あなたの決めたことならば
時計の針が頂上を指すと同時に、フォルティナの向かいの席に男性が腰掛ける。スッキリと切り揃えられた深緑色のくせ毛、めったに外出をしないせいで真っ白な肌。理知的な印象の少し太めの眉毛に、ふちなしメガネの奥にペリドットのような透き通った緑色の瞳が見える。
「今日も時間ぴったりですね、ゼノ様」
フォルティナが微笑みながらそう言うと、男性――ゼノは小さくため息をついた。
「そういう『決まり』ですからね」
ゼノはフォルティナから目を逸らしたまま、侍女から出された紅茶に口をつける。
二人が婚約をして十年、こうして二週間に一度は必ずお茶の機会を設けている。時間も場所も毎回同じ。ゼノは一秒たりとも遅刻をしないし、かといって早く訪れることもしない。単に『決まりだから』お茶会に参加しているにすぎないのだ。
(知ってるけど、もっと言い方ってものがあるでしょうに)
フォルティナは思わずムッとしてしまう。
「……」
と、ゼノからものいいたげな視線を感じ、フォルティナは彼を見つめ返した。
「なにか?」
「――卒業後、騎士団への入団が決まったそうですね」
「ええ、まあ」
「僕への事前相談はありませんでしたが」
ゼノは無表情だったが、言葉からは小さな棘を感じる。こう言われることは事前に予想していたものの、フォルティナは少しだけ苛立ってしまった。
「二年前にゼノ様が文官になられたときも事後報告でしたけど? ご自分はよくて、私は駄目だとおっしゃるのですか?」
「そういうわけではありません。けれど、あなたは僕の妻になるのですし、そういう話をしたことがありませんでしたから」
「ゼノ様が爵位を継がれるまで時間がありますもの。あなたが文官をしている間は、私も仕事をすべきだと判断したのです。いけませんでしたか?」
努めて笑顔を浮かべつつ、フォルティナはゼノをまっすぐ見る。傍に控えている侍女たちがオロオロしているが、二人の会話はいつもこんな調子だ。
几帳面で予定外の出来事を嫌うゼノと、おおらかで気の強いフォルティナ。政略でなければ結婚など絶対にしない――と周囲もフォルティナも考えていた。
「別に。事前に把握しておきたかっただけですよ」
と、ゼノが言う。フォルティナはため息をつきつつ「配慮が足りず申し訳ございませんでした」と返事をした。
(なによ。おめでとうのひとことぐらい、言ってくれたっていいじゃない)
考えながら、フォルティナは涙が込み上げてくる。
フォルティナにとって騎士団への入団はとても喜ばしいことだった。合格のために相当な努力をしてきたし、ゼノとて喜んでくれると思っていた。優秀な婚約者を持てたと誇りに思ってくれるのではないかと……。
「またその表情ですか」
ゼノがフォルティナを見て、ため息をつく。彼はカップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。お茶会終了の合図だ。
フォルティナは涙を必死にこらえながら「至らない婚約者で申し訳ございません」と微笑むのだった。
(またやってしまったわ)
ゼノとのお茶会を終えて自室に戻ったフォルティナは、鬱々とした気持ちでクッションに顔を埋める。今日こそは仲良くしよう、と意気込んでゼノと会うのに、いつもケンカばかりしてしまう。
ゼノのことが嫌いなわけではない。けれど、根本的に性格が合わない――というか、嫌われているとフォルティナは自覚していた。
それでも、いずれ二人は結婚するのだ。このままの関係でいいはずがない。結婚後は毎日顔を合わせるのだし、夫婦として公の場に出なければならないのだから。
「お嬢様、少しよろしいですか?」
フォルティナが許可を出すと、侍女たちが部屋に入ってくる。見れば、全員が真っ赤なバラをメインにした大きな花束を抱えていた。
「どうしたの、これ?」
「ゼノ様からの贈り物ですよ。お嬢様にピッタリの美しい花束ですね」
フォルティナは瞳を潤ませながら花束に顔を埋めた。
(これだから嫌いになれないのよね)
ゼノはいつもそうだ。冷たくあしらってきたかと思えば、気まぐれにプレゼントを寄越したりする。そのたびにフォルティナは舞い上がるし「次に会うときこそは」と強く思う。けれど、結局はうまくいかないし落胆する羽目になるのだけど。
(ううん、次こそは絶対にゼノ様との仲を改善させてみせるわ)
フォルティナはそう意気込んだ。
けれど数日後、フォルティナの決意は見事に砕け散ることになる。
「婚約破棄、ですか?」
「ああ。ゼノ様には申し訳ないが、そうせざるを得ない」
両親から呼び出されたフォルティナは、思いがけない話に目を丸くしていた。
「先日シュダヴルケ子爵が破産したことはフォルティナも知っているだろう? 彼はうちの鉱石の一番の買い手だったから、急いで新しい取引先を見つけなければいけなくなったんだ。けれど、派閥や家同士の兼ね合いのせいか、中々うまくいかなくてね……」
「そこで助け舟を出してくれたのがサスティーヌ侯爵だった、というわけですか」
フォルティナの言葉に両親はゆっくりとうなずいた。
(収入源が途絶えたせいで、領地の経営状況が悪化しているのは知っていたけれど……)
まさかこんな状況に陥っているとは知らなかった。
サスティーヌ侯爵といえばフォルティナより四十歳も年上だし、離婚歴が複数回ある上、本妻と愛人のいざこざなど、女性関係の醜聞が多いことで有名な男性である。大層な資産家で、他の貴族への影響力も絶大だが、フォルティナはあまりいい印象を抱いていない。今回援助をするにあたって突きつけてきた条件がフォルティナとの結婚だったのだから、そう思うのも当然だ。けれど――
「フォルティナには申し訳ないと思っている。しかし……」
「構いませんわ」
フォルティナはきっぱりとそう返事をした。泣きそうな表情を浮かべる両親に向かって、フォルティナは力強く微笑む。
「私がサスティーヌ侯爵と結婚するだけで領民が救われるのでしょう? でしたら、私に異論はありません」
「フォルティナ……けれど」
「なんのための貴族、なんのための政略結婚でございましょう。私は己の役目を果たします。……本心から、そうしたいと思っているのです。それに、お相手は資産家なのでしょう? 贅沢な生活が送れそうで嬉しいです」
フォルティナの両親は涙を流して謝った。申し訳ない、と何度も何度も。けれど、フォルティナは悲しくなかった。辛いという感覚もない。
ただ、ゼノに対しては申し訳ないと感じていた。嫌われていたとはいえ十年間も婚約していたのだし、彼に『婚約を破棄された』という経歴を残してしまう。予定外な事柄を嫌うゼノにとっては耐え難い屈辱なのではないだろうか?
それから数日後、フォルティナは両親とともにゼノの屋敷へと赴いた。
「そうですか」
婚約破棄の事情について説明をすると、ゼノは淡々とそう返事をする。何度も謝罪をする両親を前に、ゼノはピクリとも表情を変えなかった。
(まあ、そうよね。ゼノ様だものね)
彼は元々フォルティナとの結婚を望んでいたわけではない。拒否したり戸惑う素振りを見せたりするはずがなかった。
経歴に傷がつくことについても、さして気にしていない様子だ。それよりもフォルティナと結婚せずに済んだことを喜んでいるのだろう。心配して損をした――とフォルティナは視線を感じて顔を上げる。ゼノがものいいたげにこちらを見ていた。
いつもなら間髪入れずに「なにか?」と尋ねる場面だ。しかし、フォルティナはそっとゼノから視線を逸らした。
(私はもう、彼になにかを言えるような立場じゃない)
訳もなく込み上げてくる涙を、フォルティナはそっと拭った。
***
ゼノとの婚約を破棄してすぐに、フォルティナは新しい婚約者であるサスティーヌ侯爵へと引き合わされた。
「君がフォルティナだね。なるほど……実に愛らしい」
サスティーヌ侯爵はそう言って、いやらしい目つきでフォルティナを見る。フォルティナはニコリと愛想笑いを返した。
挨拶を交わしながら、フォルティナは改めて新しい婚約者をまじまじと見る。サスティーヌ侯爵の頭頂部は薄く、皺だらけの顔はテカテカと脂ぎっていた。若い頃はそれなりに整った顔立ちだったことがうかがえるが、体全体にだらしなく肉がついており、お世辞でも美しいとは形容できない。けれど、上質なシルクのジャケットに大きなダイヤモンドが埋め込まれた杖、親指や人差し指にはめられた幅の広い金の指輪など――身につけているものは高級品だとひと目で判断できた。
「若いね。肌もピチピチしているし、いい体をしている。やはり女性はこうでなければ」
(不快だなんて思っては駄目。私はこの人と結婚するんだから)
顔合わせの最中にも、サスティーヌ侯爵はベタベタとフォルティナの腰や背中を触ってくる。フォルティナはゆっくりと深呼吸を繰り返し、己の感情を押し殺した。今からこんな状態では、結婚なんてできるはずがない。
拷問のような数時間の面会を終え、フォルティナは両親とともに屋敷に帰った。すると、使用人が慌てた様子で三人の乗った馬車へと駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
フォルティナが尋ねると、使用人は困惑した表情を浮かべた。
「実は、数時間前からゼノ様がお嬢様を待っていらっしゃいまして」
「え?」
フォルティナは急いでゼノの元へ向かった。彼はいつもお茶会をしていたテラスでフォルティナを待っているらしい。
「ゼノ様!」
フォルティナが声をかけると、ゼノがゆっくりと顔を上げる。彼はそっと自分の腕時計に視線を落とすと
「フォルティナ、遅刻ですよ」
と返事をした。
「遅刻って……」
「月の初めと三番目の”太陽の日”は、この場所で僕と会う決まりでしょう。十年間も続けてきたのに、忘れてしまったのですか?」
「それは……私たちが婚約していたからこそ存在した決まりですもの」
婚約を破棄した今、そんな決まりに縛られる必要はない。というより、縛られてはいけないのだ。
「ゼノ様、もう決まりを守る必要はないのですよ? だって私たちは……」
「僕は婚約破棄を承諾していません」
「え?」
ゼノがフォルティナの手を握る。フォルティナは思わずドキッとした。
「僕は今でも、フォルティナと結婚をしたいと思っています」
「結婚したいなんてそんな……ゼノ様は私のことを嫌っていたでしょう? 会えばいつもケンカばかりしていましたし、お茶会に来るのも嫌そうでしたし……」
ゼノは返事をせず、フォルティナを見つめ続ける。フォルティナはどうすればいいのかわからなくなってしまった。
(嘘でしょう? 婚約破棄を承諾していないですって? しかも、私と結婚をしたいだなんて、冗談よね?)
婚約破棄を告げたときにもゼノは淡々としていたし「そうですか」と言っていた。当然承諾したものと誰もが思っていたというのに。
「私はサスティーヌ侯爵の婚約者です。もう、ここへ来るのはやめてください。私たちを縛っていた『決まり』は無くなってしまったのですから」
フォルティナは使用人へゼノを敷地内から連れ出すよう指示をする。ゼノはしばらくフォルティナを見つめたあと、使用人に従ってテラスをあとにした。
ゼノがいなくなったあと、フォルティナは彼のティーカップをそっと手に取る。
「……なによ。紅茶、すっかり冷めてしまってるじゃない」
紅茶を飲み干したらお茶会は終わり。十年もの間、彼はずっとそうしてきた。
(さっさと飲み干してしまえばよかったのに)
そうすれば、この屋敷に何時間もとどまらなくてもよかったのに。……フォルティナを待つ必要なんてなかったのに。
フォルティナはゼノのかわりに冷めきった紅茶を飲み干した。淹れてから時間が経ったせいで酸味を帯びた紅茶に、思わず苦笑いがこぼれた。
***
以降、ゼノは二週間ごと――茶会が開かれるはずだった日に屋敷を訪れた。けれど、そのたびに両親や使用人たちから丁重に追い返される。婚約を解消しているのだから当然だ。
フォルティナはあれから、ゼノと顔を合わせていない。新しい婚約者の手前、会うべきではないと判断したからだ。
「――元婚約者が君に会いに来ているらしいね。断られているのに、何度も何度も。健気だねぇ」
それでも、人の口に戸は立てられない。サスティーヌ侯爵にゼノの行動がバレてしまった。
「――私は会っておりません」
「そうだろうね。……いや、いいんだ。誰にも相手にされないような女を妻にする気はないからね」
そう言ってサスティーヌ侯爵はフォルティナの腰回りをゆっくりと撫でる。不快感のあまり顔をしかめそうになるのをフォルティナは必死に堪えた。
それからしばらくして、フォルティナはゼノが頻繁に夜会へ通っていることを知った。社交の類があまり好きではない彼らしからぬ行動だ。しかも、ゼノは毎回とびきりの美女を連れ歩いているらしい。
(私のことはもう諦めたんだろうな)
フォルティナが小さくため息をつく。
――諦めるもなにも、ゼノは元々フォルティナを嫌っていたのだ。フォルティナとの婚約に執着する必要などまったくない。少々嫌味ったらしいが綺麗な顔立ちをしているし、ゼノに憧れている女性はとても多い。新しい婚約者――フォルティナのかわりはすぐに見つかったのだろう。全てはじめからわかっていたことだ。けれど――
(どうしてこんなに苦しいんだろう)
フォルティナの胸がズキズキと痛む。
そんなある日、サスティーヌ侯爵が夜会を開くと言い出した。
「みんなに新しい妻を見せびらかしたいんだ」
侯爵はそう言ってフォルティナの肩を抱く。もう後戻りができないことを感じながら、フォルティナは「楽しみです」と返事をした。
そうして開かれた夜会はかなり大掛かりで豪華なものだった。サスティーヌ侯爵と同年代の男性――既に爵位を息子に譲った貴族たちが数多く訪れており、どこか重苦しく、けれど異様な熱気に満ちている。フォルティナがこれまで足を運んだ夜会とは雰囲気がまるで違っていた。
「綺麗だよ、フォルティナ。さあ、もっとこちらに寄りなさい」
サスティーヌ侯爵が今夜のために用意したのは、背中から腰にかけて大きくV字型の切れ込みが入ったベージュのドレスだった。体のラインに沿ってデザインされており、シルクの布地に小さな宝石が散りばめられている。ともすれば、まるで裸を晒しているかのようなドレスだった。
(本当に下衆な趣味ね)
ねっとりと纏わりつくような視線を感じながら、フォルティナは意地でも顔を上げる。恥ずかしがったり、嫌そうな素振りを見せては負けだ。参加者たちが望んでいるのは、フォルティナのそういう表情だと彼女にはわかっていた。
「可哀想に」
「あんな若い女性が」
「金のために売られてしまったんだろう?」
「こんな形で見世物にされるなんて……」
同情的なひそひそ話に合わせて、フォルティナを品定めするような声、不埒な欲望をあらわす声も聞こえてきた。それら全てを聞こえないふりしながら、フォルティナはニコニコと微笑み続ける。
しかし、参加者の中にゼノがいるのを見つけた瞬間、フォルティナは思わず固まってしまった。
(どうしてゼノ様がここにいるの?)
サスティーヌ侯爵が彼を招待したのだろうか? おまけに、彼の隣には金髪の若く美しい女性が並んでいる。あの女性がゼノの新しい婚約者だろうか? フォルティナの胸がキュッと疼いた。
「――それだよ。私は君のその表情が見たかったんだ」
サスティーヌ侯爵はそう言ってニヤリと笑う。彼は
「来なさい」
とフォルティナの腕を掴み、ゼノの前まで連れて行った。
「やあやあ、君がフォルティナの元婚約者だね」
サスティーヌ侯爵が上機嫌に笑う。ゼノは「はい」とも「いいえ」とも言わず、静かに頭を下げた。
「聞けば十年間も婚約をしていたんだってね。結婚目前で婚約を破棄されるとは実に気の毒だ……いや、そうでもないか。既に次の相手が決まっているのだったね。失敬失敬」
ゼノと隣にいる女性を見ながら、侯爵はニンマリと口角を上げる。
(嫌味な男)
サスティーヌ侯爵の視線はゼノへと向いているが、その意識は真っ直ぐにフォルティナへと注がれていた。自分に対する明確な悪意を感じながらも、フォルティナはそれに気づかないふりを続ける。すると、サスティーヌ侯爵は小さく笑った。
「そういえば、君たちはあまり仲がよくなかったらしいね。会えばいつもケンカばかりしていたんだとか。お茶会のたびに、周囲が気を揉んでいたそうだよ」
「ええ、そうでしょうね」
フォルティナがすぐに相槌を打つ。
これ以上、会話を長引かせたくなかった。ゼノの表情は相変わらずピクリとも変わらないし、隣にいる女性はずっと困惑しきった顔をしている。女性からすれば、ゼノの元婚約者の話なんて聞きたくないだろうし、フォルティナだって聞かせたくない。
けれど、サスティーヌ侯爵はなおもニヤニヤと笑いながら、フォルティナの腰を抱き寄せた。
「こう言ってはなんだが、破談になって正解だったのだろうね。嫌いな者同士で結婚したところで、上手くいきっこないのだから。その点、私とフォルティナはこんなにも仲がいいから……」
「僕はフォルティナを諦めていません」
と、ゼノが突然声を上げる。フォルティナは思わず目を見開いた。
「ゼノ様? なにを……」
「今夜はそれを伝えるためにここへ来ました」
そう言うと、ゼノは自分が来ていたジャケットをフォルティナに被せる。ゼノの温もりを感じながら、フォルティナは泣きそうになった。
「おい、君!」
サスティーヌ侯爵が呼ぶのも聞かず、ゼノはクルリと踵を返して会場の出口へと向かう。彼の隣にいた女性はペコペコと頭を下げてから、ゼノを追いかけていった。
***
(ゼノ様はどういうつもりなんだろう?)
夜会から数日経ったものの、フォルティナは悶々としてしまう。
ゼノはフォルティナを諦めていないと言った。格上の侯爵を相手に、だ。そのくせ、彼はフォルティナとは別の女性を夜会に連れて来ていた。ゼノがなにを考えているのか、なにをしたいのかがわからない。
(決まりを破ることをなによりも嫌う人なのに)
そういえばゼノはフォルティナとの茶会へ来るために、高熱にうなされながら屋敷を訪れたこともあった。『それが決まりだから』と言って。あのときフォルティナは本気でゼノを叱りつけた。それから、そのまま寝込んでしまったゼノを屋敷で数日看病をしたのだった。
(本当にバカ真面目で、融通がきかなくて――)
けれど、彼のそういうところが好きなのだとフォルティナは思う。
ぶっきら棒ではあったが、ゼノはとても優しかった。行動や贈り物で彼なりの誠意を示してくれていた。それを受け取れるだけの素直さがフォルティナにはなかった――そう気づいたところで、もう遅いのだろうが。
ふと、馬車の轍や蹄の音が聞こえ、フォルティナは来客を知る。
(サスティーヌ侯爵だわ)
フォルティナは急いで下の階へ降りた。
「結婚式を早めようと思うんだ」
開口一番、侯爵はそう言った。フォルティナの両親は困惑しながら、サスティーヌ侯爵を応接室のソファへと誘導する。
「けれど、フォルティナはまだ学園を卒業しておりませんし、騎士団への入団を控えています。式を挙げるのは一年後という約束で……」
「だから、その約束を無効にすると言っているのだよ」
サスティーヌ侯爵は小馬鹿にしたように笑いながら、やれやれと首を横に振った。
「だいたい、私の妻になるのだから騎士団への入団は不要だろう?」
「ですが、娘は相当な努力を重ね、入団試験に合格しておりまして……」
「それがなんだというんだ? 私には関係ないではないか」
「ですが……」
「そもそも、おまえは娘を私に売った張本人だろう?」
ウッとフォルティナの父親が言葉に詰まる。サスティーヌ侯爵はニヤリと口角を上げた。
「可哀想に。父親が無能なせいで、フォルティナは私の慰み者になるんだ。周りも当然そういう目でフォルティナを見る――哀れで惨めなフォルティナ、と」
「私は哀れでも、惨めでもありません」
フォルティナが父親を後ろ背に庇いながら言い返す。すると、サスティーヌ侯爵がウットリと目を細めた。
「いいねぇ。その勝ち気な表情がたまらないんだ。過去にもね、君によく似た女性を妻に迎えたんだよ。面白かったな……最初は君のように威勢がよかったんだ。『自分は裕福な生活のために結婚をした』『絶対に幸せになる』と豪語していてね。けれど、結婚から日が経つにつれ、どんどん衰弱していったんだ。金をちらつかせて愛人同士を競わせたこともあったけ。あれは楽しかったなぁ」
侯爵が興奮したように捲し立て、フォルティナの母親が怯えた様子でフォルティナを抱きしめる。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ねえ、君たちは私の元妻や愛人たちがどうなったか知っているかい? みんな最後には心を病んでしまい、用済みになって捨てられてしまったんだよ」
「――それがなんだというのです?」
「あくまで自分は平気だと言うんだね。よしよし、その意気だよフォルティナ。さあ、こちらにおいで。早く私と結婚しよう」
「――やっぱり娘は渡せません」
震える声でそう口にしたのはフォルティナの父親だった。
「お父様……」
「ハハハ! おまえは本当に愚かだな! 誰のおかげで販路が確保できたと思っている? 私だろう! 私がひとこと『取引をやめろ』と言うだけで、おまえも領民も、たくさんの人間が路頭に迷うことになるのだぞ?」
「お父様、私は構いません! 貴族に生まれた以上、家や領民のために結婚するのは当たり前――そういう決まりです。たとえどのような扱いを受けようと」
「だ、そうだよ」
サスティーヌ侯爵がフォルティナの髪をグイッと掴む。フォルティナは痛みを堪え、声が漏れないよう歯を食いしばった。
「フォルティナ、さっさとこちらに来い」
フォルティナは静かに侯爵へと付き従う。両親がフォルティナの名前を呼んだが、聞こえないふりをした。
(もうここへ帰ってくることはできないだろうな)
先程の侯爵の話から察するに、彼はフォルティナを奴隷のように扱う気だろう。――それでいい。そう決めたのはフォルティナ自身なのだから。
(けれど――)
移動をしつつ、応接室の窓からゼノとお茶会をしていたテラスがチラリと見える。と同時に、フォルティナは彼と過ごしてきた時間を思い出してしまった。言い合いばかりしていたし、毎回驚くほど短い時間だった。けれど、フォルティナにとってゼノは大きな存在だったと実感し、目の奥がツンと熱くなる。
とそのとき、外から何頭もの蹄の音が聞こえてきた。
「なんだ?」
物々しい雰囲気を感じ取って、サスティーヌ侯爵がたじろぐ。それから程なくして、エントランスから一人の男性の声が聞こえてきた。
「失礼いたします。サスティーヌ侯爵がこちらにいらっしゃいますね?」
それはフォルティナにとって慣れ親しんだ声だった。ゼノだ。他にも、屋敷の使用人ではない男性たちの声が漏れ聞こえる。
「やあやあ! 誰かと思えば、フォルティナの元婚約者じゃないか。私がどうかしたのかい?」
侯爵は拍子抜けしたといった表情でエントランスへ向かうと、来訪者一行へと笑いかけた。しかし、彼らはみな厳しい顔つきでサスティーヌ侯爵を睨みつける。それから、先頭に立っていたゼノが一枚の書状を侯爵へと広げてみせた。
「国王陛下からあなたの身柄を拘束するよう命令を受けております」
「……は? 陛下から、拘束命令?」
侯爵は信じられないといった様子で、ゼノの言葉を繰り返す。そうしている間に騎士装束の男性二人が侯爵の両隣へとやってきて、彼を脇から抱えあげた。
「なにをする! 無礼な! 私を誰だと……」
「シュダヴルケ子爵の破産はあなたが仕組んだことですね?」
「え?」
フォルティナや彼女の両親が目を丸くする。侯爵はピクリと眉を寄せた。
「反抗した人間は徹底的に排除する――被害を受けたのはシュタヴルケ子爵だけではありません。あなたは販路の独占や市場操作を行い、ご自分に有利な状況を作り上げると同時に、気に入らない人間が破滅するよう動いてきました。この上、脱税や裏取引、人身売買に手を染めて多額の資金を確保、買収や脅迫によって多くの人間を自身の支配下に置いています」
「なにを根拠にそんなことを……私はなにも知らないぞ」
「もちろん、それらすべてに侯爵自身が手を下したわけではありません。間に幾人もの人間を挟み、万が一なにかあってもご自分だけは逃げられるよう入念に仕組んできたと承知しております。けれど、既に証拠も証人も押さえてあるんです」
淡々と説明を続けるゼノとは裏腹に、侯爵はワナワナと震え、目を見開きながらゼノを凝視する。
「ありえない! そんな……私はなにも知らない!」
「知らないことはないでしょう? 三十年近くにわたり、何十・何百もの人間に金銭を要求して来たというのに。この三ヶ月の間にも、少なくとも二人の男性に接触し、金銭を受け取っているじゃありませんか。事業をするためにはサスティーヌ侯爵への献金が必要だ、と脅しをかけて」
「いや、違う! 私はなにも……」
「お望みならば、今この場でそれらの証拠を提示させていただきます。いずれにせよ、あなたの拘束は既に決定したことです。逃れることはできませんよ?」
「そんなバカな! どうして、どうして……」
「どうして? 僕の婚約者を返していただくためです」
崩れ落ちる侯爵を見下ろしつつ、ゼノはフォルティナを抱き寄せた。
***
その後、サスティーヌ侯爵は取調役の文官たちに洗いざらい己の罪を告白することとなった。事前調査が徹底して行われていた上、彼に恨みを持った人間が多く、新たな証拠や証言がいくつも出てきたため、言い逃れがまったくできなかったというのがその理由だ。
事前調査を主導したのが誰かというと、他ならぬゼノである。
ゼノは侯爵にまつわる情報をこれでもかというほど集め、侯爵を罪に問うための準備を進めていた。夜会に積極的に参加していたのも、手がかりや証人を少しでも多く集めるためだ。
侯爵が捕まったことにより流通ルートが正常化、フォルティナの両親は主要事業である鉱石の買い手を新たに確保できた。そして、フォルティナとサスティーヌ侯爵の婚約は白紙に戻ったのだった。
時計の針が頂上を指すと同時に、フォルティナの向かいの席にゼノが腰掛ける。まるで何事もなかったかのように。数ヶ月前とまったく同じ淡々とした表情で。
「――そろそろ『決まり』を見直したほうがよさそうですね」
苦笑いを浮かべつつ、フォルティナがそう言う。
「『決まり』とは?」
「このお茶会のことですよ。月の初めと三番目の”太陽の日”は、この場所で会う――なんて、あまりにも窮屈な縛りでしょう?」
ゼノは無表情のままフォルティナをじっと見つめている。フォルティナは小さく息をついた。
「二年前にゼノ様がお仕事をはじめられたときから思っていたんです。月に二回とはいえ、同じ曜日の同じ時間に都合をつけるのは大変じゃありませんか? しかも、お会いするのは紅茶一杯を飲むだけのごく短時間ですし」
「――そうでもしないと、あなたに会えないでしょう?」
「え?」
フォルティナが目を丸くする。ゼノは相変わらず無表情だ。けれど、よく見ると耳のあたりが赤く染まっている。フォルティナの胸が熱くなった。
「てっきり両親の差し金だと思っていました。私たちが仲良くなれるように、と」
「違います。フォルティナに会いたくて、僕が勝手にルールを定めました」
ゼノの鉄仮面がみるみる崩れていく。表情から察するに、嘘ではなく本心だろう――フォルティナはそっと目を細めた。
「それなら、もっと長い時間こちらにいらっしゃればよかったのに。ゼノ様は毎回すぐにお茶を飲み干してしまいますし、私と一緒にいたくない――嫌われていると思っていました」
「僕は口下手ですし、照れくさかったんですよ。普通に会話がしたいのに、嫌味な言い方しかできませんし」
「あら、自覚はあったのですね」
フォルティナがクスクス笑うと、ゼノは唇をムッと引き結んでから、紅茶を一気に飲み干す。
「もうお帰りですか?」
「いや」
ゼノがカップを持ち上げてフォルティナを見る。フォルティナは瞳を輝かせつつ、ゼノのカップに二杯目の紅茶を注いだ。
「ところで、今でも私との結婚を希望してくださっているとのことでしたが」
フォルティナが言うと、ゼノの頬が再び赤くなる。フォルティナの気分が少しだけ高揚した。
「夜会でお会いした女性は大丈夫なんですか?」
「あれは僕のいとこです。サスティーヌ侯爵の情報を集めるために協力をしてもらっていました。一人で夜会に参加すると目立ちますし、僕はあまり人付き合いが得意ではありませんから」
「なるほど……それで私以外の女性と出かけていらっしゃったんですね。私とはここでのお茶会ばかりでしたのに」
拗ねたような表情でフォルティナが言う。
「――次は別の場所でお会いしませんか?」
「別の場所、ですか?」
ゼノの問いかけにフォルティナが首を傾げる。ゼノはフォルティナの手をそっと握り、まじまじと見つめた。
「はい。決まった曜日でも時間でもない、どこか別の場所でフォルティナと会いたいと思っています。――いえ。本当はずっと、そう思っていました」
気の利いたお世辞も、歯の浮くようなセリフもゼノにはない。けれど、それでいい。それでこそゼノだとフォルティナは思う。
「いいですよ。あなたの決めたことならば」
フォルティナは満面の笑みでそう返事をするのだった。




