目標が無い学生が社会人へ
中学校生活が始まった。意外にも中学校生活では、クラスのみんなと徐々に馴染めていた。まだお互い入学したばかりで、気も使い合っていた部分もあったせいか、話しやすかった。
しかし、平穏な日々は続かなかった。一人の男子がある女子に「お前毛深いな。腕とか剛毛だな。気持ち悪。」と言った。そんな事をみんなの前で言ったものだから、男女問わず注目された。その女の子はあまりのショックに「顔が赤面し、下を向いたまま。
他の男子が「お前、モジャ公だな。モジャ公ー!モジャ公!」とからかった。
他の女子は「やめなよー」言っているものの、顔はにやけていた。
本気で止めてる様子はなく、このネタはしばらく続いた。
言い始めた男子はクラスの中でもムードメーカーの中心で発言力があった。喧嘩とかふっかけるタイプでもなく、どちらかといえば、発言が面白く、周りから人気がある人だった。
だから余計に誰も止める様子もなかった。止めたら今度自分に火の粉が飛んでくるのが分かっていたからだ。
私は複雑だった。嫌と思う事はどんな事があっても嫌だろうし、嫌だと体験した人間にしかわからない痛みであり、辛さであったから。それを知らないで言っているだろうと思うと胸が痛かった。何故かイライラ感もあった。
でも私も結局見て見ぬフリしか出来なかった。
結局、その子は入学して1ヶ月も経たず、学校を休み、それから来なくなってしまった。
みんなから毎日名前ではなく「モジャ子」と呼ばれ、その度下を向き耐えていた。その後嫌がらせは悪化した。授業中に消しゴムの塊を投げたり、落ちていた髪の毛などをわざわざその子に持って行き「お前の毛が多い」など本当に嫌なイジメになっていた。
私もだが誰も彼女をかばおうとしなかったし、男女問わずクラスメイトのほとんどが彼女を標的にして楽しんでいた。
結局、彼女は学校に来なくなった。
私は小学校とはまた違う人間の変化に驚いていたと同時に目立たないように過ごすようになった。
私は中山くんと距離を置きながらも付き合いを切れずにいた。
それは中山くんのお兄さんが原因だった。なぜか中山くんお兄さんは私をとても気に入っていた。
ただ、キレると何をするかわからない人らしく、中山くんが同級生と喧嘩になって中山くんが負けた時にお兄さんが出てきてその子が病院送りになったとの噂があったからだ。
実際に、中山くんも元々堅いは良く、それ以上に中山くんのお兄さんは堅いがプロレスラーの様だった。ここで変に中山くんに目をつけられたら、自分もそうなるのではと思い何も言えず、毎週土曜日泊まりに行っていた。
中学校になると、万引きや自転車窃盗、タバコが始まってきた。
また当時6人だったのが増え始めており、中学校の先輩も一緒に集まる様になった。私は野球がやりたくて、中学校に入って野球部に入部した。
父に野球をやりたいと言った時、驚いていた。私自身運動が苦手な方で体も痩せており、野球という感じではなかったからだ。
ただ父が高校まで野球をしており、その影響もあり、入部に至った。父に安いグローブを買ってもらった。一から何かを頑張ろうと思ったのは、多分初めてだろう。
これである意味、中山くん達と離れられるとホッとしていた。
しかし、野球部に入っても土曜日の泊まりは変わらなかった。土曜日、練習終わって家につくと家の前で何人かおり、その中の一人が「おう、優希、今日もあつまるべ。いくぞ」と言ってきた。
私は、今日は行けないと言ったら、向こうが「なら、中山の兄貴にちゃんと電話して言えよ」と言われた。
言えるわけがない。
でも本当に泊まれない理由もあった。野球のユニフォームや制服とかを洗ったり、ご飯食べたり、自分の時間も欲しい、野球も夜自己練習もしたいと考えていた。
でも、親がいないから、洗濯物やらなきゃとか言えなかった。今思い返したらあの時にきっぱり断り、今の状況を話すべきだった。
結局行くことになり、夜な夜な集まりに参加する。色んな先輩が中山くんの家に集まる。
先輩方はタバコ吸わなきゃだめっしょみたいなのりで僕ら後輩にタバコを渡してきた。
何人かはすでに吸っていた為か慣れている。私はなんとかごまかして、その場をしのごうとしていたら、ある先輩が
「テメェよ、さっきから何ダラダラしてんだよ!吸わねーらやっちまうぞ!オイ!」と言ってきた。
私は本当に震えた手でタバコを口にくわえ吸った。その瞬間頭が揺れる感じと肺が苦しく、咳が止まらなかった。唾液がダラダラと出たが、もっと吸えと周りに言われ、吸うしかなかった。吸う中で頭がくらくらし、数分後、トイレで戻してしまった。
こんなにもタバコが酷い物だと思わなかったのと、タバコは運動する人間には良くないと聞いた事があり、とにかくそれがショックでならなかった。
ようやく、目標が出来たのに…
とにかく中学校の思い出は振り返りたくない事が多かった。
結局、部活は続けていく気力もなくなり、辞めてしまった。
辞めた理由はほとんど練習に行かなくなった事だった。最初は野球と中山くん達の付き合いをこなしていたが、中山くん達は段々と頻繁に私を誘うようになり、野球の部活への参加が少なくなった。
野球部のみんなは最初、口を聞いてくれていたが、やる気がないとみられ、口を聞いてくれなくなった。たまにようやく野球部の部活に参加出来ても、すでに皆、パートナーができており、練習のキャッチボールすら相手が見つからなかった。
守備練習でも、ボールを上手くさばけない私に部員達が
「練習来ないから取れないんだよ。ってかお前、野球部に何しに来てるの?」
と言われるようになった。
私は何も言えなかった。心の中では
「野球がしたい」
と思っていた。しかし、今更言っても伝わらないだろうし、周りからしたらいいわけだ。中山くん達に連れまわされているなんて言えないし、タバコなんてもってのほかだ。
みんなは大きな声で練習している。充実した顔で部活をやっていた。中学校から野球を始めた子も、いつの間にか野球の技術が向上し、私をとは比べものにならなかった。
そんな彼らについていく事すら出来ず、申し訳ない気持ちといるだけで、白い目で見られるのが嫌で辞めてしまった。
父が嬉しそうにグローブや、スパイク、ユニホームまで揃えてくれたのに。
野球部を辞めてしばらく経つ頃、本当に中山くん達とは縁を切ろうと何度も考えていた。
中山くんと一緒にいるだけでなかなか他の友達が出来なかった。中山くんも周りと合わせようとせず、孤立しながら、自分の地元先輩達などと遊んでいた。
中山くんにはもう遊びたくないの一言が言えないままでいた。
結局私は三年間タバコを強制され、万引きや窃盗をやらされ、過ごした。
そして気持ちに罪悪感だけが強くなり、私は心に限界がきていた。
こういう事はもう辞めたいですと先輩達に頭を下げた。すると先輩方はいいけどという雰囲気だったが、辞めるにはきちっとしてもらわないとという事で、そこにいた先輩達に8人ほどにボコボコに殴られた。
さすがの中山くんも引いていたが、先輩から中山も優希を殴れと言われ、中山くんも参加していた。
もうどのぐらい殴られたか覚えていない。気が済んだ先輩達は自転車やバイクでいなくなり、私はボコボコにされた公園に残された。しばらく立てないし、色んな所が痛かった。
私は少しずつ歩いて家に向かった。途中公園のベンチに座り、人がいない事確認して、泣いた。
この中学校生活が希望に満ち溢れてると思っていた。なのに、今何も感じない。普通にいたかった。普通に生活がしたかっただけなのに。そう強く思いながら泣いていた。
それから、中山くん達から連絡はなくなったので安心していたが、一ヶ月経たない内に暇さえあれば公園などに呼ばれて、殴られる様になった。
最終的には金持ってこいとまで言われる様になった。できませんというとまた、殴られる。
なければ食いモン持ってこいと言われた。カップラーメンや家にあったおやつなどを持って行ってなんとかその場をしのいだ。
結局殴られる事は変わらず悪化し、家で食べるものなくなり、食べる物がないと父には言えず、その時ほど死にたいと毎日思う日はなかった。
中学校生活がもうすぐ終わろうとしていた。学校のみんなは進学先を考えて進路を見据えていた。私には高校入試を考える余裕すらもうなかった。
私は中学校で失敗した分、高校生になったらもっと変わろうと考え耐えた。しかし現実は甘くなかった。それは勉強せずにいた為、部活もやっていなかった為、特別、推薦などで行ける高校はなかった。一般入試で行けそうな高校を受けたがどれも、入試問題が解けず、すべて落ちた。結局、名前を書けば入れるという私立を受験し、受かった。
嬉しさなどなかった。これが今の私のレベルなんだと感じた。
中学校の卒業式がもう目の前に控えていた。
中学校生活が終わろうとしていた時、中山くん達とは関わらなくなっていた。不思議と向こうからもう、声を掛けなくなっていた。よくよく考えると中山君は別の友達と仲良くなっており、また後輩達とよく遊ぶようになり、私の事などどうでもよくなっていた。助かったと思ったけど、特別他の友達もいなかったので少し孤立していた。
周りはいつの間にか、顔つきも体つきも大人に少し近づいており、凛々しく見えた。私はあまり変わらないかな。疲れ切った三年間である意味老けたのかもしれない。
周りの子は、好きな人同士付き合っていたり、中学校最後だから告白などしている子も多かった。その中で私は話題に入る事は絶対になかった。
楽しそうだなって思ったけど、何も無い私にはただ、その盛り上がっている雰囲気の教室を眺めるしかなかった。
卒業式が終わった。これほどにも思い出が無く、終わった学校に何も感じなかった日はなかった。卒業式アルバムも開こうとしなかったし、見なかった。みんなは卒業アルバムの後ろのページに一言ずつメッセージを書いあっていた。
私に書いてと言ってくる友達はいなかった。私も書いてとは言わなかった。
卒業式が終わった日、みんなはそれぞれの仲の良い友達同士で集まり、ご飯食べようと誘い合っていた。私は少し期待してしまったが誰も声を掛けてくれず、終わった。私は一人帰り道、苦笑いしながら家に帰った。
春休みが終わり、高校入学式が行われた。
高校生になったが高校はより不良が多くなっただけだった。
結局、喧嘩が強い人間が支配する様な教室になるのは時間の問題だった。入学して程よく時間が過ぎると教室の中では上下関係が出来、大人しめなオタクの人達は常に標的になっていた。
中には高校を辞めてしまう人も少なくない。気の毒にと思いながら、何も出来なかった。大人しめの人達に話しかけようにも、関わると標的になるのを恐れ、私は関わりを持たなかった。
私は無難に中立の位置にいるグループにいる様な形だったが、たまにパシリにされる事もあった。
そんな何も目標も夢もなく、ただ、早く高校生活が早く終わる事を祈り続けたが久しぶりに生きる喜びを見つけた。
それはアルバイトだった。アルバイト先でみんなに優しくされ楽しかった。
アルバイトは八百屋だったが、アルバイトだけが私の支えだった。私は初めてもらった給料で、父にネクタイを買った。
月一で帰ってきた父に無言でネクタイを渡した。父に今まで中学校の事、今の高校生生活状況知らないし、話してもなかったけど、高校生になるとアルバイトしてお金もらう大切さを知り、父の気持ちも少しわかった気がした。
父は素直に喜んでくれていたが私は、なぜか無愛想に対応してしまった。
後で後悔したが、父がそのネクタイをして単身赴任先に行ったのを見て少し嬉しいというか照れくさかった。
父は母が出てったから、私の事を怒りもせずに気を使ってばかりいた。それは父なりに申し訳ないという気持ちがあったんだろうが、高校生の私には何も感じる事はなかった。
高校生生活が終わりを迎えようとしていた。
本当に学生時代は楽しいと思った事が無かった。思い出す度に早く終わってほしいしか、出てこなかった。
姉も兄もいい歳になり、本当に家には帰って来なくなっていたし、家族という環境が完全に無くなっていた。
私は一日でも早く高校生活を終えたいと思っていた。
高校卒業したら、働く事をその時は安易に考えていた。
その時はまだ社会に出る厳しさを知らなかった。今後、私のレベルでは社会に通用せず、自分の弱さで大切な人を巻き込み不幸にするとは考えもしていなかった。
高校卒業前に進路相談が先生とあった。先生からはもし働く事を考えないなら進学を勧められた。大学は無理だった。それは受からないという現実もあったが、お金の面だった。父にこれ以上は頼めないとなんとなく感じていた。
小さい頃、父と母が喧嘩している時に、母が言っていた言葉がよぎる。父が借金しており、姉や兄の進学が苦しいのではないかと。
父がどのぐらい余裕があるかわからないし、進学する理由も見つからなかった。就職という考えは一瞬あったのだが、やりたい仕事も無く、当時先を考える事をしていなかった。とりあえず、いつか働くという気持ちでしかなかった。
今思えば甘かった。結局、何も結論が出ず、父に一応話した。すると父は「手に職つければいい。お前がやってみたい事があれば応援する。大学でも専門学校でもいい。やってみたい事があればお父さんは応援する」と言ってくれた。
すごく意外過ぎる言葉に私は拍子抜けしてしまった。それから色々考えた。でも何していいかわからなかった。
その日コンビニで立ち読みをしていたら、目についたかのがファッション雑誌だった。
以前アルバイトでもらったお金で久しぶりに服を買った時に店員にいいセンスですねと言われたのを思い出した。大人になった自分には同時にその言葉は接客してただ気持ちよく買い物して欲しいが為に言った言葉なのに、高校生の私は勘違いしており、ファッション系に行こうと考えてしまった。
結局進路相談で、ファッション関係の専門学校に進学する事を決めていく事になる。
それから高校卒業後にファッション関係の専門学校に入学した。
入学式、私は驚いた。想像以上にみんな奇抜でファッションにこだわりがある様だった。個性的で好きなブランドもある様で私は正直場違いな所にきた気分だった。私はジーパンにスニーカー、ポロシャツだった。
しかも買った場所は家の近くのスーパーに併設してある服。無名のブランドだった。
みんなの自己紹介が始まり、すでに話がついていけなかった。私の学科はデザインをする方で裁断から刺繍するものまでを習う所で、ほとんど女性中心だった。
刺繍なんてやった事もなく授業は予想以上に難しかった。またミシンも上手く扱えず、デザインもイマイチ浮かばない。みなファッション雑誌を見たりファッションショーを見て勉強したり、私が考えている以上に真剣だった。
私もとにかく必死に食らいつきながら授業を受けていた。授業の中身は服を作るだけでなく、カラーコーディネートの資格や市場調査マーケティングの授業や専門分野に分け進んでいった。
また意外にも必要な道具を揃えるのにお金がかかった。工業用ミシンを買ったり
裁縫道具を買ったりと。どれも専門家が扱う物なのでどれも高かった。
それでも父は文句一つ言わず必死に揃えてくれた。
授業はとにかく難しく、段々と楽しさは無くなっていた。
周りの友達と遊ぶ余裕もなくひたすら、課題をこなす日々だった。
単位もしっかりクリアしなければならない。その中で、私は実家から片道2時間半かかる学校を選んでしまった。今更ながら往復時間がこんなにももったいないと後悔すると思わなかった。
私自身、勉強が人より出来なかった為、物覚えも何度も復習しなければ駄目だった。また要領も悪くいつも遅れをとっていた。
毎日家の家事、洗濯などもやりようやく家で学校の課題に取り組んでもほとんど疲れてやらなかった。
朝早く起きて学校の繰り返しだった。電車の中でいつの間にか、専門学校が大変、楽しくない気持ちになっていった。
この時ほど私は自分の考えの甘さと弱さ、意志の無さを反省した日はなかった。
父には辛いと言えなかった。あんな風に応援してくれて、お金で出してくれた。また、ファッション系だとどうしても服にお金がかかる。
バイトする時間もなくいた為、買えなく、父に頭を下げていた。父は最初は快く出してくれたが、段々と本当にお金がない、こんなにお金がかかるとは思わなかったと言われる様になった。
だからこそ、余計アルバイトともできず、専門学校行って単位も危うい状況が不安や情けなさでいっぱいだった。
もっと自分の夢を慎重に考えるべきだった。
もっと父に相談するべきだった。今まで自分から何も言わなかった幼少期事を後悔していた。
ある日家で父の銀行の明細を拾った。そのには借り入れ30万と書いてあった。私は目を疑った。最近食費や服代や学校の必要な教材などを買うのに度々父に連絡して銀行に振り込んで貰っていた。
父に電話してお金の振り込みをお願いすると父は一瞬困った返事をしていたが、「わかった。何とかする。安心しろ。学校頑張れよ。じゃあな」言ってくれていた。
だが、父はもうお金は無く、銀行から借りてまで私の専門学校の分をまかなっていたんだと。
私はこんな風にしてまで、将来ファッション関係の仕事に行こうとしてるのか、真剣考えた。
正直、ファッションに関しては授業もついていけてなく、限界を感じ始めていた。でも辞めたいなんて言えなかった。
そんな事を考えている内に二年生の進級を控えた時だった。先生からこのままだと進級が難しい。今現段階では課題の提出も出来ていない物もあり、一度保護者とも相談させて下さいとの事だった。
私は件について自分から話しますと伝えた。でも、何て話したらいいかわからずいた。
何日もたって結局私は話を出来ずにいた。
そして、学校にも行かなくなってしまった。学校から何度も電話があったが無視してしまった。
そして父からも連絡があった。私は出れずにいたが、勇気を振り絞り父に電話した。
父は少し残念な声とやりきれない口調で「学校行ってないか?さっきお前の学校から電話があった。進級も難しいですって言われた。留年になると一年やり直しですって言われた。」
私はうんとしか言わなかった。
父は「お前はやりたくないのか、頑張るのかどっちなんだ?」と聞かれ、私はやりたくないと答えた。
その瞬間、父に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ごめんさないと言いたかったのだが、父が「わかった。学校には俺から電話しておく。じゃあな」と言って電話が切れた。父はどんな気持ちだったろうか。考えるだけで胸が苦しかった。
私は今までどうしようもない人間なんだと自分を責め続けた。もっと勉強するべきだった。自分の意思で何もかもやればよかった。人に嫌われたり、目立たない様にってきたけど、ただ逃げてきたんだと思う様になった。
今更、過ぎた時間を後悔しても何も変わらなかった。
空には全てを覆いかぶせる様な巨大な雲が広がっており、ただ、今と未来の時間だけが進んでいった。
過去?私の過去って。どうなんだろう。毎日専門学校行かなくなり、多分退学になってると思うけど、一気に無気力になってしまった。毎日部屋にこもり、タバコ吸ってテレビ見て、カップラーメン食べて。どうしようもない生活をしてた。
いつしかどうでもいいの言葉が独り言の口癖になって言った。
この世の中、私以上に辛い人生や辛い経験や過酷な状況で生きてきている人は多くいると思う。それこそ異国の地では食べ物すらまともにない人達もいるだろう。
もっと言えば戦争時代はもっと大変だったと思う。言えばきりがないが、世の中には人それぞれの悩みや不安、考え方、感じ方、生き方が違うと思う。
私の人生はそんな人達から見れば甘いとしか言えないのかな。
もうすぐ半年が過ぎようとしてた夏の頃、父が単身赴任から帰ってきた。父はようやく実家から通える様になった。
私の専門学校の一件以来、私は父に何も言えなくなっていた。
父は私に「アルバイトぐらいしてみたらどうだ」と言われた。私はわかっている分、その反面で反骨的な態度で返事をしてしまう。
自分はクズだと何度もマイナスに考えていた。
気分を変える為に歩いてコンビニまで行く事にした。歩いて8分ぐらいかな。
今から行くコンビニは私が小学生の時から行っている。色々ここで買ったなーっと思い返していた。
おにぎり、お弁当、カップラーメン、シュークリーム、ジュース、雑誌、高校生の時はタバコ買おうとして怒られた。
高校の時には確か、年齢確認が段々と厳しくなった時期だった。そんな事を考えている内に、久しぶりに何度か遊んでいた友達と地元でばったりあった。
その友達の名前は松田。彼は小学生の時、遊んでいて、中学校の時、孤立していた私に色々と笑わせてくれた人だ。
とはいえ、松田くんは友達も多かったので、たまに私に声を掛けてくれる程度だった。松田くんから見たら、私が友人かはわからないけど。
私は「おお。久しぶりだね。」と声をかけた。松田くんも「久しぶり!変わらないねー。」久しぶりにあったせいか、久しぶりに人と話したせいか、意外にも私がよく話していた。
彼は今北海道の大学に進学し、夏休みはバイクでツーリングをしているらしい。将来は北海道の企業に勤められれば何でもいいかなっていう感じだった。
今は夏休みの時期で実家に帰省していたという。今の私の現状を聞いた松田くんは「なかなか自分のやりたい事見つけるのは難しいよね。正直俺も北海道に行った理由は何もなかったから、思い切って向こうに行った。今は親に助けられてるけど、いつかは大学の費用を少しずつ返して行こうと思ってる。」と彼から意外な言葉を聞いた。
彼もまた将来の事がわからなくなっていた時期があったんだなって。私もその言葉を聞いて、何か一人だけの孤独感が少し楽になった。でも彼と私は全然違う。彼はそれでも進んでいる。
来年の成人式の話を少ししてそのあと別れた。
連絡先を交換したがなかなか連絡する機会がないなと思いながら、大切にその番号を保存した。
学費の返済か‥。考えてなかったな。そんな事を。
私は次の日から心の中でよーし、よーし、学費返済。と単純に考える様になっていた。
とにかく、ゼロからスタートしよう。返済する為に、仕事。しかし、いざ考えると何出来るのか考えた。たまたまコンビニからもらった無料の求人雑誌に載っていた家の近くのカラオケ店が募集してい。とりあえず電話してみた。
私は緊張しながら何て言うか考えていたら意外にもすぐに電話を出られた。
「お電話有難うございます。歌王でございます。」一瞬やばい、電話切りそうになったが私は「すいません、求人の募集の件でお電話しました」と伝えると店長に変わり、明日面接となった。
私はすぐに履歴書を買いに行きその日証明写真を撮った。履歴書を書くのにとても緊張し二枚失敗してしまった。
志望動機とか無いし、どうしようと考えていたが、歌が好きと好きでも無いのに書いてしまった。
そして面接当日。緊張しながらお店に入り、要件を伝えると使っていないカラオケルームに案内された。しばらくして店長がきた。丁寧な感じでとてもいい人そうな人だった。履歴書を渡し、しばらくして店長が「歌がお好きなんですね」と言ってきた。私はやばいとありながら「はい」と答えた。店長はそれ以上何も言わなかったが、その後いつから来れるか聞かれ、面接が終わった。正直落ちたと思った。次の日に連絡があり、採用との事だった。ちょっとびっくりしたが素直に喜んだ。
それからというもの私はアルバイトとして少しずつ、自分の駄目な部分も見直す様にしていった。
アルバイト期間に車の免許をとり、そこから友達から会社を紹介してもらい工事現場の仕事をした。
本当に肉体労働で何度も辞めたいと思ったが一年やって慣れていった。最終的には四年勤めたが会社が倒産してしまった為に退職した。
その後もがむしゃらに働こうと思い、求人雑誌を見た際、たまたま最初に目に付いた営業未経験大募集という言葉に乗せられ、その会社を受けた。受けた日に内定し、翌日から営業会社に勤めた。
この会社は、完全に飛び込みという事もあり、毎日地図を持たされその地域をうろうろしてピンポンを繰り返す。仕事内容はある自社の健康器具の契約。朝早く夜遅い。とにかく夏も冬も台風も雪も関係無い状態で外で営業。
この仕事の為に、一人暮らしを始めて車も買った。
この営業会社に勤めた理由はただ給料が良かったためだ。その分今考えれば、休みもほとんど無く、残業代なんたなかった。ただ、営業所のみんなは本当にいい人ばかりだった。
私は父に電話をして学費の返済をしたいと伝えると父は要らないと言った。自分の為に使えと。私は当日300万貯めていた。
父にあの時、専門学校を中途半端で辞めた事を謝った。父はもういいから仕事頑張れと伝えて電話を終えた。