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彩季時代  作者: 霜土井
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007.creme / 狂人たちを愛す

 新緑の間を抜ける光が揺れ、流れる雲の影をひとつ踏む老人、夢高の裏山名物爺さんは天を仰いだ。本日も清々しい晴天、練習日和なり。


「よう、貞夫爺さだおじ


 そう呼ばれて、名物爺さんは顔をしかめた。


「フン。毎日お前の顔なんざ見とうないのに」

「そう言うなよ。この時期はしょうがねえ」


 ヘラヘラ笑って出てきた男を貞夫爺は軽く睨んだ。だらしなく生えた顎鬚あごひげは相変わらずで、それをさする仕草も相変わらずな奴だった。


「どうじゃ? ここに来るまでの今日の感想は」

「昨日と変わらねえさ。サボってる奴も真面目に走ってる奴も、大体定まってきたとこだな」


 軽くそう言う男を貞夫爺はもう一度睨む。こいつはちゃんと考えているのか、見ていて不満だった。


「ほれ、今日の分じゃ」

「……ん? 今日は三周走った奴いねぇのか」

「体にガタが来ておる。そろそろ限界じゃな」


 貞夫爺が男に渡した紙、そこには新入部員の名前が三十程並んであった。貞夫爺の達筆で書かれた名前の横には、所々一つ丸や二重丸がある。

 野球部員には、全員練習着の背中に自分のフルネームを大きく書かせてある。練習参加のための最初のこのルールが貞夫爺に名前を見せるためだけ、という理由は教員やコーチしか知らない。


「いいか! やり過ぎはよくないんじゃ! 毎日この距離を三回走るなんて無謀すぎる! こんなデタラメなトレーニング続けたら将来……」

「分かってる、分かってるよ貞夫爺、落ち着けって。また血圧上がるぞ」


 額に血管を浮かせて怒鳴る元気な貞夫爺、実は八十をとうに過ぎているのだが、唯一の生き甲斐である夢高野球部に対しては口うるさくなる。一喜一憂する度に体力を使い、寿命を短くしているように見えなくもないこの説教も、今はこの男に対してだけだった。

 貞夫爺の怒声が響き渡る山の中、だらだらと喋り歩きながら登ってきた野球部員数人が来た。彼らと目を合わせず、男は紙を見ながら言った。


「不真面目な奴らが多いのも入ってすぐ辞める奴が多いのも日生のせいだな。あいつがちょっと野球上手くてちょっと頭良くてちょっと可愛い顔してるからって周りが騒ぐんだからよー。ちくしょう、あのクソガキ」

「それだけじゃない。まだ二年じゃったが、和城日生がいても成し得なかった名門、夢高野球部を自分が初優勝させてやろうと意気込む連中も多かった。それなのに入部してもずっと雑用か容赦ないランニングメニュー。自信家で無知な奴らはすぐ他所よそへ行き、自分の才能が発揮出来る場所を求め去って行った」


 さすが夢高マニア爺さん、何でもお見通しだなぁ、と続ける男に、貞夫爺は拳を握り締めて言った。


「馬っ鹿もん!! それもこれも夢高が毎年準決勝で負けるからじゃ!! 他人事のような顔をするな!!」

「だから落ち着けって、そんな興奮するとポックリ逝っちまうぞ」

「わしゃまだくたばらん!! 夢高が優勝するまではな!!」


 元気にガッツポーズする貞夫爺は、呆れながらも感心している男に対して不満を膨らませる。懲りていないのかと思い、言い足りなかったことを言おうとしたが、止めた。ぜえ、ぜえ、という呼吸の仕方を忘れてしまったような荒い息が聞こえたからだ。


「ぜえっ、ぜえっ……ぜえぇえっ……」


 見ていてこちらのほうが息苦しくなるような、疲れきりながらもランニング(歩いているのと同じ速度だが)を止めない野球部員が、貞夫爺と男の前を通り過ぎようとした。


「おーい。辛ぇなら止めちまえよ」


 必死な少年に対して悪魔のようなことを言う男は本当に性悪だ。けれど言葉とは反対に、男はなんとも優しい表情をしていた。まるで女のように愛おしいものを見る目で少年を見ていた。


「……ぜえぇっ、はあっ、ぜ、絶対、止めない!!」


 汗で濡れている少年の背中には、大きく「光利栄人」と書かれてあった。それを確認すると、貞夫爺は男から紙を受け取り、光利栄人の名前の横に三重丸を書いた。


「ミツトシ、あいつはなかなか根性あるぞ。他にも……」

「貞夫爺、いいこと教えてやるよ。ミツトシじゃなくてヒカリって読むんだぜ、あれ」


 貞夫爺は驚いて目を瞬かせた。この男が自分に部員の名前を教えるなんてことは本当に珍しかったからだ。


「珍しいこともあるもんじゃ。お前がわしに部員の名前を教えるなんての」

「馬鹿言っちゃいけねぇよ。俺を誰だと思ってんだ」

「そりゃ悪かったの。夢路高校硬式野球部、深津ふかつ監督様様」


 憎たらしく笑う深津を横目に、貞夫爺は荒い息切れをする次の走者を見た。

 栄人の後ろから野々松が追ってきている。それを見て栄人も負けじと先を走る。二人とも限界をとうに超えている。けれど、このランニングを一番楽な練習に早くするため無理をして走り続けている。他の新入部員よりも早く、先輩たちに並ぶ体力をつけようと体を酷使し続けている。


「貞夫爺、俺はたまに思うよ。夢高野球部を辞めていく奴らは正常なんだってな」


 傍若無人の深津にしては珍しく、声を低くして言った。


「夢高はイカれた所だからな。毎日死ぬほど厳しい練習に耐えて、百人近いライバルと九つしかない椅子をかけて争ってんだぜ。それでも、与えられた練習に耐えるだけじゃレギュラーにはなれねえ。他の連中も同じことやってんだから、そんなんじゃ差が生まれねえからだ。だから死ぬほど厳しい練習した後に、残ってまた練習すんだ。レギュラーになるためにはな。体はボロボロで、家帰ればくたくたさ。飯が喉を通らねえことなんてしょっちゅうだ。でもまた次の日も、その次の日も同じこと、もしくはそれ以上の練習をしなきゃなんねえから、無理矢理飯食って、そんで我慢出来なくて吐く。三年間その繰り返しさ。人生にはこの道しかねえように、この道を踏み外したら死んじまうかのようにみんな必死だ。もっとたくさん別の道もあんのに、それを知らねえかのように……イカれてるとしか言えねえよ」


 実際、深津は見てきている。たとえ三年間頑張ってもレギュラーになれず、夢高野球部のグラウンドで野球をしただけ、レギュラーになった部員を励まし、試合の応援役に回り必死に声を張り上げていた、それが青春の全てだった部員を何人も知っている。

 十代という輝かしい今を野球に注ぐ。ただ、今、野球をしたいがためにすべてをそれに尽くす。その中で最も厳しい道を選んだ者ばかりが集まる夢高野球部を、深津は異常だと言う。

 深津をいつも叱る貞夫爺は、そうかもしれんな、と珍しく同意した。少し拍子抜けする深津だったが、不敵に笑う貞夫爺を見て、張り合いの抜けた穴を埋めるように気を引き締めた。


「確かに夢高はイカれておる。イカれた奴しか生き残れんからの。辞めていった奴らは利口なのかもしれん。じゃがな、其奴そやつらは利口な頭を持っておっても、覚悟は持っていなかったんじゃ。夢高野球部で野球をする覚悟がな。その覚悟は本気からしか生まれん。みんな本気じゃなかったんじゃ……野球にの」


 貞夫爺は消えていく栄人と野々松の背中を見送り、小さく笑った。それにつられ、深津も笑った。

 あいつらは最後まで残る。三重丸がそれを教えている。


「その紙も、預言書みたいなもんだな」

「違いないわい。三重丸つけるような奴はイカれておるからの。大きな怪我でもない限り、みんな三年間残る。いや、もしくは……」


 貞夫爺は想像する未来を口にしようとしたが、それを固く閉じた。


「お前もそれなりに考えておるんじゃのう」

「お、珍しく褒められた」

「馬鹿言うな!! わしゃお前みたいな若僧が監督なんてまだ認めておらんからの!! 退部者の数を数えたことあるのか! 年々右肩上がりじゃわい! 少しは自分で其奴らの腐った根性叩き直していかんと、十年後にゃ部員は今の半分以下になってしまうぞ!!」

「何で貞夫爺が十年後の心配してんだよ……いつまで生きてるつもりだ」

「わしが死ぬのは夢高が優勝した時じゃ!!」


 声を張り上げてガッツポーズする貞夫爺は、本当に十年後もその姿のままでここに立っていそうだった。

 深津は口元をほころばせる。


「貞夫爺、今年が勝負だぜ」

「知っておる」

「今年の夏であいつは、いなくなっちまうんだからな」

「ああ」

「県内にはもちろん、それこそ全国で考えたら優れた球児なんてごろごろいる。けど本物がいんのはウチだけだ。甲子園優勝出来ないまま終わっちまうような大馬鹿野郎に、俺は成り下がらねえよ、絶対ぇに」


 まあ、こればっかりは団体競技だからな、一人の力だけでどうにかなる問題でもねえが、と深津は続けたが、目は鋭く光ったままだった。


「貞夫爺も今年でやっとくたばるわけだ」

「上等じゃ。家族も年賀状の用意せんで助かるわい」


 口が減らない貞夫爺を横に、深津はゆっくりと手を振る。やっとグラウンドへ帰る気になったようだ。


「くたばる前に言っておくよ、貞夫爺。俺は辞めていく利口な奴らを引き止める気は更々ねえ。そもそも、俺があいつらに野球を強要する権利なんてねえんだ。俺はこのままだ。自ら夢高に来て、自ら夢高に残ると決めたイカれたクソガキどもを育てるだけさ」

「じゃがこの御時世、根性のないガキが増えていくのは避けて通れん。お前の信念にわしが口を挟む権利もないが、これは忠告だ」

「今更何言ってんだよ。夢高は確かに並大抵の根性がなきゃ生きていけねえが、その根性ってどこから生まれてくると思う? 貞夫爺言ったよな。夢高には相当な覚悟がいるって。その覚悟は本気から生まれるって。貞夫爺の言う本気も、貞夫爺が心配する根性も生まれてくるところは一緒さ」


 深津は弱々しく去っていった栄人と野々松の背中を思い出しながら、答えた。


「イカれてると思うくらい、野球が好きな自分からだよ。俺はそんなイカれたクソガキどもが可愛くてしょうがねえ。そいつらの面倒見なきゃなんねえから、辞めていく奴らを引き止める暇はねえんだ」


 そう言って、深津は去って行った。


「フン。わしからしたらお前もまだまだクソガキじゃ」


 そう呟き、貞夫爺は自分の特等席に腰掛けた。荒い呼吸音がまた聞こえてきて、紙に書かれた新入部員三十人の名前を順番に撫でていった。次の走者はこいつか、それともあいつかと、貞夫爺は考えを巡らしてみた。


「……もう、そんな時期か。早いのう」


 夢高の正門の横にある大桜。桜が散り終えて新芽が緑をつける頃、それは訪れる。深津が監督に就任してから毎年行われる、夢路高校硬式野球部恒例行事。無茶なランニングを続ける馬鹿を止める意味も含まれる、その行事。夢高野球部レギュラー対新入部員選抜メンバーの試合が、もうすぐ始まる。

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