文学の書き手のタイプ
自分も含めてのこととなりますが、文学を書く人は大きく3つに分けられるのかなと思います。あ、文学と言っても「なろう」での分類での文学ではなく、全般としての文学です。
3つというのがどういうものかというと、こんな感じ:
* 瞬間切り取り師
* ストーリー・テラー
* ノヴェリスト
ちょっとだけ説明を試みたいと思います。
瞬間切り取り師というのは、例えば俳句や短歌なんかが、まず代表例に挙げられると思います。ある一瞬を切り取り、文字に書き写すようなタイプの人です。小説でも一瞬を切り取り、簡潔に書き写すようなタイプの人になります。ただ一瞬と言っても、本当に一瞬を切り取るとは限らず、著者の主観として一瞬に区分されるような場合も含みます。また、一文が一瞬である場合も文章が一瞬である場合もあります。
この切り取る一瞬一瞬がある程度並んでいるとか繋りがあるようだと、瞬間切り取り師の中でもストーリー・テラー寄りになります。
私自身については瞬間切り取りかなぁと思っています。
ストーリー・テラーというのは、まさに物語る人です。何が起きたかを淡々と述べていくようなタイプと言えるかもしれません。ただ、淡々と述べていくと言っても、語り口に感情がないとか、語る内容に感情や情緒がないわけではありません。何事かを物語ることに主眼があり、細かい描写は二の次になりがちなタイプと言ってもいいように思います。
これから描写に重きを置くようになると、ノヴェリストとなります。
ノヴェリストは、瞬間切り取り師、ストーリー・テラーを踏まえて、描く人と言えるでしょう。
この書き方だとノヴェリストがこの3つの中では最上位にあるように思えるかもしれません。ですが、俳句が示すように、この3つはどれが上だとか、高等だとかということはありません。むしろ、ノヴェリストは描く事のみに注意が行っており、中身がなくなる可能性に注意しなくてはならないとも言えます。日本での純文学、私小説は、かなりの割合でその落し穴に落ち込んでいるように思えます。
あるいは、「古池や 蛙飛び込む 水の音」すら、ノヴェリストの手にかかれば分厚い長編にできるでしょう。ノヴェリストを自認する人にはそれくらいの力量はもっていてほしいと思いますが。では、その長編作には、「古池や 蛙飛び込む 水の音」が短いがゆえに持っている凝縮された広大な世界は存在するでしょうか。もちろん存在するかもしれません。あるいは描いてしまったがゆえに、その広大さは失われるかもしれません。「描いてしまうことの恐さ」(http://ncode.syosetu.com/n8438co/) に書いたように、描いてしまったがゆえの、別の可能性を読み取らせてしまうような場合もあるかもしれません。
3つのタイプには、それぞれの文学の良さがあり、それぞれのタイプの作者にはそれぞれの味と技術があると思います。