第19話 神剣の名~1~
「ハァ……ハァ……ッ!」
とある街中で、必死に逃げる一人の少女がいた。平凡な毎日を過ごしていた、普通の少女。仲良く過ごしていた友達と一緒になって遊んだり、家族と一緒に食事をしたり、時には怒られたり、笑ったり――そんな、当たり前の日常が続くと思っていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……っ! ……だ、誰か………っ」
恐怖に少女の顔が歪む。狭く暗い路地裏を、ひたすら走り逃げ続けていた彼女は、ようやく足を止めてそっと後ろを振り返る。先程までずっと後を追い続けてきた男達の姿は、どこにもいない。
――きっかけは些細なことだった。母親から買い出しを頼まれ、露店が建ち並ぶ一角へと向かっていたのだ。街中をぐるりと回るよりも、路地裏を通ればすぐに目的地にたどり着く――そう思った彼女は、迷うことなく寂れた路地裏に入り込んだのだった。
不運が重なり合い、ガラの悪い男達に目を付けられ、襲われかけたのだ。隙を見て何とかその場を逃げ出したものの、今までずっと追われ続けていたのである。
「……ここ……どこ……?」
軽く乱れた服装を手早く直しながら、少女は辺りを見渡して人通りの多い場所へ向かおうと思っていたが――ここがどこなのか、全く見当が付かなかった。追われ続ける内に、知らぬ間に入り組んだ道に入り込んでしまったのか。
「あたし……あたし……っ!!」
胸の内で生まれた怯え、恐怖――それらの感情が膨れあがり、少女は泣きそうな表情を浮かべてぎゅっとスカートの裾を握りしめた。いい年をして迷子、という情けなさもあるが、大半はあの下卑た笑みを浮かべた男達に対してのものだ。
「誰か……助けて……っ!」
「おっと、ようやく見つけたぜぇ~」
「っ!!?」
少女のか細い声を聞き届けたかのごとく、正面の脇道から、男が一人すっと姿を現した。かけられた、若干の笑みが含まれた男の言葉に、少女はびくりと肩を振るわせて後退する。
ニタニタと、それだけで生理的嫌悪感を催す笑みを浮かべる男が、ゆっくりと近づいてくる。少女は男から離れるように一歩ずつ、ゆっくりと後退し――やがて、後ろを向いて全力で走り出そうとする。
「無駄だぜ」
「いよう、子猫ちゃん?」
「っ!!」
――後ろから、先程追ってきていた二人の男がいた。どうやら相当走ったようで、息が上がっていた。――だからこそ、余計に少女の恐怖心を煽る結果となる。
「あっ……あっ……っ!」
腰が抜け、ぺたんとその場で尻餅をついてしまう少女。逆に、逃げ場はないとばかりにいやらしい笑みを浮かべながら男達は少女を取り囲む。
女友達と一緒に、その手の話をしたことがあった。だからこそ、この後自身に襲い来る辱めが容易に想像でき、少女は涙を流しながら後ずさる。
「こ、来ないで……っ!」
「あぁ、来ないぞ? 俺ら以外はな」
ケタケタケタと、楽しそうに笑う男達。ただひたすらに涙を零しながら、来ないでと連呼する少女に、男達はますます下卑た感情を強く露わにさせる。
「そう嫌がるなよ、一緒に楽しいことしようぜ?」
男の手が、少女に向かって伸ばされる――次の瞬間、少女の視界から男の姿が消えた。
「えっ……?」
「は……?」
何が起こったのか分からず、呆然とする少女。突如隣から姿が消えたことに気がついたもう一人の男は、辺りが陰っていることに気がつき、上を見る。――そこでは一人の男が宙を舞っていた。
「……えっ……?」
「て、てめぇ、何しやがった!?」
意味が分からない、といわんばかりの呆然とした表情で口から呟きを漏らす。反対に、少女の後ろにいたため、宙を飛ぶ場面を目撃したもう一人の男は、大声を上げて”その人”に指を突きつけた。
「…………」
「……ぁ……」
少女はそこでようやく気がついたのだ。二人の男の後ろに、もう一人いたことに。
高めの身長に、細くも逞しい体つき。やや長めの金髪は、手入れを怠っているのかややボサボサ気味。だが、左目を隠すように流れているのがやたらと印象的だった。
現在見えている右目は紅く、今は鋭く冷たい光を宿しながら細められている。振り上げていた拳を、すっと下ろし、それと同時に宙を舞っていた男が、彼の背後でドサリと落ちてきた。
――助けて、くれたの……?――
「……ずいぶんと阿呆な事をしているみたいだな」
瞳と同様、声も冷たかった。乱入者であるその男は、じろりと男共を睨み付けている。――本人としては見ているだけなのかもしれない。だが、その眼光と、謎の威圧感から、どうしても睨み付けられていると錯覚してしまうのだ。その圧倒的存在感に、男達は恐れた。
反対に少女は、男に対して安心感が芽生えかけていた。乱入者は、まるで少女を庇おうとするかのように間に割り込んだからだ。男の背中を見て、自ずと警戒感が静まる。
「な、なんだテメェはっ!!」
宙を舞った人物の隣にいた彼は、男の方へ向き直りながら叫び声を上げる。――だが、その語尾は微かに震えている。それを知ってか知らずか、金髪の男は一歩前へと踏み出す。
「――っ!」
「――――ぐっ!!?」
――次の瞬間には、男の鳩尾に肘鉄が打ち込まれている。そこそこな距離があったにもかかわらず、ほぼ密着状態にまで間合いを詰められていたのだ。目をむいて男は驚愕を露わにし、しかし意識を保つことが出来ず、ドサリと少女の近くに倒れ込む。
「て、てめぇ……っ! くそっ!」
「…………」
一人残った男は、敵対者が鮮やかに二人を沈めたのを目撃したためか、踵を返して颯爽と逃げ出した。逃走を開始した男に向かってふぅっとため息をついた後、彼は跪き未だに尻餅をついたままの少女の手を取った。
「大丈夫か? 立てるか?」
「ぁ……は、はい……いえ、その……」
「立てないか、そうか。……すまんな」
「――え?」
腰が抜けてしまったのを見抜いたのか、首を振る少女に対し男は納得したように頷き、次いですまなさそうな表情を浮かべて頭を下げた。その行為に眉を寄せるものの、後ろからトンッという軽い衝撃を感じた後、少女の意識はそこで途切れてしまった。
「……すまないな…」
少女の首に手刀を当てた男は、少女が意識を失ったのを確認すると二度目の謝罪を口にし、そっと横たわらせる。先程の謝罪はこれのことだ。ここから先に起こす行為、まだ十代の少女には見せたくはなかったのだ。
「さて――」
男は立ち上がり、右手を持ち上げてクイッと指を折り曲げる。――次の瞬間、遠くから驚きと恐怖が入り交じった叫び声が聞こえてくる。その叫びは、次第に大きくなり――
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!? あぐっ!!」
――頭上から、叫び声を上げながら逃げ出した男が落ちてくる。彼は金髪の男の足下に投げ出され、ぐっと踏みつけられた。
「……さて……」
「ひ、ひぃっ!? お、お前、一体……何なんだっ!?」
金髪の男は静かに、冷たさを持った声音で男を見下ろした。その視線と謎の威圧感、そして先程急に空を飛び、地面に叩き付けられた驚きと恐怖に震える男は、擦れた声を上げた。
「……もう二度と会うことがない奴に言っても、意味がない」
「っ!?」
――もう二度と会うことがない――その言葉に、地面に伏した男は嫌な予感を覚えた。まさか俺は、ここで――
「ま、待ってくれっ! お、俺は……っ!?」
紛れもない“死”の予感を覚え、心臓の高鳴りが収まらない。男は恐怖に震える声音で、もう一人の男に助けを求めようとして――
「……さよならだ」
その言葉を耳にして、全身に激痛と熱、そして謎の痺れが走り、目の前がまぶしく光った。悲鳴を上げる余裕もなく、視界が白くなったり黒くなったりを繰り返す内に、男の意識は完全に闇に落ちていった。
「落ちたか。この阿呆共が、しばらくはベッドの上で養生しているがいい」
”電撃”を男に打ち込んだ彼は、ふんっと鼻を鳴らして気絶した男を足で転がし、うつぶせから仰向けに変えてやった。口から涎と涙を流しながら白目をむいている男の顔面を見るなり、表情をしかめる。
「……腰抜けには良い面だな。逃げ出さなければ雷など打ち込まないというのに……」
もしこの男が、真っ正面から向かってくるのであれば、先に沈めた二人と同様体術のみで仕留める腹づもりだったのだが、逃げ出したこの男の背中を見るなり、呆れ果て性根をたたき直すつもりで雷を打ち込んだのだ。
「大の男が集団で少女を襲い、無理だと思ったら即座に逃げ出す……元気が有り余っている腰抜け共だ。その元気……悪いが使わせて貰うぞ。嫌とは言わせん」
――嫌と言う口さえ今の彼らにはないのだが。有無を言わさぬ口調で男は呟くと、懐から一冊の古びた本を取り出した。一見変哲もない古びた本だが――もし、男の“同業者”がいれば、表情を青ざめさせること間違いなしだろう。
その本は、凄まじいまでの”魔力”を溜め込んでいた。その魔力を全て解放すればどうなるのか、本人でさえ計り知れないほどの魔力を。
「………」
男は無言で本を開き、一切ページには触れていないにもかかわらずページがパラパラとめくられていく。その中から三枚ほどページが飛び出し、倒れ込んだ三人の近くでふわりと宙に止まる。
――ドクン――
本が脈動する。それと同時に、宙に浮かぶページも脈動し、光を放った。その光は、それぞれ男達の体を包み込み、”何か”を吸い取っていく。
「あっ……ぐぅ……」
「うっ……つぅ……」
三人の内二人――男に体術で倒された者達だ――は、呻き声を上げてその場でもがく。電撃を浴びた男とは違い、意識を取り戻しかけていたのだろうか。ともあれ、これで再び意識が遠のいていくことだろう。もがいていた彼らも、やがてその動きを止めた。
「………」
やがて光がおさまり、男達から”生気”を吸い取ったページはひらひらと宙を舞い、男の持つ本に挟まれた。それを確認した彼は、パタンと本を閉じ――
「……向こう一ヶ月は大人しくしておくんだな。……婦女子を襲おうなどという馬鹿げた考えが浮かぶ元気は、もうないだろうが」
生気を搾れるだけ搾り取ったのだ。おそらく今の彼らは、例え目を覚ましたとしても立ち上がるのでさえ困難な疲労感と脱力感に襲われることだろう。
「さて……」
本をしまい込んだ男は、先程気絶させた少女の元に歩み寄り、ため息をついて膝と腰を抱えて持ち上げた。見た目以上に軽い少女に、ちゃんと食事を取っているのかと疑問に思うのもつかの間、男達を放置して人通りのあるところ目指して歩き出した。
「――――かい?」
「……ぅ……」
肩を揺さぶられる感覚によって、沈んでいた意識が持ち上がってきた。必死に意識という名の紐を引っ張り続けているうちに、五感がはっきりし出し、瞳をゆっくりと持ち上げていく。
「ここ……は……」
「よかった、気がついたかい?」
目の前には、見知らぬ年配の女性が心配そうな表情で見つめていた。よく見ると、周りに人だかりが出来ており、自らを取り囲むような形になっていた。
「えっと……私は……」
見ると人通りの多い場所で、建物の壁に寄りかかる形で座り込んでいる。微かに痛む頭と首の裏側に手をやり、顔をしかめながら何故ここでこんな形でいるのかと考え――そして思い出した。
「私……っ!!?」
「ちょ、ちょっとっ!?」
――ガラの悪い男達に目を付けられ、襲われかけたところを男の人に助けられた――何故意識を失ったのかは微妙に思い出せないが、そこまでを思い出した彼女は立ち上がり、辺りをキョロキョロと見渡す。
「あんた、大丈夫かい……?」
「あ、あの、すみません! 金髪の人知りませんか!? こう……長い前髪を左側に垂らしている……」
「……いや、知らないねぇ……その人が、どうしたんだい?」
最初に問いかけてくれた気の良い年配の女性が首を振る。少女は周りの人達にも視線で語りかけたが、誰一人首を横に振るのみだった。
「そんな……」
助けてくれた、のだろう。確証は持てないが、状況的にそれ以外考えられなかった。
――せめてお礼を言いたかったのに――
「ありがとう」の一言も言えることが出来なかった。少しだけ俯き、少女は先程助けてくれた男の事を思い浮かべていた。
~~~~~
「………」
夜風に当たるクサナギは、感情を見せない瞳で月を見上げていた。
フェルアントから地球へ、桐生邸に戻ってきていたクサナギは、おそらくしばらくは味わえなくなるお気に入りの酒を口にしていた。珍しくいつもの子人ではなく、成人男性――180を超える大きさになっていた。
酒を飲むときは子人の姿――体が小さければ、より多くの酒を飲むことが出来るからだと笑っていた彼だが、一体何の心境の変化なのだろうか。
「珍しいわね、クサナギがその姿でお酒を飲むなんて」
「風菜か。何、私とてこの姿で飲みたくなるときはある」
桐生邸の縁側にて、いつもとは違った様子でくつろぐクサナギに、タクトの母である風菜は同じように縁側に腰掛けていた。彼女の隣には当然とばかりに車いすが置かれている。
「それに、私と一緒にお酒を飲もうなんて。一体どういう風の吹き回しかしら?」
「む、不躾な邪推にもほどがあるぞ? 私とて、たまには女性と飲みたくなるときはある。例えそれが、見た目”だけは”若々しい傷物であっても…………所で風菜、お主の胸元にゴミが付いて――」
「ゴミなんて付いていません」
風菜の胸元に伸びたクサナギの手を、ぴしゃりとはたき落とす。自然な動作で女性の体に触らないで欲しいと心底思う。しかも見た目”だけ”とか、”傷物”とか、セクハラ発言にもほどがある。
「くっ……! 二十年前はふとした瞬間に触ることが出来たというのに……っ! ガードが固くなったぞ!」
「……そろそろ兄さんと話し合って、貴方をフェルアント本部の神器保管庫に送り込もうかしら」
「スミマセンこの通り謝りますからそれだけは勘弁して下さい」
――先程まで縁側の上で足を伸ばしていたクサナギは、瞬く間に土下座をして頭を下げる。神器保管庫――要するに封印されて物置となることだ。
剣は振るわれてこそ価値を表すもの、を信条とするクサナギからすれば、置物扱いはごめん被りたいことなのだろう。
「それにしても……二十年かぁ……」
土下座をしているクサナギを一睨みした後、風菜はそっと左手を月にかざし、薬指にはめられている指輪をじっと見やった。顔を上げたクサナギは、彼女の悲しげな視線に気づき、体を起こしてそっと息を吐き出した。
「……正確には、十七年前……あの改革が終結した直後……子供達が生まれた後、だったか……」
「……えぇ、そうよ。”あの人”が旅立ったのは……」
優しげな声音と口調、だがその根底には一抹の悲しさと寂しさが混同している。――健気だな、とクサナギは酒をあおる。
愛する夫の旅立ちを見送り、必ず帰ってくると言う約束を信じて待ち続け――その姿、その姿勢は、どこかクサナギにとって思い入れのある女性のことを思い起こさせる。
『何があっても、私は貴方と一緒にいたいのです。例え貴方が神様でも、この思いは変わりません』
「…………」
――思えば――今思えば、その女性に出会ったことがクサナギの運の尽きだったのかも知れなかった。
太陽はこうなることが分かっていたのだろうか。月はこうなることを予見していたのだろうか。
――いや、それはない、と自ら否定する。神とは言え、全知全能ではないのだ。出来ない事は、必ずある。
神というのは、人々の意思の集合体――主に信仰が集まって生まれるものだ。神がいて、人々がその神を崇めるのではなく。人々の祈りや願いが器となって、神が生まれるのだ。
「……奴は帰ってくると、今でも信じているのか……?」
クサナギは、酒が注がれた杯を傾けながら風菜に問いかける。――人の意志の強さ、その象徴とも言えるクサナギの問いかけに、彼女はいつもと同じ微笑みを浮かべながら頷いた。
「えぇ、必ず帰ってくる。帰ってきて……またここで、子供達と一緒に暮らせる。私はそう信じてる」
いつもと同じ、全く変わらぬ返答に、クサナギは彼女の意志の強さを再確認し、自然と口元がつり上がるのを押さえられなかった。
「そうだな……」
――現実を見れば、彼女の言葉は、彼女の願いは、叶うはずのはい夢物語に過ぎない。だが風菜はそれを、“絶対に叶う”と信じて疑わない。それほどまでにあの人を信じているからだ。
「……アイツは、約束を違えない男だからな……」
「えぇ」
クサナギの呟きに、風菜はどこか誇らしげに頷いた。そんな彼女に対して苦笑しつつ、クサナギはまだ残暑の残る秋口、庭にどっしりと構えた桜の木に視線を向ける。大きさと、今枝に付けている葉こそ違うものの、この木はタクトの心象風景にあった木そのものであった。
「……そういえば、まだアキラにも言っていないことがあったな」
「?」
「いやなに……タクトが心象術の心得を得たということは話しただろう」
心象術――その言葉が出た瞬間、ぴくりと風菜の肩が震える。それに気づきながらも、あえて気づかぬふりをしてクサナギは続けた。目線を庭に植えてある、立派な桜へと向けて。
「あいつの心象世界に、あの桜の木があってな。……一つ疑問に思っていたんだが……あいつ、この木に対して何か特別な感情を抱いている節はあったか?」
「…………」
「………風菜?」
思いがけない問いかけだったのだろうか。彼女はクサナギの問いかけに呆然とし、問いかけられてようやく我に返った、といわんばかりにハッと目を見開き、
「え……そ、そうね……最近はそんなんでもないけど、昔はよくあの木に登ったりしていたわね……今は分からないけど、小さい頃はあの木が気に入っていたみたいね」
「なるほど……そうか、やはり血は争えんか……」
「ど、どういう意味よ?」
少しばかり上擦った声音で風菜はクサナギを睨み付ける。だが、クサナギはその視線をどこ吹く風とばかりに受け流し、
「そのままの意味さ。……私は知っているぞ? あの桜が満開だった時期に、あいつに自分の思いを打ち上げただろう?」
「な、なっ!!?」
思いがけない暴露に、風菜は素っ頓狂な声を上げて顔を真っ赤に染める。まさかあの告白現場を見られていたとは。しかも目の前の此奴に。わなわなと振るえる風菜はよそに、クサナギの暴露は続けられた。
「しかもお主ら、その日の夜にお互いに愛を確かめ合ったよな? いやはや、若いというのは元気でごぶうぅっ!!?」
ギリギリギリギリ、と身を乗り出した風菜がクサナギの喉を締め付けた。容赦など全くない、全力の締め付けに流石の神様も顔を青白くさせ、風菜の腕をペシペシ叩いた。降参の意だ。
「ぶはぁっ!! し、死ぬかと思ったぞ……」
「バカッ!! セクハラッ!! 神様なんだから死なないよね!? ……永遠に苦しませましょうか!?」
「このことは絶対に口外しないことを誓おう。なんだったら、あの忌々しい誓約を交わすことやぶさかではない」
にっこりと素敵な笑みを浮かべたまま右手を持ち上げる風菜に、クサナギは大真面目に、それこそ土下座をして頭を下げた。――彼女は精霊使いとして大変優秀である。言ったとおり、こちらを永遠に苦しませるぐらいのことなど平気でやってのけるはずだ。
「……私とて、口にして良いことと、良くないことの区別は付いている。現に当時、アキラは全く知らなかっただろう?」
「それは、そうだけど……なんか、バレてるって言うのはあんまり……」
ぶつぶつと文句を漏らす風菜。今でこそ大分落ち着き、もはや見る影もないが、当時のアキラは大変なシスコンであった。妹に近づく悪い虫にはその眼光を光らせていたし、現に”彼”にも(一方的に)何度もぶつかり合ったことがあったりする。
クサナギの暴露を当時のアキラが聞けば卒倒し、即座に”彼”と本気の死闘を演じていたことだろう。当然そんなことはなかったため(疑ってはいたようだが)、ばらしていないというのは本当なのだろう。
それでも納得いかないというのが人の心、乙女心という奴だろう。ぶつぶつと呟く彼女に対し、クサナギはついっと肩をすくめてみせる。空になった盃に、愛用の酒を注ぎ、そして次に風菜のガラス製のコップにもその酒を注いでやった。
「……クサナギ?」
クサナギの行動に、目を丸くして困惑する風菜。たまには一緒に月見酒でも、と酒の席を勧めてきたのはクサナギだが、そんなクサナギが自分から他人のために酒をつぐのは初めてであった。
「……お主とのこんなやりとりも、しばらくないと思うと、な……」
あくまで穏やかに言うクサナギに、風菜は違和感を抱き、すぐにその違和感の正体を悟った。――いや、“感じ取った”という方が正しい。何せ――
「”我が主”よ。私との契約を解除して欲しい」
――クサナギとは、“契約”という名の繋がりがあるのだから。
「………タクトに、試練を課すの?」
クサナギの言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。そして理解すると同時に、彼女は視線を落としてそう問いかける。
クサナギと風菜が結んでいる契約は”本契約”。つまりクサナギの本当の主は、彼女なのだ。
契約の解除――それはつまり、主の鞍替えを意味する。やはりクサナギは――
「あぁ。仮契約で、あの子は私を……“俺”を振るうに足る資格を、この短期間で示してくれた」
風菜の疑問に答えるかのように、クサナギは微笑を浮かべる。両者の表情は対になっていた。穏やかに、だが悲しげに微笑むクサナギと、悲しげに、しかし微かな喜びを露わにする風菜。――そして、タクトと同様、自らを”俺”と呼んだクサナギに、風菜はぽつりと口を開く。
「……そっか……あの子も、クサナギに……貴方に認められるぐらい強くなったのね……」
「あぁ……お主にとっては、複雑だろうがな……」
「……そうね。……でも、私は……やっぱり、私たちは……っ」
「家族を失いたくない――その気持ちは、私には察することしか出来ん。だからこの十七年間、置物として扱われることに異論は挟まなかった。だがな……子を守るだけではだめなのだ」
――鳥かごの中で大切に育てた鳥は、外の世界に放たれた途端死んでしまう。生き方を――飛び方を知らないから。
「俺は、あの子が辿る”運命”を……あの子が背負っている”宿命”を知った。その運命の通りに進めば、あの子は間違いなく命を失う」
精霊王、王の剣、王の杖――伝承をひもとけば、それが一体どうなったのか分かるというもの。伝承によれば、王の剣は、王の杖と共に死んだとされている。そしてタクトは、王の剣の生まれ変わり。――つまり彼は――
「――だから私は、子の助けになる……子の力になる……そうしようと決めたのだ」
「……クサナギ」
「忘れたか? 私がこの家に来たのは二十五年前……私にとっても、セイヤもタクトも、大切な”子”なのだぞ?」
「――っ!!」
クサナギの言葉に、風菜は目を見開き驚愕を露わにする。クサナギの本心にようやく触れた気がしたのだ。
思えば、この家に来た当初のクサナギは、どこか一歩距離を置いた様子だった。それが一体いつ頃からだろうか、すぐ側にいるのが当たり前の、大事な――大切な家族になっていた。
それはクサナギも同じ。いつの間にか彼らのことが、大切な存在になっていた。
――特定の人間に好意を抱き、特定の人間の行為を祈る。時に導き、時に試練を与える役目を持つ神としては、神様失格だろう。
――”だからどうした”――それが、クサナギの――いや――
「……――――……」
風菜は、弱々しくクサナギのことを別名で呼んだ。久しぶりに呼ばれた、“本当の名”にクサナギは、ふっと微笑みを浮かべる。
――それがクサナギの本心だった――
「……貴方なら、あの子を守れるの……?」
「俺としては、あの子を縛り付けている馬鹿げた運命をぶった切るつもりだが?」
縁側に腰掛けていたクサナギは、すっと立ち上がる。庭に降り立ち、ぺたんと座り込んだ風菜の目の前に回り込み、片膝をついた。――主に対して、敬意を示したのだ。
『前マスター、桐生風菜よ。我と結びし契り、この場、この時を以て破棄。……同意を求む』
いつもとは違う、淡々とした口調で告げるクサナギ。そんな神様に、風菜はぎゅっと拳を握りしめ――
「一つだけ言わして」
『なんだ?』
「あなた”も”家族よ。だから……子供達と一緒に、必ず帰ってきてね」
『……………もちろんだとも』
一瞬の間を置き、クサナギは穏やかに微笑みながら快諾した。長年付き添ってくれた神剣の、そして頼りになる家族の笑顔に、風菜はコクンと頷いて、
『この場、この時以て、クサナギとの契約解除に同意します』
『――契約解除確認――』
彼女の同意するという言葉によって、風菜とクサナギ、この両者を繋いでいた絆は、ここで途切れた。――ぽっかりと胸が空いたような寂しさを、強く感じてしまったのだった。
片膝をついていたクサナギは立ち上がり、その場で素早く印を結ぶ。すると、クサナギの姿が急に薄まりだした。転移の術――その行き先は、もはや繋がりのない風菜でさえも察せられた。
「……いくのね?」
「あぁ……元々この家に来たのは、お主との契約解除と……最後の酒と挨拶が目的だからな」
転移の行き先はフェルアント。向かう先は仮契約を結んでいるタクトの元。
「クサナギ!」
姿が薄れていく彼を見送り、風菜は呼びかける。
「”またね”!」
「………あぁ、”またな”」
”また会おう”――約束を交わして、クサナギの姿は消えていった。