだ……!」
私の胴体に回っている腕に力が籠る。浴びせられた叱責からは切羽詰まっているような必死さを感じさせた。
ゆっくりと首を動かすと、翡翠色の目が責めるように私を睨みつけていた。
水に濡れた蜂蜜色の髪が顔に張り付いているのに、それを剥がそうともしない。
彼は誰だっただろうか。
今までの記憶を思い返してみるが、ヒロインの恋愛対象にこんな人物はいなかった。この場にいるのなら学園の人なのだろうけど、アリシアにもヒロインにもあまり関わりがなかった相手なのは確かだ。
1000回の繰り返しの中で、直接関係する恋愛対象以外の人物は私の意識に入ってこなくなっていた。最初の数回は意識していたかもしれないけど、覚えている限りでは考えるだけ無駄だと思って、モブの顔なんて覚えなかった。
「……死なせてください」
だけど今大切なのはこれが誰なのかではない。誰だろうと私には関係ない。1001回目は早々に退場しようと、そう決めているんだ。
「なんで、そんな事を」
ぎゅう、と更に腕に力が入る。このままへし折ってくれないかな。
痛めつけた末に殺されるよりは、抱きしめられたまま折られたい。
「目の前で死なれるのが嫌でしたら、どうかお放しになってください。邪魔にならないように、ひっそりと死に絶えます」
彼にそんな重荷を背負わせるのはどうかと思って、私の願望は心の中にしまい込む。
「そう言われて、放せるわけないだろ」
「……そうですか」
これ以上はきっと押し問答になると判断して、私は口を閉じた。別に誰かと話したいわけではない。ただこの無駄な人生を一刻も早く終わらせたいだけだ。
体から力を抜いて、彼の体に体重をかける。それを諦めた合図だと判断したのか、彼は恭しく私の事を抱き上げた。
抵抗する気も起きず、ただ体を任せる。
そして連れ戻された保健室。そこには見慣れた人物が待ち構えていた。
紫かかった黒髪に冷たくこちらを睨みつける空色の瞳。ヒロインの恋愛対象であり、アリシアの婚約者でもある王太子リオン・バーヴェルが腕を組んで偉そうにふんぞり返っていた。
「……これはこれは、私の婚約者が世話になったようですね」
「足を滑らせて湖に落ちたところを助けただけですよ」
私の体がベッドの上に降ろされる。シーツにじんわりと水の染みが広がるのを見ながら二人の会話だけを聞く。
どうやら私の死に場所を奪った彼は隣の国の第5王子で、名前をユリウス・エーデルフェイトというらしい。そういえば、そんな人もいた気がする。
入学式が終わった後一度だけ顔合わせをして、それ以降はすれ違うだけの関係だった、気がしなくもない。
「それでは、私はここで失礼しますね」
そういってユリウスは水に濡れたまま保健室を出て行った。タオルぐらい渡せばよかったかと思いもしたが、私はタオルの場所なんて知らないのでどうしようもない。
「倒れたかと思えば、溺れかけただと? どこまで私に恥をかかせたら気がすむんだ」
「……申し訳ございません」
最初の頃は恋愛対象が目の前に出てくるたびに戦々恐々となったりもしたが、500回を超えたあたりぐらいからアリシアを殺す相手だな、ぐらいの感想しか抱けなくなった。
歯向かう気になれるわけもなく、かといって媚びる気にもなれず、私は素直に頭を下げた。
リオンの目が信じられないものを見たとばかりに見開かれた。そういえば私は学園に入る前のアリシアを知らない。
だけど入学式直後からアリシアは高圧的だった。そうすると今の私の態度は、アリシアらしくないものだったのかもしれない。
「……ま、まぁ、分かればいいんだ」
リオンとアリシアの仲が入学式の時点から冷めきっていた事だけは知っている。誰に対しても上から目線のアリシアをリオンは何度も睨みつけていた。
「そんな濡れた姿で教室に来たらどんな噂が立てられるかわかったものじゃない。乾いてから来い」
「わかりました」
リオンの視線が右往左往と彷徨っている。何度か口を開閉させて、でも結局何も言わずに保健室から出て行った。
私は白いシーツの上に体を落として、目覚めた時と同じように白い天井を見上げる。
どこで最後を迎えようか、それだけを考えた。
それからも何度か死のうとして、何故かその度ユリウスに邪魔された。
時には一番高い部屋の窓から飛び降りようとして、時にはまた湖に身を投げようとして、時には修学旅行で行った森で魔物に出会おうとして。それ以外にも何度も何度も、私の思惑は様々な方法で阻まれた。
出会う度にユリウスは悲しそうな目で私を見ていた。
「何でこんな事をするんだよ」
包み込むように、優しく抱きしめながらユリウスは何度もそう聞いてきた。
その優しさと、ユリウスが1000回の死に関係しない相手だという安心感からか、一度だけ、私はユリウスに甘えてしまった。
「助けて」
小さく囁くように言った言葉がどんな結果を引き起こすのか――その時の私は分かっていなかった。
死ぬ事が出来ないまま迎えた最後の日。
リオンに呼ばれて向かった彼の自室で、私は騎士に取り押さえられた。
眼前には忌々しそうに私を見下ろすリオンの姿。
今までならいるはずのヒロインの姿はどこにも無い。今回の相手はリオンではなかったみたいらしい。それなら何故私はここに呼ばれたのだろうか。
私を殺すのはいつだってヒロインのお相手だった。
「どうして呼ばれたかわかっているだろう」
恨みの籠ったその声に、私は首を傾げる。ヒロインがいない状態での死を私は知らない。
「しらばっくれても無駄だ。貴様とあの男ー―確かユリウスと言ったな。あいつとの逢引を隠し通せる筈がないだろう」
リオンが何を言っているのかわからない。
黙りこくる私を睨みながら、リオンは言葉をぶつけてくる。
「否定もしないか。泣いて縋ろうというのなら、まだ可愛げがあったものを。まあ、すでに手遅れだがな」
鼻で笑われる。初めての展開に、私はどうすればいいのかわからずリオンの言葉を聞く事しかできない。
どうせ死ぬ身なのだから、否定も肯定もしたところで無駄なのだと悟っているせいもあるのかもしれない。
「国を裏切ろうとした罪は、その身をもって償え」
かたんという音と共に床に杯がおかれる。なるほど、今回は毒殺か。
「国を捨てようなど、成功するとでも思っていたのか」
騎士に取り押さえられている状態では杯を頂く事は出来ない。
どうやって飲めというのだろうか。
「ああ、そうだ。あの国の王はあっさりと王子を差し出したぞ。戦争をしかけるつもりかと脅すだけで簡単に頷くのだから、滑稽なことだな」
おう、じ?
杯に向けていた思考が引き戻される。
見上げると、リオンが顔を歪めるように笑っていた。
「助けが来るとでも思っていたか? 残念だったな。あの男はすでに処分した。王妃になる者を他国に連れ去ろうなどと計画して無事なわけがないだろう」
ああ、ユリウスは私のせいで、私のあの言葉のせいで、巻き込まれてしまったのか。
あの優しい瞳が、抱きしめてくれた暖かい腕が、失われてしまった。
死んでいたはずの心が叫び声をあげて、一筋の涙が私の頬を伝う。
「もう、いい。早く飲ませろ」
取り押さえていた騎士が私の髪を掴んで、無理矢理顔を上に向かせる。杯が口元に当てられ、私は抵抗することなくその中身を受け入れた。
最後に、あの翡翠の目が見たかった。そう思いながら。
こうして1001回目――私としては1回目の人生が終わった。