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鬱屈少年

作者: 高里喬丞

 夕方に起きて、早朝に眠る。

 睡眠時間は約十二時間。

 起きている時間はひたすらに怠惰を貪り、時偶に鬱となる。

 僕と同じ年齢の友人達は不平を洩らしながらも学生の本分を全うしている。


 さて、僕はというと。

 草木も眠る丑三つ時。今日も日常の例に洩れず引き篭もり不登校ライフを自室で継続中。

 いつもと違う点を挙げるならば、目の前にある月の石。真贋の程は定かではない。

『大切なものを失う代わりに願いが叶う月の石』

 装飾の施された小箱の中で石と共に納まっていた用紙にはそう書かれている。

 僕は非現実的な事象を好む。

 けれどこの手の物には興味こそあれ、金を出してまで手に入れるという考えは持ち合わせていない。世間で売られている風水やら占いやらの商品の大概は眉唾物である

 ではどこで手に入れたのかという話になるが、出処は全くの不明。気付いたら装飾の施された小さな小箱が部屋に置かれており、その箱の中にこの石が入っていた。家族が僕の部屋に入ることはまず無いのだけれど。

「どうしようか……」

 万物に神が存在する日本に生まれた所為か、石を適当に捨てるという行為には抵抗がある。

 ふと思ったけれど、本物の月の石であれば月の神が宿っているのだろうか。どちらにしても本物の月の石であれば、月の神何某が宿っていることはなくても換金すれば大金になる。

 だけれど僕は真贋の調査を依頼する程の勇気を持ち合わせていない。なんといっても僕は引き篭もり不登校生。

 行動が伴わないのであれば幾ら思案したところで意味がないという事に気付いたので考え込むのは終了。


 最近、顔が丸くなった気がする。外を出歩かないくせにジャンクフードを人一倍に食べるのだから当然だろう。

「走ろうかな」 

 一応は籍を置いている中学校指定の体育服の上に市販のジャージを着る。

 引き篭もりに近い生活をしているが、一日中部屋に籠っている訳ではない。気が向けばランニングに出掛けることもある。


 外の世界は三月。季節に疎い僕だけど、咲きかけの桜に雪が積もっている景色は是非見ておきたい。

 深夜だから、景色を独占出来るかもしれない。雪が降っているから空は曇天なのだけれど。

「どうせなら月も一緒に見たいのに……」

 灰色の石を片手に呟いてみる。

 声を出すことが少し恥ずかしい。

 家族が起きる前に出掛けてしまうことにしよう。



「何か起きないかな」

 ランニングの途中。隠れた桜の名所である近所の公園で佇む。

 僕は現実的ではない事が起きる事を期待している。ポケットに入っている月の石はきっと僕の期待

 非日常な事象である筈の桜と雪の同居を視界に入れながら頭を回転させる。

 現実的な事しか起こらない日々、記憶に残らない怠惰な日常。

 僕は非現実的な事象が起きることを期待しているけれど。

 実際に非現実的な事象が起きたとしても、僕の空を埋めている桜と雪と雲のように僅かな感傷と空虚感をもたらすだけなのかもしれない。

 ふと桜の枝に目がとまる。首を吊るのに丁度良さそうだ。

 雪は未だに降り続けている。

「風邪を引いてしまうかな」

 呟く。やっぱり恥ずかしい。

 望んだ非現実。果たされた非現実。

 近くの道を車が走る。それは問題じゃない。

 桜、雪、雲、何処か気に食わない。

 僕は何を望むのだろうか。

「月」

 思考に至る前に口が紡ぐ。きっと答えは用意されていたのだろう。

 空は未だに曇天。そう、気に入らない。雲の先にある月が見たい。桜と雪と月。

 ポケットに忍ばせておいた月の石を握りしめる。

『大切なものを失う代わりに願いが叶う月の石』

 くだらない文面を思い出す。

 愚者である僕が、愚かな方法に縋る。滑稽だ。その上で僕は願おう。

 空を仰ぎながら言葉を紡ぐ。

「代償は何でも良い。桜と、雪と……月が欲しい」

 瞬間、辺りは光に包まれた。

「っ……」

 反射的に閉じた目蓋を開くと、雪は止むことなく、雲は消え失せ、桜が咲き誇り、月が空を制した。

 奇跡を目の当たりにして、僕は思う。

「だから何だっていうんだ……」

 一瞬の驚き。そしてすぐに虚無感に支配される。

 変化から何かを得るには自発的に動く必要があるのかもしれない。

 体を思考の海に沈める。寒さは感じない。体の火照りが心地良い。時間がたてば汗で気持ち悪くなる。そしたらまた走れば良い。桜と雪と月の景色の中で。


 僕は願った。願うばかりで何も行動していない。これでは何も変わらない。

 今、するべき事は何か。

 僕は右手の月の石をひたすら遠くへ全力で投げ捨てた。石は月光に照らされ、輝く。そして最後には闇に呑まれた。

 願いが叶う石。そこには神性が存在する。

 もし神様が居るのなら、こんな僕を許しはしないだろう。

「おぬし……あの石をなんじゃと思っておる」

 どこからか不機嫌な声がする。とうとう頭がおかしくなったのかもしれない。他人との接触を拒み続けた結果としては当然だろう。

「……」

 声のした方向、桜の枝を見る。陽炎のような光が漂っていた。

僕がそれを認識した途端、陽炎のような光は次第に色を付けていき、物質として存在するものに固定化されていく。

 気が付けば桜の枝には女の子が座っていた。小さな体躯、短めの銀髪、狩衣を着ている。そして何よりも整った顔。幻想の世界から出てきたかのような容姿だけれど。今の景色、桜と雪と月には相応しい。

「何を呆けておる。あの石はじゃな」

「大切なものを一つ失う代わりに願いが叶う月の石」

 僕は彼女の言葉を代わる。

「ふむ。おぬしが何を願ったかは知らぬが代償は払ってもらう」

 何かを得るには何かを犠牲にしなければならない。当然の事だ。

「代償は?」

「大切なもの、『日常』をわしに捧げよ」

 怠惰の日常などくれてやる。

「期間は?」

「わしが満足するまでじゃ」

 普通の人間ならば、こんな非現実的な現実に遭遇した場合、まず現実逃避をする事だろう。

 伊達に非現実を望み続けてはいない。待ち望んだファンタジーはやってきた。

 本当に頭がおかしくなったのかも知れないが、自我に従うことにしよう。例え夢であろうと自我ある世界が現実だ。

 この非現実を、ひとまずは受け止めよう。きっとそれが今の僕に出来る最善。

「善処します」

「ふむ、精神的に難があるようじゃが、及第点じゃな」

 初対面の相手から精神的に問題があると言われた。少し傷ついてみる。

「おぬし、名を名乗れ」

「一堂怜一」

「れーいち……少しばかり言い難いのう」

 彼女は僕の名を舌足らずに言う。

「名前は?」

 彼女の名前を問う。

「今宵は月が景色に良く映えている」

 彼女は僕の問いには答えない。

「……」

 沈黙によって問いの意思を伝える。

 すると彼女は沈黙を嫌ったのか桜の枝から飛び降り、音も無く着地に成功する。

「うむ、月と呼ぶといい」

「月……」


 彼女は僕が月の石に何を望んだかは知らないと言った。

 僕は月が欲しいと口にした。

 彼女は月と名乗った。

 これら全てが必然ではなく偶然であるというならば、運命というものを信じてみるのも悪くない。




 他人の気配で目を覚ます。僕はベッドの上で首を傾げる。僕の部屋。いつもの天井。いつも通りの本棚。いつもとは違う窓。

 いつもならば窓の外に夕焼けの景色が広がっている筈の生活サイクル。

 日光は南に位置する窓から差し込んでいる。普段とは違う異常を感覚する。

「ようやく起きたか」

 僕の顔を誰かが覗く。女の子だ。

「……君は誰?」

「阿呆が」

 阿呆。愚かなこと。愚かな人。また、そのさま。人をののしるときにも用いる。

 以前に辞書で引いた時の内容を思い出す。ついでに昨晩起きた事を思い出す。

「阿呆も悪くないかも」

 実際、僕は愚かしい。

「阿呆のままでは困る。おぬしに説明せねばならぬ事が幾つかあるでな」

「了解」

 僕は月の声に耳を傾ける。

「まずは、わしが何者かということを説明する前に説明を行わなければならぬことがある」

「月の精?」

 月を揶揄してみる。

「揶揄うでない。黙って聞け」

「……」

 従ってみる。

「返事は?」

 若干恐ろしい声が耳に届いた。

「はい……」

 否応無く返事を強制される。教師と生徒のすれ違いの原因の一つはこの辺りにあるのだと思う。

「例えば……おぬしが着ておるその服。暖かいか?」

 僕が着ているのはフリースの部屋着。とても温かい。そろそろ衣替えしなければ。

「暖かいよ」

「そうじゃろう。その暖かさがその服がその服であることを構成する要素の一つじゃ」

 人が人である為の一つに、生きているという要素が必要だという事と同じだろうか。

「その暖かさが、その服の要素であり意思である。物に意思があると思うか?」

 普通の人間ならば否定する。物に意思があるだなんて信じられない。

「要素としての意思という勢力は存在すると思う」

 僕は肯定する。

 何処かの国の思想哲学の本で似たような話を読んだことがある気がする。その国では人為的に神という偶像を作り上げることに成功していた。

 僕は寝起きの頭で続ける。

「服がある。服は体を温めたり、皮膚を保護したりする。それらが『服』という存在の意思であるのならば、それら『服』の意思が人間に認識されたならば、『服』は神性を獲得する。意思を持った神的存在。神が宿る存在として認められることは十分に有り得る」

 物には神が宿るだとか、お年寄りは理屈を飛ばして言うけれど。お年寄りの言葉に理屈をつけてあげるならば、恐らくは僕が説いた受け売りの説明で十分だろう。

「何を馬鹿げた事を言っておる」

「……え?」

 存在自体が馬鹿げている月に否定される。心外だ。

「わしを引き当てた人間がこのような者だったとは……」

「いや、だって……八百万の神とか万物に神は宿るとかって言うじゃない?」

「くくっ、そうじゃな。その認識でも間違うていない。揶揄うてみただけじゃ」

「……で、月は何者?」

「うむ。おぬしは昨夜、石に対して擬人的な認識をしたであろう」

 月の石に対して月の神が宿ってるだとか、ふざけた思考を働かせた気がする。

「おぬしの認識をきっかけにして、石が元々持っていた要素からわしが発現した事と、わしの力が物に対する人間の認識に応じてその認識と物の要素を発現させる事が出来るという物である事以外はそこらに居る女子と大して変わらん」

「あの石は……」

「わしの依り代じゃ。それをおぬしは投げ捨てよった」

「……ごめんなさい」

「良い。戻る場所は無くしたが、おぬしの傍に居れば退屈せぬようじゃ」

「誉めてる?」

 貶されているように感じるけれど。それは卑屈だろうか

「さあのう。己で考えよ。して、おぬしはわしを月の神と認識しておろう?」

「そうだけど」

「今のところ、わしを知覚しておるのは、わし自身とおぬしの二人じゃ」

「うん」

「わしは認識次第でどのようにも変化する存在であるということを忘れぬようにな」

 月は少しだけ悲しげに目を伏せる。

「分かった」

 きっと月は儚い存在なんだろう。月はそのことを自覚している。救い難い。

 僕に何が出来るのだろう。月は日常を捧げよと僕に言った。僕は月が欲しいと願った。彼女を幸せにしなければならない。そんな気がする。

「お腹が空いた」

 何となく月の顔を見るのが恥ずかしかったから、適当な事を呟く。

「人とは不便よのう」

 空腹を覚えないらしい月は、空腹と照れ隠しに眉を顰める僕の顔を見て笑う。僕も自然と頬が綻ぶ。


 僕は月に対して、他人に対して、素の自分を晒している。以前の僕からしてみれば信じられない事だ。他人と接する際には精神に仮面を被る。それが絶対だった筈。

「それでも良いかな」

 不思議とそんな風に思えたのは、思っていたよりも月とのふれあいが心地良かったからかもしれない。



「暇じゃ」

「そりゃあね」

 僕の朝食にあたる食事風景を眺めていた月は椅子の上で背伸びをする。時刻は昼過ぎだ。

 男が簡易栄養食品を食べる光景なんて、どんな嗜好があれば楽しめるのだろうか。

「そういえば……この家に居着くの?」

「うむ。思っていたよりも居心地が良いでな。何より他に行くあてがないのじゃ」

 困った。

「僕には家族というものがあってだね」

「おぬしには家族がおるのか」

「その内に帰ってくる」

 両親共に僕が小さな頃から現在に至るまで諸国漫遊。一人息子である僕が行くべき中学校に通うことなく家に籠っているという状況下にして奇妙ではある。

 変わっている親だけれど僕にとっては僥倖だ。日中ずっと心配されていては相手は勿論こちらの身までもが持たない。

「心配するでない。わしにとって姿を消すことなど容易い事じゃ」

「……」

 僕は姿を消したことがないから分らないけれど。自分からは見えて、相手からは見えない。それはとても悲しい事なんじゃないだろうか。

「何を考えておる」

「親に月の事を伝えたら駄目かな」

「わしは構わぬが、おぬしはきっと病院か警察に連れて行かれるのではないのか?」

「あ、そうか……」

 一般的な目で見たら、引き篭もり不登校生がこんな荒唐無稽な存在を説明しだしたら気が狂ったとしか思われない。

 風変わりな両親だから期待できなくもないけれど。

「ちょっと考える時間を貰えるかな」

「良いが……おぬしは優しいのう」

 月はくすりと笑う。 

「僕は優しくなんてない。臆病なだけだ」

「そうかそうか。また一段とおぬしに興味が沸いた」

 月は一向に笑みを絶やさない。

「そのことは良いとして……おぬし、明日からわしに一日に一つ娯楽を提供せよ」

「僕が望んだ事への代償の話?」

「うむ」

「だったら構わない」

「代償としてではなかったならどうなのじゃ?」

「さあ」

「わしはおぬしとの間柄を望みを叶える者と代償を払う者という関係だけで終わらせる気はないでな。覚悟しておけ」

 月は僕の顔に詰め寄りながら言う。唇同士が触れ合いそうだ。顔が熱い。

「冗談じゃ。そう赤くなるでない」

 月は僕を蹂躙している。月を攻めるだけの気概がない僕は、やはり精神に仮面を被る必要があるかもしれない。




「起きよ」

 僕は月に蹴られる。惜しい、もう少しで下衣の中が見えたのに。

 月との生活二日目。二度目の朝。大分この生活にも慣れてきた。

「今…何時?……」

「もう既に辰の刻じゃ」

「子、牛、虎……」

 指を折って計算する。八時だ。朝に起きるという当たり前のことが未だに慣れない。

 昨夜はトランプで僕に負けて自棄になった月の相手を務めていたけれど、夜の九時になった途端に無理やり床に寝させられた。早朝に眠る僕にとって結構な負担だ。

 生活の時間を矯正されることというのは体に負担が掛かるものらしい。

 体が重い事の理由をもう一つ挙げるならば、僕のベッドを月に明け渡してあるという事。僕は床布団での不慣れな睡眠を強いられている。

 月曰く。

『床が嫌ならわしと一緒に眠るがいい』

 冗談じゃない。


 結果的に月から寝起きの時間を定められてしまっている。午後十時就寝、午前七時起床は健康的過ぎだ。僕のライフスタイルに対する冒涜ではないかという気さえする。

 麻薬に依存している人間は、麻薬を絶つことを他人から強制されることに感謝の念は抱かない。

 僕の生活リズムが月の手によって蝕まれていっている。

 健康的であるから文句は言えない。むしろ礼を述べなくてはならない所だが、改善の対象である僕は何とも言えない心情になってしまう。つまりは麻薬依存者と同じく、僕は昼間睡眠依存者である。

 勿論、日光を見れば自然と眠くなる。

 僕はカーテンの開け放たれた窓を眺める。雨上がりの晴れた空ほどに良い景色はなかなかにない。

 そう、こんな感じに、頭が虚ろになっていく。瞼が重い。

「寝るなっ」

 蹴られる。起きた。

「お願いだから蹴らないで……」

「わしは決めたぞ。おぬしを真人間にしてみせる」

「迷惑な……」

「うるさい。おぬしはわしの娯楽じゃ。文句を言うでない」

「そんな……」

 僕だって真人間になりたくないわけじゃない。けれど睡眠時間然り、他人に何かを強制されるという事はとても疲れ、やる気を削がれる。

「おぬしが真人間になった暁には褒美をやろう」

 月がとても魅惑的な表情をする。

「ん、頑張る」

 他人に強制されるのではなく、自主的に動いてみよう。何時かもそんな事を考えた気がする。決して月に劣情を抱いたわけではない。

「さ、起きるぞ」

 朝から気分が良いなんて懐かしいほどに久しぶりだ。



 昨日読んだ本に出てきた登場人物何某曰く、『どんな非日常でも三日もすれば日常になる。非日常を求め続けるのならば変化し続ける必要がある。そんな努力を重ねるよりも日常を楽しんだ方が有意義だと思う』

  生活というものは、暮らし慣れていれば一々の感動を覚えることは少ないが、慣れていない者は時として思いもよらない感動を得ることがある。

 食事、風呂、テレビ、ゲーム、パソコン、勉強。それらは当り前の日常。僕はそこから脱却したがっていた。

 そこに月が現れた。待ち望んだ非日常だ。

 月の居る非日常に囚われるようになって三日目。以前の日常が非日常に、以前の非日常が日常になりつつある。

 早朝に寝て、夕方に起きる生活。そんな日常。

 夜中の通販番組を眺めながらネットとゲームで時間を浪費する生活。それが日常。

 決して有意義なものとは呼べない生活。そして僕の日常。

 そんな生活の中でも、自分は何の為に生きているのか、自分の生きた跡は残るのか、人との繋がりというのはどういうものだったのか、ふと考えることがあった。その度に死にたくなった。それでも生きていたかった。

 今思えば病んでいたのだと思う。病むことで日常に負の要素を孕んだ非日常時の思考を得る事が出来た。

 世の中が屈折して見えていた僕にとって世界は虚無的なものでしかなかったから、虚無的な世界に生きている自分は何なのだろうかと考えた。

 もし、世界が絶望に満ちていて、それを正視しない為に、人間が他人との繋がりに依存しているのであれば、僕はもう少しだけ絶望を見極めたい。

 例えば、明日世界が滅ぶとしよう。皆に等しく死が訪れるということだけが定まっており、漠然とした、それでいて強大な障害が人間に訪れる時、僕はひたすらに障害を観察したい。

 そうすればきっと漠然としていた障害を把握することができる。気休めでも良い。見届けるだけでも良い。漠然とした障害を一つの問題として見れるように。

 漠然とした障害を一つの問題として捉える事が出来たならば、解決を望む事が出来る。

 今の僕に迫る漠然とした障害は、日常と非日常の感覚の中にある。

 僕の障害は未だ問題には成り得ない。だから僕はひたすらに見つめる。他人とは違う僕であることに意義を感じているのかも知れない。

 その意義を実体の伴ったものにする為にはどうすればいいのだろうか。

 僕の目の前には棚が見える。そして僕は野菜ジュースを棚から取り出す。長いこと台所の棚と向き合っていたようだ。僕の後ろでは月が不審な目で僕を睨んでいる。

 ここまで直線的に意思表示を行う事の出来る月が羨ましい。そして僕は自分じゃない自分の精神を被る。




 月との生活四日目。月は人間じゃない。

 食事は不要だと言っていたし、食事の代わりに月光で栄養を補給するという事も言っていた。だから僕の部屋のカーテンは深夜でも開け放たれている。

 僕も一人分の食事を用意するだけで良いのだと気楽で良かったのだけれど。

「れーいち。腹が減った」

「……え?」

 思いもよらない月の呟きに、思わず聞き返してしまう。よくよく考えてみれば、晩の天気は曇りだった。月光が差さなかったのだろう。

「腹が空いたと言っておる」

「飲む?」

 先ほど冷蔵庫から出しておいた賞味期限が二月ほど前に切れている牛乳パックを手にとって、封を開ける。

 月の体は細い。牛乳を飲ませた所でどうにかなるとは思えないけれど。

「その牛乳、酢だった臭いがするぞ」

「えと、あの……食べる?」 

 僕の昼食、齧りかけのブロック状簡易栄養食品を差し出してみる。

「まさか、そのような物を常食しておるのではなかろうな」

 月は眉を顰める。

「え……駄目?」

「断じて認めぬ。そのような粉物ばかりでは体調を崩すぞ。一応はわしの相手なのだからもっと健康に気を遣え」

 驚くことに、寝起きの僕を蹴飛ばす月が僕の心配をしている。涙が出そうだ。

「おぬしが倒れれば、わしに迷惑が掛かる」

 心配の動機は何とも自分本位のものだった。

「僕の涙を返して欲しいのだけれど」

「仕方ない。わしが腕を振るうてやろう」

「少しだけ期待」

 よくあるお約束ならば、超絶に美味いか、不味いか。前者である事を祈る。


 二人で冷蔵庫の中身を確認する。

 使えそうな食材は冷凍牛ミンチに調味料等々。乳製品と野菜類の惨状は詳しく述べないことにする。

「臭い・・・・・・」

「これは使えそうじゃの」

 月は野菜室で力強く自生していた元野菜を手に取る。

「米はあるか?」

「一応」

「うむ、何とかなりそうじゃ」


 三十分も掛からずに調理終了。献立はお米と味噌汁、牛ミンチを調味料で麻婆風に味付けしたもの。

「食べようかの」

 目の前には美味しそうな料理が並んでいる。匂いもとても僕好みのものだ。

「「いただきます」」

  

 見た目を美味しそうだったけれど、匂いはとても良かったのだけど、劇的に不味かった。固い米にすっぱ甘い味噌汁、極め付けには激辛激渋の何故か黄色い肉塊。

 美味しそうに食べる月の姿を信じた事、月に気を遣って残さずに食べた事を後悔している現在。三十分以上前からトイレに籠もりっきりだ。

「ん、あ・・・・・・」

 酷い胸焼けと吐き気。

「おぬし、軟弱すぎるぞ」

 何故か健康なままの月は僕を貶しながらも、ずっと僕に付きっきりだ。

「大分良くなってきた……ありがとう」

 自責の念に苛まれているであろう月に感謝を述べる。

「なに、面白き見物じゃから退屈せぬで良い」

 月は笑う。

 全力で前言撤回。

「月は何ともないの?」

「うむ。ちと変な味がしたが、美味じゃった」

「……」

 もう何も言うまい。

「なんじゃ、せっかく人が腕を振るうたというのに」

「……」

 とりあえず今日はもう寝よう。

「二度と作らぬわ……」

 意識を失う瞬間、そんな声が聞こえた気がする。




 起床。視界はとても暗い。体は布団の中。床の上での睡眠にも慣れつつある。

 そんな中での違和感。掛け布団を誰かと共有している感覚がする。

 視界を覚醒させる。月の寝顔がキス寸前の位置にあった。

 喉が焼けるように痛い。理由は考えなくても分かる。

 棚に手を伸ばし、部屋に常備されている飲料水を取り、ゆっくりと喉を潤す。

 一連の動作を終えて。

「っっっ!!」

 僕は背を仰け反らす。

 一度落ち着こう。

 僕は深呼吸を一度する。月の前髪が揺れる。未だ月は心地良さそうな寝顔を僕に晒す。

『おぬしが真人間になった暁には褒美をやろう』

 外見に幼さを残した月の艶やかな顔を思い出す。僕、赤面。

 視界の端に光の点滅を捉える。携帯だ。

 三日前を最後にそれからずっと手にしていない。

 月を起こさないように携帯を取る。メールの着信が四件。

 三つは友達から。遊びの誘い、返事の催促、諦めた旨のメールのスリーコンボ。人はこうして親しい友人からの遊びの誘いを受ける機会を失っていくのだと思う。別に良いけれど。

 後のは両親から。

 両親からのメールの内容は、旅行と重なるように海外出張が決まったという旨のものが一通。

 頭が痛い。

 午前四時、二度寝する余裕はない。これから朝食を作らなければならない。自衛の為に。


 シャワーを浴びてから普段着に着替える。月の目標どおり、僕は真人間への道をしっかり歩んでいるように思える。僕も悪い気はしない。

 冷蔵庫には碌な物が入っていない。物置へ向かおう。

 物置にはいつもお世話になっているブロック食品の他に非常食用のクラッカー、賞味期限切れの缶詰等々。冷蔵庫を含めて近いうちに整理しなければならない。

「おっ」

 パスタ麺発見。消費期限内の缶詰を見つける事が出来れば簡単にパスタが出来る。最悪、茹でた麺に野菜用ドレッシングをかければ何とかなる。


 何とか見繕った材料を台所に並べる。麺、ホールトマト缶、昨日の残りの牛肉ミンチ、その他調味料。

 牛肉がグレーゾーンだけれど気にしない。


 熱したサラダ油へチューブに入ったおろしにんにくを捻り出す。

 そこへ牛ミンチ投入。

 暫し炒めてから調味料投下。ナツメグを入れるか否か。あまり好きじゃないから保留。

 そういえばナツメグには幻覚作用があると聞いたことがある。少量ならば薬効があるらしいけれど。

「あ、赤ワイン」

 台所備え付けの棚から赤ワインを取り出し、鍋へ投下。

 水分が飛んだらトマトを入れる。幾つか作業を飛ばしているが御愛嬌だ。

 最後にウスターソースとトマトケチャップ、塩胡椒で味付け。ここの作業が大好きだ。

 不完全で雑多な物に手を加えて好みの物に仕立てていく作業。この匂い。月に焼かれた喉が復活していく。

「ぬし」

 月は眠そうな目で僕を見る。気付けば既に朝日が降り注いでいる。

「もうすぐ出来るから」

「ん、うむ」

 月は洗面所へと姿を消す。

 さっさと麺を茹でてしまおう。


 食卓に付いて一分経過。

「あー……どう?」

 月は最初の一口を食べると、俯いて黙り込んでしまった。味は問題なかった筈だけれど。

「……」

「……」

 何故か気まずい空気が流れる。

「あの、お口に合いませんでしたでしょうか」

「違う……美味い……」

「じゃあ、何さ」

「さも料理の出来なさそうなれーいちに料理を振る舞ってやろうと得意気に料理を作っていた昨日のわしを殺してくれ……恥ずかしくて死にそうじゃ……」

「それは何というか……ご愁傷様としか……」

「その、なんだ……料理を教えてくれぬか?……」

 目に涙を浮かべながら上目遣いで顔を覗きこまれる。反則だ。

「別に良いけど」

「うむ。よしなにな」

「麺がのびる前に食べよう」

「ぬし、頬にソースが付いとるぞ。餓鬼め」

 月はしたり顔で笑っているが、月の右頬にも付いている。これではどちらが餓鬼か分からない。

「そっちも付いてる。餓鬼だね」

「なに?」

 月は左頬に手を運ぶ。

「逆の頬」

「ぬっ……」

 月の顔が心無しか赤くなる。そして僕と月はお互いに笑い合う。

 いつも老獪な口調で喋る月だけれど、意外と精神も見た目相応に幼いのかも知れない。僕の知らない一面を垣間見た気がする。

 月の事はともかく、こういう空気は嫌いじゃない。継続して料理を作る気が起きてこないでもない。恐らくは継続など出来ないだろうけど、そこら辺は僕らしさということで御愛嬌としておこう。

「これだから半端物は……」

 僕は僕自身を嘲る。

「ぬし、何か言ったか?」

「何でもない。ただの独り言。御馳走様でした」

 手を合わせてから食器を流しへ運ぶ。

「れーいちよ」

「ん?」

「好きな女子は居るか?」

 ここで焦る僕じゃない。ここはこう、スマートに。

「今は居ないかな」

「そうか。面だけは良いのに勿体ないのう」

「面だけ……ね……」

 何となく苦笑しておく。

 昔から顔を褒められることは多かったけれど、貶された気分になったのは初めてだ。




一喜一憂。ここ数日の僕は健全な人間らしい感情を獲得することに成功しているように思える。

 少しずつ真人間へ近付けているのかもしれない。




 月と生活するようになって六日目、食材の買い出しに行くことになった。

「外、か……」

 あまり気乗りしないけれど。仕方ないか。

 外着に着替える為に部屋へ戻る。

 何故か月がとても女の子らしい服装に着替えていた。どうやら買い物に付いてくる気らしい。

「どうじゃ、愛いだろう?」

 白のワンピースが月の小さな体にとても映えている。

「その服は……何処かから盗んできた?」

 服には詳しくないけれど、我が家には決して存在しない類の服だ。

「わしの能力を忘れたか? 裁縫用の布から服を作り出すことなど容易い。あと、わしの問いにはちゃんと答えよ」

「えと……可愛いです……」

「まあ、当然じゃの。そろそろ行くか」

「もうちょっと待って。着替えるから」

「うむ」

 僕はクローゼットから適当な下着と外着を取り出し、寝間着の裾に手をかける。

「……」

「……」

 月は僕を見つめ続ける。

「あの……」

「なんじゃ?」

「退室して頂けないかと」

 女の子に見られながら下着を着替えるような胆力は持ち合わせていない。

「あ、ああ……そうじゃな」

 月は珍しく頬を染めながら部屋を後にする。

「変……なのかな?」

 一般的な女の子の反応ではあるけれど、月らしくないと言えばらしくない。

 けれど僕が気にした所でどうこうできるような問題ではないだろう。

 金は有る。少し遠出して大手のショッピングセンターまで行こう。

 月に何かをプレゼントをするというのも悪くないかもしれない。

 今日は何曜日だったか。補導されなければ良いけれど。




 月と一緒に家を出てから、バスに乗り込む。幸い混み合っていなかったから適当な席に座る。

 バスに乗ってから数分が経ったけれど会話という会話は全く無い。

 手持無沙汰な僕は車窓を眺める月の顔をすぐ隣りから眺める。顔が整っている事と髪が銀色な点、風変わりな口調とずばぬけて容姿が整っていることを除けば、街で見掛ける女の子と変わらない。恋心に近い感情を覚えるけれど、大方一時的なものだろう。

 月は僕が自分の事を見ていることに気付いたのか窓の外から僕へ視線を移す。

「なあ怜一よ。これはデートの内に含まれるのか?」

 デート。男女が日時を定めて会うこと。

 少し違う気がする。

「デートっていうよりも買い出し?」

「そうか……」

 それきり月は黙ったまま窓の方へ顔を向けてしまう。

 どこか違和感がある。いつの間にか怒らせてしまったのかも知れない。



 バスから降り、適当な店で昼食を取った後。食料の買い出しの前に色々な店を回ることにした。


 空調の効いたモールの中を二人で歩く。

「何か見たい物ある?」

「わしから見れば全てが物珍しい物ばかりじゃ。どこでも良いさ」

 古物を扱っているらしい埃を被ったような雑貨屋が目に入る。

「あそこに入ってみようか」

「うむ」


 店内に入って、商品を見まわす。古いデザインの財布や時計、アクセサリー化された仏具、インドの神様であるガネーシャの置物に、あまり詳しくないけれど明らかにキリスト教でいう所の聖遺物のコピーのようなものまで、偏った方向に選り取り見取りだ。

「なんか色々あるね」

「じゃな」

 ガネーシャの置物の頭に触れてみる。僕の記憶が正しければガネーシャは学問の神様でもある。少しぐらい頭が良くなるかもしれない。

 雑談しながら商品を見て回ってから店を出る。

 月が触れたガネーシャの置物が土塊になったのは見なかったことにしておこう。


 いろんな店を回った。お互いに服を見立てあったり、昼食や夕食を一緒に食べたり。食料の買い出しを除けばやっていること一つ一つが恋人同士のそれだけれど、正直僕が月に寄せている感情が何なのかよく分からない。

 買い物袋の取っ手が手に食い込む。月は荷物が無いから身軽だ。

 バスが来た。取り敢えずは帰ろう。


 行きと同じでバスに揺られる僕は手持無沙汰だ。

「月」

 窓の外を眺めている月に声を掛けてみる。

「……」

 反応がない。もうすぐバスを降りなければならないというのに。

 月の頭に手をやる。

「ん、あ……すまぬ、考え事をしておった」

「どんな? 良かったら聞くけど」

「あとでな」

 丁度、バスの運転手が僕らの家の近くのバス停の名前をアナウンスした。


 僕と月はバスから降りる。

「れーいちよ」

「ん?」

 家に歩みを進めながら聞き返す。

「今日はありがとう」

 月は僕の横に並び歩き、手を握る。

「どういたしまして」

「わしからのプレゼント、欲しくはないか?」

「……欲しいかな」

 碌な物じゃないと思うけれど、好意は受け取っておくに限る。

「嫌そうじゃな。まあ良い、目を瞑れ」

 立ち止まってから目を閉じる。

 月の気配が僕の横から前へ動く。

 次の瞬間、僕の唇に柔らかい物が触れる。

「……」

 僕は驚きではない何かに目を開け、空を見る。

 あぁ、星空が綺麗だ。

 今日は久しぶりに外を出歩いて疲れた。どこかの哲学者曰く疲れた時に考え事をするべきではないらしいから、家に帰ったらすぐに寝よう。決して現実逃避ではないと言い切るのは難しいけれど、今回ばかりは許して欲しい。




 僕は目を開ける。

 僕の手には何故か石。

 石を枕元に置き、代わりに時計を手に取る。

 時計の針が指すのは7時。窓の外は明るいからきっと朝だろう。

 見なれた部屋、何処か懐かしい。

 長い間、夢を見ていた気がする。

「起きた?」

誰かが僕の部屋に居る。随分と懐かしい顔だ。

「……」

 冴えない男の一人部屋に学校の制服を着た女の子。これは夢だろうか。いや、自我ある世界が現実だ。僕は現実で呼吸をしている。

「もう朝だし、良い加減に学校こないとクラスで浮くよ?」

 少しずつ思い出す。彼女は僕の友達で、半年前から学校を休んでいる僕を毎日欠かさず学校に誘ってくる女の子だ。

「今日、行ったとしても多分浮くと思うけど……」

「とにかく、今日は始業式だけど、学校来る?」

「……」

 夢の内容は忘れたけれど、何か大切な物が溢れていた気がする。

「じゃあ、私はもう行くから」

 彼女は自分の鞄を持って部屋の外に向かう。

「待って、僕も行く」

「……え?」

「だから、僕も学校に行くから」

「えと、そっか。よしっじゃあさっさと支度する!」

 僕はベッドから降りて寝間着の上から制服に腕を通す。

「学校って、何を持って行けば良いんだっけ?」

 前日に準備なんてしてる訳がない。

「……」

「……」

何も二人して黙らなくても良いのに。


 季節は繰り返される。自然は変わらない。去年と同じように僕と僕の友達、二人で歩く道を桜が彩っている。変わるのは人間、その精神。

 花びらを踏み、僕は歩く。

 ふと、空を見上げてみる。

 空はただひたすらに晴れている。

「女子の転入生が来てるらしいよ」

「へぇ」

「それがね、すっごい綺麗な銀髪してるんだってさ。ハーフとかかな?」

「……」

 目の前に曲がり角。僕は足を止める。

 さん、に、いち。

 僕は歩く。

 曲がり角、横から制服姿の銀髪の小柄な女の子が勢い良くぶつかってきた。

 僕は期待する。最悪で最高の日常を。

「大丈夫?」

 僕は自分の為に、自分の意思で銀髪の少女に手を差し出した。


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