第33話 逃げる者、向かえる者~1~
――なくした物は多く、得た物は少ない。そんな人生を、男はずっと歩み続けてきた。
生まれは普通だった。ごく普通の、ありふれた親を持ち、生まれてきた。しかし生まれた後、その少年は普通ではなかったことに気がついた。
何もないところで話をして、たった一人で無邪気に遊ぶ少年。それだけならば、まだ子供故にわかる。――だが時が経つに連れても変わらない少年に、皆は眉根を寄せ始める。次第に”何もないところで遊ぶ”のではなく。まるで”見えない何かと遊ぶ”かのようになって、周囲の大人達もようやく悟りだした。
――彼には、我々に見えない何かが見えている――
――やがて村に災いを呼ぶのではないか――
確証は何一つなく、突拍子もない考えだった。だが村中はその意見に賛同した。――未知への恐怖が、そうさせたのだ。
そして少年は、居場所を追われた。それまで共に暮らしていた家族からも追い出され、少年は”災いを呼ぶ子”として、二度と村に入らないと誓いを立て、生まれた村を後にした。
ひとりぼっちになった少年は、しかし一人ではなかった。彼は常に、”自然”と共にあったのだから。
――もしかしたら、と男は思う。居場所を失ったとき、”悲しまなかった”から。失ったことを悲しまなかったから、今こうして失い続ける日々が続くのではないかと。
――ありきたりの幸せを失ったことを、少年は悲しまなかった。それが、全ての元凶ではないか、と。
(……今となっては遠い話しか……)
夜も更けた山岳地帯で、焚き火をして一夜を明かそうとする金髪の男は、ゆらゆらと揺れる炎を見ながら独りごちる。片眼を前髪で隠す彼は、周辺から拾ってきた枝を火の中に放り込み、ふぅっと一息を付いて上空を見上げた。
この異世界は無人世界で、険しい自然環境を持つ地域だ。今彼がいる山岳地帯も、夜が更けると凍死しかねないほど気温が下がる。だが彼にはあまり堪えていないようだ。目の前の炎も、暖をとるためではなく、ただ単に灯りが欲しいと感じたから付けたのだろう。
だが、そういう異世界だからこそ、自然の光景は美しく見える。人の手が一切加えられていない大自然の中、暗闇の中にある幾万の輝き。夜空に舞う星空の美しさに無表情に眺めていた。人の住む街では見えないだろう星の光に、ここは絶景だなぁと思いはせながら眺める彼は、そっと右腕を伸ばす。
――星の光を掴み取るように開いた掌をそっと閉じていく。当然、星を掴み取ることは出来ない。その最中、懐かしい光景を思い出す。そういえば――以前顔を見合わせた、あの青年を。
「……星がよく見える夜……か」
思わず笑みがこぼれる。懐かしく、愛おしい――だけど結局、この手からこぼれ落ちてしまった過去の出来事だ。この手で掴み直すことは出来ない。だが――。
「――だけど、もう少し……あと少しだ」
星を掴み取ることは出来ずとも。愛おしい過去がこの手からこぼれ落ちようとも。“世界を変えることは出来る”。――あと少しで、それが叶う。
「――怒るだろうな、お前は」
ふと、そんな言葉が漏れる。脳裏に浮かび上がる一人の女性は、今の自分に対して何を言うだろうか。――きっと怒るだろう。だとしても、
「だけど、俺は……もう、止まる気はない」
――右腕を頭上に伸ばした金髪の男ルフィンは、そう独りごちた。自身の決意を、再確認するかのように。
夢現書完成は、ゆっくりと、しかし着実に近づきつつあった。
~~~~~
「~~~~♪」
少年は鼻歌を歌いながら目の前に円形の陣を描いていく。二重の円に幾何学的模様を描いていくその動きに迷いはない。
もし少年が描いている法陣を、見る者が見れば分かるだろう。魔法陣――それも、”召喚術”の魔法だと。だが、おそらく気づくことは出来ない。様々な箇所に少年独自のアレンジを加えた魔法陣であり、一部分を見て法陣を解読しようとしても、何を言っているのかわからない。
しかし全体を俯瞰して初めて意味を持つ。一種の芸術――誰かはそう言うだろう。彼が描いているのは、そういった物だ。
全体を俯瞰してやっと召喚術だと分かる――そう、“全体を見ることが出来れば”。おそらくだが、全体を見ることは叶わないだろう。少年がいる場所は地下洞窟であり、さらに“直径百メートルを超える”巨大な法陣を描いているのだ。
天井までの高さもあまりなく、全体を見ることが物理的に不可能なのだ。だからこそ、彼が今何を描いているのかはわからない。
そうでなくとも、直径百メートルを超える法陣である。一体何を呼び出そうというのだろうか。鼻歌交じりに描く少年の表情は明るく、やや音程を外した鼻歌も相まって上機嫌に見える。
「~~~♪ よし、と。これで一通り終わったね」
洞窟の床――不安定でごつごつとした岩に陣を書き込んでいた彼は、周辺を見渡して満足そうに頷いた。彼の言葉が真実ならば、法陣を書き終わったと言うことになる。だが――
「今すぐ使う物でもないし、細かい部分は後だね。――さて、それじゃあ」
コキコキと肩と首をならしてほぐす。どうやら長時間描いていたらしく、筋肉が固まっているのだろう。ほぐしながら少年は振り返り、地下洞窟へと通じる出入り口へと向かって歩いて行く。――そろそろ、呼び声が掛かるはずだ。
「失礼します。あの――」
「わかってるよ。例の実験、成功したんでしょ」
「は、はい! あなたのおか――」
「お礼は別に入らない。それより前に言っていたあの装置、君使い方はわかっているでしょ。アレを起動させて、実験体を入れといて」
「わ、わかりました」
表情を明るくさせて――しかしどこか怯えた表情で頭を下げてきた助手の言葉を遮り、矢継ぎ早に指示を出す。その表情は、先程までの上機嫌とは異なり、どこか不満げである。
扉を閉めて出て行った助手の姿を見送り、少年ははぁっとため息をつく。――失敗するはずがないのだ。未来が見えている自分にはそれがわかる。
だが、周囲の人間は違う。目の前で起こる出来事に一喜一憂するその姿に、彼は嫌気がさした。
――わかっている。自分が違う、自分の方が遙かに異質だと言うことを。だが、わかっていても、”分かってくれない者達”への苛立ちがなくなるわけではない。
「難儀だよねぇ。なんでこうなっちゃったんだか……」
ふぅとため息をついて内心の思いを吐き出す少年だが、しかしすぐさま切り替えたのか表情に微笑みを浮かべて懐に手を伸ばす。懐をまさぐり、お目当ての試験管を取り出した。――中には長く黒い髪の毛が一本入っていた。
「――ま、これで連中をある程度御せると思えば安い物だよね。……自由な時間が短くなるけど」
――フェルアント学園を襲撃した際に採取した、連中――エンプリッターが求めていた物。かつての”人体実験”の名残にして遺作、そして実験の成果。研究者からすれば、こんな髪の毛一本ではなく彼女そのものが欲しいのだろうが、流石にそこまでは求めていない。
この髪の毛一本で連中に貸しを作れる――少年はほくそ笑んだ。元からある程度自由に動かせられたが、これでさらに“傀儡”に出来る。
問題はあるが――それこそ、時間の問題だろう。
「――さて。”実験の邪魔者を成敗”しにいくとしようか」
試験管を眺めていた彼はぽつりとそんなことを言い、空いている片手で軽く印を結ぶ。次の瞬間、少年の姿はなくなっていた。
「――それにしても彼ら、よくこんな施設を貸してくれましたね」
「一応各方面にコネはあるからな。……だが、そんなことよりももっと単純に、連中も一枚岩ではないのだろう。いくつかの派閥があると聞く」
「……なんとまぁ。個人的に、ここは職人気質な集団だと思っていたんだけどなぁ」
三人一組となって行動する一つの集団があった。その集団の先頭を歩く女は周囲を油断なく見渡しながら疑問を口にすると、他の二人が反応する。
「まぁ、集団に派閥が生まれるのは当然だと思うわ。……現に私達もそうでしょう」
「……そうだな、うん」
彼女の苦笑に、他二人も困ったようなあやふやな表情を浮かべて肯定する。――どんな集団にも、人数が多くなれば派閥が生まれる。それはエンプリッターも変わらない。
だが、エンプリッター内で派閥が生まれたのは割と最近なのだ。それも、あの少年が参入してきてからだ。
驚くほどに凄まじい慧眼に、意味が分からないほど複雑な魔術や呪術を持って、こちらに助言を与えてくれた恩人だ。バラバラだったエンプリッターがフェルアントに勘づかれることもなく集合できたのも、反撃の狼煙を上げることが出来たのも、彼のおかげだ。
――だが、その急激なまでの動きに危機感を持つ者もいる。もしくは、彼の魔術や呪術に嫌悪感を抱き(彼女曰く、悪趣味が行きすぎている)、どうにも信じられない者。或いは単純に、あっという間に取り入れられた彼を妬ましく思う者もいる。
組織内に溝はある。だが、それぞれがそれぞれの思い、不満を飲み込み、共通の目的――フェルアントを奪還し、我々精霊使いが世界を導くという目的のために行動することも出来た。だが先日の一件――フェルアント学園襲撃に置いて、溝は決定的に深まった。
――呪術を用いて精霊使いを、我々の仲間を化け物へと変え、そして捨て駒にした所行に、幹部の一部は激しく嫌悪感を抱いたのだ。現在エンプリッターは、あの少年を中心として分裂し掛かっている。
しかし、あの少年を表立って非難することは出来ない。彼だけなのだ。フェルアントを、学園を襲撃し奴らに一泡吹かせることが出来たのは。経過報告を聞く限り、連中の対応は後手に回りつつある上、対応が遅れた隙を突き、いくつかの支部を落とすことが出来た。
その手腕は見事の一言に尽きる。おまけに、どうやら幹部の老人――元フェルアントの重役達――を喜ばせる手土産も持ってきたらしい。まさに一石二鳥、もしくは三鳥の活躍をしてきたのだ。
他の幹部達からの信頼も厚い上、いまいち信用ならないと感じている幹部達でさえ、眉を寄せつつも口を閉ざすことになる。
「――そういえば、この世界なんだよな? 魔導銃の生産場所って」
「そう聞いているね。……私もあまり詳しくはないよ。ただこの世界で作って貰って、私達はそれを商品として買っている感じだから」
後ろを歩く男が今思い出したように呟き、それに肯定する。魔導銃――私達が最近手にした銃器の形状をした魔導具。魔力を弾丸として放つ、引き金を引くだけで純粋魔力攻撃が行える兵器だ。フェルアント学園襲撃や、一部の支部制圧戦において使われた武装である。
我々精霊使いは、純粋魔力の扱いが不得手である。魔力炉から生成される魔力を、魔術を用いて別の物――火や水といった自然物――に変換し、変換した物を操っている。正確には、魔力を物体に流し、その魔力を操作することで操っている、が正しいか。
純粋魔力とは、体外に放出された魔力のことを指す。本来魔力は高エネルギーで、ただぶつけただけでも相当な衝撃を与えられるほどだ。だが精霊使いはこれを操作するのが、苦手なのだ。
無論鍛錬を組めば操ることは出来るが、それでも戦闘に用いるにはそれなりに慣れていなければならない。だがあの魔導銃さえあれば、鍛練を積まなくとも純粋魔力を用いることが出来る。
「便利な世界っすねー。兵器以外にも生活面ですげぇし。俺エンプリッターを抜けたらここに永住しようかな」
「ここに永住は止めときなさい、こういう所は偶に来る方が良いのよ。……それより、何か騒がしくない? 向こう側」
女性は先程から声が大きくなっていく方向を見つめながら呟き、じっと観察するように眺めていた。その方向――廊下の曲がり角からドタバタと何か騒がしく行き来する音と気配。その中に混じる、興奮し歓喜した大声。
「……姉さん、ターゲットって向こうじゃないですかね?」
「……姉さんって、私のこと? ……まぁ、そうかもね」
姉さん――その呼びかけに一瞬ドキリとするも、すぐに頷いた。今は頼まれた使命を果たす方が先である。
頼まれた使命、それは――
「――僕たちが何を造っているのか。そんなに気になるなら、”彼”が来れば良いのに」
「っ! 誰だ!?」
唐突に呼びかけられ、びっくりした三人は後ろを振り向いた。――おかしい、ここは一本道の通路で、最後に枝分かれした廊下があったのは相当前だ。おまけに一番後ろを歩く彼は用心深く、何度も後ろを警戒していた。
いつ現れたのか――おまけに、後ろを振り返り声をかけた人物を見た瞬間、血の気が凍った。
――エンプリッターで派閥を(意図せずしてだろうが)作り上げた金髪の少年その人がいたのだ。顔を見たのはこれが初めてだが、直感で分かる。彼がその人だと。――名前は、不思議と聞いたことがない。
「あなたは……なぜ、ここに……」
「いやぁ、ここで僕の評価が二分しているのは知っているからさ。まぁ周りの評価なんてどうでも良いんだけど。それより、あの奥が気になるんだろ? ……使いを出さずに直接来れば良いのに、彼」
「―――――」
先程、血の気が凍る思いをしたが、今度のはそれ以上だった。――我々は何も言っていない。だが、少年は私達が誰の命令で来たのかを知っている。個人名こそ出さなかった物の、しかしその唇は声に出さずにある人物の名前を呟いた。
それだけで、三人は自分たちの立場と、主の立場の危険性を感じ取った。こちらの目的が知られている――臨戦態勢をとる中、少年はふっと鼻で笑いながら、
「……言っておくよ。君達があの中にいかない限り、僕は何もしない。……君達があの中に入って何をしているのかを知れば、絶対に妨害するだろうからね。それは人として正しい行為だけど、今は邪魔なんだ」
「…………あんた、俺達の何を知って――」
「わかるさ。僕にはわかる」
まるでこちらのことなどお見通しだ、と言わんばかりの表情と顔つきに、彼らは眉根を寄せる。――そんなやりとりの中、女性は用心深く少年を見据えて、
「……この中を知れば、私達が必ず邪魔をすると、貴方はそういうのね?」
「そうだよ」
「……そう。なら――」
――顔を見るのは初めてだが、彼女は知っていた。彼の未来視――きわめて精度の高い未来予知能力。それを持つ彼が、私達は必ず破壊すると言っているのならば。あの中は――
「――見るまでもないわね! 二人とも、中を破壊しな――」
「――やっぱりそう来た」
――しなさい、と言い切ることが出来なかった。言葉の途中で少年が呟いたと思ったら、突如床が足下から離れた。
――えっ?
ふわりと浮かび上がる感覚がした。足下を見ると、やはり足裏は床に触れておらず、足を伸ばしても触れることはなかった。これは一体――ちらりと周りを見渡すと、他の二人も同様に宙に浮かび上がり、必死にもがいている。
見えない何かに捕まった――そんな感覚だ。
「残念だったね。君達が向こうに行くことはない」
背後から声が掛かる。声の主は当然金髪の少年だ。そちらに視線を向けると、右手の人差し指と中指を自身の顔の前で真っ直ぐに伸ばしている。どこか異世界の魔術か、それに相当する物だろうか。
「さて。それじゃあ」
少年は微笑みを浮かべたまま呟くと、伸ばした右手をすっと横に振るう。――それだけで、片足が曲がった。それも、本来曲がるはずのない方向へ。――ボキッと骨が折れる音がした。
「あっ……っ……っつぅっ……!」
「姉御ッ!?」
「安心して、ただの骨折だよ。治癒魔術が得意な奴がいればすぐに治る」
足を折られた痛みに苦悶の声を上げ、為す術もない彼らは悲鳴を上げた。しかしその悲鳴を宥めるかのように、少年は相変わらず微笑みを浮かべた優しげな表情と声で口を開く。
その仕草、その表情に彼らは絶句し、恐怖する。人を傷つけるときにも微笑みを――“笑顔”を絶やさない彼に。どこか壊れていそうな――そんな狂気を、彼から感じ取って。
「でも、これは警告だよ。このまま帰るのなら、僕は君達に何もしない。……君達の主に伝えると良いよ。『判断が遅れれば、君達は死ぬ』――とね。まぁ、当たり前のことだけどさ」
「っ! 貴方、それは、っどういう……っ!」
「逃げるなら早く逃げると良いよ。……あ、これは今の君達にも当てはまるね。でもまぁ、主にも伝えといて」
微笑みを浮かべたまま呟き、右手を下ろす少年。その動きに反応したのか、彼らを捕縛していた力がなくなり、地面に着地する。しかし足を折られた彼女だけはそうはいかず、崩れ落ちるかのように床に転がった。
「いっつぅ……っ!」
「姉さん、しっかりしろ! 立てるか!?」
「歩けるわけないじゃない……っ」
そう言いつつも、駆け寄った一人の肩を借りながら立ち上がる彼女。見せてくれた根性に、少年は拍手する。
「いやぁ、すごいねぇ。僕だったら痛いって言って泣き叫んでるかな?」
巫山戯たように、わざと馬鹿にするかのように言う彼に、全員睨み付けるものの、足を折られた彼女を庇いつつ三人は撤退していった。彼らの姿が見えなくなるまでその場に残り続けた少年は、ふぅっと息を吐き出した。
――先程までずっと浮かべていた微笑みはなくなり、代わりに無表情を浮かべて