4. ホワイトデーの夜、甘すぎるお返しを
三月十四日。
肌寒い日が続くが、街はキャンディとマカロンの香りでいっぱいだ。
歩美は、ふと胸を押さえた。
「……まさか、ドキドキしてる?」
自分でも笑ってしまう。
たった一粒チョコを渡しただけなのに、“あの人たち”がどうするのか、気になって仕方がなかった。
――BAR LUPINE
あの扉の向こうに、きっと今日も四人のイケオジたちがいる。
鈴が鳴る。チリン――。
「来ると思ってた」
バーカウンターで怜が微笑んだ。
今日は淡いグレーのベスト。
白シャツにミントグリーンのネクタイが春の風みたいだ。
「今夜は、ホワイトデー特別営業だ」
「と、特別営業……?」
「お返しをする側が、心を込める日さ」
その瞬間、歩美の心拍数が上昇した。
「おかえり。“バレンタインのお礼”を言えるのを、楽しみにしてた」
綾小路先生が、本を閉じて微笑む。
淡いラベンダー色のシャツがやけに似合っている。
「チョコをもらってから、少しだけ小説の筆が進んだ。君の甘さが、言葉を溶かしたんだ」
「そ、そんな大げさな……」
「お礼に、“好きな言葉”を一つ贈ろう。君の心に、一番響くものを」
「え、そんなの選べないですよ……」
「なら、俺が選ぶ」
耳元で囁くように――
「綺麗だ」
その言葉は静かに、確実に、歩美の心まで溶かしていく。
「綾小路先生、口説きすぎだ」
穏やかな声が割り込む。松永先生だ。
春色のカーディガンを羽織り、ティーカップを手にしている。
「俺は現実的なお返しにした……紅茶だ。香りが心を落ち着ける」
白いティーカップから立ち上る蒸気。
桜の花びらのような香りに、歩美の頬がゆるむ。
「飲むたびに、ここを思い出してくれたら嬉しい」
松永先生はそう言って、紅茶セットの包みも一緒に渡してくれた。
優しい笑顔。
どうしてこんなに穏やかで破壊力があるんだろうと、歩美はつい考えてしまう。
「甘いの、好きだろ?」
隣にいた薫が、包みを差し出す。
ブルーのシャツは今日も第二ボタンまで開いており、シルバーのネックレスが光っている。
「チョコじゃなくて、プロテインマカロンだ」
「ぷ、プロテイン!?」
「体をいたわるのも、俺なりの“愛情表現”だ」
そう言って、笑いながら歩美の頭を軽く撫でた。
その手の大きさとぬくもりに、また心がときめく。
「さて」
怜が、カウンターの下から小さな箱を取り出した。
「俺からは……これだ」
箱を開けると、中には小さな銀のチャーム。
月とグラスのモチーフが、淡く光る。
「この店の常連証だ。君がどんな夜を過ごしても、帰ってくる場所がある印に」
「……怜さん……」
「でも、これは貸与品だ。返すときは、“誰かを好きになった”って報告に来るんだよ」
歩美の目に涙がにじむ。
いつでも迎え入れてくれる安心感で胸がいっぱいで、言葉が出なかった。
「乾杯しよう」
怜が声を上げ、皆のグラスが重なる。
「今夜は“ありがとう”を言い合う夜だ。誰かに心を向けられる自分に、乾杯」
透明な音が、春の空気に溶けた。
ありがとう――
歩美は、最初にこの場所に来たことをゆっくりと思い出す。
仕事で疲労困憊だった時、温かい言葉をかけてもらったあの夜。
クリスマスを皆でお祝いしたことや、バレンタインのチョコレート以上に甘い言葉たち。
優しくて、文学的で、穏やかで、色気のある……素敵な彼らに囲まれて過ごす夜は、どれも忘れられないもの。
みんな、ありがとう――
歩美は心の中でもう一度そう言って、楽しい時間を過ごした。
会計を済ませて帰る歩美。
ドアを開けると、夜なのに春の風。
ポケットの中に、また一枚のカード。
“いつだって俺たちは君のそばに”
「……ふふ」
思わず笑みをこぼす歩美。
夜空には、ほんのり桜色の月が浮かんでいた。
その光が、どこか夢と現実の境界を照らしているようだった。
※※※
「……ん? あれ……」
歩美はソファで目を覚ました。
スマホを手に持ったまま、うたた寝していたらしい。
ロックを解除すると、画面にはとある小説サイト。
小説教室で講師と恋に落ちるもの。
――綾小路先生が受講生にアドバイスを送る。
中学生たちの揺れを綴った青春小説。
――松永先生が悩んでいる生徒を励ましている。
大学生作家が筋肉に恋をする話。
――薫が時計店で誰かと出会おうとしている。
そして、新作が公開されていた。
――『仕事帰りに寄ったBAR、全員イケオジだったんだが!?』
「……これ、もしかして」
ページを開くと、画面の向こうから声が聞こえた気がした。
「また、いつでもおいで」
鈴の音が、微かに響いた。
夜の街のどこかで、あの赤い光が静かに灯っている――。
終わり
お読みいただきありがとうございました。
BAR LUPINE に来てくれた三人は、
それぞれ別の作品から遊びに来ています。
小説教室で講師と恋に落ちるもの。
→ 『小説教室にて講師のおじさまと恋に落ちました』
中学生たちの揺れを綴った青春小説。
→ 『君の隣で、私も揺れている』
大学生作家が筋肉に恋をする話。
→ 『小説家は筋肉に恋をする』
どの物語も、BAR LUPINE と同じように、
「疲れた心が少し軽くなる場所」を目指しています。
気になった方は、ぜひ“隣の席”ものぞいてみてください。
また、いつでもおいで。
――BAR LUPINE 店主・怜




