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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第24話: 帰れ、と谷は言った

 谷は、思っていたより狭かった。


 両側から山が迫り、空が細く切り取られている。雪をかぶった石屋根が、身を寄せ合うように並んでいた。その隙間を縫って、とん、とん、と織機の音が響いている。


 マレーナは、羊小屋の前で馬を止めた。


 囲いの中が、空だった。柵は新しいのに、羊がいない。隅に、刈られないままの羊毛がひと房、雪に汚れて落ちていた。


 寒波で、羊がずいぶん死んだ。来年の毛が、足りん——ザイツの言葉が、よみがえった。数字で聞いた話が、空の囲いになって、目の前にある。


 掌に、雪が落ちた。冷たさが、革の手袋の縫い目から染みてくる。


「……活気が、ありませんね」


「ない」レオが、囲いを見ていた。「昔は、ここに二百頭いた」


「来たことが、あるのですか」


「……ガキの頃にな」レオは短く言った。「親父に、連れられて」


 それきり、口を閉じた。マレーナは、それ以上聞かなかった。けれど、頭の隅に置いた。レオは、この谷の昔を知っている。羊が二百頭いた頃の昔を。


 二人は、馬を引いて谷の奥へ進んだ。


 井戸端で女が一人、桶に水を汲んでいた。痩せた手だった。二人の馬を見ると汲む手を止め、桶を抱えて足早に石屋根の奥へ消えた。戸が、ぱたりと閉まる。


 次の角でも、同じだった。薪を抱えた老婆が二人を一瞥して目を伏せる。子どもが一人、物珍しそうに駆け寄ろうとして、母親らしい女に腕を引かれ、家の中へ消えた。


「歓迎されてないな」レオが、苦笑とも言えない顔をした。


「いいえ」マレーナは言った。「怯えています。歓迎しないのと、怯えるのは、違います」


 怯えは、一度ひどい目に遭った者の顔だ。マレーナはそれを知っていた。追放されたあと、王都の知り合いが自分から目を逸らしたとき——あの、申し訳なさと関わりたくなさの混じった顔。谷はまるごと、その顔をしていた。




 織り小屋の戸口に、老人が立っていた。


 昨日、谷の入口で背を向けた男だった。痩せて節くれだった手。白く濁った左目。羊毛の脂で艶の出た革の前掛け。男は、近づく二人を、じっと見ていた。


 レオが、馬を降りた。一歩、前に出た。


「ハルダー商会の——」


「帰れ」


 老人の声は、低く、短かった。喉の奥で一度、唸るような音がした。


「トルプの差配か、ハルダーの差配か。どっちにしろ、よそ者だ。谷に、用はない。帰れ」


 とん、と鳴っていた織機の音が、どこかで止まった。戸口の奥で、女たちが手を止めてこちらを窺っているのが分かった。


「待ってください」マレーナは馬を降りた。「わたくしは、谷の毛織を、正当な値で——」


「値」


 老人は、その一語を、吐き捨てるように繰り返した。


「値で来る者は、皆そう言う。安く買い叩くときも、見捨てるときも、口では正当な値と言うんだ。わしはもう聞かん」


 レオが、口を開いた。


「親方。俺は、ハルダーの——」


「その名を」オトマルの濁った目が、初めてレオにまっすぐ向いた。「この谷で、口にするな」


 短い言葉だった。けれど、その短さの中に二十数年が詰まっているのが分かった。


 レオの口が、止まった。何かを言おうとして、言えなかった。襟の銅貨に、指が触れた。


「あんたの父御の顔を、わしは覚えとる」オトマルは言った。「よう似とる。だが、似とるだけで、谷の戸は開かん。むしろ、固く閉まるだけだ」




 マレーナは、口を閉じた。


 値も、段取りも、記録も。十年、彼女を支えてきた言葉が、この戸口の前では一つも通らない。誰がいつ約束を守ったか、十年分の名を一行ずつ刻んできた符牒帳が、掌の中で急に軽くなった。


 ハルダーの差配か。どっちにしろ、よそ者だ。


 その響きに、覚えがあった。


 女の差配の言うことをいちいち聞いておれるか——四年前、名も顔も見られずに切り捨てられた、あの声と同じ温度だった。名で測られて、戸を閉ざされる。今、自分はその戸の外側に立っている。


 けれど、と思った。閉ざされた戸には、いつも、向こう側がある。


 マレーナは、老人を見た。白く濁った左目の奥に、怒りではない何かがあった。怒りは、もっと熱い。この目は、冷えていた。何かを、固く守っている目だった。


「お名前を、伺っても」


「……オトマル」老人は言った。「この谷の、織りの束ね手だ。名乗ったから何だ。帰れ」


 そう言って、オトマルは背を向けた。昨日と同じ、戸のように閉じた背中だった。




 レオは、動かなかった。


 閉じた戸に背を向けられたまま、襟の銅貨に手をやっている。砕けた色は、もうどこにもなかった。


「レオ殿」マレーナは声をかけた。


 レオは答えなかった。雪の積もり始めた谷を、ただ見ている。その横顔を、マレーナは見た。負けたときの顔ではない。十年、競りで何度も見てきた、あの悔しげで愉しげな顔とは、まるで違った。もっと古くて、もっと深い顔だった。


「……すまん」ようやく、レオが言った。「今日は、引こう。無理を言って、悪かった」


 その声が、低く掠れていた。


 マレーナは頷いた。問いたいことは、山ほどあった。オトマルの言った父御の顔。レオの知る谷の昔。閉じた戸の向こうの、二十数年。けれど、今は問わなかった。この男は、言えるときに言う。今は、まだそのときではない。


 ただ、馬を引くレオの隣に、半歩だけ、近づいた。それだけを、した。


 二人が馬を引いて谷を出ようとしたとき、織り小屋の脇から、小さな足音が追ってきた。


「あの……っ」


 若い女だった。赤くひび割れた手に、織りかけの反物を抱えている。色の褪せた頭巾から、後れ毛がはみ出していた。息を切らして、二人の前で立ち止まる。


「ごめんなさい。伯父さんが、あんなふうで」


「伯父さん」マレーナは言った。


「オトマルは、あたしの伯父です。ニナ、といいます」娘は、ぺこりと頭を下げた。それから、マレーナの腰帯に下がった符牒帳に目を留めて、ふと、人見知りの色が消えた。「それ……帳面、ですか。何が、書いてあるんですか」


「人の名と、約束です」マレーナは言った。「誰が、いつ、約束を守ったか」


「約束を……」ニナの目が、丸くなった。「すごい。嘘が、つけない」


 思わず、というふうに声が弾んだ。それから、自分が誰と話しているか思い出したように、また少し俯いた。




 マレーナは、その娘を見た。


 羊の死んだ谷で、織りかけの反物を抱えて、それでも符牒帳に目を輝かせる娘。谷は、まだ死んでいない。織機の音が、その証だった。


「ニナさん」マレーナは、膝を折って目の高さを合わせた。「谷は、今年、どれくらい羊を」


「三十頭です」ニナは即座に言った。数えていたのだ。「雪で、三十頭。来年の毛が……足りない、です。辺境伯さまの蔵に納める分を引いたら、谷に残るのは……ほんの少しで」


 寒波。専売。痩せていく谷。ザイツが数字で語ったものが、この娘の口から、暮らしの言葉になって出てきた。


「でも、織りは止めてません」ニナは、抱えた反物をそっと持ち直した。「羊が減っても、糸がある限り、あたしたちは織ります。これ、見てください」


 ニナが、反物の端を広げた。細かな綾の模様が、雪明かりに浮かんだ。マレーナは、指を触れた。冷えた指先に、打ち込みの詰んだ、揃った手触りが乗ってくる。市で触れた、あの「谷の手」だった。


「きれいです」マレーナは、本心から言った。「これだけの織りができる谷を、飢えさせては、いけません」


 ニナの頬が、ほんの少し染まった。


「あの」ニナが、おずおずと言った。「差配さんは、この谷の毛織を、どこへ持っていくんですか」


「南です」マレーナは言った。「雪を知らない土地。そこの人が、あなたの織った反物で、冬を越します」


 ニナの目が、また丸くなった。


「あたしの織りが……雪を知らない人の、冬を」


「ええ」


「……届くんですか。あたしが織ったって、誰も、名前も知らないのに」


「届きます」マレーナは言った。「名前は、わたくしが書きます。この谷の誰が織ったか、わたくしの帳面に。そうすれば遠くの人にも、あなたの名で届きます」


 ニナは、抱えた反物を少し強く抱き直した。自分の手が織るものが、谷の外の見たこともない誰かに届く。その絵を、初めて見たような顔だった。


 それから、はっとしたように谷の奥を振り返った。


「伯父さんは」マレーナは言った。「なぜ、あんなに」


 ニナは、谷の方を振り返った。閉じた織り小屋の戸を、しばらく見ていた。


「伯父さんは、怖いんじゃないんです」


 小さな声だった。


「もう一回、谷に誰も埋めたくないだけで」


 雪が、ニナの頭巾の上に、静かに積もり始めていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第二十四話「帰れ、と谷は言った」。谷に着いて、最初に二人を迎えたのは、空っぽの羊小屋でした。


オトマルという老人を書くとき、決めていたことがあります。彼の拒絶を、ただの頑固にしないこと。マレーナが見抜くように、彼の目は怒っていません。冷えています。怒りは熱いけれど、何かを守っている目は冷たい。三十年、谷の織りを束ねてきた男が、もう一度だけ谷を飢えさせないために、よそ者を全部はねつけている——その鎧の硬さを、まず描きたかったのです。


この話で、マレーナは初めて「戸の外側」に立ちます。彼女自身、四年前に「女の差配」という名で切り捨てられた人です。名で測られて拒まれる側の痛みを、彼女は知っている。だからこそ、閉じた戸の向こうを見ようとする。ここは声に出して説明せず、彼女の一拍の気づきとして置きました。


そして、ニナ。羊が死んだ谷で、それでも符牒帳に目を輝かせる娘です。最後の一言——「もう一回、谷に誰も埋めたくないだけで」——は、この谷で起きたことの、たぶん全部です。何が「埋めた」のか。それは、もう少し先で、レオの口から明かされます。


◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇


「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第二巻、北の毛織の谷へ。


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