第5話 黒き目覚め~2~
「………ぉぃ」
「……?」
どこか遠くから聞こえてくる音で、タクトは意識を取り戻していく。頭はボーとして重く、まともな思考が働かない。
「……ぉーーい、起きろー」
今度は、台詞の後半部分からはっきりと聞こえてきた。ああ、起こそうとしているのか、とタクトは重たい頭で考え、億劫に感じながらも彼は上半身を起こす。ーーそこで、彼は異常に気がついた。
「……うぇっぷ……」
凄まじい、気持ち悪さと吐き気である。上半身を起こすと同時に、彼は口元に手をやり、口から出す吐瀉物を押さえようとした。幸運なことに、吐くまでには至らなかったが。
「……おいおい、顔が真っ青だぞ? 気持ち悪いのか、少年」
「気持ち悪いんだろうな。何せ、彼の精霊が言うには、あれほどの飲酒体験は初めてだったそうだ」
「……マジか。そりゃ悪いことしたな……。ほら、大丈夫か、少年」
ポリポリと頬をかきながら、真っ正面からコップを差し出される。やけに黒ずんだ液体が入っており、嫌な匂いを放っていて、タクトは反射的に顔をしかめた。そんな彼の様子を見て、コップを差し出した青年は苦笑を浮かべると、
「酒薬だよ。飲んだ方が、気分が良くなる」
「……ありがとう、ございます……。………?」
言われ、タクトはおずおずとそのコップを受け取り、口に含んだ。口いっぱいに広がる嫌な味を我慢し、全てを飲み干して一息つくと、そこで彼はようやく目の前の青年に首を傾げた。
ーーえっと、誰だっけ……?
必死に昨日の夜の記憶を探るが、あまり覚えていない。覚えているのは、この青年に宿を案内する代わりに、彼曰く「人生相談」の相手役を買って出たところでーー。
そこまで思い出し、ようやく青年の名が脳裏に閃く。黒髪黒目の青年に向かって、頭を下げた。
「えっと、昨日はすみませんでした、トレイドさんーーーーー」
「いや、気にするな、少年。……て、どうした、不自然に固まって?」
苦笑を浮かべて肩をすくめた後、いきなり固まったタクトを見て困惑の表情を浮かべるトレイド。彼の傍らにいるオオカミの姿をした精霊も、無言で首を傾げている。
一人と一匹の、言葉と視線による問いかけに、タクトは固まったままだった頭に強引にギアを入れ、頬を引きつらせながら彼らに尋ねた。
「……えっと……何で、僕全裸なんですか……」
「…………」
「…………」
その疑問に、一人と一匹は視線を一瞬だけ交じあわせた。
今のタクトは、ベッドの上で上体を起こしている状態。その状態で、彼は今全裸なのだ。ーーもしシーツをはぎ取っていたと思うとーーまぁ、トレイドさんは男だから大丈夫か、と彼は言った後にそう思った。
一方のトレイド組は、オオカミの姿をした精霊がトレイドのことをじっと見やり(その口元がにやりとつり上がっているように見える)、当の本人はコホンと咳払いをした後、何故か棒読みで言い訳をするかのように言いつくろう。
「……それはその……まぁ、あれだ。君の服が雨に濡れていたんでね。干して乾かそうとしたわけだ。……念を押すようだが、それだけだからな。変な気は無い。わかったな?」
「は、はぁ……」
ずいっとこちらに迫り、何故か念押ししてくる彼の気迫に飲まれ、素直に頷くタクト。一体、どういうことなのだろうか?
ーートレイドとしては、昨日の夜、部屋に戻った後濡れたタクトの服を脱がそうとしていた所、散々ザイに変態扱いされたことを気にしているのだろう。精霊ザイの、にやりとした笑みはそれである。
場の空気を変えるがごとく、トレイドはパンと手を一つ叩くと、
「さて、朝食を取るとしようか。君も一緒にどうだ?」
「え、いいんで…………い、いや、でも……」
その申し出に、タクトは一瞬喜び、しかし即座にためらいが生じた。元々、昨日知り合あったばかりの他人であり、遠慮が生じてしまったのだ。ーー昨日知り合ったはずなのに、何故彼にこうも親しみがわくのだろうか、と内心で疑問に思ったりもしたが。
そんなタクトの内心を見抜いたかのように、トレイドはにやっと笑みを浮かべると、
「遠慮するな。こんな無駄口の多い精霊と一緒に食べるのも、うんざりしてきたところだしな。それに、一緒に食べる奴が多い方が、飯がうまくなる」
「………まぁ、おおむね同意だな。しかしトレイド、お前と少しばかり話し合った方が良いみたいだな」
彼の言葉に、抗議の視線を向けながら精霊であるザイは頷いた。ーーその話というのには、立ち会わない方が良いだろう。彼らのやりとりを見て自然と頬が緩み、タクトは遠慮を振り払った。
(コウ、おはよう。あのーー)
(おはおう、タクト。話は聞いていた、ともに食べるとするか)
自身の内で休んでいるコウに語りかけると、どうやらコウもそれなりに乗り気のようで、思わず笑顔がこぼれた。コホン、と咳払いを一つして、未だに軽口を言い合っているトレイドとザイの気を引いて、彼は口を開いた。
一夜明け、タクト探しを再開したマモルは眉を潜めて街中を探し回っていた。
昨日の夜、タクトが寮から抜け出したと聞いたとき、何とかシュリアから許可を得てその日のうちに探し回ったが、伸ばしてもらった門限ぎりぎりまで粘ったものの見つけられず、雨も降っていたこともあって一時中断したのだ。
その翌日である今日、新たにアイギットを強引に連れ出し、二手に分かれながらタクトの捜索を行っているのだ。
「……くそ、眠いな……」
昨日の探索によってやや睡眠時間を削られたマモルは、眠たそうに目を細めながらそう呟きつつ、それでも探すことをやめようとはしない。胸中に渦巻く不安故である。
結局、タクトからの連絡は無く、無断外出に加え無断外泊が重なったのだ。当然教師達からも彼を心配するような声がちらほら聞こえ、事実、マモルもやや心配になってきているのだ。自分と比べ、遙かにしっかりしている彼が、無断でそのようなことをするはずがないと、マモル自身がわかっているのだから。
(……あの野郎、これで何もなかったらマジでぶん殴るぞ)
はぁ、とため息をついて首を振り眠気を振り払う。彼を見つけたときの光景を思い、ぎゅっと拳を握りしめた。ーーやや離れた場所にいる少年が急にくしゃみをした。
実際に殴るときのことを考えているとーーこの時点で殴る気満々であるーー、突如目の前に法陣が展開され、そこから通信魔法が開いた。法陣に浮かぶ虚像を見るまでもなく、アイギットである。
<そっちは見つかったか?>
彼もまた眠たそうな声音で尋ねてくる。そんな彼に向かって首を振り、彼らはため息をついた。
「……さっきからため息ばかりついている気がするな」
<奇遇だな、俺もだ>
はは、と今度は苦笑いをする彼ら。どうやらアイギットも、通信を送ってくる前はため息をつきまくっていたらしい。
<それはそうと、あいつにしては珍しいよな、無断外泊なんて。……昔はそういうことやってたのか?>
「さぁ? 俺が覚えてる範囲だと、そんなことはなかったな。むしろ、俺とレナの方がタクトの家に勝手に泊まっていた記憶が多いんだが」
ああ、確かに、とアイギットは苦笑を浮かべながら頷いた。彼も、ちょうど一年ほど前、タクトの家に行ったことがあり、彼の家の大きさと居心地の良さを思い出し、納得する。
「ま、だからこそ心配なんだがな……」
<……心配、か……>
「どうかしたのか?」
言葉とは裏腹に、肩をすくめて何でも無いように言うマモルに対し、心配という一言に反応したアイギットは押し黙り、まるで考え込むように顎に手をやる彼を見て、マモルは問いかけた。しばしの間があった後、アイギットは眉根を寄せて口を開いた。
<いや、実は出かけ際、コルダとばったり会ってな。……いつもとは違った雰囲気を出しながら忠告してきたんだよな。『急いだ方が良い。じゃないと、取り返しの付かないことになる』って……>
「……それ、コルダが?」
<ああ。……ていっても、すぐに寝ぼけ眼になって部屋に戻っていったんだがな。普通なら寝ぼけていたんだろうってことになるんだろうけど……>
「……あいつ、不思議ちゃんだしな……。それに、あいつ自身も知らない秘密があるっぽいからなぁ……」
ふと、遠い目をするマモルの脳裏には、一年近く前のあのときのことが浮かんでいた。
神器、アニュラス・ブレードを携え、ダークネスーー当時は黒い泡と呼ばれていたーーに犯された一人の精霊使いが暴走した際に、コルダの背に浮かび上がった金の文様。そして、人格が違うとはっきり言えるほどの急激な言動の変化、雰囲気の変容。
ーー結局、そのことについては聞くことは出来なかった。彼女自身も、それらについて聞くと、首を傾げて「何それ?」と真顔で言う状態であり、そこから察するにおそらくコルダもわからないのだろう。
とりあえず、この件についてはあまり触れない方向で行く、ということで生徒会面々も一致したのだ。
とはいえ、あの力を目の当たりにした一同は確信している。あれは確実に、フェルアント本部から”神器”指定を受ける力だと。もしそれを伝えたら、下手をしたら彼女の身が危なくなる。そのことを、皆言わずとも理解していたからの措置でもあった。
その時のことを思い出していたからだろう。マモルの口が自然と開かれた。
「……そうか、あれからもう一年近くたつのか……」
<ん? あぁ、もう一年たつのか。早いな……>
感慨深げに晴れた空を見上げて呟いたマモルの独り言に、アイギットも同調する。彼らは感慨深げに頷いた後、苦笑を浮かべ、
「……んじゃ、後でな。あのバカみつけたら、連絡くれよ」
<そっちもな>
それを最後に、通信を終えた。ふうっと一息つき、マモルはぺしっと両頬を叩いて気合いを入れる。
「さって、バカ捜し、続けますか………うん?」
自らに気合いを入れ、数歩も歩かないうちに通信魔法が開かれる。誰だ、と首を傾げていると先程消えた法陣が再び展開され、そこから彼の幼馴染みであるレナの虚像が浮かび上がった。
<マモルッ! タクトが寮を抜け出して家出したってホント!!?>
「…………はぁ」
ものすごく狼狽した様子で、今にもマモルにつかみかからんばかりの勢いで問いかけてくる。無論、魔力によって構成された虚像であり、そんなことは出来ないのだが。それはともあれ、本気で心配し焦った様子を見せる彼女に対し、マモルはため息をついた。
<な、なんでため息……!>
「いや、悪い。……すっごく間が悪いなって思って」
憤慨した彼女を見やりながら、そういえば、レナにはあいつの家出のこと伝えてなかったんだよな、と今更のように思い出した。ある意味では、タクトの家出騒動の原因とも言える彼女には、極力伝えない方が(お互いの幸せのために)良いかと思ったのだが。
まぁ、ばれてしまっては仕方が無い、と開き直り、マモルは渋々彼女に現状を伝えるために口を開いた。
~~~~~
朝食を終え、フェルアントの街を歩きながら、タクトは空を見上げていた。今日の空は曇天模様、天気の機嫌はあまり良くないみたいである。
だが、彼の目にはそんなことは入ってこなかった。ーーいや、何も考えずに空を見上げている、と言う方が正しいか。彼の瞳には空模様が映っている。だが、それは景色を反射しただけであり、脳には伝わっていないーーそんなところか。
『……セ……』
ボーッとしている彼は、ただひたすら空を見上げるだけ。その行為は、まるで意思を失ったかのような人形っぽさを表していた。
『……ワ……セ……』
だから、頭に響いてくる謎の音に反応を示さない。しかし、奇しくも人形は、操り手の言葉(命令)には絶対のもの。故に。
『コ……ワ……セ……』
ぴくり、とタクトの右腕が動き、そこにはない何かを握りしめるかのように指を閉ざしていき、そしてーー
「……少年?」
「ッ!」
いきなり背後から響いたその声に、タクトはハッと我に返って後ろを振り向いた。そこには、袋に入れた荷物を担ぎ、ホテルからちょうど出てきたトレイドの姿があった。彼は黒目を瞬かせながら、しかしすぐに笑みを浮かべると、
「どうした、悠長に空なんか見上げて。今日は曇りだ、見上げるなら晴れの日にした方が良い」
「は、はは。そうですね……って、あれ?」
苦笑いを浮かべながらポリポリと頬をかき、そこではたっと気づいた。自分はいつからここにいたのだろうか、と。目をぱちくりさせながら、困惑しているタクトに向かって答えたのは、彼の相棒であるコウである。
トレイドの精霊ザイの背にちょこんと乗ったコウは、はぁっとため息をついた後に、
「お前さっきフラッと外に出て行ったんだろう。……タクト、まさか起きたまま夢遊病になったってしまったのか?」
「そ、そんなわけないだろ!」
微かな嘲笑を含む問いかけに、憤怒を見せながら否定するタクト。そこでふと、コウの首に垂れ下がっている小さな宝石に気づき、首を傾げた。
「コウ、その首の宝石どうしたの? ……言っておくけど、盗みは良くないよ、返してきて」
「何故第一声がそれなんだ!? 私が盗むとでも思っているのか!?」
「うん」
速攻で頷くタクト。「そこまで信用無いのか、わたしは」と、悲観に暮れるコウを見て、流石にかわいそうになったのか、トレイドが苦笑しつつ、
「コウの首の宝石は、俺がやったんだ。あれ、魔法石でな、あれをつけていると長時間の実体化が出来るようになるんだよ。ほら、ザイの首にも付いているだろう?」
言われ、タクトはああ、と頷いた。言われてみれば、確かに首からぶら下がっている宝石から魔力が感じられる。
「ああ、ありがとうございます。……でも、良いんですか?」
納得し頭を下げ、しかし腑に落ちず問いかけた。魔法石というのは比較的高価なものである。それをこうも気安く他人に与えるというのは、どうしてなのだろうか?
「ああ、気にするな、金を取ろうとかそんな気は無い。俺、結構魔法石持っていてな。……生まれた場所が魔法石の産地だから、ある意味当然っちゃ当然なんだが」
そう言って苦笑いを浮かべるトレイド。だが、一瞬その瞳に郷愁が漂っているような気がした。首を傾げ、彼の故郷について問い返そうとしたが、その前にトレイドがにやりと笑みを浮かべて、
「さて、そういうことだから、その魔法石は少年にやるよ。餞別だ、持っておけ。……じゃあな、少年」
「はい。それじゃ、さようなら、トレイドさん」
片手をあげ、挨拶をかわした後、彼は立ち去っていった。その後ろ姿を見続けながら、やがて角を曲がり視界から消えると、タクトはう~んと伸びをする。
「……さて、そろそろ寮に戻ろうか。……あ~あ、絶対、反省文書かされるよね?」
「その辺は自業自得だな。……だが、どうやら悩みは吹っ飛んだみたいだな……」
「……そうだね。……トレイドさん、か……」
「中々、面白い奴だったな。奴も、それから奴の精霊も」
タクトの肩に乗っているコウとともに、トレイドに関する感想を述べながら、彼らは帰路についた。
『………コワセ……コワセ…コワセ、コワセコワセコワセコワセッ!!』
ーー運命の歯車は、もう誰にも止められない。