第18話: がらんとした広場
行商の老人の手は、乾いていた。
マレーナはその手を握った。指先が、すぐに読んだ。掌の皮は薄く、爪のあいだに王都の砂が残っている。長く路を歩いてきた者の手だった。
握りは弱かった。けれど、それは老いの弱さで、約束を破る弱さではなかった。
「お名は」マレーナは言った。
「タッダと申します」老人は言った。「王都から、塩を仕入れに参りました」
天秤亭の食堂だった。昼を過ぎて、客はまばらだった。
タッダはオーレンの塩を二樽だけ買い、明日また峠を越えて王都へ戻るという。小さな商いだった。けれど、王都の砂を運んできた者だ。マレーナは老人に席を勧め、白湯を出させた。
「王都は、いかがですか」マレーナは言った。
老人は白湯の碗を、両手で包んだ。それから、ゆっくりと話し始めた。
「妙な景色を、見ました」タッダは言った。「東門の、隊商溜まりです」
マレーナの指が、わずかに動いた。
東門の隊商溜まり。十年、自分が回してきた広場だった。
「あそこは、いつも荷で溢れていました」タッダは言った。「荷馬車が並んで、荷夫が梱を担いで。塩袋の山があって。声と馬の蹄。荷の軋みで耳が痛いほどでした」
「ええ」マレーナは言った。「左様でした」
「それが今は」タッダは言った。「がらんとして、誰もおりません。荷馬車が一台もない。砂だけが風で転がっています。あんなに賑わっていた広場が空き地になっていました」
「塩の路が、止まったからです」マレーナは言った。
「左様でしょうな」老人は頷いた。「ただ、一人だけ、立っている人がおりました」
マレーナは老人を見た。
「がらんとした広場の真ん中に、仕立ての良い服の方が一人。看板を掲げていました。トルプ商会、と。新しい看板でした。けれど、その下に誰も来ないんです」
老人は言葉を探して、見つけられずに、白湯を一口飲んだ。
「寒々しい景色でした」タッダは言った。
東門の広場の真ん中に、バルト・トルプは一人で立っていた。
朝から立っていた。昼を過ぎても、立っていた。
新しい看板を、自分で運んできた。番頭に任せなかった。今度こそ、私が動くのだと、そう思ったからだ。トルプ商会の名を彫った、立派な板だった。父の代から使っていた意匠を、職人に倍の手間賃で急がせて作らせた。
それを掲げた。
誰も来なかった。
荷馬車が来ない。荷夫が来ない。隊商頭が来ない。かつてここには、朝靄のなかで梱が積み上がり、塩袋の角が霜で白くなり、吐く息が幾重にも立った。そのすべてが、今はない。風だけが、砂を薄く運んでいる。
おかしい、とバルトは思った。私が当主だ。看板も、印も、すべてある。何が足りない。
通りかかった隊商頭に声をかけた。一人ずつ、頭を下げた。当主が、自ら。それだけのことをした。報酬も弾む、と言った。
それでも、断られた。全員が。同じ言葉で。
「済まないが、頼む相手が違う。握手したのは、いつもマレーナさんだった」
頼む相手が、違う。
バルトはその言葉を、何度も、頭の中で繰り返した。私が当主だ。家の名は、私のものだ。看板も、印も、私が持っている。なぜ相手が違うのか。なぜ、妹の名が出るのか。
答えは、出なかった。
がらんとした広場が、静かだった。風が砂を運ぶだけで、誰もいない。立派な看板の下に、立派な服を着た当主が一人で立っている。それだけの景色だった。
あれが、いれば——と思いかけて、バルトは言葉を飲み込んだ。
認めることは、できなかった。まだ。
「私が、当主だ」
誰もいない広場へ向かって、小さく呟いた。応える者は、いなかった。
兄だった。
マレーナには、すぐに分かった。仕立ての良い服。新しい看板。一人で立つ姿。
番頭任せをやめ、自ら動くと言った。その動くというのが、これだった。広場に出て、看板を掲げて、隊商頭を募る。形は、間違っていない。十年前なら、それで荷が集まった。
けれど、集まるはずもなかった。
「お話、ありがとうございます」マレーナは言った。「助かりました」
「いえ。塩を、安く譲っていただいて」老人は碗を置いた。「こちらこそ、ありがたいことです」
タッダが礼を言って、宿の二階へ上がっていった。食堂が、また静かになった。
マレーナは窓辺の卓に、一人で残った。
窓の外を見た。オーレンの広場では、荷夫が梱を積んでいる。荷馬車が三台、列を作っている。塩も毛織も、ここから王都へ向かう。荷の軋みと、荷夫の声と、馬の鼻息。耳に馴染んだ、商いの音だった。
その音を聞きながら、もう一つの広場を思った。
東門の、がらんとした広場を。
十年、毎朝そこに立っていた。荷の頭数を数え、塩袋の角に触れて、隊商頭と握手した。その広場が、商いの中身だった。父が興し、自分が十年回してきた、生きた広場だった。
それが今、空になっている。
誇らしさは、湧かなかった。湧いたのは、もっと静かなものだった。
階段を下りる足音がした。レオだった。
「タッダが、塩を二樽な」レオは言った。「王都へ戻る老人だ。明日、峠を越える」
「ええ。話を、聞きました」マレーナは言った。
レオが卓の向かいに座った。マレーナの顔を、目で見た。それから、窓の外へ目を移した。荷を積む広場を、しばらく見ていた。
「東門の話か」レオは言った。
「ご存じでしたか」
「老人が厩で話していった。がらんとした広場に、当主が一人で立ってたとな」
レオはそれだけ言って、口を閉じた。
マレーナは窓の外の広場を、もう一度見た。それから、目を伏せた。
「十年、あの広場を回しました」マレーナは言った。「東門です。朝いちばんに行って、荷の頭数を足音で数えました。荷馬車の轍を踏んで、塩袋の角に触れて。隊商頭と握手して。あの広場が、わたくしの十年でした」
「だろうな」
「それが今、がらんとしています。荷馬車が一台もなく、荷夫もいない。砂だけが風で転がっている。そう聞きました」
マレーナは言葉を切った。
「その真ん中に、兄が一人で立っています。新しい看板を掲げて。けれど、誰も来ません」
レオはすぐには何も言わなかった。
いつもなら、軽口の一つも返す男だった。看板だけの当主だとでも。それ見たことかとでも。けれど、レオは口の端を上げなかった。マレーナの顔を、静かに見ていた。
「あんた、あの広場が好きだったんだな」レオは言った。
マレーナは、レオを見た。
思いがけない言葉だった。傾いた、とも、ざまあみろ、とも言わなかった。好きだったんだな、と言った。
「左様かもしれません」マレーナは言った。「好き、という言葉は使ったことがありませんでした。けれど、毎朝あそこに立つのが当たり前でした。荷の軋みも、馬の蹄も、塩袋の湿りも。耳と掌が覚えています」
「その広場が、空になった」
「ええ。わたくしが出たからです。握手も一緒に出ました。だから荷が来ない」マレーナは符牒帳の角を、指でなぞった。「理屈は、分かっています。けれど、空になった広場を思うと胸が冷えます。妙なものです。望んだはずなのに」
「望んでなかったんだろう」レオは言った。
マレーナは、手を止めた。
「あんたが望んだのは、兄貴の没落じゃない。あんたの握手があんたのものだと証明することだ。それは証明された。だが、ついでに、あんたが十年回した広場が空になった。望んだのは前のほうで、後のほうはおまけで付いてきただけだ」
マレーナは、しばらく黙っていた。
レオの言うとおりだった。望んだのは、自分の握手が自分のものだという証明だった。看板でなく人に信用が付く、その証だった。それは、王都規模で証明された。東門の広場が、その証だった。
けれど、その証は、空になった広場の形をしていた。父が興し、自分が十年回した広場が、空き地になる形をしていた。
「証明したかったものが」マレーナは言った。「いちばん見たくない形で、目の前に来ました」
「そうだな」
「看板に中身は宿らない。十年、それを言葉で言ってきました。けれど、こうして空になった広場で証明されると、言葉のときより重いものです」
「重いさ」レオは言った。「あんたの十年が、そこにあったんだ。軽いわけがない」
マレーナは窓の外を見た。オーレンの広場では、荷夫がまた一つ梱を積んだ。荷馬車が、ゆっくりと動き出す。新しい広場の、生きた音だった。
「こちらの広場が、賑わうほど」マレーナは言った。「あちらの広場が、静かになります。同じ一つのことです」
「そうだ。だが、こっちの音は、本物だ」レオは言った。「あんたの握手が運んできた音だ。あっちの静けさは、看板が運べなかった音だ」
マレーナは、レオを見た。
砕けた声では、なかった。馬と荷を世話する手の男が、まっすぐこちらを見ていた。
「左様です」マレーナは言った。「本物の音は、こちらにあります」
夕暮れに、ヴィンスが駆け込んできた。今度は、息を切らしていた。
「マレーナさん」ヴィンスは言った。「東門の話、聞きましたか」
「ええ。タッダ様から、聞きました」マレーナは言った。「兄が、一人で広場に立っていたと」
「それだけじゃ、ないんです」ヴィンスは卓の前に立った。「俺も峠の宿で、王都の隊商頭から聞きました。当主が東門で頭を下げ始めたって」
「頭を、下げた」
「ええ。通りかかった隊商頭に一人ずつ声をかけてると。荷を運んでくれ、と。報酬は弾む、と。けれど、誰も。みんな、こう言うそうです。済まないが、頼む相手が違う、と」
「頼む相手が、違う」マレーナは繰り返した。
「ええ。当主に荷を頼まれても、当主と握手したことがない。握手したのは、いつもマレーナさんだった。だから頼む相手が違うと。当主はそれを聞いて、黙り込んだそうです」
マレーナは、目を伏せた。
兄は、頭を下げることを覚えた。けれど、下げる頭が、間違った場所にあった。看板の下で頭を下げても、握手は集まらない。握手は、看板にではなく、人に向けられる。十年前、追放の日にそう告げた。兄は、聞かなかった。今、空になった広場で、それを思い知っている。
「兄は」マレーナは言った。「何と、言いましたか」
「それが」ヴィンスは、言いにくそうに口を結んだ。「私が当主だ、と。それだけ呟いたそうです。誰もいない広場で。私が当主だ、と」
私が当主だ。
マレーナの胸に、その声が落ちてきた。
幼い頃から、兄が握りしめてきた言葉だった。父に妹と比べられ、商才を量られ、それでも当主の座だけは自分のものだった。その座を握りしめて、私が当主だと言い続けてきた。けれど、その言葉は、がらんとした広場では、何も呼ばない。荷も、隊商頭も、握手も。
「気の毒な、お人ですね」ヴィンスは言った。「敵の身内を、こう言うのは、変ですが」
「いえ」マレーナは言った。「変では、ありません」
「マレーナさん」ヴィンスは、声を落とした。「もう一つ、あります。これが、本題かもしれません」
マレーナは、顔を上げた。
「東門で誰も荷を引き受けなかったあと、当主が宿で言ったそうです。こうなれば、自分で行くしかない、と」
「自分で、行く」
「ええ。峠を越えて、オーレンへ。マレーナのところへ。当主がそう言ったそうです。荷を集める当てが、もうそこしかないと」
マレーナの指が、符牒帳の上で止まった。
兄が、オーレンへ来る。
番頭でなく、使いでもなく、当主自らが、峠を越えて。十年前に追放した妹のところへ。荷を集める当てが、もうそこしかないからと。
頭を下げに来る。看板を握る手で。妹に、助けを乞いに来る。
「いつ、と言っていましたか」マレーナは言った。
「分かりません。ただ、もう王都を出たかもしれないと。峠は五日です。早ければ、四、五日のうちに」
マレーナは、しばらく答えなかった。
「ヴィンス様。ありがとうございます」マレーナは言った。「重い報せを、運んでくださいました」
「いえ。俺は、運ぶだけです。ただ、マレーナさんが心構えできるといいと思って」
ヴィンスが戸口を出ていった。食堂が、静かになった。
レオが、卓に戻ってきた。
マレーナの向かいに座り、しばらく何も言わなかった。窓の外では日が暮れかけている。広場の篝火に、火が入り始めた。
「兄が来る前に、やることがある」マレーナは言った。
レオが、こちらを見た。
「窓口の殺到が、思ったより速い。今日も、蔵から塩が出た分だけ、来た者を帰すことができました。けれど、このまま明日も、明後日も来れば」
「余力を超える」レオは言った。
「ええ」マレーナは言った。「設計した量を、すでに超えています。超えた分を補おうとすれば、王都の市から買うほかない。十二銀で出して、二十五銀で仕入れる。それを続けると、路が痩せます」
「逆ざやだ」レオは言った。「出しながら受け取らない」
「ですから、一手、打ちます」
マレーナは符牒帳を開いた。北カルンへの荷の頁だった。毛織と羊毛の欄に、返り荷の記録が並んでいる。
「北カルンへの往き荷の馬車に、空きがあります。毛織を運ぶには、積みきれない端数の空間が、何便かに必ず出ます。その空きを、塩の運搬に転用します」
レオが、頁をのぞき込んだ。
「塩坑の親方との条件は、今の分で動かしません。ただ、運ぶ便を増やす。北への往き荷が隙を塩で埋めれば、一便ごとの量は少なくても、積算で余力が増えます。これで超過分の一部を補えます」
「往き荷の空きを、北路の返しに使うのか」レオは言った。「なるほど。カルンへの馬車は、もう俺が仕切ってる。言えば動かせる」
「お願いします」マレーナは言った。「ただ、それだけでは足りません。急ぎの仕入れで一時的に資金が要る。信用控を出します」
「信用控か」
「ええ。荷の担保に、返済の期日を定めた証文です。オーレンの定廻り商人に二、三通、わたくしの名で。塩が出れば三十日以内に返せる量です。短くて、重くない」
レオは腕を組んで、少し考えた。
「あんたの名で出す証文なら、定廻り商人は受け取る。オーレンでの信用は、今や十分だ」
「左様です。これで急場の仕入れを繋ぎます。値は動かしません」
「値を守って、裏の資金繰りだけを手当てする。看板は出さず、信用で動く。あんたのやり方だ」
マレーナは頷いた。符牒帳の頁を、指で押さえた。
「もう一つ、あります」
「窓口に、人が殺到しています」マレーナは言った。「今朝、列の後ろから声がしました。先に多く買っておきたい、と。その気配を、昨日から感じていました」
「転売の起点になる」レオは言った。
「ええ。十二銀で買って、外で十五銀で回す。窓口の値が崩れます。もっと悪いのは、来た者が多く抱えることで、来られない者の分が消えることです」
レオが、口の端を引き締めた。
「ですから、割符を配ります」
「割符を」
「窓口に来た者に、木の割符を渡します。半分を家に、半分をこちらで控える。次に来たときに合わせて、記録された家の順に塩を届けます。早い者勝ちではなく、順番を記録した者へ、順に」マレーナは言った。「公示します。この窓口は、値も動かさない。順番も動かさない、と」
「値だけじゃなく、順番も守る、か」レオは言った。
「ええ。それが、この窓口の信用です。来た者を追い払うのでも、多く抱えさせるのでもなく。記録して、待ってもらう。パニックを鎮めるのは、約束だけです」
レオが、しばらくこちらを見ていた。
「桜の割符が、まだ残ってるか」レオは言った。「カルンから来た分が、蔵の隅にあるはずだ」
「確かめます」マレーナは言った。「割れる枚数が足りれば、今夜から準備できます」
「やれ」レオは言った。「俺は桜を確かめてくる」
立ち上がりかけて、少し止まった。
「信用控の証文は、明日の朝に書くか」
「ええ。今夜のうちに、下書きを作ります」
「ならば、俺は桜を先に出す」レオは言った。「馬は、今夜のうちに仕立てておく」
足音が、廊下へ消えていった。
マレーナは卓に、一人で残った。
兄が来る。十年、考えなかったことが、すぐそこまで来ていた。父の死、追放、符牒帳を懐に去ったあの日。雪の残る石畳を、行く先も決めずに歩き出したあの朝。あれから、兄とは一度も顔を合わせていない。
その兄が、自ら峠を越えて来る。がらんとした広場を後にして。荷を集める当てが、もうここしかないからと。
マレーナは、卓に置かれた一本の麻紐を、手に取った。タッダが塩樽を結んでいた紐だった。荷を解いたとき、樽から外して、卓に置いていったものだ。
固く撚られた麻だった。何度も結び直されたとみえて、ところどころ毛羽立っている。掌で握ると、ざらりとした繊維が、指の腹に食い込んだ。
荷を縛る紐だった。荷があるところには、いつもこれがあった。東門の広場には、こんな紐が、何千本もあった。荷馬車を縛り、梱を結び、樽を留めて。荷の軋みのなかで、無数の麻紐が、荷を路へ送り出していた。
その広場には今、紐を結ぶ手が、一本もない。
マレーナは麻紐を、指で撚り直した。
毛羽立った繊維が、掌のなかで少しだけ揃った。荷を結ぶには、まだ使える紐だった。撚りが残っている。手をかければ、もう一度、荷を縛れる。
けれど、東門のがらんとした広場には、その手がない。紐は撚れても、結ぶ荷がない。荷を集める握手が、あの広場には、もう残っていない。
兄は、それを取り戻しに、ここへ来る。
マレーナは麻紐を、卓の上に置いた。撚り直した紐は、さっきより少しだけ、まっすぐになっていた。けれど、まっすぐにしたところで、結ぶ荷は、こちらの広場にしかなかった。
窓の外で、日が峠の向こうへ落ちていく。その峠を、兄が越えてくる。早ければ、四、五日のうちに。
今夜は、信用控の下書きを書かなければならない。割符の枚数も、確かめなければならない。窓口の順番を公示する文言も、明日の朝までに整えておく必要がある。
マレーナは麻紐から、手を離した。ざらついた感触が、まだ指先に残っていた。あの広場で何千本と握ってきた、荷の手触りだった。それを兄は、看板ごと相続したつもりで、結ぶ手だけを、相続できなかった。
卓の上の麻紐は、撚り直されたまま、荷を待っていた。けれど、その荷が東門へ戻ることは、もう、ないのだった。
符牒帳を開いた。今夜の仕事が、その頁に積まれて待っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二部「看板の落日」、九話目です。
今回は、王都・東門の隊商溜まりを描きました。今話では初めて、兄バルト自身の視点で、そのがらんとした広場に立っています。新しい看板を掲げ、自ら隊商頭に頭を下げるバルト。けれど誰も引き受けない。「頼む相手が違う。握手したのはいつもマレーナさんだった」——その言葉が、広場に静かに残ります。マレーナはオーレンにいて、その情景を行商の老人タッダの証言とヴィンスの報せから思い描きます。
マレーナは、勝った気がしません。彼女が望んだのは、兄の没落ではなく、自分の握手が自分のものだという証明でした。それは証明されました。けれど、その証は、自分が十年回した広場が空になる形をしていたのです。看板に中身は宿らない——言葉で言ってきたことが、いちばん見たくない形で、目の前に来ました。レオは、その重さを軽くしようとせず、ただ「あんた、あの広場が好きだったんだな」と言います。
兄バルトがオーレンへ向かっているという報せを受け、マレーナは動き始めます。窓口への殺到に対し、北カルンへの返り荷の空きを塩の運搬に転用し、信用控で急場の資金繰りを繋ぎ、割符を配って「値も順番も動かさない」信用で殺到のパニックを鎮める。兄を迎える前に、自分の路を整える仕事があります。
次回「来訪の予感」。もう少しだけ、お付き合いください。
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