きっと僕は子どもです
僕はどうやらその女の子のことが好きなようなのです。ですが、そのことはなんとしても悟られてはならぬとそのような考えに取り憑かれていたので、どうにもこうにも二人の関係が進展するということは無かったのです。後々になって気づいたのですが、どうやら女の子のほうも僕に少なからず好意を抱いていたようです。ですが、お互いに壁をこしらえていては、もはや壁は2倍の厚さになったも同然です。
そんな日々はやがて終わりを迎えます。我々が変わらぬというのなら環境を変えてあげよう、そう考えた人があらわれたのです。その人がいなければ、いまも僕たちは停滞した日々に安寧を得ていたのかもしれません。
風が吹くと、稲が揺れて擦れてさらさらと音を立てる。うなだれた稲穂が揺れる姿は都会の電車を想像させた。稲刈りなんて都会に比べると楽なのかもしれない。
「コンバインがこわれたけえ、あんたも手伝っとくれ」と僕を駆り出したばあちゃんは元気に稲を刈っている。どうしてあんなに機敏な動きができるんだろうと疑問におもう程に足腰も強く、頭脳の方もボケとはまだ遠い存在であった。
「お、めずらしい。お手伝いしてるんだ」
あぜ道に止まった自転車に跨った少女が僕を向いて笑っている。膝上のスカートから伸びているチョークのように白い脚。その姿、振舞いを見ただけで心臓が早鐘をうつ。なぜだろうなんてそんな子どもみたいなことは言わない。でも、知っていてなおその気持ちを伝えることはできない。もう子どもじゃないし、子どもでもあるから。気づくと彼女は自転車を降り、こちらに向かってきていた。話しかけられたことへの返答を忘れていることに気づき、おどけて言う。
「手伝わされてるだけだよ」
「手伝っていることには変わりないじゃん。わたしなんてふらふらぷらぷら遊んでいるだけだよ」
にひひと笑う少女。そこでばあちゃんも少女の存在に気づいた。
「おぉ、ちょうどええとこにおるわ。この孫の手よりも使えん孫に代わって手伝ってくれんかぁ」
「使えん孫ってなんだよ! 孫は道具じゃねえよ!」
「ふふっ」
口元を抑えて上品に笑う。その所作は田んぼとは不釣り合いで少しおかしかった。無意識につられて笑うと、ちょうどこちらを向いた少女と目があってしまった。
「あっ」
どちらともなく短く声にもみたない声。瞬間息がつまりお互いに目をそらす。ほほは赤く染まっていた。
そのまま少女は稲刈りを手伝うことになった。そして時計の針がおよそ半回転したころ、それまで黙々と作業していたばあちゃんが口を開いた。
「怪異ってしっとるか」
唐突過ぎてお芝居みたいな語り口調であった。
「えーっと。おばけとか霊とかそういうやつです?」
「そうじゃ、そうじゃ。ガハハ」
なにが面白いのかよくわからないが笑っている。
「うちの裏手にある山で怪異が起こると評判でなぁ、爺さんと一緒に遊びに行ったんじゃ。そしたらなーんにも出なくてなぁ、拍子抜けじゃ。次の日フネさんにそのこと話したら、『そりゃぁ、あんたの爺さんがエロいからでしょ』と笑っておったわ。どうやらエロいやつには怪異は近づかんらしい。ガハハ」
ばあちゃんが続けていう。
「だからな、あんたら二人に怪異を見てきてほしいんじゃ。うむ、今晩でもどうじゃ」
「突然だな! そもそも怪異って大丈夫なのかよ。危険じゃないのか?」
「心配せんでいい。この怪異で誰かが死んだなんて話は聞かんからな。もし死んだらわしの墓に一緒に入れてやる」
えぇ……大丈夫なのだろうか。そう思いちらと少女を見る。
「うーん。まぁ行ってみようよ、なんか楽しそうだし」
見た目に似合わず好奇心旺盛なようで。そういうわけで、夜の山に分け入ることになった。
山といってもそれほど大きな山ではない。むしろ大きめの丘みたいなもので、町によって整備もされている。秋には紅葉も楽しめるとあって、散歩コースにしている年配の人もいるらしい。ただ、そうとはいっても夜の山はやはり不気味な気配がする。ざわざわと木々の葉が擦れる音が不安感を駆り立て、夜のひんやりした空気がそれを増長させる。
「さすがにこわいね……」
少女も目が忙しなく動いていて、少しの物音にも身体をびくっと震わせている。こういうときは僕が余裕を持たねば……
「大丈夫だよ。ただの山だ。ばあちゃんも大丈夫だって言ってたし」
そうは言いつつもやはり怖いものは怖い。いや、結構ヤバイぞこれ。心なしか少し声も震えている気がする。悟られないよう平静を保つ。
「きゃあっ!」
突然の悲鳴とともに右腕にやわらかい圧がかかる。やわらかい……?
「うぉっ」
悲鳴よりもやわらかさに気を取られる。右腕に全神経が集中しているのがわかる。右腕以外感覚がない。やばい。
「あっ、あれ」
幸福な時間も長くは続かず、少女の目線の先に異様なモノ。なんだあれは。前傾姿勢でこちらを見ている。身体が急速に冷えていく。逃げねば、はやく、逃げないと。さっと手を掴む。逃げねば、逃げろ。
きづけばだいぶ走ってきた。どうやら異型は追ってこなかったようだ。
肩で息をしている。その肩口から扇情的な白い肌が見える。その肩の辺りから甘い香りがする。これがフェロモンというやつなのだろうか。
「はぁ、はぁ。怖かったぁ……」
「手、つなぎっぱなしだね」
「――――ッ」
僕の脈絡のない指摘で少女の頬がさらに紅潮する。長い睫毛の目は潤んでいる。僕の視線に気づいた。目があう、合う。逸らせない。鼓動が速くなる。何秒たっただろう。どちらともなく顔が近づく。ゆっくり、ゆっくり。なにかを確かめるように。2センチ、1センチ。ちかづく、近づく。甘い香り。ふれる、触れた。ふわりと羽のような感触は夢と見紛う。
「ただいまー」
爺ちゃんが迎えてくれる。どうやらばあちゃんはいないようだ。
「じいちゃん、ばあちゃんはどこいったん」
「もうすぐ帰ってくるわ、心配せんでええ。それよりどうじゃ怪異は見たか?」
じいちゃんは楽しそうに聞いた。それに少女は答えた。
「み、みたんですよ! 暗くてよく見えなかったですけど、もの凄い形相でこちらを見てたんです!」
「おーほんまか。上手いことやったんやな」
どういうことだろう。いまいち爺ちゃんの話が要領を得ない。ついにボケ始めたのだろうか…… そう考えていると戸ががらっと開いた。
「きゃっ」
戸を見るとばあちゃんがいた。それも、僕たちが見たであろう怪異の姿で。
「そういうことか……」
一杯食わされたのか。すべて仕組まれた策略ってことか。くそっ。
「どうじゃ、びっくりしたろう」
「なんであんなことしたんだよ!」
ばあちゃんは我が意を得たりと楽しそうだ。
「吊り橋効果じゃよ。人間は恋愛のドキドキと恐怖のドキドキの区別がつかん阿呆じゃからの。理性と本心の区別がつかん阿呆たちの背中を押してやろうと思っただけじゃ。恋のキューピットじゃな。」
「というか、本当はあの場でえっちでもするかと思ったがの。霊がエロいの苦手って話をしておいたが、流石にえっちはせんかったかガハハ!」
「――――ッ!!」
少女が顔を赤らめる。なんてこと言い出すんだこのばあさん……
――きっと、僕は子どもだったのです。言葉にすることを怖れ、決まることを怖れ、逃げてきたのです。でも、それだと停滞したまま。ただ、一歩を踏み出すだけなのに、その一歩が遠かったのです。そこにその一歩を後ろから押してくれる人があらわれました。
子どもが足踏みしていたら助けてくれる。そんな人が大人なのかもしれない。そんなことを、思いました。