2. クリスマスの夜は、心臓がうるさい
十二月――
街中には仲睦まじい恋人同士、プレゼント、赤と緑。
ひとりぼっちでの白い息は、寒さの象徴。リア充ワールドに滅ぼされ、歩美の心のHPは残り僅かである。
「クリスマスって、毎年精神を攻撃してくるよね……」
逃げ込んだ先は、あの小さな路地。
BAR LUPIN の赤い光が、静かに呼んでいる。
チリン、とドアが鳴る。
「やあ、来ると思っていたよ」
怜が微笑んでいた。
いつもの白シャツには赤ネクタイ。クリスマス仕様になっている。
「座りな。年内の疲れ、取ってあげる」
その優しい声だけで回復できそうだ。歩美が腰を下ろすと、怜がふっと笑う。
「今日は特別カクテル。“心を温めるホーリーベル”」
綺麗な深い赤。飲む前から胸が熱い。
美しいカクテルに心惹かれているのか、それとも怜の視線が心を熱くするのか。
「遅いじゃないか」
声がして、振り返れば綾小路先生が本を閉じる。深緑色のニットを着こなし、クリスマスでも渋い雰囲気は健在だ。
「君のクリスマスの台本、空白だらけだね……埋めに来たんだろ?」
「あ、綾小路先生……そうです。私に予定なんてない」
「いいんだよ。“空白”は、書き込まれるためにある。そのために……俺がいる」
歩美は頬を赤らめて綾小路先生を見つめる。自分の心の空白まで埋めてくれそうだ。
「ケーキ、用意してあるよ」
カウンターの奥で、松永先生が声をかけてくれた。穏やかなブラウンのニットが似合っている。
「ここまで頑張った君にご褒美だ。甘いものは脳も活発にしてくれる」
「わぁ……美味しそう」
生クリームのケーキには可愛いクリスマスのデコレーションが施されている。いちごがきらりと光り、サンタの砂糖菓子の甘みまで伝わってくるようだ。
「ひとりで食べるより、一緒に食べた方が……美味しいだろう?」
「ま、松永先生……」
彼と一緒に食べたら、心までとろけてしまいそうである。
「……少し筋力が落ちているかな?」
隣の席には薫がいる。
筋肉質な手を歩美の肩に起き、彼女の目をじっと見つめる。彼はこの季節でも紺色のシャツの第二ボタンまで開けて、立派な胸筋をちらりと見せる。
「最近座りっぱなしで運動不足で……筋力どころではないです」
「そうか。徐々にでいいんだ。俺がトレーニングの補助、してやろうか?」
「え……薫さん……」
トレーニングの補助って……距離が近いのでは。
そう思った歩美は、運動をしていないのに心拍数が上がってしまう。
「乾杯しよう」
怜がグラスを掲げる。
「メリークリスマス。一年、生き延びたことを讃えて」
グラスが、軽く触れ合う。
かん、と澄んだ音。
それだけで、涙腺が緩んできそうだ。
どうしてだろう。
あの時に彼らに会った時から、たくさん励まされてきた。渋くて格好いいだけではない。人生経験を積んだ者だけが醸し出す、包容力と優しさ。少しのユーモア。
――それらが、歩美の心の疲労に染み渡ってゆく。
大丈夫だよと、やわらかく包んでくれる。
「君。クリスマスに寂しさを感じるのは悪じゃない」
綾小路先生が静かに言う。
「孤独は、心の準備期間だ。来年、もっと素敵な予定が入るかもしれない」
「予定、入りますかね……」
「入るさ……俺の予感は、当たる」
綾小路先生と目が合った瞬間、歩美は時間が止まったように感じた。
「ケーキ、もっと欲しいか? 良かったら俺のを半分あげよう」
松永先生がケーキを取り分けて、皿に乗せてくれる。
「女性は、ひとりで背負い込みすぎる。今日ぐらい、甘えていい」
薫が、そっとフォークを皿に乗せる。
「ありがとう……ございます」
「……ところで」
怜が、意味深な笑みを浮かべる。
「君、今日はそのコート、どうしたの?」
「あ、これ? 奮発して買って。クリスマスくらい、頑張ろうって」
すると四人の表情が、同時に柔らかくなる。
「似合ってるよ」
「綺麗だ」
「いい買い物だ」
「センスがある」
一斉に褒められて歩美は涙ぐむ。
「……っ」
「来年は、誰かとそのコートを脱ぎながら、『寒かったね』って笑えるといい」
綾小路先生が囁く。
「誰かって誰ですか!?」
「さあ?」
四人が同時にニヤリと笑う。
誰かだなんて、今の歩美には全く想像ができない。
でも――
「そのときは……ちゃんとこの店に報告に来るんだよ」
怜が、静かに言う。
「『好きな人、できました』って」
「……できなかったら?」
「また、ここに座ればいい」
「ふふっ」
歩美は小さく笑う。
好きな人ができるかどうかはわからないけれど、またここに来ることは決まっている。このおじさまたちは自分を優しく照らして、見守ってくれるような存在。
会計を済ませて帰り支度をする。
ドアを押すと、外は粉雪が降っていた。
「……雪?」
「ホワイトクリスマスだね」
綾小路先生が微笑む。
「君のページに、白い余白が降ってる」
「風邪引くなよ。マフラーをしっかり巻いて」
松永先生が手を振る。
「慌てなくていい。ゆっくり歩いても、心のトレーニングになる」
薫の低音が響く。
「また疲れたら、帰ってこい」
怜が、グラス越しに微笑む。
歩美は小さく手を振った。
「メリークリスマス!」
彼女が店を出ると、コートのポケットに小さなカードが入っていた。
“来年は、誰かが落ちるかもな”
「ひゃあっっ!!」
雪が頬に柔らかく溶ける。
夜の街は、さっきより静かな光をまとっていた。




