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―――ななな、なにしてるのあの男!!
身を隠している木々の枝葉の隙間からは、かろうじて背中を向けている相手の様子が見えるくらいだったが、シキに掴みかかっている事だけは一目見て理解できた。
一瞬立ち上がりそうになったが寸でのところで堪え、目を凝らして耳を澄ます。
すると先刻まではシキのことしか頭になく、全く耳に入らなかった二人の会話が聞こえ出した。
「……から、何度も言ってんだろ!?」
「ちゃんと聞いてるよ……耳は悪くないからね。そんなに吠えないでくれないかな? あと、皴になるから手を放してくれる?」
攻撃的な相手を前にして穏やかな様子でそう言ったシキは、胸元を掴んでいる手にそっと自分のそれを重ねようとした。
「っ!」
「おや」
が、シキの手が触れる前に相手のそれが離れた。
その様子を見て、千花は無意識に詰めていた息を、静かにゆっくりと吐いた。
見てるとハラハラしてくる。
「シキ……一緒に帰るんだ」
「嫌だよ、って何度も言ったよね。もうやめてくれないかな? しつこいと嫌われるよ?」
「お前には言われたくない!」
「はは。心外だなぁ。君には何もしてないだろう?」
「てめぇ……いい加減に……!」
くしゅん。
その僅かな音で、ピタリと声が止んだ。
辺りがしーんと静まり返り、聞こえるのは風が起こす葉擦れの音と、大空を羽ばたいている鳥の囀りだけになる。
が、次の瞬間。
「誰だ!? 出て来い!」
―――いやあああぁぁぁぁぁ私のバカー!! なんでこんな大事な時にくしゃみなんか出るのよおおおおおおぉぉぉぉぉ!!
だが、その答えは解っている。
二人の会話をもっと聞こうと思い、距離を縮めようと足を動かしたら葉先が鼻をくすぐったのだ。
そして、やってしまった。
背筋には嫌な汗が走り、さぁっと血の気が引くのを感じた。緊張で口の中はカラカラ、心臓は今までにないほどバクバクいっている。
二人に聞こえてないないのが不思議なくらいだった。
いや、もしかしたら聞こえているのかもしれない。
そんな考えが浮かんで、湧いた生唾をゴクリと飲み下す。
「居るのは分かってんだぞ!? 出てこないつもりならこっちから行ってもいいんだぜ!?」
その鬼気迫る迫力に、千花はこのまま気絶したくなった。
―――ああ、もうこのままずっと隠れていたい……お願い神様仏様、居るなら私の姿を今すぐ透明人間にしてここから逃げさせてくださいお願いします!!
「まあそうかっかするもんじゃないよ。小さな子どもだったらどうするの? 怯えて泣いちゃうじゃない」
千花の耳に、天使の声が聞こえた。
―――さすが先輩!!!
「お前……一体どういうつもりだ?」
「いやだなぁ。そんなに恐い顔しないでよ」
「……っ」
会話が途絶えたと同時に、誰かの足音が千花の耳に聞こえてきた。それはまるで鬱憤を発散するようにドンドンと荒々しい音を立て、真っ直ぐに近付いてくる。
―――えっ、何? まさか……嘘よね? 違うでしょ? こっち来るんじゃないわよね!?
息を潜め、ぎゅっと体を縮める。今や心臓は爆発寸前だった。
「どこ行くの?」
ところが、そう涼しげな声がすると同時に近づいて来ていた足音が止んで、ほっと詰めていた息を吐く。
「おい。一体どこ掴んでんだ」
「いや、ほら君、さっき手に触ろうとしたら嫌がったから。これなら直接触ってないし」
「確かに……そうだが……これはまるで俺が汚いものみたいじゃないか!」
―――汚いものを掴むときと言えば……。
千花は、自分が汚れた服を親指と人差し指のさきっちょで摘まみあげている姿を思い浮かべる。
―――だけど……。
想像と同じなのかが気になって、加減しながらゆっくりとした動作で腰を浮かし、隠れている草木から顔を上げていく。
こっそりと目だけを出し、想像と違っているかを確かめるために向けた視線は―――……別の所へ惹き付けられた。
―――何……あれ……。
夕焼けの茜色に、橙を足したような色合いの、短い髪。
怖い、とか、そんな感情が湧きでてこない。そこらへんの不良が好奇心で人工的に染めて出来るような、そんな色ではない。
自然で、温かみのある色。
もの凄く、綺麗だと思った。
―――先輩も、綺麗な金髪だけど……あの人も、凄く綺麗……。
ついうっとりと、眺めていそうになる。
ぼうっとし始めた時、ははっという笑い声が聞こえて千花の意識を舞い戻した。
思わず、声の主であるシキに視線を向けると、どくん、と心臓が強く飛び跳ね、息が止まりそうになる。
シキが、自分を見ていたのだ。
そうして次に、彼は微笑んだまま頷いた。
一瞬見惚れかけて、違う違うと内心頭を振ると、素早く低木から道へ飛び出して全速力で駆けだす。
「あっ!! あいつ!! こら待てー!! おいシキ放せ!!」
今にでも追いついてきて殴られそうな怒鳴り声が聞こえ、震えあがる思いだった。
―――絶対止まってやるもんか! でも……先輩……っ。
背後を振り向き、シキがどんな表情をしているのか、自分が盗み聞きしていたのをどう思ったのか確認したい気持ちに駆られるが、それは出来ない。折角逃げる機会を与えてくれた彼の気持ちに仇を成す行動だ。
―――先輩っ……! ごめんなさい……嫌いにならないでください……!!
後ろ髪を引かれつつも、こうして千花は無事に帰途についたのだった。
朝、シキと喧嘩をしていた相手がもしかしてあの道にまだいるのではないかと疑ったりもしたが、そんなこともなく無事に学校へ着いた千花は、いつも通り朝練を終え、下駄箱へ向かった。
ロッカーの扉を開くと悲鳴のような音が立ち、まだひと気の少ない昇降口にはよく響いて聞こえた。
上履きと靴を取り換えて履き、教室へ向かって歩き出す。手前に見えている中央階段を右に折れた所で、背後から声がかかった。
「おはよう」
ドクン、と心臓が跳ね、早鐘のように打ち出した。
これは、消して驚いたからという理由だけではない。
素早く背後を振り返ると、千花は元気いっぱいな声を上げた。
「し、シキ先輩っ! お、おはようございます!」
―――うっひゃぁ~!! 声かけられちゃったよどうしよう! っていうか先輩今日もかっこいい!! あっでもそれどころじゃない、昨日のこと謝らなくっちゃ……!
僅かに息が上がり、顔が熱を持つ。
―――あ、赤くなってなかったらいいけど……!
「昨日は……」
「っす、すみませんでしたっ!」
シキが何かを言おうとした途端、千花は言葉を遮る様に謝罪した。
彼に何を言われるか怖かった。だから、その言葉を聞く前に謝ってしまえばいいと思った。
そうして千花は、勢いよく捲し立てるように言う。
「昨日はその、知り合いの方とお話してたのを邪魔してしまって……! 本当にごめんなさい! もう二度とあんなことはしませんから……! だから、また……その……」
少しずつ言葉尻がしぼんでいき、無意識に胸元にやっていた手をぎゅ、と握りしめた。緊張で飛び跳ねる心臓の鼓動を感じながら、全身から勇気を掻き集め、それを言葉にする。
「わ、私とまたお話してくれますかっ!?」
どっどっどっど、と早鐘のように打ち付ける心臓の鼓動を感じながら、手に汗を握って千花は返事を待った。永遠にも感じられる一秒一秒が過ぎていく。そうして数秒が経ち、言わなきゃよかったと後悔しかけた時。
「うん、いいよ」
快い返事が聞こえ、千花の表情はぱっと明るくなった。
「ありがとうございます先輩!」
「はは、そんな風に言わなくてもいいのに」
不意にシキの指先が伸びて来て、千花の右肩に軽く触れる。そして力が込められずにきゅ、と優しく掴むとゆっくり離れていった。
離れていく指先が目に映って、その手を掴んで引き留められたなら、という想いが頭を掠める。
「じゃあ、またね」
そう言って、シキは踵を返し中央階段へと向かう。白いシャツで包まれているその背中が、とても眩しく映った。
その姿が消えるまで見送った千花は、未だ高鳴っている胸に手をそっと当て、瞼を伏せた。
顔が熱い。
シキが触れた肩には、まだその感触が残っている。
―――嬉しい……!
シキが触れた肩をそっと己の手で触れ、甘い余韻に浸った。
思わず顔がにやけてしまう。
傍から見れば自分の肩に触れてニヤニヤしている不気味な女にしか見えないのだが、千花がその真実に気が付くことはなかった。