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キキィ――――――――――――ドンッ!
色鮮やかな青空の下、それに似つかわしくない、悲鳴にも似ている機械じみた甲高い音が鳴り響いた。続いて何かが激しく擦れ、間髪入れず重いものと衝突したような音が空気を震わせ、轟いた。
その次の瞬間。
「……い、いやあああああぁぁぁぁぁっ!!」
女性の断末魔のような金鳴り声が響き渡り、それを合図とするかのように「た、大変だ! 誰か救急車!!」「女の子が!!」と老若男女の様々な言葉が飛び交い始めた。
風に乗って流れていく噂話とそれを股聞きした好奇心旺盛の人達が野次馬となり、先行く者達の流れに沿って駆けて行く。
やがて、野次馬をしている誰かが行った善意によりパトカーが駆けつけ、警察が被害状況等を調査し始めた。続いて、ルーフにある赤いランプを回転させつつ警告音を響かせながら、遅れて到着した救急車によって場が増々混雑し、騒然となる。
数秒前まではただ、時の経過によりくすんだ灰色の道路が軒並みに沿って伸びているだけだった。
だが今は。
曲がり角を避ける様に斜めに止まってある黒い普通車は、フロントバンパからボンネットにかけて妙な形にへこみが見られ、所々飛び散っている赤い液体は、その惨状を伝えるに十分な役目を果たしていた。
時間と共に色あせ、くすんだ灰色のアスファルトには、急ブレーキを踏んだと思われる黒いタイヤの跡がくっきりと残っており、吹いてくるそよ風に乗ってゴムの焼けた臭いが周囲に撒き散らされ、やがて風化していく。その側には加害者であろう車の一部であった金属の破片とヘッドライトのそれが、そこかしこに散らばっており、それらは天から降り注ぐ陽光で反射して、惨憺たる状況とは裏腹にキラキラと輝いていた。
所々紅の痕が見られる中で、一際大きく、同時に着々とその勢力を広げている赤い海があった。
その海は少しずつ、ゆっくりとした速度で、しかし確実に広がり、何本にも枝分かれしていた。
その上に投げ出されている、一本の腕。
それは、真紅の鮮血と比べて不気味な程色白く映え、それがより一層悲壮さを窺わせるものとなっていた。
白い腕を力なく投げ出し、瞼を伏せ土気色の顔で仰向けにぐったりと倒れている少女の傍らには、母親であろう中年女性が真っ青な顔色で座り込んでいた。
その顔には絶望しか浮かんでおらず完全に打ちひしがれた様子で、とめどなく溢れる涙で濡れる頬を拭うこともなく、幾度呼んだか分からない少女の名を、泣き叫んでいた。
そうすれば、意識を失っている愛しい娘が、瞼を開けてその瞳に己を映し出すとでもいうように。
いや、それを切実な想いで願いながら。
声が枯れることも厭わず泣き叫び続ける母親の側に、もう一人、静かに佇んでいる少女がいた。
彼女は身動き一つせず、力なく四肢を投げ出し横たわっている少女をじっと見つめている。
だが、誰一人としてそこに立ちすくんでいる彼女を邪険に扱うことはなかった。
やがて、投げ出されていた少女の身体は慎重かつ迅速に救急車の中へと運ばれ、唯一共に行くことを許された母親の姿も車内へ吸い込まれるように消えていく。
そうして救急車は、緊急を知らせるサイレンを轟かせながら惨憺たる現場を走り出し、僅か数秒で狭い道路から掻き消えたのだった。
先刻まで、少女の母親の側に佇んでいた彼女の姿も、もうなかった。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
°*ο。☆°*ο。☆°*ο。☆
千花は、足を開いて背筋を伸ばし胸を張ると、息をゆっくり、深く吸い込んだ。そうして前を見据えゆっくりとした動作で、左手に持った弓は前方に、右手では弦と矢を一緒に掴んだ腕に力を入れて頬の後ろへ、押し開くようにぐっ、と引く。若干人より虹彩が薄い茶色の瞳は睨み付ける様に、三十メートル先に置かれてある円が何重にも描かれた的を見据えていた。
そよ風が吹いて千花のウェーブがかった横髪を弄び、周囲に植えられている木々が葉擦れの音を奏でる。その中でキリキリと弦の引かれる音が交じり―――……数秒後には、放たれた矢が空気を裂くそれへと取って代わっていた。カッ、と小気味の良い音を響かせて刺さった矢は、幾重にも描かれている円の中心で止まっていた。同時に、それまで他に何の音も拾わなかった千花の耳が、構内に轟く鐘の音を拾った。
そしてそれは、弓道部の朝練を終わりを知らせるものでもあった。
他の女子部員達数名と共に更衣室に入った千花は、指定のロッカーの前へ立つと、身を護るためにつけていた胸当て等の道具を外し、ロッカーの中へ仕舞っていく。
先に着替え終えた女子生徒達が「お疲れ様でした」「お先にー」と言って、次々と更衣室から出て行く中、彼女達の声に応えながら道衣の裾に手を掛ける。
更衣室の天井に近く外と面している壁には長方形の小窓が真横に並んでおり、そこからそよ風が流れて込んできていた。
その風が、道衣を脱いですっかり晒されている、千花の汗ばんだ肌を優しく撫で、火照った体を冷やしてくれる。
包み込んでくれる風を心地よく思いながら、千花は制服を手に取った。衣擦れの音を立てながら、頭上から被るように制服を着るため、先に両腕を袖に通す。
と、パキ、と枝が折れるような音が聞こえ、千花は着替え途中の制服を慌てて胸元に寄せて隠し、眉間に皺を寄せ、素早く音がしたと思われる窓を見やった。
息を潜め、不透明な窓ガラス越しに外の様子を窺う。
何か音が聞こえやしないか、と。
しかし、耳を澄まし目を凝らして窓ガラスを、そして僅かに開いている隙間を睨み付けても、特に何の異常も見当たらなかった。聞こえるのは木々のざわめきと、校庭から響いてくる登校中の生徒達の声だけだ。
―――またなのっ……!?
千花は急いで制服を身に付けると窓辺に駆け寄り、壁と一体になっているノブを握りしめると全力で回し、少し開いていた隙間を完全に閉じる。次いで、更衣室の両端に纏められていたベージュ色のカーテンを解き放ってシャッと引き、窓が完全に覆い隠されるとようやく安心出来て、口から溜め息を漏らした。
―――……早く着替えて教室に行こう! 気味が悪いわ!
手早くスカートを身につけ着替え終えた千花は、足早に校内の下駄箱へ向かった。
一定の間隔を置いて並んでいる鉄製のロッカーから、学校に指定されている自分のものを選ぶと、中に仕舞ってある上履きを取り出し靴と取り換える。
上履きの爪先部分は三日月形に水色で塗られており、それは学年で色分けされてある。他にも女子はストライプリボン、男子はストライプネクタイが上履きと同様の色で染められており、一見して学年が分かるようになっていた。
校則はすこし緩い方で、髪は派手な色に染めていなければ注意されないし、風紀を乱すような行動をしなければ基本的に穏やかに学校生活を送れるようになっている。
そんな桜花高校の一年生として、千花は通っていた。
栗色のウェーブがかった長い髪をポニーテールにし水色の鞄を左肩にかけて、生徒が三人は横に並べそうな程幅がある廊下を、教室へ向かって歩いて行く。
もう、登校してきた生徒達がちらほらと廊下に見え隠れしていた。
教室へ向かって数メートル歩いていた時、千花はふと、何かの気配を感じて足を止めた。
誰かに、視られている感覚。
―――……また……! 何なの? いつもいつも……気味が悪い!
誰かの気配を敏感に感じ取った千花の心が恐怖と不快でいっぱいになり、千花の顔が歪む。
左肩にかけている鞄の紐を握っている手に、ぐっと力が入った。
廊下を全力で駆けって教室の中へ入りたいが、それをすると周囲の目が気になるし、少ないとはいえ生徒達がいるので野蛮なことは出来ない筈……。
そう考えた千花は先刻より速度を上げて廊下を移動し、まるで逃げる様に教室の中へ身を滑り込ませた。
後ろ手に扉を横に滑らせて閉めると、口からほっと溜め息が漏れ出す。
―――教室に入ったから、もう大丈夫……落ち着こう、落ち着いて……。大丈夫、大丈夫……。
自身に言い聞かせる様に、何度も心の中で大丈夫と呟いてから、千花は自分の席に向かって歩き出した。教室の中央の列の、一番後ろだ。
真っ直ぐ席に向かうと、肩から下した鞄を机横についているフックに掛け、クリーム色の椅子を引いてゆっくりとした動作で腰を下し、目を閉じた―――……。
視線や気配を感じ始めた時は、凄く怖かった。いつも見られている気がして。
一時期は家に籠り、学校にすら行かなくなったのだ。
そんな日々を送っていたある日。
心配した母親が、行きたくなかった千花を無理矢理引き摺るようにして学校へ連れて行き、教師に相談を持ち掛けたのだ。
でも、私は嫌だった。怖かった。外に、学校に居たくなかったのだ。
だから私は、母親が教師と面談を始めようとした隙を狙って廊下に飛び出したのだ。
逃げて、逃げて。
私は家に帰るつもりだった。
けれど、私は違う男性教師の手によって捕まえられた。
長期に渡り学校を休んでいた為、教師間では問題視されていたのだろう。
私は気が狂ったように泣き叫んで―――……逃げようともがいた。
それでも私の手首を捕まえている男性教師の頑丈な手は、外れなかった。その事実に更に恐怖が膨らんで気がどうかなってしまいそうだった時……王子様が現れたのだ!
突然割り込んできた逞しい腕が男性教師の腕を軽々と外し、そっと、労わる様に私を背中で庇い、穏やかな声音で教師を制してくれたのだ。
「先生、放してあげてください。この子は怯えているんですよ。怖いんです。だから、優しく接してあげないと……もっと混乱させてしまうと思うんです」と。
そう言って守ってくれた背中の白いシャツが、鮮明に目に焼き付いて……輝いて見えて。
頭から、離れなくなった。
そうこうしている内に担任教師と母親が追いついて来て、母は私を抱きしめた。母の頬と私のそれが擦れ違いざまに触れた途端、すぅっと冷たく感じた。
その時、解ったのだ。
母の瞳は潤み、頬には滴が一筋の線を描いていたことに。
そして、母も、苦しんでいたのだと。
私は、次の日から学校へ通った。その日、男性教師から庇ってくれた男子生徒の事を尋ねに職員室へ行くと、私の手首を掴んで離さなかった例の先生がやって来て、謝ってくれた。
そして、私は助けてくれた男子生徒の名前を男性教師に訊いて―――……「シキ・ガリシュリア」という先輩だと解った。金髪の青い瞳をしている、ハーフなんだそうだ。
私は名前を聞いた時には既に、シキ先輩に恋をしていた―――……。
それから毎日、私は彼に偶然会うのを励みに、学校へ来ている。
閉じていた瞼を開けると、それまで途絶えさせていたリアルが、目と耳に飛び込んで来た。いつの間にか教室は生徒達で満たされており、室内はお喋りに夢中になっている彼らの声で埋め尽くされている。
しかし、その騒々しさも、千花には有難く感じる。
自分の周囲に人がいる。
それが、何よりも心強く、安心できる。
「ちーかー!」
その時、一際大きく声が聞こえ、千花は目を開いた。
目の前に、一人の女生徒が立っていた。
声が大きく聞こえたのは、側にいたからなのだろう。
「おはよ! いつものことながら、アンタ暗いねぇ。その内頭にキノコ生えるんじゃない?」
ひひっ、と口角を上げて笑っている彼女は、森本なつめ。千花の唯一の親友だ。
なつめの笑顔には、いつも励まされる。
シキ先輩の存在も大きいけれど、いつも傍にいてくれるなつめが居なかったら、私は今の状況に耐えられていないかもしれない。
だから、千花は感謝の気持ちを込めて、心からの笑顔をなつめに向け、口を開くのだ。
「おはよう、なつめちゃん」