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精霊の担い手  作者: 天剣
2年時
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第7話 決意~2~

ある日の昼前。過ぎ去った夏の残暑がまだ厳しい初秋。照りつける太陽を遮る物が何もない快晴の中、タクトは客間である人物の相手をさせられていた。


「それでな、セシリアの奴が最近めんどくさいんだよ。飯の時には帰ってこい、遅くなるなら連絡しろ、たまには一緒にーー……っとと、まぁ、そんな感じでな? どうよ?」


「……まず一言、言っても良いですか?」


あんた、のろけ話がしたいだけだろ? とタクトはげんなりとやつれた表情でため息をつく。彼がやつれたのは、決して夏バテによる物ではない。見るだけでより暑さが増してきそうな赤い髪をしたお客に、彼はやや砕けた口調で、


「あんた帰れ」


「おいおい、久々にあった先輩にその態度はないだろう?」


ーー砕けたどころか、むしろ砕く勢いで彼は暴言を吐く。だが、相手はそれに堪える様子もなく、むしろ楽しんでいる節さえ見える。赤髪のお客ーー去年学園を卒業した、タクトの先輩にあたる人物。ギリ・マークは、ハッ八ッハと声高に笑った。


「そうだよ、タクト。先輩にはもっと礼儀を尽くさなくちゃ。ごめんなさいね、この子、少し元気がなくて」


「いえいえ、お構いなく。こういう沈んだ奴を弄るの、すっごく楽しいですから」


「……母さん。ギリ先輩をあまり甘やかさない方が良いよ。調子に乗るから」


傍らで彼らのやりとりを聞いていたタクトの母親、桐生風菜は、相変わらず二十代にしか見えない顔立ちを曇らせてタクトを叱ると、すぐに息子の非礼を詫びる。それに、気にしていないというように首を振る、相変わらず高笑いしているギリをジト目で見つめ、タクトは呟いた。


今彼らがいるのは、桐生家。タクトの生家であるやたらと大きな日本家屋に、彼は帰ってきていた。


ダークネスに飲まれ、そして解放された事件から早三日。そして、タクトが”無期限休学”してから二日経った。


三日前のあの日。あれ以来、左の掌に精霊使いとしての印章が浮かび上がることも、体の内にある魔力炉が動き出す気配も、契約を交わした精霊コウと会話をすることも、なかった。どういうことなのかはまだわからないが、これだけは言える。ーー今のタクトは、精霊使いではなくなっていたのだ。


精霊使いの条件として、大きく二つのことが挙げられる。その一つが、体のどこかに浮かび上がる印章があること。そしてもう一つは、精霊と契約を交わし、その存在を感じ取ることが出来ること。この二つの内、どちらかを満たしていれば精霊使いとして認められるのだが……残念ながら、今のタクトはそのどれもがあてはまらなかった。


フェルアント学園でも初めての事態に、どう対応すれば良いのかわからなかった。精霊使いが精霊使いでなくなる、ということは、まず起こりえないことなのだ。例え契約を交わした精霊が、何らかの事情により契約を破棄、もしくは死んでしまったとしても、体に浮かぶ印章がなくなることはなのだ。


ともあれ、精霊使いを育成する、という学園の方針からすれば、精霊使いでなくなってしまったタクトを生徒として受け入れておく訳にはいかなかった。とはいえ、生徒会役員として学園側の事情にも通じている彼を、無闇に退学させるわけにも行かなかった。


また、精霊使いが精霊使いでなくなったという異例の事態に、フェルアント本部からの横やりが入ってくる可能性も、否定できなかった。そのため、彼を暫定的に休学扱いとし、現時点で一番安全である桐生家にも連絡を入れて彼を帰したのだ。


彼の生家であり、同時に地球支部でもあるここならば、ということなのだろう。そしてその考えは、理に適っている。


こうして彼は、自身の実家に一人帰ってきたのであった。


「……そういえば、ギリ先輩はよくここに来るんですか?」


「ん? まぁ、ちょくちょくな。ここは支部長殿の家でもあるから、支部連中は結構来たりしてるみたいだぞ」


客間にて、同じテーブルに着き、出された冷たいお茶を口に含みながら、タクトは不意に感じた疑問を口にする。するとギリは、首を傾げながら答え、さらにタクトの横で車いすに座っている風菜も、補足を入れた。


「タクト、知らなかったっけ? ここに来る兄さん宛の便りとかお客様とかは、ほとんどが精霊使いの人だよ」


「……そういえば」


言われ、今思い出したかのように力なく笑顔を見せる。ーーその胸中は複雑なのだろう。そのことがはっきりと顔に出ていて、風菜とギリは互いに顔を見合わせた。




「ーーそれじゃ、お邪魔しました。それと昼飯、うまかったですよ」


「はい、お粗末様です。……今日はありがとうね」


昼過ぎ。昼食をご馳走になったギリは、この後やることがあるため、桐生家を後にすることにした。玄関先に出た彼と、見送りに来た風菜とタクトの叔母に当たる未花が、見送りに来てくれた。


彼の従兄でもあり、ギリの先輩にも当たるセイヤの母親たる彼女は、風菜とは違い年相応の顔立ちをしており、こうして二人が並ぶと、風菜の母親にも見える。小じわが刻まれ始めているが、いつも笑顔を浮かべている彼女が、このときばかりはやや沈んだ表情である。


「いや、気にしないでください。……結局、あいつを元気づけることも出来ませんでしたし」


赤髪をかきむしりながら、ギリはため息混じりに呟いた。その一言に、風菜と未花の二人も表情を俯かせた。母親たる風菜が、玄関の床に視線を落としながら、


「……タクト、気にしていないって言うけど……我が子ながら、やっぱり嘘が下手ね」


会話も普通に行うし、時折笑顔も見せるが、やがり精霊使いが絡む会話と、そして一人ボーッとしているときになると、表情が明らかに曇っていく。その様子を見て、気にするなという方が難しい。


「……ねぇ、フーちゃん、ギリ君。タクト君、大丈夫かな……」


「……持っていた力を、突然失ったんだ。いくら強がっても、かなり精神的に来ているはず……です。だから、なるべく見てあげた方が……」


彼を気遣う未花が、恐る恐る口を開いた。そんな彼女に、ギリも桐生家の奥にある道場に向かっていったタクトを思い出しながら呟く。そんな彼が呟いた一言は、怪しげな丁寧口調だが、だからこそ彼の心からの気遣いを感じ取れた。風菜もそれに頷き、


「ありがとう。……今は、心の整理がつくまで、そっとしておきましょう」


「……それしか、できないか……」


残念そうに、そして心配そうに、ギリは呟いた。初秋の風が、三人の体を包み込んだ。玄関先で固まったギリは、やがてハッと我を取り戻すと、


「それじゃ、俺はこれで。……また来ます」


「えぇ。ありがとうね、ギリ君」


「それでは、また」


未花が、そして風菜がぺこりと頭を下げ、それに習ってギリも腰を折った。顔を持ち上げると、やや早足でどこかへと歩いて行く。その後ろ姿が見えなくなるまで見送り、二人は互いに顔を見合わせた。


「……戻りましょう。それにしても、秋になったって言うのに、まだ暑いわね……」


風菜が座る車いすを押しながら、未花は呟く。そんな彼女に、風菜もええ、と気のない返事を返し、彼女から心配そうな表情を向けられた。


「……あなたも、疲れてる?」


「疲れてはいないよ。でも……」


そう口を閉ざし、じっと道場がある方向へと視線をお向ける彼女の姿は、親そのものの姿であった。それも当然である。ここ二日間、タクトはあまり眠らず、道場にこもりっきりであり、精神的にも、そして肉体的にも疲労が来始めている頃なのだから。


「……そろそろ、あのバカ息子を力ずくでも休ませた方が良いかもしれないね……」


「……そうねぇ」


風菜の意見に、未花も同じ方角へ視線を送りながら頷いた。彼の体が、そして心が壊れてしまう前に、体を張って止めた方が良いのだろう。しかしーーどうにも躊躇われる。


「あの、すみません」


もどかしい気持ちに捕らわれる二人の背後から、聞き覚えのあるやや高めの声が掛かり、二人はそろって振り向いた。そして、予想外の来客の姿に、瞳を大きくさせた。




「………」


一方、道場の中、無言で木刀を振るうタクト。その表情は真剣そのものであり、一心不乱に振るい続けるその姿は、鬼気迫る物があった。ーーそうでもしなければ、思い出してしまうのだ。今の自分が、力を失ってしまったと言うことを。


(……何かをしてるほうが、ずっと良い)


自暴自棄になりつつある思考の最中で、彼は自嘲気味に笑みを浮かべた。


何もしないでいると、頭の中に浮かび上がるのは精霊使い”だった”頃の思い出。精霊使い”だった”時に出会った人達の顔。そして、今も学園で講義を受けているであろう親友達。


それらが浮かんでは消え浮かんでは消え、そのたびに自分は何をしているんだという気持ちに捕らわれてしまう。


ーー今の自分には力がない。その事実から必死に目を背けるために、彼は木刀を振るい続ける。十を超え、百を過ぎ、千を抜けて、万に届かんとばかりに。


「………」


額から汗が流れる。ーー知らない。


腕の筋肉が悲鳴を上げる。ーーどうでもいい。


完全に自暴自棄となった思考のまま、木刀を振るうその姿は、一体どのように写っただろうか。道場に人が入ってきたことさえ気づかないまま木刀を振るう彼に、乱入者ははぁっとため息をついて。


「えい」


「っ!?」


可愛らしいかけ声とともに、タクトの片足を引っかけ、払った。それまで素振りに集中しきっていた彼は、体勢が崩れたことによって、やっと我に返り、何とか体勢を直そうとするも、もう遅い。


「あだっ!!? ……っつ~~、誰だ! ほんとに……………」


情けない声とともに、すてんと無様に転がされてしまった。お尻から倒れたため、痛みが走る臀部を押さえながら上半身を起こした彼は、叫び声を上げつつ視線を巡らしてーー倒した人物を見て、叫びが、尻すぼみになっていく。


同時、表情が青くなる。全身から汗が流れていたが、今度は冷や汗という名の汗が、全身から流れていくのを感じる。


「ハロハロ~~! タクト君、お元気?」


「……あや……か……さん?」


あやかーー彩香。そう呼ばれた女性は、満面の笑みを浮かべてタクトに向かって手を振ってくる。まるでモデルのように整った顔立ちと細い体型。背はさほど高くはないが、それでもタクトぐらいの身長はある。


元は黒かった髪の毛は、今は赤みを帯びた薄茶色に染まっており、長く後ろに垂らしている。愛嬌があるその笑顔からは、きっと何人もの男性から言い寄られたことがあるんだろうと感じさせる物だが、しかし。


「ふふん、去年私は留学してたから、挨拶できなかったのは良いとして。……今年は、一度も我が家に挨拶しにこないつもりかしら、タクト君?」


ーーその内実を知るタクトは、彼女の笑顔を見て、さぁっと血の気がひいていくのを嫌でも自覚させられた。


「い、いや、その……い、いくなら、レナと一緒に……」


そうじゃないと、安心できないのだ。どういうわけか、この人は自分にだけ風当たりが強く、しかしレナを味方に引きつければ、この人は大きく出られないのだ。ーー妹大好きな人(本人否定)だから。


「……ふぅん。それは、親愛なる我が”妹”と一緒になるって言う、いわば結婚報告と受け取って良いのかな? かな?」


「け、けけけけけ結婚!!? い、いや、そ、そそそんなことっ!!」


一瞬で顔を真っ赤にし、噛み噛みとなって否定するタクトを見て、彩香ーー鈴野レナの戸籍上の姉に当たる鈴野アヤカは、にんまりと邪悪な笑みを再度浮かべ直し、


「あらそうなの? でも残念ね、それなら多分レナは泣いちゃうわ」


「………ふぇい?」


「でも、妹を泣かせたら………覚悟しておく事ね。この家に、”血痕”報告しにこなきゃならなくなるから」


「……………」


語尾にハートマークがつきそうなほど、イントネーションを上げて言う彼女を前にして、タクトは無言で視線を逸らすことしか出来ない。


そして何故だろうか。同じ言葉なのに、言い方をちょっと変えただけで、全く違う意味の言葉になるのは。脳内での漢字変換が壊れてしまったのだろうか。日本語は難しいな、などと現実逃避に走るタクトの脳天を、アヤカの鉄槌が大きく揺るがした。


「あいたぁ!!」


「ふふん、小僧っ子の分際で、口を閉じるとは良い度胸ね? 私の子分Aのくせに」


「うぅ……。い、いや、アヤカさんの物騒な物言いに、どう反応すれば良いのかーーあだっ!?」


頭を押さえて苦言を漏らすタクトの脳天を、彼女の一撃が再び揺るがした。


「小僧っ子の分際で! 私の子分の分際で! 私に口答えするなんてねぇ~!」


「あ、アヤカさんが、いた、何か言えって、あだっ! 言ったんじゃないあいたっ! って痛いわ!!」


ゴンゴンゴンと、彼女の拳がタクトの脳天に直撃する。そのたびに、彼は言おうとしていることを遮られ、ついには逆ギレする。ーーだが、仕方がない。彼女の殴る理由が、あまりにも理不尽だった故に。


「……ッ!」


「っ!?」


振り下ろされかけた拳を宙で受け止め、ようやく立ち上がった彼はキッとアヤカを睨み付け、睨まれたアヤカはびくっと微かに体を震わせる。タクトに止められた拳に入っていた力が緩み、それを感じ取った彼は明らかに不機嫌そうに彼女の拳を振り払うと、彼にしては珍しく、舌打ちを一つはなった。


「………」


「………」


その、いつもの彼とは明らかに違った様子に、アヤカは何もせず彼の行動に視線を向ける。彼は、ふいっと視線を逸らすと、地面に転がった木刀を掴み上げーー


「……ふっふっふっふ……」


「………」


ーー背後から漂ってくる威圧感に、背筋に冷たい物が再び走った。背後から聞こえてくる笑い声に、振り向きたくない思いで一杯なれども、振り向かざるを得なかった。ここで振り向かなかったら、後々、後悔する羽目になるためである。表情を歪めながら、それでも彼は律儀に振り向いた。


「……なんか用でも?」


「ふっふっふ……小僧っ子が、やるようになったじゃない」


振り向いた彼女の表情は、俯いていてよく見えない。垂れ下がった前髪が目の辺りを覆い隠していることもあり、余計に不気味さが際だって見え、さらにいつもより遙かに低い声音が、彼女の怒り加減を如実に表しており、タクトは「あぁ、終わった」などと、どこか楽観的にため息をつく。


背後から負のオーラを放ちつつ一歩、また一歩と前進してくる彼女を前にして、タクトは覚悟が出来たとばかりにふんぞり返りーー


「……ま、このぐらいにしておくわ」


「ーーえ?」


次の瞬間、タクトはアヤカの腕の中にいた。いきなりの状況の中、混乱するタクトの耳元で、アヤカが囁き声を上げ、それでようやく、自分が抱きしめられた、ということに気がついた。


「このお馬鹿。辛いときは辛いって、はっきり言えば良いのに」


「そ、そんな、こと……」


「……風菜さんも未花さんも………あんたの友達も、そしてレナも、心配してたよ」


「っ!」


その一言に、彼はびくっと体をすくませーー次いで、恐る恐る呟いた。


「レナに……あったんですか?」


「会ってないわよ。あの子、フェルアントって所に行ってるんでしょ?」


「なら、何で……」


「……手紙、来たの」


「……手紙?」


タクトが口にした疑問に、アヤカは珍しく優しげに微笑むと彼から離れ、履いていたスカートのポケットから一通の手紙を取り出す。そしてそれを、タクトに差し出すと、


「中々、不便な物よね。異世界間で連絡を取り合う方法って言ったら、こんなアナログチックなものしかないんだから」


電子機器が主流のこのご時世に、時代遅れな感じがすることを揶揄しているのだろうが、今のタクトの耳には入らなかった。彼女の手からむしり取るように手紙を受け取ると、焦る気持ちを抑えながら、手紙を読んでいく。


『お姉ちゃんへ


久々に手紙を書けど、お姉ちゃんは今何をしているの? 前に留学してるって言ってたけど、もう帰ってきたのかな。


こっちは元気だよ。でも、今は少しだけ元気がないかな……。なんか、矛盾しているけど、まぁ気にしないで。それでね、ちょっとだけお願いがあるんだ。


実は、色々あって、タクトがそっちに帰っちゃったんだよね。……別に退学とか停学とかじゃないよ。ただちょっと事故みたいなのがあって、精霊使いとしての力を失っちゃったみたい、なんだよね。


私も詳しくはわからないんだけど、その……簡単に言うと、今のタクトは普通の人と何も変わらないって言うか……。詳しいことは、風菜さんとか未花さんとか……アキラさんなら、もっと詳しいことが聞けると思うよ。でも、タクトには絶対に聞いちゃ駄目だよ。帰るとき、すっごく落ち込んでたから。後、クサナギは……こっちは、聞かなくても大丈夫だよね。


それでね、頼みって言うのは……タクトのこと、慰めてあげて欲しいんだ。


タクト、多分……ううん、絶対、落ち込んでいるはずだから。だから……優しい言葉をかけてあげたり、叱りつたり……たまには、殴ったりして。タクトを、元気づけてほしいの。


……やっぱり、殴るのは止めてあげて。それと、あまり意地悪もしないであげてね?』


「……」


手紙を読み終わり、彼は何を思ったのか。それはわからないが、しかし一つだけ言えることがある。


「……ぅ………」


俯いた彼は、微かに呻き声を漏らした。その場に座り込み、鼻をすする音を聞きつつ、アヤカは座り込んだ彼を、再び抱きしめる。


「……数少ない、妹の頼み……聞かないわけにはいかないでしょ? ま、最後の一文には、従えないけどね」


戯けたように肩をすくめる彼女は、座り込んですすり泣くタクトの背中に手を回し、ポンポンと優しく叩いてあげた。


「ね、タクト。みんな……もちろん私や風菜さんに未花さん、口にはしないけどアキラさんも、多分クサナギも……あんたの友達も、そしてレナも……あんたの周りにいる人みんなが、あんたのことを心配してるよ」


「…………」


タクトは何も言わない。だけど、抱きしめているアヤカにはわかる。彼の体が、小刻みに震えているのを。そして、彼の瞳から流れた涙が、頬を伝って彼女の足に落ちていくのが。しばし二人の間に鼻をすする音だけが流れ、やがてタクトがアヤカに抱きしめられたまま、ぽつりと呟いた。


「……アヤカさんって、さ………レナと、同じ匂いがする……」


「……ようやく絞り出した言葉が、それ? あんた、デリカシーないみたいね? この状況で、他の女の子の名前を出したらアカンよ」


ぴしり、とアヤカのこめかみに血管が浮き上がり、微かに腕が持ち上がるも、やがてため息をついてその手を下ろす。ポンポンと彼の背中を労るように優しく撫でた。


「ま、私とあの子は姉妹だから。同じ匂いがするのも………あら?」


「…………」


いつのまにか彼の体から力が抜け、自分に寄りかかるようにしていることに気づき、アヤカは眉を上げてタクトの顔をのぞき見る。彼女が目にしたタクトの表情は穏やかで、耳を澄ますとすぅーっという寝息までが聞こえてくる。ーー安心感を得られたからだろうか。


「……寝てるのね。全く、可愛いところもあるんだから」


にんまりと、優しげな笑みを浮かべてタクトの背を再度叩く。その姿は、その風景は、まるで。


優しい姉が、泣き虫な弟を慰めているようにも見え、見ている者を微笑ましくさせる。思わず、頬を上げて穏やかな表情を浮かべるその人物は、あまり空気を壊さないよう静かに語りかけた。


「眠ったか。まぁ、この二日間、ほとんど睡眠が取れていないようだったから、当然か」


「……クサナギ」


「……何もしないがね」


ふわり、とアヤカの頭上から現れた三十センチ程度の銀色の子人の名を呼び、アヤカはやや警戒心を露わにしてクサナギを睨み付けた。そんな彼女に、クサナギはさも心外だと言わんばかりに呟くが、説得力はまるでない。


「とにかく、タクトを運ぶとしよう。このまま道場に寝かせとくわけにもいかんしな」


「……あんたさぁ」


「ふむ?」


眠ってしまった彼を起こさないようにゆっくりと床に寝かせたアヤカは、タクトのすぐそばに降り立ったクサナギのことを胡散臭げな瞳で見やり。次いで、眠るタクトに視線を動かした後、嫌々といった様子で口を開いた。


「あんたに頼みがあるんだけどさぁ」


「……ほほう、頼みとは珍しい。……無論、貸しだぞ?」


「あんたに貸しは作りたくないから、頼みたくなかったんだけどさぁ……!」


そんなにクサナギに頼み込むのがいやなのか、綺麗な顔立ちを歪めて、彼女は吐き捨てるように言う。ーーまぁ当然か。下手したら、貸しと称して彼は何をやらせるのか。


さっきまでの優しげなお姉さんはどこにいったのやら、明らかにイライラとした様子で髪の毛をかきむしる彼女を見て、クサナギはため息をつく。


「……で? 頼みというのは?」


「うー……あー……。……その、タクトの力……取り戻してあげられないの?」


「無理」


「そう……って、え!?」


言うか言わないか、しばらく葛藤していた彼女だが、折角意を決して口にした頼みを、クサナギはたった二文字を返した。


その、あまりにもあっさりとした返答に、アヤカも頷きかけ、しかしすぐに驚きを露わにする。


「あ、あんた一応”神様”なんでしょ!? 何とかしなさいよ!」


「無理な物は無理だ。例え神様といえども、できないことがある。後、何だその”一応”って言葉は」


彼女の音量を控えた叫びに、しかしクサナギは首を振るだけ。彼女の小さなわめき声(?)に、それ以上返答することもせず、彼は三十センチの小さな体を、成人男性のそれと変わらないサイズまで大きくさせる。そして床に寝そべり、ようやく得られた睡眠に浸っているタクトを抱えると、ふと疑問に思ったことを口にした。


「そういえば、アヤカ殿はタクトのことを毛嫌いしているのではなかったのか?」


アヤカはふん、と鼻を鳴らすと、そっぽを向いて、


「毛嫌いなんかしてないわよ? ただ、妹に手を出そうと考えている不埒な奴に、お仕置きしているだけだもん」


「……その不埒な奴を元気づけに来たのか?」


「……不埒な奴でも、こいつだったら……義弟にしても良いかなって?」


「何故に疑問系。私に聞くな」


どうやら、認められているみたいだぞ、とクサナギは苦笑しつつ、腕の中にいる彼に心の中で呟いた。タクトは相変わらず、幼子のように無邪気な寝顔を見せており、その寝顔を見て、クサナギは一つのことを確信する。


ーーそろそろ、頃合いか。

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