第40話: 看板の下で
帳場の朝は、いつも空の音から始まった。
王都ヴェスティア、トルプ商会の一階。バルトは帳場の卓に座り、開いたままの綴りを見ていた。塩の入りと出を記す頁だった。入りの欄は、白いままだった。三日、白いままだった。
外で、東門へ向かう荷馬車の輪が、石畳を鳴らして遠ざかっていく。よその商会の荷だった。
「親方」
帳場の奥から、番頭のグレスが出てきた。前掛けを外していた。畳んで、卓の端に置いた。
「グレス」バルトは言った。「荷は、まだ来ないのか」
「来ません」グレスは言った。「東門で、三人に声をかけました。みな、首を振りました」
「報酬を、もう一段積め」
「積みました」グレスは言った。「先月、一段。今月、もう一段。それでも、首を振ります」
バルトは、撫でつけた髪に手をやった。父譲りの仕草だった。決まりが悪いとき、虚勢が空回るとき、いつも出る手だった。
「なぜだ」バルトは言った。「相場より高い。誰が見ても、高い報酬だ」
「ええ」グレスは言った。「高うございます。けれど、隊商頭は、こう言うのです」
グレスは畳んだ前掛けを、指で押さえた。
「俺が握手したのは、トルプの娘さんだ、と。看板は握手を返してこない、と」
バルトの指が、髪の途中で止まった。
その言葉を、彼はもう何度も聞いていた。妹が去ってからの半年あまり、同じ言葉を形を変えて何度も聞いた。聞くたびに、彼は耳の奥で別の音に変えて押し込んできた。
「あれが」バルトは言った。「いたから、人が来ていただけだ。そう言いたいのか」
「そうは、申しません」グレスは言った。
けれど、グレスの目は、別のことを言っていた。バルトは、その目を見ないようにした。
「報酬さえ積めば」バルトは言った。「人は動く。動かぬのは、額が足りぬからだ。さもなくば、相手が強欲だからだ」
彼は卓の綴りを、平手で押さえた。白い頁が手の下で、かすかに鳴った。
グレスは、しばらく黙っていた。
「親方」グレスは、ようやく言った。「私は、暇をいただこうと思います」
バルトは、顔を上げた。
「暇」彼は言った。「何を、言っている」
「四十年」グレスは言った。「この帳場におりました。先代の、そのまた先代から。けれど、もう、私には荷が集められません。東門で、頭を下げても、誰も応じてくれません。——役に、立てぬのです」
彼は前掛けを卓の上に残したまま、一歩退いた。
「お払い箱に、していただいて、けっこうです」
「待て」バルトは言った。「グレス。お前まで、いなくなるのか」
声が、早くなった。図星を突かれたときの早さだった。彼は、それを、自分で聞いた。
「お前が辞めれば」バルトは言った。「帳場を、誰が回す。塩坑への使いを、誰が出す。——お前しか、おらぬではないか」
「私が回しても」グレスは言った。「荷は、来ません」
「お前の段取りが、悪いのだ」バルトは言った。
「私の段取りは、お嬢さまから見て覚えたものです」グレスは言った。「同じことを、同じようにやっております。——それでも、荷は来ません」
グレスは、静かに言った。責める声では、なかった。ただ、疲れた声だった。
「荷を集めていたのは」彼は言った。「私では、ありません」
バルトは、その言葉の続きを待った。
けれど、グレスは、その続きを言わなかった。言わずとも、二人とも、誰のことかを知っていた。
帳場の壁に、相場の綴りが何冊も並んでいた。背表紙に、年が記してあった。十年分、並んでいた。そのどれもが、妹の字だった。塩坑の水の質。隊商頭の家の事情。値を動かさなかった年の覚え。——人の名と約束が、十年分刻まれていた。
バルトには、それが読めなかった。字は読めた。けれど、字の奥にあるものが読めなかった。
「とにかく」バルトは言った。「もう少し、待ってくれ。報酬を、もう一段、積む。職人にも、声をかける。鍛冶の請けを、ローレン領から取り戻す。——当主が、自ら動けば、人は戻る」
グレスは、何も言わなかった。
ただ、卓の上の前掛けを、もう一度見た。それから、深く頭を下げた。
「もう半月」彼は言った。「もう半月だけ、おります。それで荷が来なければ、お暇を」
彼は、奥へ戻っていった。
残されたバルトは、白い頁の前に一人で座っていた。
昼、バルトは自ら東門へ出た。
東門の隊商溜まりは、半年前よりずっと静かだった。荷を積む馬車はあった。けれど、それは、よその商会の荷だった。トルプの名を出して声をかけると、隊商頭たちは目を逸らした。
「すまんが」一人が言った。「トルプさんとは、もう」
「報酬は、弾む」バルトは言った。「相場の、一割五分増しだ」
「銭の話じゃ、ねえんで」隊商頭は言った。
彼は荷を縛る縄を手繰った。
「俺が荷を引いてたのは」彼は言った。「トルプの娘さんだったからだ。あの人の段取りなら、損をしねえ。あの人の符牒なら、関で揉めねえ。——看板に、それはねえ」
バルトは、答えられなかった。
彼は撫でつけた髪に手をやった。日が、隊商溜まりの石畳を白く焼いていた。
「では、誰なら引き受けるのだ」バルトは言った。
「頼む相手が、違うんでさ」隊商頭は言った。
別の隊商頭に、声をかけた。同じだった。また別の一人に、声をかけた。同じだった。「頼む相手が、違う」と、皆が言った。違う相手とは誰か、誰も口にしなかった。口にせずとも、皆が同じ顔をしていた。
半年前、妹がこの広場に立っていたとき、隊商頭たちは向こうから声をかけてきたという。差配さん、今度の荷はどうします、と。
今は、誰も彼に声をかけなかった。
夕、彼は商館へ戻った。
帳場に、灯りを一つ点けた。卓に、当主の印を置いた。父から継いだ、トルプ家の印だった。重い、銀の印だった。
彼はそれを、しばらく見ていた。
この印を押せば、依頼状は正式なものになる。相場より高い報酬を記し、印を押して使いを出す。——そうすれば、人は動くはずだった。半年前、彼はそう信じて何十通も出した。一通も、実を結ばなかった。
印は、紙を正式にした。けれど、人を動かしはしなかった。
(なぜだ)
彼は、思った。
(当主の印がある。家の名がある。報酬も積んだ。なのに、なぜ、誰も来ない)
彼は印を握った。銀の冷たさが、掌に伝わった。
幼い頃、父の隣でこの帳場を見て育った。父は隊商頭の名を一人ひとり覚えていた。隊商頭の子の名まで、覚えていた。荷が着くたびに、父は彼らと長く話した。バルトには、それが無駄話に見えた。当主は、命じる者だ。話し込む必要などない。そう思っていた。
父の視線は、いつも妹の手元へ向いていた。
(あれは、女だ)
彼はいつもの呪文を、胸の中で唱えた。
(いずれ嫁ぐ身だ。商会は、男が継ぐのが筋だ。父上は、気が弱っていただけだ。商いを女に託すなど、本気のはずがない)
唱えても、印の冷たさは、変わらなかった。
彼は印を、卓に戻した。ことり、と銀が木に当たる音がした。帳場には、その音しかなかった。妹がいた頃、この帳場には人の声が満ちていたという。今は、銀の音しかしなかった。
その夜、噂が商館に届いた。
使い走りの小僧が、市の話を持って帰ってきた。
「親方」小僧は言った。「市で、面白い話を聞きました」
「面白い話」バルトは言った。
「ええ」小僧は言った。「隣の、マルゴーのほうの話です。トルプの差配って人が、大商会連合と、やり合ってるって」
バルトの指が、止まった。
「トルプの、差配」彼は言った。
「ええ」小僧は言った。「国境のオーレンって都市で、商いをしてる女の人だそうです。ロッシュ商会の総帥が、その人を潰そうと、塩を底値で撒いてる。なのに、その差配は、びくともしないって」
バルトは、何も言わなかった。
トルプの差配。その名で呼ばれる者を、彼は一人しか知らなかった。彼が、この帳場から追い出した者だった。
「その人が」小僧は言った。「すごいんだそうです。塩を叩かれても、鉄やら毛織やらで立て直すって。大商会連合の総帥が、的を絞れずに、苛立ってるって。——王都の市で、みんな、その話で持ちきりです」
バルトは灯りの芯を見つめた。
炎が、揺れていた。
あの女が、大商会連合と戦っている。塩を底値で撒かれても、揺れずにいる。——それは、彼が想像もしなかった姿だった。彼の頭の中の妹は、いつも、帳場の隅で帳面をつけている娘だった。父の隣で、塩坑の水の話をしている娘だった。
その娘が今、大陸の総帥を相手に退かずにいる。
あの娘が。——帳場の隅で帳面をつけていた、あの娘が。
(あれが)
彼は、思った。
(あれが、私の妹か)
胸の奥で、二つの感情がもつれた。
一つは、苦いものだった。妹を追い出した自分の商会は傾き、追い出された妹は、大商会連合と渡り合っている。世間が、その妹をすごいと囃している。——自分が捨てたものが、自分の手の届かぬ高さで輝いていた。
もう一つは、それより、もっと認めたくないものだった。
(あれが、いれば)
言いかけて、彼は飲み込んだ。
あれが、いれば。——その先を言うことは、自分の無能を認めることだった。彼はそれを、いつものように押し込んだ。
「親方」小僧は言った。「それと、もう一つ。妙な話も、聞きました」
「妙な話」
「ええ」小僧は言った。「同じトルプの差配のことで、逆の噂も、流れてるんです。あの女の握手は当てにならん、とか。約束を破る、とか。安く売ると言って、後で値を吊り上げる、とか。——市で、ぽつぽつと」
バルトは、顔を上げた。
「逆の」彼は言った。「噂」
「ええ」小僧は言った。「変ですよね。片方じゃ、すごいって言われてて。もう片方じゃ、当てにならんって言われてて。同じ人の話なのに」
バルトは、しばらく考えた。
商いの上では、彼は妹に遠く及ばない。それは認めたくなかったが、半年で骨身に染みていた。けれど、こういう噂の流れには彼にも覚えがあった。誰かを引きずり下ろしたいとき、人は根のない話を撒く。彼自身、若い頃に競りの相手から、それをやられたことがあった。
「その逆の噂は」バルトは言った。「いつから、流れている」
「最近です」小僧は言った。「ここ、十日ほどで、急に」
(誰かが、撒いている)
バルトは、思った。
すごいという話と、当てにならんという話。前者は、人の口から自然に湧く話だった。後者は、違った。十日で急に同じ言い回しで広まる噂は、自然には湧かない。誰かが、銭をかけて、撒いている。
商いの目では、彼は妹に及ばない。けれど、こういう汚れた手の臭いだけは、嗅ぎ分けられた。皮肉なことに、それは彼が得意なほうの話だった。
大商会連合の総帥が、塩で潰せぬから、声で潰しにかかっている。——彼には、そう読めた。
彼は卓の当主の印を、また見た。
あの女は、印も看板もない。商会の名も、捨てさせられた。一人で、国境の都市に立って、大陸の総帥と戦っている。それでも隊商頭は、向こうから握手を求めてくるという。
彼には、印がある。看板がある。家の名がある。報酬も積んでいる。それでも、誰も来ない。
二つを並べて、考えた。考えまいとして、考えた。
(私は)
彼は、思った。
(私は、何かを、取り違えていたのか)
その思いが、胸の底で薄く灯った。
すぐに彼は、それを打ち消した。当主は私だ、当主が決めることに間違いはない、といういつもの呪文で。打ち消した。打ち消したつもりだった。
けれど打ち消したはずの問いは、消えずに帳場の隅に残っていた。灯りの芯のそばに、小さく残っていた。
彼はその夜、長く白い頁の前に座っていた。
入りの欄は、白いままだった。けれど彼は、その白さの意味を半年で初めて、まっすぐに見ようとしていた。荷が来ないのは、報酬が足りぬからではない。相手が強欲だからでもない。——では、なぜか。その問いを、初めて押し込まずに抱えていた。
国境都市オーレン。天秤亭。
マレーナは、卓に符牒帳を開いていた。ヴィンスが、王都の方角の報せを、もう一度運んできていた。
「王都の市でも」ヴィンスは言った。「あの噂が、広まってます。トルプの差配は当てにならん、と。——もう、ぽつぽつ、じゃありません」
「王都にも」マレーナは言った。
彼女は符牒帳の角の手擦れを、指の腹で読んだ。十年で、すり減った紙の角だった。
「妙なのは」ヴィンスは言った。「王都じゃ、逆の話も、一緒に流れてるんです。差配さんが、大商会連合とやり合って、退いてない、と。——そっちは、誰も撒いてない。勝手に、湧いてる話です」
マレーナは、その二つを頭の中で並べた。
撒かれた噂と、湧いた話と。前者には、出どころがある。後者には、ない。前者は、銭で買われ、同じ言い回しで広がる。後者は、ばらばらの言葉で、人の口から人の口へ渡る。
「ヴィンス」彼女は言った。「撒かれたほうの噂、王都ではどの言い回しが多いですか」
「王都では」ヴィンスは言った。「『握手は当てにならん』が、いちばん多いです。次が、『約束を破る』。——オーレンと、同じ順です」
マレーナは符牒帳に、一行書いた。
『王都の噂、言い回しの順、オーレンと同じ』
その一行を、彼女はしばらく見ていた。
言い回しの順が同じということは、出どころが同じということだった。ヴェルナーは同じ袋から、同じ声を王都にも撒いている。オーレンから王都まで、馬車で五日。声はその五日を、塩より速く渡っていた。
彼女は、窓の外を見た。
オーレンの広場が、夕日に染まっていた。けれど彼女が見ていたのは、その向こうだった。峠の向こう、五日の路の果ての、王都だった。
王都で看板を掲げて、誰も来ない蔵を睨んでいるであろう一人の男の顔が、頭の隅に浮かんだ。
その男のところにも今、同じ噂が届いている。届いたとき、その男は何を思うだろう。——彼女には、分からなかった。分からなかったが、符牒帳の角を指の腹で一度だけ撫でた。
紙の手擦れは、王都の方角でも同じ温度をしていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第四十話「看板の下で」。今回は、王都に残った兄バルトの視点で、一話を通しました。
マレーナを追い出して当主となったバルトのトルプ商会は、看板はあるのに、荷が集まりません。番頭のグレスが「もう荷が集められない」と暇を願い出ます。バルトは報酬を積めば人は動くと信じて、東門で隊商頭に声をかけます。けれど、皆が同じことを言うのです。「俺が握手したのは、トルプの娘さんだった。看板は、握手を返してこない」。半年前、マレーナが警告した通りでした。彼が継いだのは看板で、信用は妹個人に付いたまま、峠の向こうへ行ってしまった。
そこへ、二つの噂が王都に届きます。一つは、隣領の「トルプの差配」が大商会連合と戦っているという話。もう一つは、その差配を貶める、撒かれた噂。バルトは、その差配が自分の追放した妹だと気づきます。捨てたものが手の届かぬ高さで輝いている——苦さと、認めたくない思いがもつれます。
この話で大事にしたのは、バルトをここで改心させないことでした。劇的な悔い改めも、謝罪も、まだです。ただ、報酬で人が動かない現実の中で「自分は何かを取り違えていたのか」という問いが、胸の底で薄く灯る。すぐに打ち消すのに、消えずに残る。その一歩だけを描きました。彼が妹に詫びる日は、まだずっと先です。けれど、その長い道の最初の一歩を、彼は今踏みました。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。看板を継いだ兄の蔵には、荷が来ません。握手を継いだ妹の路は、声に狙われながらも、回り続けています。
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