3. バレンタインの夜、チョコより甘い言葉を
二月十四日。
街はチョコレートと恋人たちで溢れかえっていた。
二人で吐く白い息は、妙に温かそうに見えてしまう。
「……この時期、カカオの香りで窒息しそう」
バレンタインで同僚や上司が喜んでいたことに、歩美はため息をつく。
恋愛の“義務イベント”が、ただ心に刺さる日。
それでも何となく有名店のチョコを購入してみた。だが渡す相手はいない。
ふと、視界の端に見えた赤い灯。
――BAR LUPINE
「……ここなら、チョコより甘い言葉をもらえる気がする」
ドアを開けると、チリン、と鈴の音。
「やあ、来ると思っていたよ」
怜が優しく笑っていた。
今日は黒のシャツにワインレッドのベスト。
まるで“告白される側”の貫禄だ。
「バレンタインの夜に、よくぞ勇気を出したね」
「勇気というか……逃避です」
「それも立派な生存術さ。今夜のカクテルは、“恋するモカ・ベリー”」
淡いチョコ色の液体に、ベリーが一粒。
香りだけで恋に落ちそうだった。
「今日は女性客、多いんじゃないですか?」
「どうだろうな。俺の店は“恋より回復”を求める人が来るから」
怜が微笑むだけで、カクテルを飲んでいないのに酔ってしまいそうだ。
「バレンタインに一人って、意外と悪くないよ」
隣の席から声がした。綾小路先生が、グラスを指先で回している。
「恋愛してない時間こそ、自分を磨く最高の季節だ……今夜の君も、悪くない目をしてる」
「そ、そんなこと言われたら照れます!」
「言葉はチョコより甘くても、太らない。安心するんだな」
サラッと口説き落とすような笑みに、歩美は心臓が跳ねた。どんな高級チョコにも負けない極上の甘さを持つ、綾小路先生の言葉――もっと味わいたいと思う歩美。
「チョコレートは脳に良いからな」
奥のカウンターでは、松永先生がチョコケーキを切り分けている。
「一人で食べるより、誰かと分けた方が幸せホルモンが増えるんだ」
「そうなんですか?」
「そうだ。だから――ほら」
松永先生にフォークを差し出される。
甘い香りに包まれながら、歩美はケーキを口にする。
「……安心する味です」
「作った人の心が、優しいからな」
「え、松永先生が?」
「ま、レシピを見ながらだが」
穏やかな笑みが、どこまでもあたたかい。身体の奥まで甘く撫でられる感触に、歩美は心地良い気分になる。
「……バレンタインは筋肉痛に要注意だな」
低い声に振り向くと、薫がいた。
シャツの袖をまくり、前腕に浮かぶ筋が眩しい。
「え、筋肉痛?」
「恋をすると、胸の筋肉が張るんだ。締めつけるように痛くなる」
「そ、そんな医学用語ありましたっけ?」
「俺の辞書にはある」
歩美は笑って少しだけ顔を赤らめる。そうだとしたら、さっきからずっと筋肉痛かもしれない。相変わらず逞しい薫の身体つきに、胸がきゅっとなる。
「乾杯しよう」
怜が声をあげる。
「今夜は、恋人がいる人も、いない人も――“好き”という気持ちに、生き延びたことを讃えて」
グラスが鳴る。
透明な音が、心に沁みた。
「君、チョコは渡さないのか?」
綾小路先生が尋ねる。
「え、誰にですか」
「たとえば……この店の誰かに」
その瞬間、三人の視線が同時に向いた。
怜、松永先生、薫。
全員が穏やかに、けれど意味深に。
「……ひ、一つしか持ってないんです」
「じゃあ、公平に分けよう」
怜が手を差し出す。
歩美がチョコの箱を開けると、四人の視線が交差した。
「ありがとう……この一粒、ちゃんと大事に味わう」
怜の声が、まるで愛の告白のように甘い。
「言葉で表せない甘さ……それこそが、この一粒だ」
綾小路先生が、そっと歩美の耳元で囁く。
「誰かからもらう一粒は……心が温まるよな」
松永先生が、穏やかな声で笑顔を見せる。
「君の一粒は、筋肉も心も膨らんで甘く満たされる」
薫の低い声が、じわりと耳に響いてくる。
ここにいる彼らは、皆が歩美の味方になってくれる。その心強さが、彼女に勇気を与えてくれた。
今日も来て良かった――そう心から思える。
歩美は会計を終えて外へ出る。
冷たい夜風が頬に触れる。
コートのポケットの中には、小さな包みが入っていた。
開けると、ハート型のチョコとカード。
“来月、ホワイトデーにリターンがあるかも”
「ちょっ……誰の字!?」
顔を覆って笑う歩美。
夜空には、カカオみたいに濃厚な月が、静かに溶けていた。




