第37話: 封書を、開く
封蝋の冷たさが、まだ指先に残っていた。
オーレンへ戻って三日。マレーナは天秤亭の二階の卓に符牒帳を開いて座っていた。十年、人の名を刻んできた帳面だった。その頁のあいだに一通の封書が挟まれていた。
厚い、上等な紙。封蝋には、天秤を握る手の紋が押されていた。
谷で受け取ったまま、開いていなかった。
あの日、谷には春が来ていた。温かい毛織を右の掌に、冷たい封書を左の掌に乗せて、マレーナはこの紙を符牒帳のあいだに挟んだ。いつか開く。今日ではない、と。
今日が、その日だった。
「開けるのか」
卓の向かいで、レオが言った。
「ええ」マレーナは言った。「谷の春は、終わりました。次の季節が、この紙の中にあります」
彼女は封書を符牒帳から抜いた。指先が封蝋の縁を読んだ。三日前と同じ、握手を返さない者の冷たさだった。
マレーナは、封を切った。
中から一枚の紙が出てきた。几帳面に折られていた。けれど、ヴィンスの控えの折り目とは違った。ヴィンスの折り目には人を疑わせない温度があった。この折り目には、それがなかった。完璧で、冷たかった。
彼女は、紙を開いた。
整った字が並んでいた。崩れも迷いもない字だった。書き手が一字ごとに値踏みをしながら書いた字だった。
「読みます」マレーナは言った。
声に出して、読み上げた。
「『トルプの差配どのへ。北の谷を、ひと冬で立て直されたと伺いました。寒波で死にかけた谷が、銀のない身で南と繋がった。前貸しの信用状、とやらで。——見事なお手並みです』」
「世辞か」レオが言った。
「いいえ」マレーナは言った。「世辞は、ここまでです」
彼女は、次の一行を読んだ。
「『一つ、お訊きしたい。あなたの信用とやらは、いくらで買えますか』」
卓の上に、その一行が落ちた。レオの顔から、砕けた色が消えた。
「『信用、信用と仰る。結構なことです』」マレーナは、続けた。「『ですが、私は値のつかないものを信じません。あなたの谷の握手も十年の符牒帳も、然るべき値をつければ私の蔵に移せる。——その値を、拝見したいのです』」
彼女は、紙を卓に置いた。
「『お返事は、お急ぎになりませんよう。私は、気の長い質です。ロッシュ商会総帥、ヴェルナー』」
短い沈黙が二階の部屋に落ちた。階下から、荷夫の笑い声と馬の蹄を洗う水音が、薄く上ってきていた。
「これは」レオが言った。「文じゃない」
「ええ」マレーナは言った。「宣戦です」
マレーナは紙の上の整った字を、もう一度見た。
声を荒げない文だった。脅し文句は一つもなかった。けれど、その穏やかさの底に刃が沈んでいた。
「この人は」マレーナは言った。「わたくしの信用に値をつけると言っています。十年かけて結んだ握手も谷を立たせた紙も、銀を積めば自分のものになる、と」
「できるわけがない」レオは言った。
「できると、本気で信じています」マレーナは言った。「だから、これは怖い文です。怒っている文より、ずっと」
彼女は襟の銅貨を指で押さえるレオの手を見た。それから、自分の符牒帳を見た。
「この人にとって」マレーナは言った。「値のつかないものなど存在しません。まだ値をつけていないものが、あるだけなのです」
「なぜ」レオが言った。「今になって、こいつが出てくる」
マレーナは、しばらく考えた。
それから符牒帳の頁を、谷の記録まで遡った。前貸しの信用状。辺境伯ベルントの負債。その鎖の、もう一方の端。
「思い出してください」マレーナは言った。「カルン辺境伯は、なぜ谷を絞っていましたか」
「借金だ」レオは言った。「ロッシュ商会への」
「ええ」マレーナは言った。「辺境伯は、ロッシュ商会に首を押さえられていました。専売で谷を絞り、その銭で借りを返していた。——わたくしたちは、その鎖を断ちました」
彼女は符牒帳の頁を指で押さえた。
「谷が立ち、辺境伯が専売を緩めた。借りを返す目処が立った。——それは、ロッシュ商会から見れば」
「絞れる相手が、一人減った」レオが言った。
「ええ」マレーナは言った。「わたくしたちは、谷を解いたつもりでした。けれど同じ手で、ヴェルナーの蔵から銭の流れを一本抜いていたのです」
レオが、卓の紙を見た。
「俺たちが谷を救ったことが」彼は言った。「こいつを、本気にさせたのか」
「ええ」マレーナは言った。「辺境伯一人なら、ヴェルナーは放っておいたでしょう。けれど、わたくしたちはその手口そのものを崩しました。資本で首を押さえる——そのやり方が、信用で解かれた。一度それが起きれば、次の領も、その次の領も、同じ手で解かれかねません」
彼女は、紙の上の天秤を握る手の紋を見た。
「ヴェルナーにとって」マレーナは言った。「わたくしたちは、辺境伯を一人取り戻した商売敵ではありません。彼の支配のやり方そのものを、否定し始めた者です。——だから、本気で出てきました」
「序の口、ってわけか」レオは言った。
「ええ」マレーナは言った。「この文は、戦の始まりの合図です」
彼女は封書を、符牒帳のあいだに戻さなかった。卓の上に開いたまま置いた。
いつか開く、ではなく。今日、開いた紙だった。
ダレン自由都市連合。大陸中央の、商都の集まる地。
その一角に、ロッシュ商会の館があった。
石造りの大きな館だった。窓には硝子が嵌まり、廊下には大陸じゅうから集めた品が並んでいた。けれど、その館の主は品を愛でなかった。品の値だけを見ていた。
ヴェルナーは、奥の一室の窓辺に立っていた。
仕立ての完璧な、黒の外套。皺ひとつなかった。右手の指のあいだで磨き抜かれた銀貨を一枚、弄んでいた。考えるとき親指で弾く癖だった。
卓の上に、北からの報せが置かれていた。
カルン辺境伯ベルントが、専売を刻みで緩め始めた。前月の取り立てから返済の滞りが消えた。鎖が、緩んでいた。
ヴェルナーは、その報せをもう三度読んでいた。
(緩んだ)
彼は銀貨を親指で弾いた。
ベルントは二十数年、彼の蔵に銭を運び続けてきた器だった。借りに首を縛られ、谷を絞り、その銭で利を払う。器が空になりかければ期日を早めて締め直す。届きそうになった手を遠ざける。——それが、彼の手口だった。確実で、清潔で、裏切らない手口だった。
その器が今、外から修理されていた。
(あの女か)
ヴェルナーは、思った。
トルプの差配。マレーナ。看板を兄に奪われ、符牒帳一冊で国境に流れた女。彼の傘下の商会が、いくつも噂を運んできていた。値でなく信用で商う女。握手で路を繋ぐ女。
馬鹿げている、と彼は思った。
握手など、ほどける。約束など、破られる。信用などという紙より薄いものに人生を賭けた者がどうなるか——彼は、誰よりよく知っていた。
窓の外を見た。商都の屋根が夕日を浴びていた。
(私も、昔は……)
銀貨を弾く親指が、一瞬、止まった。
若い頃の彼は、信用を信じていた。
最も信じた相手がいた。共同経営者であり、恩人だった。彼が金を出し、相手が路を持ってきた。二人で商会を興した。握手を交わし、紙より人を信じた。
その相手が、商会の銭を全て持って消えた。残ったのは借財と、笑い者になった彼自身だった。
商会も家も、一夜で失った。
あのとき彼は悟った。人を信じた自分が、愚かだった。金は、嘘をつかない。
(信じた、私が悪い)
ヴェルナーは銀貨を、また弾き始めた。
昔話だった。値にならない、昔話だった。
「お呼びですか」
扉の前に、傘下の商人が一人、立っていた。
「南の塩坑だ」ヴェルナーは言った。窓の外を見たまま、振り向かなかった。「マルゴーの、ゴットという親方の坑がある。あの女が、十年商ってきた坑だ」
「存じております」商人は言った。
「あの坑の塩を」ヴェルナーは言った。「私が買う。値は、向こうの言い値の倍を積め。三倍でもいい。坑夫の手間賃も、別に出してやれ」
商人が、わずかに目を瞠った。
「倍、でございますか」
「安いものだ」ヴェルナーは言った。「あの女の路は、塩から始まった。塩を抜けば、根が枯れる。——根を、私が買うのだ」
「ですが」商人は言った。「あの親方は、頑固者と聞きます。値を釣り上げても、首を縦に振らぬのではと」
ヴェルナーは、初めて振り向いた。
穏やかな笑みを浮かべていた。けれど、目だけは笑っていなかった。
「振らぬ者はいない」彼は言った。「値が足りていないだけだ。倍で振らねば、三倍を出せ。三倍で振らねば、五倍を出せ。——人は必ず、ある値で振る」
彼は銀貨を親指で弾いた。
「私は、それを四十年見てきた。誇りも、義理も、握手も。然るべき値の前では皆、頭を垂れる。——あの親方も、同じだ」
商人は頭を下げて退いた。
残されたヴェルナーは、また窓辺に立った。銀貨を弾きながら思った。
(あの女に、見せてやろう。あなたの信用とやらが、いくらで買えるかを)
マルゴー公国。南の山あい。
ゴットの塩坑は、岩肌に穿たれた坑道の口に塩袋を積み上げていた。坑夫たちが、坑から出した塩を麻袋に詰め、樽に移していた。
ゴットは坑の前で、新しく出た塩を一掴み、手のひらに乗せていた。
舐めなかった。匂いを嗅いだ。それで、塩の良し悪しを言い当てる男だった。
「いい塩だ」彼は、誰にともなく言った。「今年は、水が引いとる。量も出る」
白髪まじりの短い髭を、塩で荒れた太い手で撫でた。
そこへ、坑の下の道を、立派な隊商が一つ、上ってきた。
揃いの荷馬車。磨かれた馬具。前後に付いた、馬上の護衛。
貧しい塩坑へ上ってくるには、整いすぎた隊商だった。
ゴットは、塩を手のひらに乗せたまま、その隊列を見ていた。
中央の一頭から、仕立ての良い商人が降りた。坑道の前の岩の道を、靴を汚さぬように歩いてきた。
「ゴット親方で」商人は言った。「お間違いありませんか」
「わしだ」ゴットは言った。
「私は」商人は言った。「ダレンのロッシュ商会から参りました。総帥ヴェルナーの、使いの者でございます」
ゴットは、手のひらの塩を、ゆっくりと樽に戻した。
「ロッシュ」彼は言った。「聞いたことのある名だ。だが、わしの坑とは、縁がない名だ」
「これから」商人は言った。「縁を結びとうございます」
彼は、懐から、一枚の紙を取り出した。びっしりと数字の書かれた紙だった。
「この坑の塩を」商人は言った。「総帥が買わせていただきたい。値は、今あなたが商っておられる相手の——倍をお出しします」
ゴットは、その紙を、見なかった。
「倍」彼は言った。
「ええ」商人は言った。「倍でございます。坑夫の手間賃も、別にお出しします。坑道を直す木も、こちらが運びます。——あなたの坑は、今よりずっと豊かになる」
彼は、穏やかに微笑んだ。
「いかがでしょう。あなたが今、八枚で商っておられる塩を——十六枚で。坑の暮らしが、変わりますよ」
ゴットは、しばらく、何も言わなかった。
坑の前に、坑夫たちが集まり始めていた。倍、という声が、彼らの耳にも届いていた。倍の値。坑夫の手間賃。坑道を直す木。——貧しい塩坑には、目の眩むような話だった。
ゴットは、その坑夫たちを、一度見た。
それから、商人を見た。
「あんた」ゴットは言った。「握手は、するか」
商人が、戸惑った顔をした。
「握手、でございますか」
「ああ」ゴットは言った。「商いをするなら、握手だ。手を、見せろ」
「私どもは」商人は言った。「握手は、いたしません。総帥の、方針でございまして。——信用、というものを、信じておりませんので。すべて、紙でやり取りいたします」
ゴットは、低く、喉の奥で唸った。
それから、坑の塩袋に、太い手を置いた。
「金ならいくらでも積む、と言うたな」彼は言った。
「ええ」商人は言った。「いくらでも」
「だがな」ゴットは言った。「わしが商うのは——あの人だけだ」
商人の笑みが、わずかに固まった。
「あの人、と仰いますと」
「マレーナだ」ゴットは言った。「トルプの差配だった、あの女子だ」
「あの女は」ゴットは言った。「十年前、わしの坑へ来た。十三の冬だ。痩せた小娘だった。皆が塩坑の水を読めずに値を叩いてくる中で、あの娘だけが、苦しい年に値を動かさんと言うた」
彼は、坑の口を見た。岩肌に穿たれた、暗い坑道を。
「水が出れば、塩が湿る。値が落ちる。皆、そこで叩いてくる。買い叩いて、坑夫を干上がらせる。——だが、あの娘は、叩かんかった。水の出る年も、八枚で買い続けると言うた」
彼は、商人を見た。
「あの娘の八枚は」ゴットは言った。「あんたの十六枚より、重い」
「ですが」商人は言った。「値は、半分でございますよ。倍お出しすると申し上げているのです。坑夫の暮らしを、お考えに」
「考えとる」ゴットは言った。「だから、断る」
彼は、坑夫たちを、もう一度見た。
「いいか」ゴットは、坑夫たちに言った。声は大きくなかった。けれど、坑道に響いた。「倍の値は、今だけだ。この商会は、わしらの坑をあの女から引き剥がしたら、来年は値を叩く。再来年はもっと叩く。——わしは、ああいう手を知っとる。倍で釣って、後で締める手だ」
坑夫たちが、黙った。
「あの女は」ゴットは言った。「水の出る年も、八枚を動かさんかった。十年、一度も。——どっちが、坑を守ってくれる相手か。お前らにも、分かるはずだ」
商人は、なおも、言葉を継ごうとした。
「親方。これは、ご自分一人の坑のことではございません。坑夫の、暮らしの——」
「帰れ」ゴットは言った。
短い一言だった。けれど、岩のように動かなかった。
「わしの坑の塩は」彼は言った。「マレーナの路へ出す。十年、そう決めとる。あんたの紙には、握手がない。握手のない者とは、商わん」
彼は、塩袋に置いた手を、商人の方へ差し出した。
「これが」ゴットは言った。「わしの返事だ。握れるなら、握ってみろ」
商人は、その手を、握れなかった。手袋を外せという主と同じく、握る作法を持たない使いだった。
差し出された太い手を、商人は、ただ見ていた。
商人は、隊商へ戻った。
来たときと同じ、ゆっくりとした足取りで、塩坑の道を引き返していった。揃いの荷馬車。磨かれた馬具。一つも乱れない、整いすぎた隊列だった。
ゴットは、その背を、坑の前で見送った。
それから、樽の塩を、また一掴み、手のひらに乗せた。匂いを嗅いだ。
「いい塩だ」彼は、坑夫たちに言った。「今年は、量が出る。マレーナへの便りに、そう書いとけ。——八枚のまま、量を増やせる、とな」
坑夫たちが、それぞれの仕事へ戻っていった。
倍の値は、坑の道を、下りていった。
ダレンの館で、ヴェルナーは、報せを受けた。
南の塩坑は、買収を断った。倍を出しても、三倍でも、首を縦に振らなかった。親方は、商人の握手を求め、紙のやり取りを拒んだ。
ヴェルナーは、その報せを、卓に置いた。
声を、荒げなかった。荒げる必要を、感じなかった。
ただ、右手の銀貨を弾く速さが、いつもより、わずかに上がった。親指が、銀貨を弾き、受け、また弾いた。速く。速く。
(倍で振らぬか)
彼は、思った。
(ならば、三倍だ。五倍だ。——必ず、ある値で振る)
けれど、銀貨を弾きながら、彼は、もう一つのことを考えていた。
あの女は、塩坑だけではない。鉄も、毛織も、革も、葡萄酒も。南北を束ねている。塩坑一つ買えなかったところで、根は枯れない。
(一つずつ買っていては、間に合わぬ)
彼は、窓の外を見た。商都の屋根が、夕闇に沈もうとしていた。
(信用で繋がった路を、一つずつ買うのは、無駄が多い。——ならば、繋がる前提を、崩せばいい)
彼は、銀貨を、握り込んだ。
(値を、叩く。私が、損を呑んで、市の値を底まで叩く。あの女の信用の値が、私の叩いた値の前で、どれだけ保つか——見せてもらおう)
信用に怯える男は、信用を否定するために、損を出すことを決めた。
オーレンの天秤亭。
マレーナは、卓に、ゴットからの便りを広げていた。
太い指で書いた、大きく曲がった字だった。用件は、二行。
『塩、今年は量が出る。八枚のまま増やせる。——変な商人が来た。倍を出すと言うた。断った。あんたとしか商わん』
マレーナは、その二行を、長いあいだ見ていた。
握手の温度が、便りから、掌に伝わってくるようだった。
「レオ」マレーナは言った。「ヴェルナーが、ゴット親方へ倍の値を持ちかけました」
「断ったんだな」レオが言った。
「ええ」マレーナは言った。「倍を出すと言われて、断ったそうです。『あんたとしか商わん』と」
彼女は、便りの、大きく曲がった字を、指の腹でなぞった。
「これが」マレーナは言った。「ヴェルナーへの最初の答えです。彼は、わたくしの信用に値をつけられると信じています。——けれど、ゴット親方の握手には倍の値でも届きませんでした」
「親方らしいな」レオが、口の端を上げた。
「ええ」マレーナは言った。「親方は、値で坑を守ったことが、一度もありません。値を動かさないことで、守ってきました。だから、倍の値が、かえって信じられなかったのです」
彼女は、便りを、符牒帳のあいだに挟んだ。冷たい封書を挟んだのと、同じ場所だった。
けれど、便りの折り目には、温度があった。
マレーナは、卓に、二枚の紙を並べた。
一枚は、ヴェルナーの封書。整った字、完璧な折り目、冷たい紋。
一枚は、ゴットの便り。大きく曲がった字、二行だけの、握手の温度を持つ便り。
「この二枚が」マレーナは言った。「これから始まる戦の、両側です」
「両側」レオが言った。
「ええ」マレーナは言った。「片方は、銀で世の中の値を決めようとする側。もう片方は、握手で人と人を繋ぐ側。——ヴェルナーは、握手は値の前で頭を垂れると信じています。わたくしは、値では届かないものがあると知っています」
彼女は、二枚の紙を、見比べた。
「親方は」マレーナは言った。「倍の値を、断りました。最初の一勝です。——けれど」
「けれど」レオが言った。
「これは、塩坑一つの話です」マレーナは言った。「ヴェルナーが、塩坑一つで諦めるとは、思えません」
マレーナは、符牒帳を開いた。
南マルゴーの塩・鉄。北カルンの毛織・羊毛。オーレンを通る、革・葡萄酒・茶。十年と、この半年で繋いだ、南北の路が、頁に刻まれていた。
「ヴェルナーは」マレーナは言った。「わたくしの路を、一つずつ買おうとしました。塩坑から。けれど、握手は買えなかった。——次に彼が打つ手は、握手を買うことではありません」
「なんだ」レオが言った。
「握手を、無駄にすることです」マレーナは言った。「市の値を、底まで叩く。ヴェルナーが損を呑んで、塩も鉄も毛織も、相場より安く売る。——そうすれば、人は『倍の値を払う商会』ではなく『安く売る商会』を選び始めるかもしれません」
レオの目から、砕けた色が、完全に消えた。
「価格戦争か」彼は言った。
「ええ」マレーナは言った。「資本を持つ者だけが打てる手です。損を、どれだけ長く呑めるか。蔵の深さの、勝負です」
レオは、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「蔵の深さなら」彼は言った。「向こうが上だ。大陸を握ってきた大商会だ。俺たちの蔵とは、桁が違う」
「ええ」マレーナは言った。
「あんたは」レオは言った。「それでも、勝てると思ってるのか」
マレーナは、符牒帳の頁を見た。それから、ゴットの便りを挟んだ場所を、指で押さえた。
「蔵の深さでは、勝てません」彼女は言った。「けれど、ヴェルナーは、一つ読み違えています」
「何を」
「彼は」マレーナは言った。「人は安い値を選ぶと信じています。けれど、ゴット親方は倍の値を断りました。——人はいつも、安い方を選ぶわけではないのです」
「ヴェルナーが市の値を叩けば」マレーナは言った。「一時は、安い塩へ人が流れるでしょう。けれど、安い値は、続きません。彼が損を呑むのをやめた瞬間、値は跳ね上がります。倍で釣って後で締める——ゴット親方が坑夫に言い当てた手と、同じです」
「親方は」レオは言った。「それを見抜いて、断った」
「ええ」マレーナは言った。「親方が見抜いたものを、ほかの取引相手にも、見抜いてもらえるか。——それが、この戦の鍵です」
彼女は、卓の二枚の紙を、もう一度見た。
「値で揺れる相手は、ヴェルナーに流れます」マレーナは言った。「けれど、十年の握手で繋がった相手は、揺れません。——わたくしが守るのは、値ではなく、その握手です」
レオが、襟の銅貨を、指でなぞった。
「これは」彼は言った。「塩坑一つの話じゃ、終わらないな」
「ええ」マレーナは言った。「ヴェルナーは、大陸の値を握る男です。彼が本気で値を叩けば、南も、北も、巻き込まれます。塩坑も、谷も、オーレンも。——わたくしたちが繋いだ路の、すべてが」
彼女は、符牒帳を、両手で持った。
「これは」マレーナは言った。「大陸全部を巻き込む、戦になります」
レオが、彼女を見た。
マレーナの栗色の瞳が、細くなっていた。数字を追うときの目だった。けれど、その奥に、もう一つ、別のものがあった。十年、人の握手を量ってきた者の、覚悟だった。
「逃げる気は」レオが言った。「ないんだな」
「ありません」マレーナは言った。「谷を解いたのは、わたくしたちです。その鎖の持ち主が出てきたなら、最後まで、相手をします」
日が、オーレンの広場に傾いていた。
マレーナは、卓に並べた二枚の紙を、見ていた。
ヴェルナーの封書。完璧で、冷たい紙。世の中のすべてに値をつけ、その値で人を動かそうとする男の紙だった。
ゴットの便り。大きく曲がった字で、握手の温度を持つ紙。値では届かないものがあると、坑夫に言い当てた男の紙だった。
マレーナは、その二枚を、両の掌で量った。
冷たい封書は、重かった。背後に、大陸を握る蔵の深さがあった。
温かい便りは、軽かった。けれど、その軽さの中に、十年の握手が、たしかにあった。
「レオ」マレーナは言った。
「ああ」
「ヴェルナーは」マレーナは言った。「わたくしの信用が、いくらで買えるか拝見したい、と書きました」
彼女は、二枚の紙を、卓に置いた。
「いくらでも、買えません」マレーナは言った。「それを、これから見せます」
階下から、荷夫の声と、馬の蹄を洗う水音が、上ってきていた。
マレーナは、ヴェルナーの封書を、卓の隅へ寄せた。それから、ゴットの便りを、符牒帳のあいだに、もう一度挟み直した。
冷たい紙と、温かい紙。
戦は、もう、始まっていた。
マレーナの指先には、まだ、封蝋の冷たさが残っていた。
けれど、その冷たさの隣に、ゴットの便りの、握手の温度があった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第三十七話「封書を、開く」。第二巻、後半の幕開けです。谷で受け取ったまま符牒帳に挟んでいた、ロッシュ商会の封書を、マレーナがついに開きます。総帥ヴェルナーの文は、丁重な体裁を取りながら、中身は宣戦でした。「あなたの信用とやらは、いくらで買えますか」。世の中のすべてに値がつけられると信じる男の、穏やかな、けれど冷たい挑戦です。
ヴェルナーは、純粋な悪人ではありません。若い頃、最も信じた相手に裏切られ、商会も家も一度すべて失った男です。そのとき「人を信じた自分が愚かだった。金は、嘘をつかない」と悟り、資本だけを頼りに大商会を築き上げました。だから彼は、マレーナの信用の交易を、生理的に憎みます。それは、彼が捨てて二度と戻れない世界だからです。信用を嗤いながら、その実、信用が本当に成り立ってしまうことに、誰より怯えている——そんな男です。
彼はまず、マレーナの路の根である、南の塩坑を狙います。ゴット親方に、倍の値を持ちかける。けれど親方は、こう返します。「金ならいくらでも積むと言われた。だが、わしが商うのは、あの人だけだ」。十三の冬、痩せた小娘だったマレーナが、水の出る年も値を叩かなかった——その十年の握手は、倍の値でも届きませんでした。資本が信用に敗れる、最初の小さな一勝です。
けれど、これは序の口にすぎません。塩坑一つを買えなかったヴェルナーは、次に、もっと大きな手を打とうとしています。市の値を、底まで叩く——赤字覚悟の価格戦争です。蔵の深さでは、向こうが上。これは、大陸全部を巻き込む戦になります。次の話から、資本と信用の、本当の対決が始まります。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。冷たい封書が、卓の上に開かれました。マレーナの返事は、たった一言です。「いくらでも、買えません」。
☆評価・ブックマーク・ご感想をいただけると、次の話を書く手が速くなります。




