2 捜索へ
2 捜索へ
「私に?」
「はい。お嬢さまをお訪ねでございます」
翌日。
千歳が女学校からまっすぐ帰ると、屋敷にはお客さまがいた。
「さ、佐藤書生!」
まるで親の仇のように、千歳は大声を張り上げた。
どちらが公家か分からないほど、優雅な物腰で佐藤は立ち上がり、千歳に向かって深く一礼した。
「昨日はどうも。お預かりした物を、お届けに上がりましたよ」
「あ、預かり?」
「はい。お困りかなと思いまして。あなたのかわいいらしいお顔も拝見したかったので、無理を言って、お屋敷に上がらせていただきました」
差し出されたのは、巾着と日傘。昨日、千歳が佐藤家に忘れてきた品だ。
女中が千歳の分のお茶を運んできたので、とりあえずひとくち飲む。冷静さを取り戻してからでないと、なにを口走るか自分でも分からない。
「走るの、早いんですね。私も、少しはあなたのあとを追いかけたのですが、姿がまったく見えなかった」
こっちの気持ちも知らないのか、佐藤はにこにこの笑顔を崩さない。
完全に女中が下がるのを見届けてから、千歳は唇を動かしはじめた。
「……ここの場所は、兄に聞いたの?」
「以前にね。それに、怪異の西洋邸といえば付近では有名です。ご近所さんでは、『お化け館』と呼ぶのですってね。道案内をしてくれた方が、そう言っていましたよ。当主の晴栄さんとも挨拶をしましたが、実に好青年で。いえ、初対面の私が言うことじゃないか」
「ちょっと。兄に妙なこと、言わなかったでしょうね」
「妙なことって?」
「しらばっくれないでよ」
「普通に挨拶をしただけですよ。お兄さまは外出するところだったし。晴季の友人で、彼探しに協力していると述べただけ」
「あんな外見だけど、兄は二十六歳よ」
「おや、随分年上なんだ。私より、八つも上か。これは意外」
ということは佐藤、十八か。ふうん。
「普段は抑えているけれど、陰陽師としての才はあるからね。天変地異はぴたりと言い当てるし、失せ物だって探すのは得意なんだから。でも、兄の力でも身内は探せないから、実に残念だって。陰陽師の力は、濫用禁止なの」
「へえ、なるほど。その割には、厳しい生活みたいですね。稼げないのか」
佐藤は部屋を見渡した。確かに、煉瓦造りの外見だけは派手な建物だが、中身は至って質素だった。高価な調度品はひとつもないし、大きな暖炉は一度も使ったことがなく、ただのお飾りと化している。庭の管理もいい加減だった。なにしろ、畑になっている部分があるぐらい。
けれど晴栄に、まったく仕事がないというわけではない。京都からのお付き合いのある旧公家の家には内密に赴いて占いをしたり、お清めをしたり、陰陽師らしきことはして報酬は得ている。
「書生風情に、心配される筋合いではないわ。それより、晴季の行方でも分かったの?」
「まだだけどね。私と一緒なら、お嬢さんが闇雲にひとりで東京中を駆けずりまわるよりは効率よく、探せると思うよ。昨日みたいに、知らない男についていかれたら、大変だ」
「あなたの心配することではないわ」
「まだ聞いていなかった。どうして、土御門を探したい?」
眼鏡の奥で、佐藤の眼が光った。視線を外したいけれど、ずらせない。素直に白状するしかないらしい。
「……は、晴季が、家のお金を持ち出したの。なかば、晴栄兄さまを騙して。あの十円がないと使用人にお給金も払えないし、お屋敷も出て行かなきゃいけないのよ。私の女学校だって、続けられない。華族なんてしょせん、うわべを繕うだけで、うちみたいな貧乏公家は、どこも借金だらけなの。晴栄兄さまの才が生かせればいいんだけど、陰陽師活動は公には禁止されてしまっていて、ご新規のお客さんは探そうにないし、細々と暮らすしかなくて……せめて半分の額でもいいから、お金を返してほしいのよ」
千歳はため息をついたが、ついつい『かわいそうな自分』を自分で演出してしまって、ちょっと誇張が過ぎたかもしれない。
「よし、分かった。私がお金を貸そうと言っても、きみは頷きそうにないね。共に、土御門晴季のやつを探そうじゃないか。実は、銀座あたりに潜伏しているらしい、という情報を今朝、得たんだよ」
あっけらかんとつぶやいた佐藤に、千歳は激怒した。
「最初から、それを言えって!」
腹立たしさのあまり、巾着と傘のお礼を言い忘れてしまった。
千歳も眼鏡をかけている。ただし、レンズの入っていないダミーの眼鏡。変装用だ。手拭いを頭に巻き、学生帽に男袴で書生風。どこからどう眺めても花の女学生には……見えなかった。
そして、手には刷り上ったばかりの新聞の束。
「新聞でーす。いかがですか、東京自由新聞っ」
「読物充実、東京自由新聞だよ」
柳並木に瓦斯燈。煉瓦の街・銀座で、鉄道馬車を避け避け、千歳と佐藤は新聞の売り子をしている。紙面には、自由党が訴える政府弾劾や、社会情勢などがずらーっと掲載されている。当局に対して批判的な内容が多く、取り締まりを受ける可能盛大で、ゲリラ的販売が主になっているが、買ってゆく人はわりと多い。政治への関心が高い証拠だ。
現在、本家・自由党の『自由新聞』は事実上休刊扱いになっているので、佐藤らは有志で作った『東京自由新聞』を売り歩いている。新聞の売り上げは活動資金になりそうなものだが、残念なことに原稿料どころか紙代と印刷費でほとんど儲からないそうだ。使命感だけで発行している、そんなところだという。
「ちいちゃん。もっと声を出していこう。新聞、全部売り切らないと、今日はおうちに帰さないよ」
「新聞を売り歩くのが目的じゃないでしょ! しかも、誰が『ちいちゃん』なの」
急に、佐藤は千歳のことを『ちいちゃん』と呼ぶようになった。薄気味悪い。千歳さま、ならまだ許すのに。
「かわいいでしょ、ちいちゃん」
「そんな奇妙な呼ばれ方、一度もしたことないわ。鳥肌ものよ」
「庶民は、愛称で呼ぶものですよ。親しみを込めてね」
「おあいにくさま。私、華族だもの」
「華族言わない。誰がどこで聞いているか、検討もつかないからね。東京って、広いようで狭いんだよ。あ、ちいちゃん、そっちのほうはダメ、回れ右して」
「なぜよ」
「その先には、警察署があるから。晴季も近寄らないよ」
まぶしい昼下がり、千歳は新聞を売った。晴季を探すためとはいえ、佐藤にはいいように使われている。ちょっと悔しいから、厭味のひとつでも言っておきたくなった。
「お仲間には、会えませんねえ」
晴季が銀座の近くにいれば、潜伏先から新聞を買いに出てくるだろうと言われ、はや一時間。乙女らしく、日焼けが気になる千歳。
「ちいちゃんが怒っていることに、気がついたのかもね、晴季」
「ほんとうはうつくしい女学生が、新聞売りに身を窶しているのよ。いくら晴季兄さまでも、こんな私だったらすぐには気がつかないわよ。普段の姿とは、かけ離れているから」
千歳が佐藤とぎろりと睨み合っていると、遠くから男のダミ声が飛んできた。
「おおい、そこの書生ふたり組! さては、条例違反だな!」
こちら目がけてかけてくる巡査が、ひとり。許可なく新聞を作ったり売ったりすることは、『新聞紙条例』に違反しているのだ。見咎められたら、逮捕される。
「おっと、まずい。見つかった。ちいちゃん、退散だ。つかまったら、面倒なことになる」
足もとに視線をやって、千歳は焦った。履き慣れない高下駄なのだ。足を一歩前に出すたびに、カランカランと大きな音がする。変装に凝り過ぎたことを後悔するが、もう遅い。千歳の戸惑いに気がついた佐藤も、千歳の手から新聞を取り上げ、少しでも身軽になれるよう、助けた。
「銀座は細い路地が多いから、走らなくても逃げられる」
「でも」
追っ手はどんどん近づいてくる。警笛を鳴らして、応援を呼んでしまった。
「だいじょうぶ、任せろ。こっちだ」
強く引かれる腕。お勉強大好き書生だとばかり思っていたが、佐藤は意外と力がある。
「少し、剣術を習ったからね。侍だった父から」
そうなの、とのんびり感心している場合ではない。千歳は下駄を再びカランカランと言わせながら、急ぐ。けれども、巡査との距離は縮まるばかり。思いっきり足手まといになっている。このままでは、捕まる。
千歳は意を決した。
「佐藤さま。なにか書くもの、持っているかしら」
「書くもの?」
「ええ。筆記具よ」
不審がりつつも、佐藤は胸元を探って万年筆を取り出した。
「これでいい?」
「ありがとう。借りるわ」
千歳は立ち止まって、新聞の束から紙を一枚引き抜き、印刷されている文字を無視して、さらさらとなにかを描いた。万年筆の黒インクと新聞の字で、千歳がなにを描いたのか、佐藤には分からない。
「ちいちゃん、なにそれ?」
「黙っていて。私、これぐらいしかできないんだけど」
万年筆を佐藤に返すと、千歳は前髪を一本、ピッと手で引き抜いて新聞紙の上に載せた。
「出でよ、巳の式神っ」
声とほぼ同時に、新聞が盛り上がって光が四方八方に飛び散った。新聞だった紙は、白と黒の縞模様の蛇となり、銀座の路地にくねくねと降り立った。
「進んで。あの警察を脅かして」
突然現れた蛇は巡査目がけて、突っ込んだ。
蛇に驚いた巡査はひっくり返りながらも、来た道を這って戻りはじめる。
「行きましょう、今のうちに」
千歳は佐藤を促した。
「い、行きましょう、って。なに、あれ? ちいちゃんが呼んだの?」
「式神よ。聞いたことあるでしょ。陰陽師の使い魔」
佐藤はしきりに感心している。
「……へえ、しきがみ。すごいね。さすが、土御門家のお嬢さんだけある。私は論理的に証明されるものしか信じない性格なんだけど、目の前でやってくれると、ちいちゃんにひれ伏すしかないな」
「やあね。あれしかできないのよ。私、へび年だから。へびの絵って簡単だし。十二干支全部を使えるように、絵の練習をしろと晴栄兄さまには常々言われているけど、なかなかねえ」
「あの蛇、放っておいてもだいじょうぶなのかい?」
「私の式神は、効力がないから。毒も持っていない。幻みたいなもの。あと数分で、ただの新聞紙に戻るはず」
「紙から、神が出るとは。土御門家の人は皆、使える技なの?」
「ううん。晴栄兄さまはできるけど、晴季兄さまはさっぱり。だから余計に、政治活動に熱を帯びちゃって」
「ふうん。なら、力で兄を探せばいいのではないかな。全式神を東京に放って」
「だから、へびぐらいしかできないって。それに、身内は探せない決まりなの」
「ふーん。便利なようで、けっこう、使えねえな」
修行不足を言い当てられたようで、千歳は傷ついた。しかも、持ちたくて持っている力ではない。
「失礼ね。私は、式神を操るより、天気を読むほうが得意なのよっ」
かわいくない物言いに、千歳は感情的になり、佐藤を罵った。ただし、心の中で。商人に成り下がった、旗本が。武士の魂を売ったくせに。
「あー、さようで。今日の天気はいかがかな。あー、晴れか。こんなに、ぎらぎらとした陽が出ているんだもんね。向こう三日、雨なんか降りそうにないか」
「まあ、決めつけるつもり? 人の意見も聞きなさいよ。湿った風が吹いてきたわ。今日は夕方……」
「おい、お前ら。さっき大通りで新聞を売っていたな。一部売ってくれ」
話の途中で、頭上から声が降ってきた。見上げれば、窓から若い男が顔を出して手を振っている。
「ああ、酒井さんか」
佐藤の顔見知りらしく、ふたりは建物から出てきた酒井という男に新聞を渡した。
「こいつは、顔見知りの自由党員だよ。こちら、土御門の妹さん」
「へえ、土御門の。兄妹で自由党? 華族さまがふたりも揃って入ってくれたら、心強いな」
「まさか。土御門の居場所を探すために手伝っているだけですよ。あいつ……土御門の行方、知りませんか。親が危篤で、必死に探しているところなんです」
適当な嘘で、佐藤は場をごまかした。千歳も慌てて袖で目元を隠し、泣いているようなしぐさをして頷き、話を合わせた。酒井は難しい顔で腕を組んでいる。
「危篤か。そりゃ、困ったな……ああ。確か、鹿鳴館にどうのこうの……」
「「鹿鳴館?」」
千歳と佐藤は声を合わせた。
「うん。本部にも内緒だぞ。鹿鳴館の近くにな、『澤地』という酒屋がある。そこの二階に、下宿を装った潜伏先がある。土御門のほかにも、数人がいるはずだが、集まっているやつらがなにをしようとしているのかは、聞かないほうがいい。訊くなよ。ええと、場所は……」
……澤地。
記憶した。千歳は息を飲んで、頷いた。
最近は、ほんとうによく歩く。
てくてく、てくてく。東京の街を縦断横断している。銀座から日比谷へ。今回の移動はかなり短いうちに入る。
「鹿鳴館といえば、華族子女のお嬢さんは行ったことあるのかい」
佐藤はいやなことをさらりと訊いてくる。
「あのさ、厭味? 鹿鳴館なんて、貧乏子爵には無縁の場所よ。女学校の学友たちは、ダンスだのドレスだの慈善バザーだの、きゃっきゃきゃっきゃと楽しんでいるようだけど」
「おや、行かないのか。ごちそうが出るんだろうに」
「いくら華族でも、誰かに招待されないと行けないのよ。そもそも、着ていくものもないので、招待されたら困ります。興味ないし。ごちそうは、まあちょっとは気になるけど、ドレスだったらたくさん食べられないでしょ。あっ、笑った。乙女を捕まえておきながら、つくづく失礼な人ね。まったく、神経逆撫で系の性格だこと」
「衣裳なら、俺が買って差し上げましょう。横浜で。ほしいんでしょ、ひらひらのドレス。一緒に見に行きましょうか、ちいちゃん」
心の深奥までぐさりと響く、ひとこと。
佐藤は千歳の心の封印を勝手に解いた。
そうだ。
ほんとうは、鹿鳴館に行ってみたい。あでやかなドレスを身に纏い、ステキな恋人と軽やかにステップを踏む。皆の注目が、自分の上に注がれる。ああ、考えるだけなんて、悔しい。
「えええええ、遠慮します」
なのに、心とは反対のことを述べてしまう。こんな商人かぶれの士族にドレスを買ってもらうなんて、子爵令嬢の自分が許さない。
「ふうん。残念ですね、実に。まあ、気が変わったらいつでもどうぞ」
「ああっ。ほら、鹿鳴館が見えてきた!」
話題を変えるべく、千歳はわざと大声を出した。
昨年、日本の文明開化の様子を諸外国に誇示しようと建てられた、鹿鳴館。舞踏会にバザーなど、西洋風の催しが開かれている。だが、良家の御婦人方はダンスに消極的で、背も低いせいか、ドレスが似合わない。フリルにリボン、アクセサリー。外国に認められなければ、日本はいつまでも東洋の弱小国の位置から抜け出せない。
「このあたりですね。土御門たちの居場所も」
「ええと」
澤地という店。さわち。さわち。酒屋らしいが、それらしい店が見つからない。ふたりはぐるぐると界隈をまわった。
「ないねえ。式神に、案内とかさせられないものなの?」
「いつも、そんなに都合よくいかないのよ。さっきのへびも、私にしてはうまくいき過ぎだったぐらい」
「じゃあ、修行してくださいね」
「……分かっているけど、難しいのよ」
「絵なら得意ですよ。犬、雉、猿。なんでもござれ」
「桃太郎か! 酉はあるけど、雉年なんてないからっ」
千歳が投げた石が飛ぶ。佐藤は器用に石を避けた。ころころと、石の転がった先に立っていた人物……土御門晴季だった。
「兄さま?」
「土御門?」
目をしばたかせている晴季に、千歳は詰め寄った。相変わらずの、よれよれ着物に袴。裾は少々破れて、ほつれている。
「兄さまっ。探したわよ! 晴栄兄さまを言い含めて持ち出した十円、返してよ。十円! 十円っ」
お金のことを指摘され、晴季はようやく気がついたらしかった。頭をかきながら、いたずらっぽい笑顔で答えてくれた。
「ない。もう、使ってしまった」
思いがけない答え。千歳は一瞬、凍りついた。
「使った、だと」
代わりに会話を続けたのは、佐藤だった。
「ええ。全部。今夜の計画のためにいろいろ買い揃えたり、根回しのためにね」
「ぜ、全部? 今夜? け、計画? 根回し?」
千歳と佐藤は顔を見合わせた。その間に、晴季は逃げ出した。
「そうはさせるかっ。兄さま、覚悟っ」
こんなこともあるかと、千歳は奥の手を使った。巾着から石を取り出して、晴季の足もと目がけて投げた。まっすぐ進んだ石は晴季のアキレス腱に見事命中し、晴季は派手に転んだ。
「これも、式神のワザ?」
「これは、普通の投石。晴季兄さまは、土御門の力を嫌っているから」
「そうなの? 役立つのに」
「兄は……晴季兄さまだけが、使えないの。陰陽師の力。さっきも言ったでしょ」
足を痛がる晴季には、幸いふたりの会話が届いていないらしい。
「悪いこと、聞いたな。忘れるよ」
「いいの。本人も分かっているから。だからかえって、陰陽道の家を大切にしようと、運動に走っているんだもの」
「そっか。でも、制球力抜群のお嬢さまは、陰陽師よりほかのことに向いているかもしれませんね。うちの大学ではじまった『打球おにごっこ』部とか、いかがかな」
「ええっ? まさか、ベースボールのことかしら。とんでもない。私の夢は、職業婦人よ」
「いやいや、ご謙遜を。どんな職業婦人を夢見ているか分かりませんが、あなたの制球力ならば、即戦力ですよ。我が大学で活躍しませんか」
「待った! 勧誘している場合じゃなくて。兄よ、兄。晴季兄さま、これからなにが起こすのか説明してくださるわよね、もちろん」
澤地、という店は酒屋ではなく酒家だった。陽もまだ高い時間、暖簾も提灯も出ていなかったので、初めての訪問では見つからないはずだ。
「実の兄に……ひでえ仕打ちだな。職業婦人でも陰陽師でもベースボールでもなんでもいいから、早くどっかに行ってしまえ」
「もうひとつ投げましょうかしら!」
「いえ、もうたくさんです」
晴季は足をかばいながらよろよろと戸を押し、酒家の中に入ると階段を上った。
「大げさ」
石を投げたのは千歳本人だが、ふくれるしかない。それほど強くはなかったつもりなのだ。
「痛いものは痛い。兄に向かって、石をぶん投げる妹がどこにいるかって。もっと敬え」
「お前が逃げるから、土御門」
「あー、はいはい。俺が悪うござんした」
案内された二階の部屋には、若い男性が三人。顔を見るなり、佐藤は旧知だったらしく、それぞれの名前を呼んだ。自由党のお仲間だろう。
千歳も、土御門の妹として紹介された。全員の視線を浴びているので、乙女っぽくちょっと緊張する。いつも式神を使ったり、石を投げたりおてんばを働いているだけではない。
「初めまして」
子爵令嬢らしく、にこやかに……と思ったが、お仲間たちは千歳を軽く無視した。
「俺は、しばらくここにいる。『東京回生党』と名づけた。もういいか。政治の研究しているだけさ。築地の本部は、うるさいんでね、肩身が狭くて。自由を叫びたいのに、我が家は華族。嫉妬されることもあるんだよ、千歳」
晴季は千歳と佐藤を追い出しにかかった。
「いいえ、帰れません。お金を返して」
「ここを借りるのに、使ってしまったんだって。書籍代、ランプ代、油代に食費もろもろ」
「手もとに残っているだけでもいいの。あれがないと、うちは」
「いいだろ。晴栄兄さまが『貸して』くれたんだ。結婚支度資金にするつもりだったらしいけど、兄さまは必要なさそうだし」
「ええ、結婚の? なおさら必要じゃない。土御門みたいな家に来てくれる奇特な女性なんて、いないわよ」
「日々の暮らしのために、すでにもう、相当取り崩したらしいから。それに、兄さんには立派な嫁候補もいるんだ、不要不要」
千歳は晴季の腕をつかんだ。聞き捨てならない。
「だ、誰? 嫁って。初耳なんだけど。それって、あの、私たちの姉さまになる人ってことよね。どこの、誰?」
隣で、佐藤が失笑した。千歳の慌てぶりがツボに入ったらしい。
「な、なに。今の、笑うところ?」
「済みません。あなたの素直さが、つい」
見れば、晴季もあきれ顔。
「まさか、知らなかったのか。俺たち兄妹は、土御門の家を存続させるために拾われた、ただの血なんだよ。千歳お前、ゆくゆくは晴栄兄さまと結婚して、土御門を守ると決められている。お前と兄さまの血を享けた子なら、絶対に家は安泰だろう。当初は平凡な結婚を考えていた兄さまも、今では周りにそそのかされて、すっかりそのおつもりだ。なにしろ、こんな時代だからな。カネ。金。金」
知らなかった。自分が、晴栄兄さまと結婚することになっているなんて。正面切って一度も言われたことはないし、晴栄にもそんな素振りはなかった……はず。まさか、自分が鈍感で気がつかなかっただけだろうか。
「このこと……皆、知っているの?」
「そうだなあ。あの屋敷にいる者は、知っているだろう。『若奥さまは倹約家』と、もっぱらの評判だから。ま、俺も、お前が本家に入るなら異存はない。腐っても旧公家。まかりなりにも華族。貧乏でも子爵。女学校を卒業したら、と考えていたが、中退してもよさそうだな。多いだろ、結婚中退」
確かに、年を重ねるごとに女学生は減ってゆく。結婚適齢期に入るので『優良物件』は卒業を待たずにどんどん引き取られてゆく。けれど自分には『寿退学』なんて、縁のない話だと思っていたのに。
学校を出たあと、できれば女でも稼げる仕事をしたいのだ。陰陽師の力を磨きつつ、天気の予報者になれればいいと思っていた。星と風を読んで、流れを知らせることができれば、生活にも仕事にも役立つはずなのだ。
一般向けの天気予報ということは、まだ行われていない。国家の機密事項として、秘密にされている。詳しい予報ができないという現実的な問題もあるが、公にすることで軍事的に利用されるのをおそれている。国内には維新の余韻が残っており、完全には落ち着いていない。誰も雨の中いくさをやりたい者はいない。もし、政府の反勢力が旗揚げをするならば、外から攻め込まれるならば、それは晴れが続きそうなときが濃厚だ。
千歳は自分なりに予報を立てて、畑仕事に生かしている。雨が降りそうならば作業を早めに済ませるし、風が強くなりそうならば補強してやる。天気が分かるだけで、計画が立てやすく、農作業や生活にはなかなか有益なのだ。洗濯だって急な雷雨を避けられるし、はかどる。
これまでは、朝廷にしか進言できなかった力を、世間で共有できる世の中になったら、どんなにいいだろう。自分の働きが、土御門の家を潤せたら、もっと喜ばしい。
「おい、妹さんの結婚話どころじゃないぞ、土御門。やつら、どんどん鹿鳴館入りしている。早く手を打たないと」
仲間のひとりが晴季を促した。
「……そうだったな。続きは、また後日。土御門の家に入るのもいいが、俺はお前の持っている夢を叶えたい。明治の世を普通に生きてほしい、心の底ではそう思っている。俺らの家は、土御門の末家だが、安倍晴明の母親……『狐』の血筋を濃く受け継いでいる『狐族』だ。俺にはなんの力もなかったが、お前は違うんだ。お前を、土御門の家に利用されたくない」
こぞく。
聞き慣れないことばだ。千歳は兄の袖にしがみついた。
「いったい、なんのこと? 狐族って? 兄さま、実力行使はダメだからね。なんのために言論で戦ってきたの」
「新しい時代に、多少の犠牲は必要なんだ」
「失敗したら、弱体華族の土御門家は潰されるわ!」
「失敗はしない。この計画が成功すれば、変われる。俺たちが、古いものをすべて捨ててやる。ちょっと眠っていろ」
言い終わるか、終わらないかのうちに、佐藤は千歳の口を手拭いで塞いだ。身構える暇もなく吸い込んでしまったが、手拭いからは妙な香りがする。
「ううっ」
自分と行動を共にしていた佐藤がなぜ、と思い千歳は顔を上げようとしたが、できなかった。瞬く間に眠気が千歳を包んだ。
「ごめんね、ちいちゃん。私も、土御門の考えには賛成なんですよ。はじめから、お嬢さんをここまで連れてくるのが、私の役目でした。出会いも、以降の行動もすべて、仕組まれたものです」
「…………」
どうして、と叫びたかったが声にならない。目の前が暗くなり、闇に閉ざされた。
晴季たちは、とある顕官を狙っていた。
将来の、大臣候補。倒幕を牽引したとある元勲の息子だ。最近やたらと発言が大きくなり、国を専横しようとする動きが目立つ。今のうちに、摘み取っておかねばならない筆頭者だ。成り上がりの七光りのくせに、颯爽と都を馬車で乗り回している姿は許せない。
「……小者じゃないか」
佐藤は晴季に問いかけた。
「いいや。これから狙うには格好の獲物。それに、警備も薄い」
「嫉妬じゃねえのか」
標的は、地位も容姿も頭脳も将来も、なにもかも恵まれている。貧乏華族や、平民に堕ちた商売人などとは別の生きもののようだ。
晴季は唇を噛んだ。
その視線の先には、手足を縛られた千歳が眠っている。志のためとはいえ、妹をあんな姿にさせてしまい、罪悪感が拭えない。だからこそ、今から起こす計画に没頭したいのに佐藤が晴季の心を惑わす。いったい、佐藤は味方なのか、敵なのか。
「これから流れる血は、改革への狼煙になる。万が一、失敗したとしても、きっと同志が続いてくれる」
「失敗、しないんだろ」
「ああ。土御門の名を穢すわけにはいかないのでね。誠実な兄や、素直な妹のために。公に陰陽道が再び認められれば土御門家は立ち直るし、千歳も家に縛られることなく、自分の好きなことができる。悪人は、俺ひとりでじゅうぶんだ」
窓から、外の様子を双眼鏡で監視していたひとりが叫ぶ。
「やつの馬車が、例の角を通り過ぎました」
その声に、全員が息を詰めて窓際に集まる。晴季が用意した双眼鏡を回し見て、件の馬車を確認する。
「五分後には到着するな。配置につけ。佐藤はどうする? 気に入った武器があれば、持って行け」
晴季は短銃を持ち出した。ほかの者たちもそれぞれ、獲物をかかえた。
銃、槍、刀、弓。
晴季が、実家から持ち出した金で揃えたのだろう。佐藤は迷わず、刀を拾い上げた。
「おお、刀か。少しは使うのか」
「父に習っていたからな。昔、実家の裏に、剣術道場があってね」
「ふうん。頼もしいな」
「維新を境に道場はなくなったが、明治の世になっても、新たな使い手が生まれる限り、剣術は生きているのさ」
佐藤は刀を袴に差した。
「なるほど、心強い。佐藤は旗本の生まれだったか。標的は、薩摩人。戊辰戦争の恨みを果たす、第一段階か」
「まあ、そんなこともあるな」
眼鏡のズレを直し、佐藤は眼を鋭く光らせた。
「よし、出かけるぞ」
気合いを入れて、晴季は先頭に立って部屋を出た。佐藤がやや遅れて屋外に出たので、不審に思った晴季は佐藤を問い質そうとしたが、無駄な動きが全体の士気を下げかねないので、やめた。
敵は、もう目の前に迫っている。
晴季は、馬車の敵を成敗したあとの流れを、ざっと心の中で反芻してみた。
現場に、東京回生党からの『斬奸状』を叩きつけ、ひとまず解散。討ち取られたりする仲間がいても、決して振り向かずにその場は去る。事件のほとぼりの冷めたころ、再び集まって次の標的に照準を定める。これを繰り返していけば、どちらが正義か、世論が後押ししてくれるだろう。勢いにさえ乗れれば、あとはもう簡単だ。潔く辞職する者は赦し、地位に踏み止まろうと固執する者は徹底的に罰する。
「しかし、兄が殺人者になったら、ちいちゃんはさぞかし嘆くことだろうね」
「殺人ではない。裁きを下すのみだ。顕官どもの専横っぷりは目に余る。民は苦しんでいるんだ。こんな、安っぽいもの建てたりしやがって。ダンスだと。舞踏会だと。莫迦にするな。日本を外国の笑いものにしてどうする。魂を外国に売るつもりか」
見上げた先に、美麗な鹿鳴館がある。
「どこまでうまく行くか分からないが、土御門の心意気には賛同するよ」
「そんなこと言っておいて、ほんとうは自由党のお目付け役じゃないのか、佐藤。襲撃寸前に、わらわらと自由党のやつらが出てきて、はいそこまでよ、とか最悪の展開を導いてくれるんじゃないだろうな」
「そんなこと、するわけないだろ。俺の家だって徳川家の家臣だったから、御一新のときには主を失って、いったんは極貧生活を強いられたクチだ。今の政府には、恨みもつらみもたっぷりとあるぜ」
「信じるぜ。一蓮托生。ところで、ちいちゃんって呼び方はなんだ。うちの妹と仲よくなり過ぎじゃねえか?」
「優良物件には、早めに手を打たないとね」
いたずらっぽく笑う佐藤に、晴季は本気で怒った。
「俺が赦さん」
「はいはい、お兄さま」
「誰がお兄さまだ。つか、あいつ、優良物件じゃねえよ。洋風厩舎に入っている、制御不能のじゃじゃ馬だよ。鞍もつけられない」
「確かに。全力で同意する」
晴季と佐藤は、固い握手を交わした。
……どれぐらい、気を失っていたのだろう。
それほど時間が経ったようには思えなかったけれど、窓からは長くなった陽が室内に大きく差し込んでいる。
「夕方……って、ええ! 誰も、いないし!」
千歳は目をぱちぱちとさせて、あたりを見渡した。
「兄さま! 佐藤書生!」
人の影すらない。それに、飛び起きようとしたのに、両手両足は縄で縛られている。きつくはないが、自分では解けそうにない。結び目を壁にこすりつけてみたが、かえって固くなってしまって逆効果だった。
「どうしよう」
大声を出して人を呼べば、誰か助けに来てくれるだろうか。いいえ、自分は助かるかもしれないけれど、晴季兄さまの計画が知られてしまう。自力で、早くなんかとかして、兄を探さなければ。取り返しがつかないことになる。
「……なに、これ」
千歳の目の前に、一枚の紙が置いてあった。良く見れば、絵が描いてある。
「ねずみ? なぜに、ねずみ。あっ!」
ねずみの絵の傍らには、一本の長い髪の毛。晴季の仲間は全員男性だったし、髪の長い人はいなかった。となれば、これは自分のもの。
「まさか、佐藤書生?」
あいつ、晴季のお味方だって白状していたのに。
ええい、このさい誰でもいい。ありがたく使わせてもらう。
「出でよ、子の神っ!」
自分で描いた絵ではなかったから少し心配だったが、式神は千歳の髪を喰らって、絵の中から無事に飛び出した。絵が得意だと言っていただけある。
あらわれたのは、小さいけれど賢そうで凛々しいねずみ。
「手足の縄を噛み千切って!」
ねずみとは、いいものを選んでくれた。よく分かってくれている。千歳は佐藤に感謝した。ねずみに変化した式神は縄にしがみつき、超高速で歯を動かし続ける。ほどなく、縄はばらばらになり、千歳は手足の自由を回復した。ねずみの式神は、役目を終えると煙になってしゅっと消えた。
「晴季兄さまを止めるには、晴栄兄さまを呼ぶしかない。できるかしら」
鹿鳴館から、土御門邸まではさしたる距離ではないが、自分が走ったら間に合わないだろう。千歳は、祈るような気持ちで散らばっていた紙の上に、どうにか鳥……鳩の絵を描いて自分の髪を載せた。これに、晴栄への伝令をしてもらう。邸にいなくても、晴栄の気を読んで確実に最短距離で伝えてもらえるはずだ。千歳が失敗しなければ。
「出でよ、酉の神っ!」
ぽんっ、と勢いよく飛び出した白い鳩。
クルックー。ポポッポ。
ぱちくりとした目が愛らしいが、とてもとろそうだ。ああ、鷲とか鷹とか、飛ぶのがいかにも早そうな鳥の絵を会得しなければ。千歳は、鳩しか描けなかった己の画力の低さに嘆息した。
「晴栄兄さまに伝えて。晴季が、不穏な動きをしているから、来てって。助けて。お願い、急いで!」
伝書鳩と化した式神は、窓から飛び立った。鳩はどうやら、屋敷の方向を目指して進んでゆく。晴栄は在宅中なのだろう。晴栄ほどの能力の持ち主ならば、千歳が力を使った時点で、たぶんすでに異変に気がついているはずだ。これなら、鳩でじゅうぶん。鶏でなくてよかった、と思い直すことにする。
自分もぼやぼやしていられない。千歳は立ち上がって袴の乱れをさっと直すと、階段を駆け下りて鹿鳴館の建っている方向に向かって走った。
昼間は暑いぐらいだったのに、じめじめした風が吹いている。西の空が暗い雲が広がってきて、夕陽が隠れはじめた。雨が降りそうだ。
足がふらついて、よろめいた。
かがされた薬がまだ体の中に残っているようで、千歳はまだぼんやりするが引き返すわけにはいかない。
目指すは鹿鳴館。急げ、鹿鳴館。いざ、行かん。
遠くの空で、雷が鳴った。ごろごろ、と低い音が静かな町に響く。驚いた千歳は思わず、自分の臍をおさえた。なんて、気詰まりなんだろう。
夕暮れは次第に濃くなってゆく。いかにも雨が降りそうな気配のせいか、人通りもなく、店も閉まっている。灯りに乏しい道を進むが、どうにも心細い。
おそらく、晴季たちは鹿鳴館の中に入れないので、どこか近くに隠れているのだろう。
しかし、舞踏会の客の誰を狙っているのか。民間の政治運動を圧迫している、政府の首脳? そんなの、ほぼ全員だ。鹿鳴館に集まる人間は、ほとんど自由党の敵と言っていい。
「どこにいるのよ、晴季兄さまったら」
千歳ひとりでは、到底防ぎきれない。襲撃がはじまってからのミラクル制止など、できるだろうか。自信、まったくなし。
とぼとぼと道を歩いていると、急に鋭い視線を感じた。鹿鳴館の塀の上にとまっている、一羽の鴉。黒々とした、つやつやの体。昔は、鴉も神の使いでもあったから、それほど不吉を連想するような鳥ではないのだが、心が焦っているときに目に入ってくるとやっぱり不気味で、あまり感じのいいものではない。
『苦戦しているね、千歳』
鴉がしゃべった。しかも、名前を呼んだ。千歳は腰を抜かすかと思うほど、驚いた。まさか、もののけ? 死霊憑き?
『そんなに慌てることではないよ、ほら。分からないの』
「か……鴉の知り合いは、わ、わたし、い、いませんっ」
莫迦正直に、千歳は答えた。
『千歳が白い鳩なら、こっちは黒い鴉。兄の晴栄ですよ』
「は、はれえにいさま! 鴉に、なっちゃったの? やだ、真っ黒」
『まさか。これは、鴉の形をした式神ですよ。今、鹿鳴館に向かっているところなのですが、もう少し時間がかかりそうだから、鴉の体を借りて、意識の一部を飛ばしています。千歳、酉の神を飛ばせたところまではなかなかよかった。でも、鳩じゃねえ。遅いです。さらなる絵の上達を、頼みますよ』
「す、すみません。反省しています」
『時間がありません。修業の話は後日。晴季の計画は、失敗します。標的には、強力な結界が張られているし、どうやら晴季の計画そのものが、向こうにだだ漏れで、知られているらしいのです』
そんな。かえって晴季たちが危険ではないか。
「兄さまたちを救う、手立てはないの? 晴栄兄さまっ」
『私も、式神を通じてできるだけの助力はしますが、現場には間に合いません。いいですか千歳、力いっぱい念じるのです。今から言うことばを、強く強く……』
「は、はいっ」
藁にもすがる思いで、千歳は頷いた。できるできないの狭間をうろうろしている場合ではない。
もう、やるしかない。
3に続きます。全4話です。




