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精霊の担い手  作者: 天剣
2年時
123/261

第11話 歩みを進める二人の剣士~1~

重い荷物を担ぎつつ、全速力で長い階段を駆け上がる行為は、精霊と契約を交わしていなければ到底出来ない事だっただろう。


いや、”金銀”がたくさん詰まった荷物を担ぎ走り抜ける以前に、こんな事をする方が無理だっただろう。そう、担いだ袋の中身は、今夜忍び込んだ商人の豪邸から盗んだ大量の金貨銀貨であり、袋を背負った黒衣の彼は、盗賊であった。


ーー彼が盗みを決心したのは、ただある所を助けたい、その一心であり、そこへの援助として使っているのみ。自らが盗んだ金貨を、私欲に使うことはしなかった。その観点から言えば、盗賊ではなく義賊なのだがーーしかし、盗みを働いている点では、盗賊と変わりはない。


(……音って、風の一種だったんだな)


(正確に言うならば、空気の震えだ。なら、風で空気の震えをなくしてしまえば、音は小さくなる)


盗賊である彼は、走りながら担いだ荷物、そこに浮かぶ緑色の法陣を一瞥し、感心したように心の中で呟いた。その呟きは、彼と契約を交わした精霊に届いたのか、注釈を加えて返してくる。


彼が背負った袋には金貨銀貨がたくさん入っており、その状態で階段を全速力で駆け上がれば、それ相応の騒音が響くはずである。だが、金貨同士がぶつかり合うジャラジャラという音は、微かにする物の、耳を澄まさなければ聞こえないぐらいの小ささであった。その秘密は精霊が言った、「音は空気の震え」にあった。


風は空気の流れである。それは、震えである音と似ており、故に震えを風である流れによってかき消すことさえ出来る。袋に浮かぶ緑の法陣は、風属性の魔法が発動していることの証であり、音を小さくしている何よりの証でもあった。これは、うまく扱えば無音にすることさえ出来る。


ーー無音にすることさえ出来る、のだが。微かに音がするところを見ると、どうも盗賊の彼は、風属性の魔法が不得手な様子であり、それは事実であった。


だが、このように”袋だけ”という、きわめて局地的な範囲を限定して空気の流れを変えることは難しく、それを考えれば大した物だ、と契約を交わした精霊は思っている。


ーー彼は契約を交わしてから、まだ数ヶ月しかたっていないというのに。しかも、”音は空気の震え”という科学的なことさえ知らない、無知な少年が、だ。


たった数ヶ月で、よくここまで成長したものだ、と精霊は彼にその考えが届かないよう独りごちた。


一方、地下二階から地上四階の屋上にまでたどり着いた精霊使いである少年は、流石に疲れたのか、へろへろになり息を荒げている。袋に浮かぶ法陣が消えないように、そして扱いが不得手な風を操りながら重い荷物を担ぎつつ、全速力で六階分の階段を駆け上がったのだ。そうならない方がーーむしろ、良くそれで済んだな、と言わんばかりのことを成し遂げていた。


彼は知るよしもなく、また精霊も控えめな評価を下していたためわかりづらいのだが、現職の精霊使いがこのことを聞いたら、「化け物か」と口の端を引きつらせていただろう。


とりあえず屋上に出た彼は、そこで数分待って息を整えた後、夜空に浮かんでいるはずの月が、雲に隠れているのを確かめたあと、ベルトに引っかけていた小さめの袋から、先端にかぎ爪の付いた鎖を取り出した。


これは先日、その辺の土を彼が得意な土属性の魔法で一時間かけて錬成し作り上げた物で、細い鎖の外見に似合わず、かなりの強度を持っていると自負している。それこそ、足下に落とした金貨銀貨がたくさん入っている、常人には持ち上げるのでさえ大変な重さのある袋を吊しても大丈夫なほどに。


ちなみに、精霊に言わせると「だいやもんど」なみの堅さがあるようなのだが、貧乏人である彼にはそれが何なのかわかっていなかったりする。


「ーーーー……よし、と」


取り出したかぎ鎖を見やり、一言呪文を唱えると、かぎ爪部分に茶色の法陣が浮かび上がり、かぎ爪がぐわっと開いた。それを確かめた後、屋上の端にかぎ爪を当てて少し念じると、開いた爪が閉じ、しっかりと食い込んだ。


その後二、三度かぎ鎖を引っ張り、抜けないことを確かめると彼は鎖の反対側に先程の袋を取り付け、持ち上げる。その重さに微かにバランスを崩すもすぐに立て直し、持ち上げたまま屋上からぽいっと袋を落とす。


屋上である四階から地上に向かって落ちていく袋は、だいたい二階あたりーーの、少し下でぐんっと鎖に引っ張られ、落下を停止。それを見て、彼はにんまりと笑みを浮かべる。だいたい予想通りの辺りに泊まったからだ。


その後、彼も屋上から飛び降り、屋上から吊らされている袋を足場にして着地。ゆらゆらと激しく揺れるそこに一度降り立ち、彼は一息入れて再び飛び降り地上に着地した。


「ーーー………ったっ!」


彼は、地上からでは見えないが、鎖のかぎ爪に浮かぶ法陣に意識を集中させると、宙にぶら下がっていた袋がいきなり落ちてきた。それをうまくキャッチしーー続いて落ちてきたかぎ爪が、彼の頭部にぶち当たった。


両手は袋を持って塞がれているため、痛む頭部を押さえられずに呻く彼は、キッと足下に転がるかぎ爪へと視線を向ける。


「ーーー……ち。……おい、笑うな」


(………)


忌々しげに睨み付けた後、自身の中で相棒である精霊が軽く吹き出したように感じられ、つい口調を荒げてしまう。かぎ爪に浮かんでいる法陣に意識を向け、かぎ鎖を錬成。元の”土”へと戻した後、彼は袋にこびりつく泥を払い落とし、担ぎ上げる。


「……よし、行くか」


 ~~~~~


「だからさぁ、あんたはもう少し回りのことも考えてよって言ってるの! 自分だけで突っ走るな!」


「考えてるさ! ちゃんと全員付いてこれるようにスピードを落としてるぞ、俺は! 第一、それを言ったらお前のほうが考えてないだろう! あっちこっちにっちさっち、お前はどこ行きたいんだ!」


甲高い女性の声と、落ち着いた低い声ーーしかし、荒げた声を発しているーーが響いてきて、ふと”彼”は顔を上げる。そちらに目を向けると、男女一人ずつが向き合っておなじみの口喧嘩を繰り広げていた。


堅く無造作に積み上げられた石の上で頬杖をつき、こっくりと泳いでいた”彼”は、周囲のことを全く気にしていないほどの音量で繰り広げられる喧嘩によって起こされたのだろう。眠気を振り払うかのように首を左右に振り、腕を伸ばして伸びをする。


「……ん~……僕、寝てた?」


「む、起きたか」


ふぅっと息を吐きながら言った言葉に、すぐそばにいた年嵩の男性が微笑みながら声をかけてきた。青年期を過ぎて四、五年ほどたち、恰幅が良くなってきたその男性は、”彼”の言葉に頷いた後、喧嘩を繰り広げる二人に視線を向ける。


「しかし……相変わらず、仲の良いことで」


「誰がだ!」


「誰がよ!」


ぽつりと呟いたはずの言葉を、何故か二人は聞き逃さず、二人同時に否定する。ーーそれが仲が良い証拠だろう、と突っ込みたい気持ちはあるが。それをやったら火に油を注ぐだけである。故に、年嵩の男性は何も言わず、髭を撫でながらただ肩をすくめるのみ。


ーーだが、火に油を注ぐ勇者がいた。


「その申し合わせたかのようなタイミングの良さが、仲の良い証拠なんじゃないかなぁ~」


ひょいっと男性の肩に上り、そこから顔を出して口喧嘩組の二人に油をじゃんじゃん注ぐ少女が、にんまりと悪い笑みを浮かべ、


「ねぇ、二人とももう認めたら? 本当はもう、お互いに好きで好きで仕方がないって事」


「……えっ?」


「だ、誰が認めるかそんなこと! こんな人様に喧嘩を売ることしか出来ない、暴れじゃじゃ馬女のこと! こんな奴のことが好きな奴がいたら、そいつの顔を見てみたいわ!」


「ムカッ! それどういうことよ!」


少女の言葉を受け、目を見開き惚けてしまった女性だが、すぐに場を取り繕うようにして違うと言い張った男の言葉にカチンと来たのか、再び喧嘩が始まってしまう。そんな二人を目の前にして、石にどっかりと座り込んでいる”彼”は、ふぅっと大きくため息をついて、心底疲れ果てたかのように呟いた。


「……もう好きにやっていて……」


「うぁ~大変だぁ」


「いや、お主のせいだからな? しかし……この二人のやりとりは、見ていて心が和む」


他人事のように呟く少女を窘め、男性は微笑ましい限りだ、と顎髭を撫でつけながらコメントする。この二人がお互いに相思相愛であるということは周りの目から見ても明らかなのだが、本人達は頑なにそれを否定している。


「この光景、一歩引いて冷静に眺めれば、自分たちがどれだけ恥ずかしいことしているのかわかるのかしら?」


「姉さん、それは流石に……」


「お、来た」


ギャーギャーと口喧嘩が止まない二人を微笑ましい様子で見守る三人の後ろから、三人目の女性の声と、その内容に対してどうかと苦笑する少年の声が響き、”彼”は背後を見やった。


新たにやってきた二人組のうち、少年のほうは”彼”と視線が合うなりよっと片手を上げて笑みを浮かべる。それに対して”彼”のほうも同様の仕草と笑みで返し、


「お疲れ様。お互い、父さんに付き合わされるのは辛いな」


「そう思うのなら、お前のほうから何か言ってくれよ、頼むから」


他愛ない言葉に、他愛ない言葉で返す友人と拳をぶつけ合う。そんな友人同士の行いを見た少年の姉は、満面の笑みを浮かべて少年の頭をなで回し、なで回される方はあたふたと慌ててその手を振り払う。


「子供扱いするなよ!」


「何いってるの、子供のくせに」


なおも暴れる少年の頭なで続けたが、やがて堪能したのか、姉は”彼”のほうに視線を向けて、


「親父さんと弟君は、もうすぐ来るよ。……全く、ここに行くぞって声かけたのは親父さんのくせに、何で一番最後なのかねぇ?」


「やれやれ、困ったお方だな。そろそろ、自由人的行動は慎んでもらいたいところなのだがな……」


ふぅっとため息をつきながら年嵩の男性は呟いた。話題に上る”彼”の父親と最も付き合いの長い彼だが、未だにその行動パターンの全てを読み切ってはいない。唯一の例外が、”彼”の母親であろう。


彼らの会話を聞きながら、”彼”は苦笑を浮かべて視線を彷徨わせる。


今彼らがいるのは、雲を突き抜けるほど高い山、その山頂であった。辺りに草木はなく、切り立った山頂から下を見下ろせば、すぐそこに雲があり、それが際限なく海のように広がっている。


そして、今彼らを照らす夕焼け。それがたまらなく綺麗で、”彼”は思わず見とれてしまう。


その景色は、”彼”が今まで見てきたものの中で一番美しいように思える。ーーそれはきっと、今周りにいる、心を許し、同じ釜の飯を食べた”仲間達”とともに苦難を乗り越え、この山を登り切った達成感からくる美化もあるだろうが。


それでも、”彼”には美しく感じられた。今目にしているこの光景が美しい、それは間違いなく事実である。


「おぉー、わるいわるい。全員揃ってるなぁ~」


夕日をじっと見て物思いに耽っていた”彼”は、背後から聞こえる新たな声にハッとし、そちらへ視線を向ける。見ると、口喧嘩をしていたはずの二人さえも喧嘩を止め、新しい声の主へと向き直っていた。


振り返り、真っ先に目に映る人物を見て、”彼”は思わず頬が綻ぶ。その人物こそ、”彼”の父親なのだ。そして、その人物に付き従うようにして後を追うもう一人の男が、”彼”の弟である。あらゆる面で兄である”彼”を凌駕する、非常に出来た弟だ。


「おせぇよ! 主役が遅れてどうするんだ!」


「いやいや~、主役は遅れてこそ主役でしょ?」


「そうそう、いっつも遅れてくるのよねぇ。しかも遅れてくるくせに、助けに入るときは絶妙なタイミングなのよ。……もしかして、狙ってる?」


「いや、まさか。………まさか、よね?」


「え? いつもタイミングを狙っているんじゃないの? 僕はずっとそう思ってたんだけど」


「うむ、私もそうではないか、と」


「………お前ら」


少し遅れただけなのに、この言われようである。”彼”の父親は、仲間達からの親しみと疑念の交じった言葉に、頬を引きつらせ、怒りに震える。タイミングを計っているとか、そんなことはない。むしろーー


「俺が来たときに毎回ピンチになってるお前らはちったぁ成長しろ!!」


『……スイマセン……』


拳を握りしめながら吠え立て、疑念の声を漏らしていた六人全員ぶん殴る。よほど痛かったのか、全員頭を押さえながら謝罪するという光景は、何ともシュールであった。


「父さん、いきなり殴るのは良くないだろう? それに、何で僕たちをここに呼んだのさ?」


殴られた六人を気遣い、父親を諫めつつも話を先へ進ませようとする”彼”に、”彼”の弟は肩をすくめて代返する。


「父上から大事な話があるらしい。ただ、それが何なのか、私もわからないが」


ーー弟のくせに、相変わらず老成した言葉遣いである彼に、そうかと微かな笑みを浮かべて流した。その何もかもを見通すような鋭い光と静けさを持つ瞳を前にすると、どうも調子が崩れる。ーーだから”彼”は弟が苦手なのだ。


「父上」


「へぇーへぇ。ま、話っつっても、そんなご大層なもんじゃない」


弟が父親を催促し、それに気のない返事をして父親は前へと進み出る。皆がいる場所よりも一層切り立った崖まで歩くと、そこで振り返り皆を見渡した。先程”彼”が見とれていた夕日と、眼下に広がる雲海を背にして、父親は口元に笑みを浮かべ、


「実はなーー」


 ~~~~~


うっすらと差し込んできた光によって、彼ーー桐生タクトは目が覚めた。ゆっくりと瞼を持ち上げた先には、岩肌が露わになっている洞窟の天井があり、視線を巡らせると洞窟の入り口に掛かった布から光が透けて漏れてきている。


その光によって目が覚めたのだろう。そしてそれは、時間帯が朝になった証拠でもある。故にタクトは寝袋から起き上がり、一つ伸びをして体をほぐす。


「いたたた……」


寝袋があるとはいえ、地面の上で横たわりぐっすりと眠っていたために、体中筋肉痛となっている。体をほぐすたびに来る痛みに耐え、タクトは立ち上がり、髪の毛をかきむしった。


長く伸ばしたセミロングの黒髪を下ろしたその姿は、彼の顔立ちと寝ぼけ眼も相まって、完全な少女にしか見えない。軽くあくびを漏らしながら入り口に掛かった布をどけると、そこには火をたき、その上で深底の鍋をかき回している旅の同行者がいた。その鍋から良い匂いが漂ってきて、タクトは思わず表情が綻んでしまう。


「おはよう、トレイドさん。何作っているの?」


「おう、おはようさん。野菜やら鶏肉やらをぶっ込んだ、塩味をきかせた鶏ガラのスープ。それとパンだな」


「説明きくだけで美味しそうです」


「あと少しで出来る。近くに川があるから、そこいって顔洗ってこい」


スープをかき回す、タクトよりも少し年上ーーに、見えるがもう二十七歳ーーの黒髪の男が、苦笑を浮かべてタクトに告げる。すると彼も、まだ眠気が完全になくなっていないのか、「わかりましたぁ」と少し間延びした声を出して川へ向かっていく。


ふらふらとした足取りで歩いて行く彼を見送り、トレイドはスープをかき混ぜていたお玉を鍋から上げ、ふぅっとため息をついた。


「なぁクサナギ。あいつって、寝起き悪いのか?」


「まぁ、あまり良くはないな。かといって悪い方ではないが……ここまで寝起きが悪いのが続くのは、初めてだな」


思わず、彼は自分の黒髪の上にいる、身長三十センチ程度しかない銀色の子人に問いかけた。クサナギと呼ばれた子人は、トレイドが作った彼用の小さな皿を傾け、首を傾げる。


「それに、夜は良くうなされているが、朝になるとぴんぴんしているな。それも気になる」


クサナギは現在、タクトと仮契約を結び、彼の精霊のような存在となっている。なぜなら、タクトは精霊使いとしての力を一度失い、少し戻ってきたと言っても力不足は否めない。そんな彼の力となるべく、クサナギは彼と契約を結んだのだそうだ。


また、臭内は普通の精霊とは一線を画しているためか、魔力の消費なしで実体化していられるらしい。そのため、実体化した状態で主であるタクトとともにいることが多く、だからこそ気づけた事だろう。


「……表に出さないようにしているんじゃないのか?」


一方のトレイドも、ここ十数日間行動を共にしてきて、タクトの性格もある程度わかってきた。彼は、辛いことがあるとまわりを気遣い、自らの内にため込んでしまうタイプであろう。


だからこそ、うなされていると言うことを言えないでーーもしくは、こちらの方が大きいかも知れないが、年頃故に”怖い夢を見た”とは言えないでーーいるのでは、とトレイドは思っているのだ。


しかし、クサナギはそれに首を振り、達観したように呟いた。


「それもあるかもしれんが……どうも違う気がする」


「違う?」


きょとんとしたトレイドの疑問には答えず、クサナギは再び皿を傾け、


「……やはり、違うな」


「何が違うんだよ? あの年頃だと、怖い夢を見たって、中々言えないーー」


「酒が入っておらん!」


「入れなくて良いんだよ、そんなもん」


彼の頭の上で文句を言ったクサナギを、トレイドの低い声音が黙らせた。その、肺腑をえぐるような低い声音で言われると、クサナギとしても「スミマセンデシタ」と引き下がるほかない。


料理に関しては、妥協は許さないタイプなんだな、とクサナギは独りごちた。


クサナギは思う。タクトのあの様子……おそらく……




川辺で顔を洗っていたタクトは水滴を拭うと、水面に映る自分の顔をじっと見ていた。


やや大きめの黒目と、実年齢よりも幼く見られ、性別を間違われるような中性的な童顔。タクトとしては、もう少しかっこよさというか、凛々しさというかーーそんな要素が、もう少し、ほんの少しでも良いから欲しいと思う顔が映っている。


「………」


彼は無言で水面に映る自分の顔を見つめながら、何となしに髪の毛の右側をかきあげる。そこには、醜い傷跡が走り、耳朶がないーー自身の一番のコンプレックスがあった。音は聞こえるも、やはり、右側の音は少し聞き取りづらい。


良く女性と間違われる原因の一つである髪の毛の長さだが、この傷跡を隠すために伸ばしているため、易々と切れるものではないのである。


「……僕は……僕だよね?」


水面に映った傷跡を見て、タクトは確かめるように呟いた。顔を洗い、頭がしっかりと覚醒すると、先程見ていた夢の内容を思い出し、少し不安に思ったのだ。


ーーいや、”アレ”は夢ではない。記憶感応ーー先祖の記憶を追体験する現象が起こったのだ。それにより、タクトはトレイドと、あの人の過去を追体験してきた。


それにより、漠然とした不安に苛まれているのだ。


”自分は、本当に自分なのだろうか”という不安。今ここにいる桐生タクトという人間も、実は”過去の人間”であり、本当の自分は、どこかで過去の人間である桐生タクトの過去を追体験しているのではないかーー


『それはないね』


「っ!?」


ーー不意に、脳裏に声が響いた。その声には聞き覚えがありーー先程の追体験で、自分が発していた声である。それは、つまりーー


「……また、あなたですか……」


『あぁ。己が誰なのか、ということがわからなくなった哀れな子供に忠告だ』


あの人ーータクトの心象世界、心の風景の中にいたあの人の声が脳裏に響く。彼は、最初は苦笑を滲ませた声だったが、すぐに厳しさが交じった声で静かに告げる。


『自己認識を強く持て。君は君さ、他の誰でもない、桐生タクトという一人の人間だ』


「………」


『他人の記憶を追体験したおかげで、今の君は少し揺れているだろう。一時的にしろ、君は他人になるのだからな。だがな、記憶を追体験した程度で、自己認識が揺れてもらっては困る』


「っ!」


心の中から響く声に、タクトは目を見開き、次いで細め、拳を握りしめる。その、何もかもがわかったかのような言葉に、怒りを覚えた。知らず内に、静かに、自分でも驚くほど低い声が漏れた。


「あんたに何がわかる……っ」


あの感覚ーー記憶を追体験するたびに生じる、自分は本当に自分だろうかという疑問。それは、自分という存在が、根底から覆されるような感覚。まるで底なしの谷の上空に、たった一人、支えもなしにいるかのようなあの空虚な思いは、味わい続けたくない。


それを、記憶を追体験”される側”にいる人が、わかるはずがない。わかってたまるか。そんな思いが、彼の逆鱗に触れ、そしてそのことがあの人には直に伝わったのだろう。何せ、相手がいるのは自分の心の中。思いなど、すぐに伝わってしまう。


一方のあの人は、タクトの思いがはっきりとわかってもなお、ふんっと鼻を鳴らし、


『わかるさ。私はお前の中にいるんだ、わからないはずがない。だが、それでもはっきりと言う。君は君だ、そんな簡単なことさえ忘れたのか? その年で痴呆症か?』


「……………………。……痴呆症になるのは、あんただろ?」


しばらくの沈黙の内、タクトはようやく、そんな軽口を呟いた。その軽口に、あの人は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みが滲み出る声音で言う。


『残念ながら、私も痴呆症になるほどの歳じゃない。年齢的に言うのならば、君の叔父が先だろう』


「…………まだまだ、なる気配なんて欠片もないけど……。うん、そうだね。僕は僕、それは紛れもない事実なんだ」


ずっと握りしめていた拳を開き、川に両手を入れて水をすくい、その水を顔にかける。したたり落ちる水滴を拭うと、彼は立ち上がった。


「……ありがとう」


『……礼を言われてもな。意味がないというか……』


「それでもだよ。……ありがとう、おかげで、気が楽になった」


『……そうか』


タクトのお礼に、あの人は頷いて答え、それ以降何も語らなくなった。


ーー遠くで、トレイドが呼ぶ声が聞こえる。

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