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彩季時代  作者: 霜土井
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006.primrose yellow / 本当の厳しさ

 ごく普通の、一般家庭にしては少し大きい一軒家が千歳邸だ。千歳グループの令嬢が住むにしては廊下は短いし、高級そうな家具や置物も少ない。この質素さは他界した姉妹の母の影響が残っている。ただ、彼女が健在だった頃よりはいくつか改良されている。

 姉妹の父は海外を飛び回り、日本に帰ってきても東京で過ごすことが多い。娘四人を残し自宅を空けるので用心棒役の男を雇うことも考えたらしいが、それは一蹴された。嫁入り前の娘と男を同居させるという想像は、彼を憤慨させたからだ。だからといって本家に住まわせる提案も拒否し、この千歳邸は改築された。何重にも張り巡らされたセキュリティは世界最新技術のものに差し替えられた。客人の日生も中に入るまで一苦労するほどの厳重さだ。



 日生は柊の部屋のドアを閉めた。短い廊下を歩き、階段を下りようと手すりを掴んだ。その時、二階に上がろうとしていた榎と対面した。風呂上りで顔が火照り、四月にしてはやけに薄着の状態だった。

 露出した肌を恥じることもせず、榎は、ああ~いいお湯だった、などと言い、演歌を口ずさみながら日生の横を堂々と通り過ぎた。二階に上がりきり、榎の鼻歌に反応した椿がドアを乱暴に開けた。風呂場の歌がうるさくて勉強に集中出来ない、家だけでなく外にも漏れてることを自覚しなさい、何度言ったら分かるの、そんな薄着でうろうろしてはしたないと、つつけばいくらでも不平が出てきそうだ。

 理性的に怒る椿と、たじろぎながらも能天気な榎。レストランに入ってもおかしくない格好で勉強している椿と、中学から愛用している体操着でうろつく榎。この二人が双子だと思うと本当に不思議でならないが、十七年幼馴染をしてきた日生にとって、それは今更の問題だった。二卵性双生児は外見だけでなく中身も似ないものなのだと、日生が悟ったのは随分昔のことだ。

 いつものことだと、二人の喧嘩(椿が一方的に怒っている)に背を向け、日生は階段を下りる。魚の焦げた匂いに導かれるよう、リビングに入った。

 キッチンでは忙しなく料理をする柊がいる。母のいないこの家で、家事能力が一切ない三人の姉を健気にサポートする柊は、日生にとって目に入れても痛くない妹のような存在だ。本人は家事をすることを逃げ道だと思っているみたいだが、柊の支えなしに姉たちの活躍はあり得ない、それは事実だった。

 ごはん出来たよ、と言う柊の声に反応し、日生は席につき、楸はビデオを止め、椿と榎は二階から下りてきた。テーブルには美味しそうな料理、いや、美味しい料理が何品も並んでいる。それを前にして、椿と榎が感嘆の声をあげた。その隣の楸は相変わらず無表情だったが、ほんのり頬を赤くして料理を見つめていた。

 椿、榎、楸、柊、そして自分。あれ、一人足りない、と、日生はようやく気づいた。


「テンさんは?」

「三日お風呂入ってないって言うから、今お風呂入ってるよ。先にご飯食べてていいって」


 相変わらず信じられない生活を送っているようだ。五人は入浴中の一人を残し、柊の入学祝いを始めようとした。

 ピンポン、のベルが鳴らなければ、スムーズに開催出来たはずだった。

 こんな時間に一体何だ、誰だ。不平不満が滲み出ている食卓から離れ、柊は門の前にいる客人をカメラ画像で確認した。


「……本家のお使いの人だ」


 柊のその言葉で、不平不満は静かに消えていった。かわりに、妙な緊張感が生まれた。

 柊は鍵を次々と開けていき、玄関で使いの者を迎えた。ドアの閉まる音を確認すると、柊はリビングに戻ってきた。手には二つの封筒があった。

 年度がかわる四月のはじめ、千歳グループ恒例のパーティーが東京で開催される。前年度活躍した社員や、交流の深い企業の重役などを招いたパーティーだ。本家の人間も参加強制らしいが、それに招待されたのは、椿と楸だけだった。



     ◇



 入学式を終えて数日、野球部はある意味盛り上がっていた。既に夏の甲子園へ向けて始動していることはもちろん、新入生の出入りが慌しかったからだ。

 出入り、というのは入退部のことだ。特別進学科の和城日生が世間でアイドル化している分、生半可な気持ちで入部する者が多かった。昨年もそうだった。

 そういった者たちを振るい落とす作業が入学式以降行われる。ランニングだ。とにかくランニングだった。長距離をひたすら走れと命じられ、スタミナのない者から脱落(退部)していき、次に野球に対する意志の弱い者が脱落していった。

 このランニングの厳しいところは、夢高の裏にある小高い山がコースに入っていることだ。疲労を倍増させる仕掛けでもあるような坂、右へ左へと曲がっている道、階段。それを何往復もさせられ、倒れる者も出た。

 日が経つにつれて退部者は増えるが、入部者も後を絶たなかった。振るい落とし作業は続けられた。もちろん新入部員全員平等に、入学前に入部していたとは関係なく。


「はあっ、はあっ、はあっ」


 三月から入部していた栄人もひたすら走っていた。夢高の裏にある小高い山、通称裏山はうんざりするほど上り下りした。裏山の山頂にある小屋、その中から覗いている爺さんもうんざりするほど見た。彼の顔のホクロの数を言えるほどひたすら往復した。


「栄人、お前もクソ真面目だなー」

「頑張れよ~」


 一番うんざりしたのは、退部もせず、コーチや教師の目の届かない裏山で長時間休憩している新入部員を見た時だった。栄人はそういった連中を相手にしなかった。何と思われようとかまわない、自分は本気で野球をしに来たのだ。

 疲労が溜まっても栄人は挫けない。足を止めない。そうさせるのは過去の打たれまくった記憶と、和城日生、そして自分と同じようにひたすら走り続けている新入部員だった。


「はあっ、はあっ、はあっ」


 溜息と息切れ、両方の意味をもつ呼吸は栄人の苛立ちを表している。

 自分と同じく大量の汗を流しながら走り続ける部員は、野球への志が高い。栄人がざっと数えるだけで三十人はいる。その中にはリトルニシアの全国大会に出場した者もいるという。

 栄人も全中に出場したが、それはあってないような成績だと自分で思っている。だから華やかな過去の成績を持つ連中にどこか負い目を感じていた。本当の成功者と、失敗した成功者だと。

 野球への志が高い者と一緒に野球が出来る、それは栄人にとっていい刺激だった。けれど、嬉しいばかりでもない。

 前に聞いた、二年生の言葉を思い出す。


「一番楽な練習して、何ぶっ倒れてんだか」

「これから先、そんなんでどうすんだろうな」


 こう言っていた二年生は、二軍の補欠にも入れていない先輩だった。

 夢高野球部は強豪校と同時に練習の厳しさでも有名だ。それを乗り越えながら今も野球部に在籍している部員と、今必死になってランニングをこなしている部員を合わせると、おそらく八十人くらいいるだろう。


「毎日長距離走って大変だなあ。まあ、それが夢高の厳しいところでもあるけどな。頑張れよ!」


 裏山と夢高を繋ぐ道すがら、地元の中年男性に声を掛けられた。栄人はその男性に軽く頭を下げたが、裏腹、それは違うと思った。

 夢高の本当に厳しいところは練習内容ではい。それは目の前に置かれたこなさなけらばならない最低限の課題にすぎない。夢高の本当に厳しいところは、その課題をこなし、このランニングを一番楽な練習と思っている、そういった者たちと九つしかない椅子をかけて三年間戦うことだ。

 それを思うと、八十人の猛者から九つの椅子を勝ち取ったレギュラーがどれだけの化け物なのか、自分との距離がなんとなく掴める。それは栄人を焦らせる長いもので、自分の横には三十人の同級生が一緒に並んでいる、もしくは自分より何歩か先を走っているように感じた。

 野球への志が高い者とレギュラー争いをする、それは栄人にとって初めての感覚を覚えさせた。

 栄人は日生とバッテリーを組む目的で夢高に進学した。三年生の彼と組むには今年しかチャンスはない。今年の夏までに、化け物と肩を並べるまでの距離にしなければならない。

 時間がない。とにかく、時間がないのだ。何か、きっかけがあれば。一年生でもレギュラー候補として見てくれるような、何か、きっかげが。

 ライバルに対する焦りの感情は、栄人の中でどんどん大きくなっていた。

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