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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第2話: 帳場の十年

 使用人の言葉が耳に入ってから、マレーナの足は、もう動いていた。


 石畳の感触がてのひらではなく靴底から伝わってくる。当たり前のことだが、そのことに気づくほど、頭が空になっていた。荷馬車を避け、行商人の列を抜け、商人街の曲がり角を走り抜ける。使用人の少年が、息を弾ませて後ろを追ってくる気配があった。


 今朝から、目を覚まされません。


 その言葉だけが、繰り返した。


 屋敷まで、早足で半刻はんときほどだ。走れば縮められる。マレーナは走った。灰色の旅装の裾が翻り、すれ違う商人たちが振り返った。だが気にしている暇はなかった。


 腰の算盤が揺れるたびに、珠が鳴った。




 トルプ家の屋敷は、商人街の北寄りにある。門を抜け、石畳の中庭を横切ったとき、玄関口に侍女頭のベルタが立っていた。


「お嬢様」


 ベルタは、何も言わなかった。それで充分だった。


「父上は」マレーナは言った。


「今も……お目覚めにはなっておりません。先生は、部屋におられます」


「兄上は」


「朝からずっと、傍に」


 マレーナは、靴も脱がずに廊下を進んだ。奥の寝室へ。父の部屋へ。


 扉を開けると、薬草の匂いがした。苦くて、少し甘い。それと、熱い蝋燭の匂い。部屋の中は薄暗く、厚い緞帳どんちょうで昼の光が遮られていた。


 床几に座っている人影があった。


 兄のバルトだった。


 仕立ての良い上着のまま、腕を膝に置き、床を向いていた。マレーナが入っても顔を上げなかった。ただ、肩が一度、かすかに動いた。


 マレーナは、兄の傍を通り過ぎ、寝台へ進んだ。


 父が、横たわっていた。




 トルプ伯爵は、若い頃から大きな男だった。馬車一台に積める荷を一人で担ぎ、隊商の先頭を歩いた、という話を、マレーナは幼いころから聞かされていた。


 けれど今、寝台の上の父は、ひどく小さく見えた。厚い肩が布の下にある。白くなった顎髭あごひげが、規則正しく上下している。呼吸はしている。それだけは、している。


 マレーナは、父の手を取った。


 固かった。指の節が太く、手のひらに荷縄の古い傷がある。一代で商会を興した男の手だ。塩を担ぎ、鉄を交渉し、王都の問屋頭たちと握手を交わしてきた手だ。


 ゴットの手に似ていた、と思った。


 柔らかくなく、飾りもなく、ただ仕事の積み重ねが刻まれている。マレーナは、その手を両手で包んだ。冷えていた。


「……父上」


 声は、小さかった。


 父の目は、閉じている。眠っているのか、意識がないのか、外から見ると分からない。部屋の隅で、侍医が小さく首を振った。


 マレーナは、父の手を握ったまま、床几を引き寄せて座った。


 座ってすぐ、自分の頭が勝手に動いているのに気づいた。侍医の首の振り方の角度。蝋燭の残りの長さ。父の呼吸と呼吸の間隔。——それを、競りの相場でも読むように、数えている。


 よしなさい、と思った。


 今は、娘でいなさい。十年の差配ではなく、ただの娘でいなさい。


 けれど、頭は止まらなかった。止め方を、知らなかった。父がそういう風に、育てたからだ。マレーナは唇を噛んで、握った手に意識を戻した。




 それから、どれほど時間が経ったか。


 兄のバルトは、一度部屋を出て戻ってきた。それだけだった。言葉は交わさなかった。二人とも、言うことを持っていなかった。


 窓の外で、商人街の喧噪が続いていた。


 荷馬車の車輪。行商の声。午後の鐘。王都は、何も知らずに動いている。


 マレーナは、父の手を握りながら、十年前のことを考えていた。




 十歳のとき、父に初めて帳場へ連れていかれた。


 あれは、初冬の夜だった。帳場の蝋燭を三本ともして、父は隣国マルゴーの通関帳を広げた。数字と記号と、マレーナには読めない隣国の文字が並んでいた。


「読めるか」


「……いいえ」


「では、今夜から読めるようになれ」


「何のために」


「隣国と商いをするために。以上だ」


 それだけ言って、父は席を立った。


 マレーナは、一人で蝋燭に向かった。隣国の書き文字は、右から左へ読む。塩の記号は三角、鉄は四角。数字の単位が自国と逆に並ぶ。最初の一頁を読み終えるのに、二刻ふたときかかった。


 翌朝、父に見せると、父は帳面を一瞥いちべつして言った。


「まだ遅い。明日は一刻ひとときで読め」


 褒めなかった。叱りもしなかった。ただ、次を要求した。


「父上、なぜわたくしに」


 翌日の夜、マレーナは聞いた。


「兄上にも見せましたか」


「見せた」


「兄上は」


「知って、どうする」


 それで、答えは出た。


 後から分かったのだが、その通関帳は、兄バルトも読もうとして投げ出したものだったらしい。父はそれを一言も言わなかった。ただマレーナの前に置いて、待った。


 十の娘が読めた。それで充分だった。




 翌年の春、父はマレーナを隊商に同行させた。マルゴーの塩坑まで、峠越えの五日の旅だ。馬車に揺られ、山道を歩き、隊商頭のドルフに怒鳴られながら、一頭の荷馬が泥道で立ち往生したときの処置を見て覚えた。


 塩坑の入口で、ゴット親方に初めて会った。


 大きな男だった。握手の手が、マレーナの細い手を包んで余った。


「娘さんか」ゴットは父に言った。


「差配の見習いだ」父は、娘を指して答えた。


 その言葉が、嬉しかった。父は、マレーナを「娘」と呼ばなかった。「差配の見習い」と言った。


 帰りの馬車で、父は帳面から目を上げずに言った。


「ゴットの商いに、何か気づいたか」


 マレーナは、帰り道の五日間、ずっと考えていたことを答えた。


「親方は、値を比べていませんでした。商う相手の顔を見ていた。目を見てから、握手した」


 父は、帳面をめくる手を止めた。それだけだった。


 それが、父の褒め方だった。手を止めること。


 しばらく馬車が揺れてから、父は言った。


「ドルフは、お前に何か言ったか」


「道中、三十回以上怒鳴りました」


「そうか。何を」


「最初は女が邪魔だと。次は荷の積み方が悪いと。最後は、馬が泥道で立ち往生したとき、わたくしが先に下馬してしまったので、それが気に入らないと」


「なぜ下馬した」


「車輪の沈み具合を見たかったのです。左の前輪だけ、泥が深く食い込んでいました。右輪と深さが違うと、馬を引き出すとき車体が傾きます」


 父はしばらく何も言わなかった。帳面をまためくった。


「ドルフは、明日から文句を言わんだろう」


 マレーナは、その意味を考えた。ドルフが納得したわけではない。ただ、年端もいかない娘が車輪の沈みを見ていたことを、彼も知った。知られた以上、次に文句を言うには理由が必要になる。


「……そういうものですか」


「そういうものだ」


 父は、そこで帳面を閉じた。珍しいことだった。


「お前はよく見ている。覚えておけ、見ることと、動くことは別だ。見てから動け。動いてから見るな」


 マレーナは、それを符牒帳の最初の頁の余白に書いた。その日の夜、宿の蝋燭の下で。




「マレーナ」


 父の声がした。


 かすれていた。けれど確かに、父の声だった。


 マレーナは顔を上げた。父の目が、細く開いている。焦点が、合っていない。ただ、握った手が、わずかに動いた。


「おります。ここにおります」


 マレーナは、父の手を握り直した。


 父の目が、ゆっくりとこちらを向いた。


「……競りは、どうだった」


 マレーナは、一瞬、驚いた。それから、喉が締まるのを感じた。


「勝ちました」声が、わずかに震えた。「南の塩坑と、八枚で三年の契約を結びました。ゴット親方と。父上も知っている、あの塩坑です」


「八枚」父は繰り返した。「高い値をつける者に勝ったか」


「はい。値ではなく、信用で勝ちました。塩坑の水脈を読んで、向こう三年の値を据え置く約束をしました。——父上が十年前に教えてくれた、あの読み方です」


 しばらく、沈黙があった。


 父の呼吸が、少し乱れた。それから、整った。


「そうか」


 それだけ言って、父は目を閉じた。




 日が、傾き始めた。


 窓の緞帳の隙間から、橙色の光が細く差し込んでいる。商人街の喧噪が少しずつ遠くなり、夕刻の鐘が遠くで鳴った。


 マレーナは、父の手を握り続けた。


 父の手の温かさが、少しずつ変わっていくのを、掌が感じていた。指先の感触が、鈍くなっていく。握り返す力が、弱くなっていく。


 十年分の握手のことを、考えていた。


 最初の隊商同行から、鉄の関税交渉を一人で任された年。隣国の書記官と三日かけて交渉して、樽ひとつあたりの関税を一銅貨引き下げた。それだけのことに三日かかった。帰ってきたとき、疲れ果てて帳場の椅子に沈み込んでいると、父が珍しく帳場の扉を開けた。


「一銅貨か」


「はい。もう一銅貨は、崩せませんでした」


 父は少し考えて、言った。


「一銅貨を三日かけて引き下げた娘がいると、ガルニが仕入れたら喜ぶだろうな」


 ガルニとは、通関を仕切る古参商人で、トルプ商会とは長年の商いがあった。父はそれ以上言わなかったが、マレーナには分かった。父は、一銅貨を取れたことより、その話が関税交渉の相場感として広まることを見ていた。


 値段より信用。数字より記録。


 父の商いは、いつもそういう形をしていた。


 その翌年、マレーナが鉄の通関帳の写しを整理していると、父が帳場の扉口に立った。


「それは終わったら焼くな」


 焼くつもりはなかったが、マレーナは顔を上げて言った。


「写しでも捨てない方がいいですか」


「通関の証文が、後で揉めることがある。相手が言った値と、こちらが書いた値が食い違う。そのとき、何が証拠になるか」


「……帳面の記録、です」


「そうだ。書いたものが正しいのではない。残ったものが正しい」


 父は、それだけ言って離れた。


 マレーナは、その日から符牒帳を一冊増やした。正式な帳簿ではなく、自分用の記録帳だ。取引の日付、相手の名前、握手の強さ、約束の言葉。数字だけでなく、印象や感触も書いた。「今日のゴットは、いつもより口が重い。塩坑に何かある」「隊商頭ドルフ、今月は荷馬の替えを急いでいた。路の何かが変わったか」。


 それが、今も腰帯に下げている符牒帳だ。


 ある年、父が帳場を覗いて、その帳面を手に取った。


「何だ、これは」


「わたくしの記録です。取引の感触を書いています」


「勘定書ではないな」


「はい。数字は正式な帳簿に。こちらは……人の話を書いています」


 父は、帳面をめくった。しばらく読んだ。それから、無言で戻した。


「いい癖だ」


 それだけ言って、出ていった。


 それ以来、父はその帳面を「符牒帳」と呼んだ。帳簿ではなく、人と商いの地図だ、と言った。マレーナが腰帯に下げるようになったのは、その言葉があったからだ。




 十三歳のとき、交易の差配を実質的に任された。


 そのころ父は、膝の古傷が悪化して長距離の移動が難しくなっていた。隊商に同行することが、できなくなった。


 マレーナを呼んで、父は言った。


「お前が行け」


「差配として、ですか」


「他に誰かいるか」


 兄のバルトは、この年、王都の貴族学院に入っていた。父はその事実を口に出さなかった。出す必要もなかった。


「……わたくしに、できますか」


 聞いてから、後悔した。弱い問いだ、と思った。父の前では、弱い問いを立てるべきではなかった。


 だが父は、叱らなかった。ふっと、口の端を曲げた。珍しい顔だった。笑顔というより、確認、という顔だった。


「お前の目は、わしより先を読む」


 それだけ言った。


 マレーナは、すぐには言葉が出なかった。父は滅多にそういうことを言わない。言わなかった、この十年。


「……本当に、そうですか」


 父は、答えなかった。代わりに、机の上の帳面を一冊取り上げ、マレーナに渡した。マルゴーとの交易路の写し、年単位の塩の相場記録だった。


「来春の塩の相場を、お前は今いくらと見る」


「……樽ひとつ、十一枚から十二枚の間です。今冬の雪が薄いので、春先の雪解け水が少ない。塩坑の湿気が下がる。乾いた年の塩は質がいい。質がよければ、多少高くても買われます。ただし、塩坑の南側は水脈が——」


「今から言う値に近かった」父は、静かに言った。「わしが三日かけて出した数字だ」


 マレーナは、口を閉じた。


「お前に帳場を任せる。明日から、お前が差配だ」


 父は、そう言って立ち上がった。膝を引きずりながら、部屋を出た。


 残されたマレーナは、帳面を膝に乗せたまま、しばらく動けなかった。


 マレーナは、その言葉を、今も覚えている。正確に。一字一句。父の声の調子まで。


 褒めているのか、事実を言っているだけなのか、今でもよく分からない。ただ、その言葉があったから、十年、続けられた。誰に冷たい目を向けられても、「女が差配をするな」と囁かれても、続けられた。


 父だけが、信じていた。


 そのことを、マレーナはずっと知っていた。




 夜が来た。


 侍医が蝋燭を足した。橙色の光が、部屋を温かく染める。


 バルトは、いつのまにか椅子を父の反対側に持ってきて座っていた。組んだ手を膝に置き、俯いている。いつから戻っていたのか、マレーナは気づかなかった。


 二人の間に、言葉はなかった。


 しばらくして、バルトが、ほとんど聞こえないほどの声で言った。


「先生は、何と」


 侍医に、という意味だろう。マレーナは答えた。


「今夜、と」


 バルトは、頷かなかった。ただ、組んだ手の指が、わずかに動いた。


 それ以上は、何も言わなかった。言葉を持っていなかったのは、今夜に限ったことではない。兄妹として同じ屋根の下で育ちながら、マレーナは兄と、ほとんど話したことがない。帳場の数字についても、隊商の手配についても、兄は聞いてこなかった。マレーナも、教えようとしなかった。


 それが二人の間の、十年だった。


 父の呼吸が、一度、深く揺れた。


 マレーナは、握った手に力を込めた。


 父の目が、また開いた。今度は、少しだけ焦点が合っている気がした。マレーナを見ている。それから、バルトを見た。それから、また、マレーナを見た。


「……符牒帳は、あるか」


 かすれた声だった。


「持っております」マレーナは言った。腰帯の内側に、革の表紙が当たっている。いつも肌身離さず持ち歩く、十年分の記録だ。


「出せ」


 マレーナは、符牒帳を取り出した。手の平に収まる大きさの、すり切れた革の帳面だ。


 父は、それを見た。目が細く、焦点が定まらないのに、それでも見た。


「持っていろ」


「はい」


「……塩坑の記録も。関税の写しも。全部、お前のものだ」


「分かっております」


「分かっていない」


 父の声が、少しだけ強くなった。


「商いは、看板ではない。お前が、もう知っとるはずだが——今日の競りで、また分かったか」


「……はい」


「そうか」


 父は、また目を閉じた。


 少しして、また言った。


「バルトに」


 マレーナは、父の視線がバルトの方へ向いていることに気づいた。バルトは、身を乗り出した。


「父上」


「お前は、当主だ」父の声は、かすれていた。「当主の仕事は、お前がやれ」


 バルトが、何か言おうとした。だが父は続けた。


「商いの仕事は——」


 そこで、息が一度切れた。


「商いは、マレーナに聞け」


 しんとした。


 バルトは、答えなかった。マレーナも、答えなかった。ただ、蝋燭の炎が、わずかに揺れた。


 長い沈黙のあと、ほとんど聞こえないほどの声で、父は言った。


「お前の握手は、お前のものだ。誰のものでもない」




 その後、父は一度も目を開けなかった。


 夜半を過ぎた頃、呼吸が静かに止まった。


 侍医が脈を確かめて、頭を下げた。言葉はいらなかった。


「……お嬢様」


 侍医が言いかけた。マレーナは首を振った。


「もう少しだけ」


 侍医は、下がった。


 マレーナは、父の手を、しばらくそのまま握っていた。


 冷えていく。少しずつ、確実に。指の節の固さは変わらない。荷縄の傷も、塩で荒れた掌の皮も、変わらない。ただ、温かさだけが抜けていく。


 泣かなかった。


 涙が出ないのではなく、父がそれを望まないだろうと思った。帳場で泣く差配を、父は見たことがなかった。これからも、見たくなかっただろう。


 代わりに、父の手を最後にもう一度、しっかりと握った。


 固い手だった。誰の代わりでもない、一代の商人の手だった。




 マレーナは、符牒帳を懐にしまった。


 立ち上がり、部屋を出ようとしたとき、バルトが動いた。


 兄は、立ち上がっていた。父の寝台の反対側で、胸の前で腕を組んで立っている。俯いていた顔が、少し上がった。


 マレーナと目が合った。


 一瞬だけ。


 バルトの目に何があったか、マレーナは上手く読めなかった。悲しみ、なのかもしれない。あるいは、何かを決めた顔、というのかもしれない。帳場の数字を前にすると視線が泳ぐあの兄が、今この部屋では、視線を外さなかった。


 それが、何かを意味していると、マレーナは感じた。


 何かが、変わり始めた。


 父が生きていた今日までと、父がいなくなった明日とでは、何かが決定的に違う。


 そのことを、二人とも知っていた。言葉にしなかった。ただ、夜の部屋で、一瞬目が合っただけだった。


 マレーナは先に目を外し、廊下へ出た。


 扉が閉まる音がした。薬草と蝋燭の匂いが、廊下まで漂ってきた。


 廊下の端に、ベルタが立っていた。目が赤い。


「お嬢様、今夜はもうお休みに——」


「いえ」マレーナは言った。「帳場に戻ります」


「こんな夜に」


「ゴット親方との書状を書かなければなりません。競りで取り決めた内容を、明朝の飛脚便に乗せます」


 ベルタは、しばらくマレーナの顔を見ていた。それから、深く頭を下げた。


「……蝋燭を多めに持っていきましょうか」


「お願いします」


 廊下を歩きながら、マレーナは懐の符牒帳に触れた。


 お前の握手は、お前のものだ。


 廊下の暗がりの中で、マレーナは一度だけ深く息をついた。


 それから、帳場へ向かった。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第二話、看取りの話です。


父を書くのに、少し時間がかかりました。無骨で口下手で、褒めるときは「手を止める」だけ、叱るときは「次を要求するだけ」——そういう男にしたかった。だから、あの一言だけを残したかった。「お前の目は、わしより先を読む」。これは父の最大の賛辞で、おそらく人生で一度しか言えない言葉です。マレーナが十年それを支えにしてきたのは、父がそれを言ったのが一度きりだったからです。


符牒帳を「持っていろ」と言う場面は、父なりの遺言です。法的な書類でも、遺産の証文でもない。でも、十年の記録を持っている娘が、どう生きるべきかを、父はそれで全部言おうとしました。


バルトは今回、言葉を持たせませんでした。ただ、父が亡くなった夜に「当主」の顔が出始める、その予感だけを置いています。彼は悪人ではありません。ただ、自分の弱さを「商いは男の仕事だ」という言葉で隠そうとする人です。その分岐が、次の話から始まります。


マレーナは泣きませんでした。父がそれを望まないと分かっていたから。代わりに、最後に手を一度しっかり握った。それで充分、父には伝わったと思います。


次話「商いは男の仕事だ」、マレーナの帰る場所が、消えます。


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