第13話: 二人の最初の衝突
卓の木目に、マレーナは指の腹を当てた。
天秤亭の食堂の、長い卓だった。何百という商談が、この板の上で交わされてきた。荷の角でついた傷、こぼれた葡萄酒の染み、握手のたびに擦れた縁。指先が、その一つ一つを読んだ。落ち着くための、いつもの癖だった。
けれど今朝は、落ち着かなかった。
卓の向こうに、レオが座っている。二人のあいだに、符牒帳が開いて置かれていた。
昨夜、決めかけたことがあった。
タウンの話を聞いてから、一晩、考えた。王都から峠を越えて塩を買いに来た小商人。裏町で、ひとつまみの塩を分け合う家。それが、頭から離れなかった。数では、答えが出ない。それでも、答えを出さねばと思った。
「レオ殿」マレーナは言った。「お話があります」
「ああ」レオは碗を置いた。「聞こう」
マレーナは符牒帳の頁に指を置いた。
「路を一本」マレーナは言った。「王都へ戻そうかと、考えています」
レオの眉が、わずかに動いた。
「戻す」
「ええ」マレーナは言った。「塩の路を、一本だけ。オーレンから王都へ、月に一度でいい。値は、わたくしが決めます」
レオはすぐには答えなかった。碗の縁を指でなぞっている。
「兄貴を、助けるためか」
「いいえ」マレーナは、はっきり言った。
「兄上のためではありません」マレーナは続けた。「王都で、塩を待つ家のためです」
「家」
「裏町で、ひとつまみを分け合っている家です」マレーナは言った。「兄とも、番頭とも、関わりのない家です。ただ、塩がないだけの」
レオは、腕を組んだ。
卓の上で、彼の指が止まっている。考えているとき、この男は静かになる。マレーナは、その静けさを知っていた。
「やめておけ」レオは言った。
短い言葉だった。
マレーナは顔を上げた。レオはまっすぐこちらを見ている。
「やめておけ、と」マレーナは言った。
「ああ」レオは言った。「兄貴の尻拭いを、するな」
「兄上の尻拭いではありません」マレーナは言った。「民を——」
「同じことだ」レオは遮った。
遮られて、マレーナは口を閉じた。レオが言葉を遮ったのは、組んでから、初めてだった。
「いいか」レオは、卓に肘をついた。「王都の塩が消えたのは、兄貴が看板で隊商頭を集めて誰も応じなかったからだ。番頭が頂で買い込み、市から塩を引き上げた。全部トルプの中で起きた」
「分かっています」
「あんたが路を戻せば」レオは言った。「その穴を、あんたが塞ぐことになる」
「ええ」
「兄貴の空けた穴を、あんたの路で塞ぐ」レオは言った。「それは、尻拭いだ」
マレーナは卓の木目にまた指を当てた。
「情に流されてる」レオは言った。
「流されてはいません」
「流されてる」レオは、繰り返した。「あんたは人を量るのが上手い。握手の強さで相手が約束を守るかが分かる。だが、王都の家の鍋は量れない。顔も知らない」
「ええ」マレーナは言った。「顔は知りません」
「だろう」レオは言った。「量れないものに手を伸ばすと、足元が揺れる。前にも言った」
言った、とマレーナは思った。昨日の夕、戸口で。けれど、それで収まるなら、一晩、考えなかった。
「レオ殿」マレーナは言った。「わたくしも、商いの筋は分かります」
「なら」
「けれど」マレーナは言った。「分かった上で、申し上げています」
レオが、口を閉じた。
マレーナの声はいつもより低かった。商談の圧でもなく、断りの硬さでもない。一段、温度の落ちた声だった。
「干上がるのは」マレーナは言った。「兄上ではありません」
レオは、何も言わなかった。
「番頭でもありません」マレーナは続けた。「先に干上がるのは、塩を待つだけの家です。何も悪いことをしていない家が、いちばん先に味を失う」
「分かってる」レオは言った。「分かった上で言ってる」
「では」マレーナは言った。「なぜ、やめろと」
「あんたのためだ」レオは言った。
その言葉に、マレーナは目を上げた。
「俺のためじゃない」レオは言った。「あんたのためだ」
レオは、襟の銅貨に指をやった。決まりの悪いときの癖だった。けれど今は、決まりが悪いのとは違って見えた。
「あんたが路を戻せば」レオは言った。「トルプ商会は、息を吹き返すかもしれん」
「兄上が」マレーナは言った。
「ああ」レオは言った。「王都の塩が、オーレンから戻る。値が落ち着く。市が回り出す。そうなれば、トルプの蔵の塩もいつかは売れる。商会は持ち直す」
マレーナは、黙って聞いた。
「立ち直った商会の帳場に」レオは言った。「兄貴が座ってる。あんたを、追い出した男が」
卓の上の符牒帳に、昼の光が落ちていた。
「あんたを追い出した連中が」レオは言った。「あんたの路のおかげで、また肥える。そういう話だ」
マレーナは、すぐには返せなかった。
それは、考えていなかった。王都の家のことばかり、見ていた。けれど、レオの言う通りだった。路を戻して塩が王都へ流れれば、いちばん助かるのは、トルプ商会かもしれない。兄が、また帳場に座る。マレーナを締め出した、あの帳場に。
「……ええ」マレーナは言った。「それは、あり得ます」
「それだけじゃない」レオは言った。「あんたが、オーレンで積んだものを思え」
「積んだもの」
「信用だ」レオは言った。「ガービン、タウン、ヴィンス。ゴット親方。あんたが一人ずつ握手で取り戻した路だ。看板なしで、十年の符牒帳で繋いだ」
「ええ」
「その路を」レオは言った。「兄貴の穴埋めに、回すのか」
マレーナの指が符牒帳の角で止まった。
「あんたが王都へ路を戻せば」レオは言った。「親方も隊商頭も、こう思う。あの女は、結局トルプに戻る気だと。看板を捨てたんじゃなく、看板に呼び戻されただけだと」
「……」
「せっかく積んだ信用が」レオは言った。「薄まる。あんたが十年かけて人に紐づけてきた握手が、また看板の話に引き戻される」
マレーナは卓の傷を指でなぞった。
その理屈は、分かった。痛いほど、分かった。
レオの言うことは、どれも正しかった。
兄の尻拭いになる。立ち直った商会で兄がまた肥える。オーレンの信用が薄まる。情に流されている——それも、半分は当たっていた。マレーナは、王都の家の鍋を、確かに量れていない。
けれど。
「レオ殿の言うことは」マレーナは言った。「一つずつ、正しいと思います」
「なら」
「正しいのに」マレーナは言った。「わたくしは、頷けません」
レオが、こちらを見た。
「なぜだ」レオは言った。
「商いは」マレーナは言った。「情ではありません」
「ああ」レオは言った。「だから、俺は」
「情ではありません」マレーナは、もう一度言った。「けれど」
マレーナは符牒帳に手のひらを置いた。十年分の握手が、この一冊に詰まっている。誰がいつ、いくらで約束したか。その記録の重さが、手のひらに伝わってきた。
「民を干上がらせる商いに」マレーナは言った。「信用は、宿りません」
食堂が、静かになった。
昼の光の中で、二人は向かい合っていた。卓を挟んで、符牒帳を挟んで。
「わたくしは」マレーナは言った。「情で、路を戻すのではありません。十年、人に紐づけた信用を守るために戻すのです」
「守る」レオは言った。「逆だろう。戻せば、薄まると言ったはずだ」
「薄まりません」マレーナは言った。「家を見捨てて積んだ信用は、いつか足元から崩れます」
「考えてみてください」マレーナは言った。「親方が、なぜわたくしと握手するのか」
「あんたが、値を動かさないからだ」
「それもあります」マレーナは言った。「けれど、根は別です。親方はわたくしが坑夫の手間賃まで見ているのを知っている。買い叩かないのを知っている」
マレーナの声が、また低くなった。
「弱い者を踏んで儲ける商いを」マレーナは言った。「わたくしがしないと、信じているのです」
「その信用を」マレーナは言った。「王都の家を見捨てて、守れますか」
レオは、答えなかった。
「塩を分け合う家を見殺しにして」マレーナは言った。「親方の前で、わたくしは弱い者を踏みません、と言えますか」
「それは」レオは言った。「話が、違う」
「同じです」マレーナは言った。「親方の坑夫も、王都の家も、踏まれる側です。片方を守って片方を見捨てれば、わたくしの握手は嘘になります」
レオが、襟の銅貨を指で押さえた。
それから、ゆっくりと言った。
「あんたの言い分も」レオは言った。「分かる」
「ええ」
「分かるが」レオは言った。「俺は、頷けん」
今度は、レオが引かなかった。マレーナは、それを見た。この男も、こちらの言うことを、分かった上で引いていない。
「商いは」レオは言った。「情でやるもんじゃない」
「ええ」
「一度、情で動けば」レオは言った。「次も動く。その次も動く。気づいたら、商いが情に乗っ取られてる。儲からん路に銀を流し続ける。そういう商会を、俺はいくつも見てきた」
マレーナは、聞いた。
「あんたの父御も」レオは言った。「情で商ってたか」
その問いに、マレーナは口を閉じた。
父は、情で商わなかった。数字で商った。けれど、父の数字には、いつも、人の顔があった。坑夫の顔。隊商頭の顔。塩を待つ家の顔。父は、それを切り離さなかった。
「父は」マレーナは言った。「数字で商いました。けれど」
「けれど」
「数字の向こうに」マレーナは言った。「いつも、人がいました。父はそれを忘れませんでした」
レオが、目を細めた。
「それは」レオは言った。「あんたの父御が、強かったからだ」
「強さ」
「強い商会だから」レオは言った。「人の顔を見る余裕があった。だが、あんたはまだ強くない。来て半年、路は三本。積んだ信用は薄い氷だ」
「……」
「薄い氷の上で」レオは言った。「人の顔まで見ようとすれば、氷が割れる。あんたごと、沈む」
マレーナは卓の縁を握った。
その言葉も、正しかった。
薄い氷。半年。路は三本。レオの言う通りだった。父のように、人の顔を見ながら商える強さは、まだ自分にはない。情で動けば、足元が割れる。それも、本当だった。
けれど、それでも。
「割れても」マレーナは言った。「見捨てるよりは、ましです」
レオの口が、止まった。
「割れて沈むのは」マレーナは言った。「わたくしです。わたくしが選んで、沈むのです」
「あんた一人じゃない」レオは言った。「俺もいる。ガービンもタウンもヴィンスもいる。あんたが沈めば、皆が沈む」
その言葉が、胸に落ちた。
それは、考えていなかった。自分が沈むことばかり、見ていた。けれど、自分は、もう、一人ではなかった。荷も、隊商も、レオが出している。路は、皆で繋いだものだった。
「……ええ」マレーナは言った。「そうでした」
「分かったか」レオは言った。
「分かりました」マレーナは言った。「けれど」
「けれど、まだ言うか」
「言います」マレーナは言った。「皆を巻き込むのなら、なおさら見捨てられません」
レオが、苛立ちを、初めて顔に出した。
「なぜだ」レオは、声をわずかに強めた。
「皆で繋いだ路だからです」マレーナは言った。「皆で繋いだ路が、弱い者を干上がらせるために使われるなら——それは、繋がなかった路と、同じです」
「同じじゃない」レオは言った。「儲かる路だ」
「儲かっても」マレーナは言った。「家が干上がる横で儲ける路を、ガービンは繋ぎたかったでしょうか」
レオが、言葉に詰まった。
その名を出されて、レオはすぐには返せなかった。
ガービン。タウン。ヴィンス。皆、値でなく、マレーナと握手した者たちだった。弱い者を踏まないと信じて、手を差し出した者たちだった。その握手の意味を、レオも、知っている。
「ガービンが繋ぎたかったのは」マレーナは言った。「儲かる路ではありません。信じられる相手の路です」
レオは、襟の銅貨を、強く押さえた。
「あんたは」レオは言った。「ずるいな」
「ずるい、と」
「ガービンを出せば」レオは言った。「俺が黙ると、分かってて出した」
「出しました」マレーナは言った。「けれど、嘘は言っていません」
「嘘じゃないから」レオは言った。「たちが悪い」
その声に、棘はなかった。けれど、和らいでもいなかった。苛立ちと、何か別のものが、混じっていた。
「いいか」レオは、卓に手をついた。「俺は、あんたを止めたいんじゃない」
「では」
「あんたが」レオは言った。「また、利用されるのを見たくないんだ」
マレーナは、顔を上げた。
「兄貴に、利用された」レオは言った。「十年、差配をさせて、用が済んだら追い出した。看板の下でこき使った。今度は王都の家のために、あんたが自分から差し出そうとしてる」
「それは」レオは言った。「あんたがまた、誰かのために自分をすり減らすってことだ」
マレーナは、その言葉を受け止めた。
レオの理屈の裏に、別のものが見えた。商いの筋でもなく、信用の話でもない。マレーナがまたすり減らされるのを見たくない——そういう、不器用な何かだった。
「レオ殿」マレーナは言った。「ご心配は、分かります」
「心配じゃない」レオは言った。「筋の話だ」
筋の話、と言いながら、レオの声は筋から外れていた。マレーナは、それに気づいた。けれど、気づいたとは、言わなかった。
「すり減るのは」マレーナは言った。「兄上に使われたときです」
「今も同じだ」
「違います」マレーナは言った。「あのときは、看板に商われていました。今は自分の名で、自分が選んで差し出します」
「同じ、すり減りだ」レオは言った。
「違います」マレーナは、引かなかった。
「自分で選んだすり減りは」マレーナは言った。「すり減りではありません」
レオが、こちらを、見た。
「選んで差し出すものは」マレーナは言った。「奪われるものとは、違います」
その言葉に、レオは何かを言いかけて、止めた。襟の銅貨を指で強く押さえている。言いたいことが、言葉にならないようだった。気持ちを、商談の言葉でしか示せない男だった。
「……平行線だな」レオは言った。
「ええ」マレーナは言った。
二人は、卓を挟んで、黙った。
符牒帳が、二人のあいだに、開いたまま置かれていた。マレーナの十年が詰まった一冊だった。けれど今、その頁は、答えを、何も書いていなかった。数なら、答えが出る。けれど、これは、数ではなかった。
「俺は」レオは、立ち上がった。「反対だ。今は、これだけ言っておく」
「ええ」マレーナは言った。「伺いました」
「あんたが」レオは言った。「明日、路を戻すと言っても、俺は荷を出さん。今日のところは」
マレーナは、レオを見上げた。
レオが荷を出さないと言ったのは、組んでから、初めてだった。あんたが決めたなら隣にいる——そう言った男が、今、出さないと言っている。
「分かりました」マレーナは言った。
声は、いつもの通りだった。けれど、胸の中はいつもの通りではなかった。
レオは、それ以上は言わなかった。卓の向こうから、こちらを一度見た。何か言いたげな目だった。けれど、その口は、開かなかった。
代わりに、レオは襟の銅貨を指で弾いた。今までと、同じ仕草だった。けれどその音は、いつもより固かった。
レオが、食堂を出ていった。
戸が閉まる音が、いつもより、大きく聞こえた。
マレーナは、一人、卓に残った。指の腹を、また、木目に当てる。何百という商談の傷が、そこにあった。握手の擦れた縁が、そこにあった。けれど今、その卓は握手で結ばれたのではなく、握手が一度ほどけた卓だった。
符牒帳は、開いたまま、卓の上にあった。
マレーナは、それを、閉じなかった。
頁の上に、昼の光が落ちている。やがて陽が傾けば、この光も動いていく。けれど今は、まだ、卓の真ん中で、止まっていた。光と、符牒帳と、二人ぶんの碗。レオの碗には、まだ、葡萄酒が残っていた。飲み干さずに、立った。
マレーナはその碗を、しばらく見ていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二部「看板の落日」、四話目です。
組んでから一度もぶつからなかった二人が、初めて、本気で衝突しました。きっかけは、王都の家のために路を一本戻すかどうか。マレーナは、兄を救うためではなく、罪のない民を干上がらせないために、迷い始めます。
それに、レオは正面から反対しました。兄の尻拭いになる。立ち直った商会で兄がまた肥える。せっかく積んだ信用が薄まる。そして——あんたが、また利用されるのを見たくない。どれも、冷たさではなく、彼女を守ろうとする理屈でした。
けれど、マレーナも引きません。彼女にとって、これは情の問題ではなく、商いの根本の問題でした。「民を干上がらせる商いに、信用は宿らない」。弱い者を踏んで儲ける路を繋げば、十年積んだ握手そのものが嘘になる。だから、引けないのです。
互いの言い分が、両方とも分かる。だから、よけいに苦しい。今回は、和解させませんでした。二人の距離が、一度、開いたまま閉じます。次回「妥協点」で、二人がどう歩み寄るのか——もう少しだけ、お付き合いください。
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