3 真打ち
3 真打ち
綿密に調査したところ、今夜の標的なる人物は、鹿鳴館に入る前に必ず近くの花屋に寄り道をする。意中の女性が来るらしい。逢引きを兼ねているのか、今日の舞踏会にも、花束を忘れずに持ってゆくようだ。
かちゃり。
晴季は実弾の装填を確認した。ひととおり、銃撃の練習はしたが、生きているものに照準を定めるのは初めてだった。手が冷たい。緊張で汗をかいているせいだ。小刻みに続く震えも感じる。まだなにもはじまっていない。気負っていないはずなのに。
落ち着け、自分。
晴季は、佐藤にひとつの願いを持ちかけたことを思い出していた。
「ここが済んだら、隠れ家に置いてきた千歳を起こし、土御門の屋敷に届けてくれ。いや、事件が起きたら、晴栄兄さまが駆けつけるだろうから、引き渡すか、場所を教えるか、どちらかをしてもらえればいい」
「遠くで起こっている出来事を読めるのか」
「たぶん。というか、兄さんは最初から分かっていたと思う。俺の計画のこと。止める自信があるから、止めなかった。あえて、知らん顔をした」
「じゃあ直前になって、現場に来て妨害してくるってことも」
「あるな。あり得る。だからこそ、さっさと済ませたいのに、今日の標的は行動が遅いな」
晴季のいらいらが募る。あまり暗くなり過ぎると、照準を定めるのが難しくなる。
佐藤は背後を振り返った。
薄闇に包まれはじめた往来を歩く者は誰もいない。静寂が返って不気味さを増す。間もなく華やかな舞踏会が開かれるというのに、こんなにひっそりとしているものなのだろうか。
「逢魔が刻」
この世と異世界との境が曖昧になり、扉が開かれる時間だ。ゆらゆらと立ち上る気配は、魑魅魍魎の百鬼夜行かもしれない。
「まだか」
舌打ちをした晴季の声に反応したかのように、複数の馬蹄音が聞こえてきた。かつかつこつこつと、規則正しく刻まれる音は次第に大きくなる。
晴季の先で、塀の陰に隠れていた仲間から合図が出る。標的は確かに乗っているらしい。
「俺が撃ち損じたら、出てくれ」
晴季は、せいいっぱいの苦い笑みを浮かべて見せた。余裕を演じようとしたが、かえって心の弱さが出てしまった。
「……武運を」
頷き返しながら、佐藤も佐藤で、晴季の身になにか起こりそうなものならば、全力でかばうつもりでいる。逃げる覚悟もある。
実は佐藤、そのためについてきたのだ。千歳を騙してまでも。計画が上手くいくならば、手出しはしないが、晴季たちにけが人が出るような展開は御免だった。無駄に血を流してなるものか、と。
贅を凝らした二頭立ての馬車が、いよいよ晴季たちの目の前にやってくる。標的は車内にいるのだろうが、晴季の位置からはまだ見えない。最初に、仲間が弓を射かけるはずだ。弓で、標的と供の背後に注意をひきつけてから、狙い撃ちする。
打ち合わせどおり、流れは決まっている。戸惑うことはない。
矢はまだか。早く。早く。
じりじりとした緊張につぶされそうな晴季は、祈るように短銃を握り締めた。すっかり血の気のひいた白い指が、まるで闇に立つ蝋燭に見える。
「待ちなさい!」
場違いなほど響き渡る、元気な声。晴季は息を飲んだ。声は聞こえたが、顔が見えない。
「変われ、いのちあるものに!」
合図の矢が飛んだのと、ほぼ同時だった。
「あっ」
馬車に向かって勢いよく放物線を描いていた矢は、ごぼうになって地面に落ちた。
佐藤の刀は葉つきのにんじんになり、晴季の短銃は大きなじゃがいもに、弾は豆になってぽろぽろと零れ落ちた。
だいこん、さつまいも、なす、ねぎ。
すべての武器が突然、新鮮な野菜に変わって地面に横たわった。
……できた。うまくいった。
千歳は晴栄に教えてもらった通り、咒を唱えたのだった。
「晴栄兄さま、大成功でした。大収穫祭だわ、今日は」
足もとに転がるにんじんを一本拾った千歳は、ひとくち齧って食べた。
「うん。甘くておいしい。さすが、うちの畑で取れた野菜ね。お店に並んでいるものと比べても、決してひけをとらないわ」
千歳が満足そうに頷いていると、止まった馬車からやがて、人が降りてきた。すらりとした長身に、黒の燕尾服。手には大きな花束をかかえている。
「急に飛び出してきて、どうしたのかな。なにか、あったのかい」
男は、千歳を見た。
千歳も、誰だろう……知っている人なのかどうか、目を凝らして遠慮なく相手をしっかり見てしまった。辺りが薄暗かったせいもある。
短いけれど豊かな黒髪を後ろに向かってなでつけた、形のいい小さな頭。涼やかな目もとににじみ出ている華やかさ。引き締まった頬に、きれいな稜線を描いた鼻梁、それに続く紅い唇。歳は、晴栄と同じぐらい、いやもう少し上、だろうか。
……驚くべき美形だった。
晴季がなにか叫んでいるが、千歳の耳には聞こえなかった。
「お嬢さま?」
我に返ると、黒づくめの男性『黒のひと』は、千歳のすぐ目の前に立っていた。ふたりの間に、花のいい香りが漂う。
「あ……、えっと、そのう、お野菜、いりませんか。私が作ったの。おいしいですよ!」
とっさに、千歳は手に持っていたにんじんを、高く掲げたが、持ち上げてから気がついた。しまった。これって、食べかけ。なんて失礼なの。燕尾服で馬車に乗っているぐらいなのだから、相当地位ある人のはず。
けれど、『黒のひと』はにこやかに笑うだけで、千歳に少しも嫌悪感をあらわさなかった。
それどころか。
「ありがとう。では私もひとくち」
あり得ないことに、『黒のひと』も千歳のにんじんを笑顔で齧った。しかも、千歳の歯形がしっかりついたすぐ隣を。
「なるほど、美味ですね。父のふるさとの、薩摩で収穫できる野菜も、こんなふうに甘くてやさしい味ですよ」
「そ、そうですか」
「お近づきのしるしに、頂戴いたします。お嬢さまにはこちらをどうぞ」
ふわり。
『黒のひと』は花束を千歳に差し出した。突然のことに戸惑ったが、断る理由がない。
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして。畑では、せっかくですからお花も育てるとよろしいですよ。花は食べられないけれど、心を癒してくれる。そして、上手に作れば高値で売れますから、庭に温室でも作って、挑戦してみてはいかがでしょう。野菜よりも、見映えがいいですよ、きっと」
「は……い」
「ほかの野菜も、いただいていいのかな。ほら、少年が抱えてきましたよ」
静かに指を差した先には、佐藤がたくさんの野菜を集めて運んでいる。
「もちろん。すべて、献上いたします」
そう言いながら佐藤は、千歳と『黒いひと』の間に割り込むようにして立ちはだかった。野菜の壁である。
『黒いひと』は従者に命じ、野菜を馬車に積ませると最後に自分も軽やかに乗り込んだ。窓から千歳に笑顔で声をかける。
「またお逢いしましょう、お嬢さま。ありがとう」
返事をしようかどうしようか迷っているうちに、とうとう雨がふりはじめた。馬車は出発してしまい、『黒いひと』の姿はやがて鹿鳴館の門の中へ消えた。
ぽたんぽたんと落ちてくる冷たい雨に当たりながら、茫然と見送っていたのも束の間、千歳はかんじんなことに思い当たった。
「今の、誰! あの紳士は」
噛みつくように問うた相手は、佐藤書生で。佐藤は千歳の肩に右手を載せた。
「……今のが、今日の標的だった人物ですよ。薩摩出身の父は、倒幕の立役者。彼は、その息子で、現在は内務省のお役人ですが、必ず数年のうちに政治の表舞台へ出てくるでしょう」
「ええ!」
「そして、私の大学の先輩でもあります。しかも内務省といえば、土御門家が取り上げられたかつての職掌……天体や気象観測なども管轄下に置いているはずですから、彼と繋がりを持てるのは、ちいちゃんにとってチャンスのはずです」
「……チャンスと明言するわりには、顔がひきつっているけど。佐藤書生?」
「けっこう、いい性格していますね、ちいちゃんは。度胸ありそうだし、私は好きですよ。あなたのような性格」
えっ。す、好き? 今、確かに好きって聞こえた。千歳は無防備に佐藤を見たが、佐藤は千歳の心の揺れに気がついていなかった。特に深い意味は含まれていない『好き』、なのだろうか。
千歳の動揺に、佐藤は応えない。淡々としている。
「先ほどはご無礼を働き、申し訳ありませんでした。土御門晴季の行動の首尾を、間近で見ておきたかったものですから。事前に計画が察知されているようでしたし、なりそこないの陰陽師さんと、一緒に動くのはどうも気が引けて」
「なに、その言い方! 私がいなくても、晴季兄さまの計画はぶっ潰すつもりだったの?」
「ええ、まあ。私にも、それなりの準備はありました。あなたが野菜を出したことで、より穏便に収まりましたがね。さて、土御門晴季くんが御当主につかまっていますが、あれは助けなくていいですか?」
促されて視線を向ければ、晴季が晴栄に泣き落とし攻撃をかけられている。内輪揉めの続きは、せめて家の中でやってほしい。早く、屋敷に連れて帰らなければ。
「晴栄兄さま。私、兄さまの指示通り、いのちあるもの……野菜を出せたわ」
「そうだったね、千歳。いい仕事っぷりでしたよ。きみが飛ばした式神の白鳩が、私の顔面目がけてまっすぐに飛んできたときは、ひっくり返りそうになったけれど、ずいぶん成長してきましたね。千歳は、本番に強い性質かもしれないですよ」
「ありがとう、晴栄兄さま」
素直に、千歳は賛辞を受け入れた。
「さすが、狐族だけありますね。力を制御できるようになれば、末恐ろしい、いいえ楽しみだ」
「今後は、もっと修業します。でもそれより、結婚の……」
千歳が訊きたいのは、晴栄への嫁入りの話。なのに、晴季が大声で会話に割り込んできた。
「おい、勝手にいい話で締めくくるなよ! 俺の野望をどうしてくれるっ。あいつの暗殺計画、政府転覆の野望っ!」
「『人を傷つけない』という約束で、お金を出したはずですよ、晴季さん。大量の武器弾薬、これやいかに」
「証拠はない。全部、野菜になった!」
「おやまあ、しらばっくれるおつもりですか」
「本性が出たな! 公家の陰湿いじめ! 由緒あるだけに、厭味も筋金入りだな。やっぱり、千歳は渡せねえや。狐族は、孤独で構わない」
「土御門家危機の今、本家と狐族との強い結びつきが必要なのです。狐族で適齢期なのは、あなたと千歳、ふたりしか残されていません。やすやすと私の罠にはまった、あなたたちが甘いのではありませんか」
「じゃあ、俺を煮て焼いて食え! この、腹黒仮面! 家司の操り人形め。なにも俺たちに固執しなくても、暗示でもかけてこの国を乗っ取ればいいじゃないか。簡単だろう、晴栄ほどの力の持ち主なら。千歳に、ちまちまとした毎月の金勘定をさせないで済む」
ちっちっ。晴栄は舌打ちした。
「私がほしいのは、国などではありません。土御門一族の、永遠の繁栄です。まずは、兄妹の退路を絶って、家に閉じ込めさせていただきます。狐族の血は、どうしても必要なのですよ」
どこまでもにこやかな晴栄に、晴季は匙を投げた。
「あー、もう土御門なんて、どうでもいいや。千歳のしあわせさえ叶えられれば。京都に帰るぜ、俺。千歳と。こんな茶番に付き合っていられるかってんだ」
話の雲行きがあやしい。
とんでもない方向に飛んでいる。止めたいけれど、千歳には口も挟めない、手も出せない。
「喧嘩両成敗」
困り顔の千歳の目の前に佐藤が取り出したのは、立派な龍の絵だった。まさか、これを出せというのか。千歳は佐藤の眼の奥を窺った。
「龍は水神の使いだろ。ふたりの頭の上に、雨でも降らせてやれ」
そんな簡単にできるだろうか。
「やってみるんだ。兄たちを止められるのは、お前だけだ」
半信半疑で髪の毛を絵の上に載せ、小声でつぶやいた。出ることには出たが、千歳の手のひらに乗るほどの、とても小さな龍があらわれた。全身が緑色の鱗に覆われている、かわいい水龍だった。
「兄たちを懲らしめて」
息を吸った式神の龍は、兄たちに向かって口からしゅうっと水を吹いた。だが、子どもが遊びに使う水鉄砲ほどの勢いしかない。
もちろん、晴栄は千歳の水龍にとっくに気がついており、手で咒を簡単に結んだだけで結界をつくり、千歳の攻撃を跳ね返した。
「うぎゃっ」
すっかり水をかぶってしまったのは、晴季のみ。水源がどこかも分からず、手足をじたばたさせた。一度雨に濡れたのに、再び水がしたたっている。
慌てている間に、晴栄は愚弟を咒で拘束して屋敷に連れて帰る準備を済ませた。
「千歳、少し助言をしただけなのに、今日一日でずいぶんと上達しましたねえ。さすが、狐族の血をひくだけある。私が手を出せば、晴季の稚拙な計画は瞬く間にいつでも潰せましたが。千歳の成長を促すいい機会になりました。では、帰りましょうか。続きは邸で」
頼りないばかりだと思っていた晴栄だったが、こうして陰陽師の術を使っているときは、なかなか絵になっている。
「なんだ! また、厭味か! どうせ俺はただ人さ。なんの力も持っていない、土御門家の居候、ただメシ喰らいさ」
「そんなことありませんよ。あなたは『千歳の兄』。それだけで、あなたはじゅうぶんすぎるほどの価値があります。我が家のために、けったいな政治活動にも首を突っ込む根性もある」
「ふん。莫迦にするのか。お前こそ、そんな能力があるなら隠すなよ。千歳に貧乏させて罪悪感はないのか!」
「特に、贅沢したいわけではありません。千歳も、私も。汗を流して畑仕事をしている彼女も、家計簿とにらめっこをしている彼女も、かわいいのですから」
「お前、相当悪趣味だな……」
「おや、減らず口が収まりそうにありませんね。千歳、晴季にもう一度、水を」
「いい! やめろ。風邪ひいたらどうすんだっ。黙る黙る。帰宅するまでは、黙る」
とうとう晴季は降参した。
「そうそう、素直がいちばんです」
晴栄は、うなだれた晴季を従えて歩きはじめた。千歳も兄に続こうとするが、その前に佐藤を振り返った。
「いろいろとありがとう。お世話になったわ」
笑顔を送ると、佐藤も笑みを寄越した。
「こちらこそ。楽しかったですよ、お嬢さん」
佐藤が右手を差し出してきたので、千歳も応えて握手した。少し恥ずかしかったが、夜の暗さが照れを隠してくれたから、千歳にしては意外と自然に手を伸ばせた。あたたかい佐藤の手は、とても落ち着く。
いつまでも握っていたかったけれど、そうもいかない。千歳は気持ちを切り替えた。
「その、お嬢さんっていう呼び方、やめてくださる?」
「へえ。では、なんと」
目を丸くした佐藤に、千歳は答えた。
「そうね、名前でよろしくてよ」
「なら、やっぱりちいちゃんだな」
ちいちゃん、を耳にしたとたんに千歳は烈火のごとく怒った。
「それだけは却下。私、女学生なんだから。花の乙女に向かって、ちいちゃんなんて信じられない。小さい子どもじゃあるまいし」
「私にとってみれば、あなたはお子さま。ほら、兄さまたち、どんどん進んで行きますよ」
「あ、ほんとだ。でも、いい? もう一度念を押すけど『ちゃん』は、なしよ」
「分かりました。それでは、またね。ベースボールにも誘いたいし、俺でよかったら修業を手伝うよ、千歳」
『千歳』。
……呼び捨ても、けっこう恥ずかしいんだけど。
千歳は佐藤に手を小さく振っただけで、返事をしなかった。できなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。
4に続きます。次が最終話です。




