第19話 神剣の名~4~
暗くて寒い海の中。次々と気泡が海上へと上っていくのに対し、タクトの体は下に向かって落ちていく。
スサノオから貰った一撃がよほど響いたのか、彼の体はぴくりとも動かない。その手から離れた証も、彼と同じように沈んでいくが、やがてふっとその姿を消した。
証が勝手に消える。――それは、持ち主の意識が途絶えたことを意味する。タクトは海の底に向かって沈みながら、その意識を失っていたのだった。
証が消えたのと入れ替わるかのように、ぶんっと白い法陣が展開され、彼の精霊であるコウが姿を現した。
「世話の焼ける……っ」
普段は小鳥サイズのコウだが、その姿が一瞬にして大きくなり、タクトの体を両足で掴むと水の中で羽ばたいた。――水の中だというのに、それを感じさせない軽やかさで海上へと向かっていく。
タクトはコウに引っ張られながら、海上に持ち上げられた。持ち上げ、体を海の上に持ち上げたコウは、沈まない海に不思議そうに首を傾げる。普通にタクトの体を横たえさせることが出来るのに、何故彼は海の中へ沈んだのだろう。
気になることではあるが、今は置いておく。それにここはクサナギ――スサノオが造り上げた領域。普通は非常識なことが、ここでは常識たり得ることもあるのだ。
幸い、タクトはスサノオの一撃をもろに受けた時に意識を失ったらしく、それほど水を飲んではいなかった。契約を交わした繋がりを以てそのことを感じ取り、呼吸されていることを確かめるとホッと息を吐き出す。
「貴様か、コウ」
「…………」
主人の無事を確かめていると、目の前から声が掛かり、横たわるタクトの体に乗っかっていたコウは突きつけられた神剣を睨み付ける。
「……これは一体何の真似だ? クサナギ」
「……貴様までその名で呼ぶか。俺の名は――」
「私はお前の名など呼んではいない。私は、”この剣”のことを呼んだのだ」
――ぴくり、とスサノオの眉がつり上がる。コウの視線は、剣を持つスサノオではなく、彼が持つ神剣に注がれていたのだ。
「………」
「もう一度問う。これは何の――」
「貴様に答える義理はない。例え同じ主を持ったもの同士だとしてもな」
突きつけた剣を戻し、スサノオは剣を収めながら口を開く。――だが、その答えにこそ、コウはふむと頷きながら、
「同じ主、か。……どうやら、お前はまだタクトのことを“主”と認めているのだな」
「……………」
今度こそ押し黙るスサノオ――いや、クサナギ。相も変わらぬ口の軽さに、コウは複雑な心境となる。目の前の、一見別人に見えるスサノオは、やはりクサナギなのだと。それがはっきりと分かって嬉しい反面、一体何が変えてしまったのかと疑問に思う。
或いは、これが本当のクサナギなのか。コウには分からなくなってしまっていた。
「………試しの儀はこれで終わりだ。ではな。……さらばだ」
「お前……」
コウの問いかけに何一つ答えぬまま、スサノオは片手で印を結ぶ。するとこの世界の海が淡く光り出した。これは――作り出したこの領域を、元通りに――つまり、タクトの寮の部屋に戻そうとしているのか。
だが、コウにとってはそれ以上に重要な事があった。今スサノオは、さらばだと言い切ったのだ。――嫌な予感がする。その別れの言葉には、いつも以上に“強い意思”が込められているような気がして――
「待って……クサナギ」
――弱々しい声が、コウとスサノオの動きを止めた。
「タクトっ! 気がついたのか」
「……クサナギ」
見ると、タクトは横たわったまま首だけを巡らしてスサノオをじっと見続けている。ダメージが抜けきらないのか、その瞳は虚ろで、片手を彼に向かって弱々しく、しかし真っ直ぐに伸ばしていた。
「クサナギ……以前、言ってくれただろう……? 俺に力を貸すって……。………まだ、俺には……クサナギが――」
「――俺の力が必要、か。何度も聞いてきたな…………甘ったれるのもいい加減にしろ」
振り返り、戦っていたときと同様無表情を浮かべたスサノオは、横たわるタクトを睥睨する。脳裏には、何度も聞いてきた言葉が蘇る。
『スサノオ殿。妾にはそなたの力が必要なのじゃ。どうか、妾達に力をお貸しいただけませんかのう……?』
『スサノオ様。某にはあなた様のご助力が必要なのです。どうか某に――』
『お前は俺に力だけを寄越せば良いんだ。力だけをな』
――何度も耳にした、”力を貸してくれ”という言葉。だが、そう言ってきた奴ら皆、スサノオの――神剣の力だけを欲していたのだ。そんな奴らばかりだったからこそ、力を貸すのが嫌になり眠りについたのだ。
――結局、こいつも同じか……。スサノオは落胆と失望が入り交じったため息をつき、タクトに向けていた視線を外し、印を結んでいた右手を振るおうとする。だが、その時に再び弱々しい声が響いてくる。
「……力が、必要なんじゃない。……クサナギにいて欲しいんだ……。家族、だから……友達、だから……っ」
「――――」
タクトの弱々しい言葉に、スサノオの手が止まる。――同時に、あることを思い出した。
――あぁ、そうだ。タクトに仮契約を持ちかけたのは、俺からだった。決して、タクトの方から力を貸してくれとは言わなかった。
――風菜と同様、俺の方から力を貸したいと思ったんだ。神である俺を、人として扱ってくれたから。剣である俺を、家族として迎え入れてくれたから。こいつらの力になりたいと思ったんだ。
「…………」
印を結びかけていた手を下ろし、スサノオは振り向いた。能面のように感情がなかったスサノオは、今は明確な喜びを露わにしていた。
スサノオは――いや、このときばかりは“クサナギ”として、タクトに向けて言葉を放つ。
「タクト。お前は、俺と本契約を交わす気はあるか?」
「……本……契約……?」
横たわるタクトは、途切れ途切れに返す。僅か数秒で意識を取り戻したとは言え、一度は気を失っていたのだ。未だ頭は覚醒状態ではないのだろう、今にも消え入りそうな声で問い返した。
彼の呟きをしっかりと耳にして、クサナギは首を縦に振った。
「もし俺と……いや、私と本契約を結ぶ気があるのなら……お前は、三つほどやらなければならんことがある」
「な……にを……?」
「一つは、精霊憑依の習得。二つ目は、”霊印流の型”の習得」
「…………っ」
――霊印流の型――その言葉を聞き、タクトは数日前のことを思い出す。フェルアント本部に保護されていた時期に、従兄であるセイヤと手合わせをしたのだが、その時にセイヤが見せた”アレ”のことを。
何故今の今まですっかり忘れていたのだろうか。――おそらく、セイヤの一撃を食らった際にすっかり記憶から抜け落ちてしまっていたのだろう。しかし、何故クサナギが”型”のことを知っているのだろうか。
そのことを問い返す余裕はなく、タクトは今にも閉ざしてしまいそうな瞼を何とか持ち上げながら、クサナギを見続ける。
「そして三つ……再び戦うときは、先程のように私に気を遣わず、最後まで全力を以て掛かってこい。……これは試しの儀……私がお前に課した試練だ」
「………」
――やっぱり、見抜かれていたんだ。
最後の最後で、こちらがクサナギの身を案じたことを。クサナギを、友達にして家族である彼を、斬り付けたくない一心で魔力刃を切り払った理由を。
全てを見抜かれ、タクトは己の未熟さと覚悟のなさを痛感する。クサナギに戦いを持ちかけられたときに、自分は何と言った? 俺が勝ったら、何故こんな事をしたのか話して貰う――クサナギに向かってそう吠えたではないか。
勝ったら――つまり勝ちたいと思っていたのに。そして、勝てる絶好のチャンスがあったのに。彼は、それを自らの手で棒に振るったのだ。
一つ目も、二つ目も必要なことなのだろう。だが、今の自分には三つ目が――覚悟が一番足りないことだった。
横たわりながらも、彼はぐっと拳を握りしめ、クサナギを見上げた。彼は、どこか懐かしささえ感じる優しげな笑みを浮かべながら、そっと手を伸ばす。――人差し指と中指だけを伸ばした、印を結ぶときの手の形にして。
「……私は、なじみ深い場所にて、お前を待つ。……覚悟が出来たとき、私を……いや、俺の元へ来るがいい」
――その時に、もう一度試しの儀を執行する――その言葉を最後に彼はぶんっと手を振るって印を結び――次の瞬間、世界は光に包まれた。
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「……ふぅん、なるほどね」
とある世界の、とある場所。そこで金髪の少年は目を閉ざしたまま、感心したように頷いた。
「あの”神様”、ずいぶんと”あの人”を贔屓するね。ま、別に構わないけどね。そうしてくれないと面白くない」
一人うんうんと、楽しそうに、そして嬉しそうに頷く少年。彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、さてとと用事に戻るかのように踵を返す。
「ゼリューにマラガン、タカスも”死ぬ”頃合いだし、戻ろうか」
――穏やかな笑みを浮かべたまま、何の躊躇いなく“死ぬ”と言う少年。もしこの時の少年を見ている者がいれば、ぞくりと背筋に嫌な物が走ることだろう。
躊躇いなく、あたかも嬉しいことがあったことを、親しい友人に話すような気安さと笑みで、人の”死”を告げる彼は、そこはかとなく”危険”な人物であることが感じ取れる。だが生憎、今の少年を見ている人間は誰もいなかった。
「でもまぁ……やっぱり”トレイド”の人形を消されたのは痛かったなぁ……。あんなに便利な奴ってあまり会えないし……本体が優秀だと、人形もそこそこ良いのが出来るよね」
歩きながらも、少年の独白は止まらない。以前、黒髪の青年に潰された――浄化された二体の呪い人形のことを思い浮かべる。この少年は、あの人形の制作者なのだ。
「……ん~……そう考えると、あの三人も役に立ちそうにないなぁ……あの二体と違って、”命”そのものを使ったんだけど……」
ふぅ、と落胆の意を隠そうともしない少年。――この少年は今、人形を作るためだけに、三人の命を使った――三人を犠牲にしたと言ったのだ。何の悪びれもなく、ただ“手駒を増やしたい”という理由だけで。それだけで、この少年がどれだけ歪んでいるのかがわかる。
「そう考えると、あの二体は本当に破格の性能だよ。人の罪の意識だけで、あんなものが出来るなんてさ。……ま、悪神も交じっていたから、その影響もあるんだろうけど」
少年には、あんな“規格外”な人形が出来た理由はわかっていた。あの二体を作る際の“核”にした血液と、その血液に宿っていた“悪神”の力がうまい具合に呪術と結びついた結果だろう。
正直、もう二度とあれほどの人形を作ることは出来ない。何せ、“核”そのものが異質すぎたのだ。核にした血液を持つ男の強烈な“罪悪感”に加えて、悪神――神の力。それらが二つ揃ってようやく作り出すことが出来たのだ。
「……ゼリュー、マラガン、タカス。調子はどうだい?」
ぶつぶつ呟きながら歩いていた少年は、目的の場所へとたどり着いた。その場所では、三人の男達が両手を縛られた状態のまま、宙からつり下げられていた。
――凄惨。現場を一言で表すとしたらその言葉が最もよく似合うだろう。体中至る所を斬り付けられ、または抉られ、大量の血液を流していた。いや、流し終わっていた。
三人の死因は失血死。それも、血を抜かれたの類いではなく、ゆっくりと”流し尽くした”のだ。体中に付けられた傷は全て、血管を斬り裂く類いのものだ。そこから時間をかけて、ゆっくりと死に追いやっていく。
「はは、やっぱり息してないや。ま、分かっていたけどね」
カラカラカラと、凄惨な現場を目の当たりにしても笑顔を絶やさない少年は、足下に溜まる血だまりを見て、一つ頷いた。
「うんうん、三人分の血があれば、もう十分だね。………―――――」
そこでようやく、浮かべていた笑みが消え去り――代わりに、この世の全てを凍えさせるかのような冷たい表情に早変わりする。右手を持ち上げ、ぶんっと一度振るう。
すると、三人が吊されていたすぐ下に光が走り、その光は線を描きながら広がっていく。その線は文字を描き、円を描き、一つの法陣となる。
「―――――」
少年が何かをぽつりと呟き、再度手を振るう。すると、法陣が明減を繰り返し、周囲に広がる血だまりが独りでに動き出す。
法陣の中心に血は集まり、やがてその血液は黒く穢れていく。――その穢れは、吊された男達の“絶望”そのものであった。
体中に傷を負いながらつり上げられて、助けもなく、ただただ己の中の血がゆっくりと、しかし大量に流れていくのを感じながら息絶えていったのだ。その苦しみ、その恐怖、その絶望――いかほどのものだっただろうか。
絶望がしみこんだ大量の血液が、法陣の中心で形を造り上げていく。――そうして出来上がったその形を見て、少年は一瞬ぽかんとした表情を浮かべると、ややあって笑みを溢していく。
「……あははは、なるほど。そういうことか……」
少年は思い出したろくに立てないほど疲労したこの三人を拾ったのはどこだったのかを。――そして三人が極限にまで疲れ果てたその原因と元凶は何だったのか、を。
「馬鹿だねぇ……自業自得だろう? 君達があの子にどんな事をしようとしていたのか忘れてしまったのかい? 助けなんて来るはずがないだろうに……」
しばらく続いた笑みは、瞬く間に呆れへと移り変わる。この三人は、絶望の中で脳裏にある一人の男の事を思い浮かべたようなのだ。――ある一人の少女を助けた、一人の男のことを。三人は、その男のことを恨みながら死んでいったようなのだ。
「それに……君達程度の絶望と恨みで、”アレ”に匹敵する人形が出来るわけないじゃないか」
呆れが最高点にまで達したのか、彼は珍しくため息をついてぶんっと片手を振るう。――すると、”例の男”の姿を形取っていた人形が瞬く間に崩れ去り、元の血液に戻った。
――彼が作る人形は、元となった人物の影響を強く表す。例えば今のように、特定の人物に対し強い感情を抱いていれば、作る人形はその人物を象る。もっとも、象るのは見た目だけで、中身はその感情の強度に比例するが。
犠牲となった三人の絶望の強さも中々のものだ。おまけに命も使っている。――だが、それでも”例の男”には到底及ばない。あの男は、自分と同じ”化け物の領域”にいるのだから。
「全く……君達の未来が読めないから興味を持ったけど……結局そういうことだったのか。期待して損したよ」
無駄な時間を過ごした、とぼやく彼だが、その表情にはあまり落胆は見られなかった。捕まえた三人の未来が一時見えなくなり、どういうことなのかと興味を持ったのだが、どうやらあの男と関わったが故に、一時的に見えなくなったと言うことらしい。
――だが、関わりを持ったと言うことは、あの男はあの世界にいたということになる。それが分かっただけでも、収穫があった。全くの無駄というわけではない。
それに――こうして“無駄な時間”をはっきりと感じられるのも、なかなか悪くはないと思う自分もいる。
「……君達は早々に解放してあげるよ。ゆっくり成仏すると良いさ」
少しばかり気分が良いためか、ぶんと片手を振るう少年。すると、黒い血液からふっと何かが抜けていくのが感じられた。――あの三人の命だ。
もしも呪いを受けたままだったら、彼らの命は呪いに蝕まれたままこの世に残り続けることになっただろう。そう考えると、少年の手から解放されただけでも十分”救われた”ことにはなる。
――例え、命が帰る場所が“あの世”しかないとはいえ。
「さてと……エンプリッターの連中も、そろそろ動き出す頃合いか。手駒は少ないけど……関係ないか」
ふっと笑みを溢しながら脳裏に今まで作り上げた人形のことを思い出す。数は少ない、が――並の精霊使いでは手こずることは必死の強さを持つ人形は、それなりの戦力になる。
それに――
「――――お手並み拝見と行こうかな?」
――不敵な笑みを浮かべて、金髪の少年は片手を振るった。