1. 仕事帰りに寄ったBAR、全員イケオジだったんだが!?
残業三時間、心のHPは赤ゲージ。
駅前の人波にもまれながら、歩美はフラフラと路地に迷い込んだ。
「休みたい……」
秋の夜、どこか寂しさを感じるのは木枯らしのせいだけではない。風が頬にあたるたび、心まで冷えてゆく気分である。
彼女が身体を震わせて歩いていると、目の前に見つけたのは古びた看板だった。
――BAR LUPINE
「る、るぱいん……? どういう意味だっけ……?」
考える余裕もない。とりあえず休憩したいと思った歩美はドアを開いた。
チリン、と鈴が鳴る。
「ようこそ。ひとりかい?」
声をかけてきたのは、オールバックが決まった優しそうなバーテンダーのおじさまであった。名前は怜。この店は彼が経営している。
ぬるい視線で見つめられ、心が揺れ動く歩美。
「えっと……お酒、弱いんですけど……」
「心が疲れた日に飲む、とっておきの一杯を」
そう言って怜が差し出したのは、淡い桃色のカクテル。
「あの、名前は……」
「“おつかれミモザ”」
「優しい……」
歩美はグラスを手に取り口にする。飲んだ瞬間、ふわりと心がほぐれていった。
「来て正解だな」
カウンターの隣の席に、軽くパーマをかけたミディアムショートの渋めのおじさま。囁くように声をかけられた。手元には原稿が広げられ、推敲しているように見える。
「はじめまして。綾小路哲郎、小説教室の講師だ。今日のあなたは “セリフの無い主人公の顔” をしている」
「それって、主人公感なくないですか?」
「フフ……セリフを増やせば物語も進む。例えば『何かあったんですか?』とか」
どこか余裕ある物腰。声が低くてズルい。
それでも今はその優しさに身を委ねたくなる。
「……残業で疲れてしまって」
歩美は桃色の揺れるグラスを見ながら息を吐く。
「疲れていたからこそ、今夜の出会いがあった……違うか?」
「え……」
綾小路先生が歩美の頭にポンと手を置く。
「この物語は偶然ではないのかもな」
まるで運命の出会いのような言い方に、心臓がトクンと音を鳴らす。
「肩こってるだろ?」
気配なく後ろから穏やかな声がして、背中に緊張が走る。
振り返ると、眼鏡をかけて肩までの髪をなびかせた大柄のおじさまが佇んでいた。
「あ、あなたは……?」
「教師の松永だ。仕事帰りの女性は、肩と心、両方凝るからな」
さらっと“心”まで触ってくる距離感に、視界が甘く滲む。
「ゆっくり背伸びをして深呼吸するんだ、さぁ」
背中に添えられた大きな手から、じんわりと松永先生のぬくもりが伝わってくる。さっきまで冷えていた心に、柔らかな明かりが灯るよう。背伸びで肩も少し楽になった。
「……時計、ズレてるよ」
反対側から低い声が響く。
今度はシャツの胸元が第二ボタンまで開いている、筋骨隆々の紳士。歩美の左腕に視線を落とした。
「え、時計……?」
「ああ、時間は誤魔化せない。疲れてると遅れやすいんだ。俺は薫。時計店をやってる」
薫が、歩美の手を取りそっとベルトを直してくれる。彼の胸元からは爽やかな色気と香りが漂い、歩美はついうっとりしてしまう。
「女性の手首は、柔らかいほうがいい。締め付けは似合わない」
「……ですよね」
「心もここで解き放てばいいさ。俺はいつでも相手になってやる」
心を解放する――それまで仕事の忙しさで落ち着く暇もなかった。歩美は今、自分に必要なものがわかったような気がした。
「今日の疲れ、ちゃんと吐き出したかい?」
怜が、グラス越しに見つめてくる。
「は、吐き出すって……」
「社会にはね、“黙って傷つく”才能を持つ人間がいるんだよ。君みたいに」
「わ……私が?」
「言葉にしていいよ?」と、綾小路先生が微笑む。
歩美は四人に話し出した。
「今日、上司に理不尽に怒られて……資料も全部やり直しで……でも、誰も助けてくれなくて……」
「偉いじゃないか。声を上げずに、ちゃんと帰ってこられたんだから」
そう松永先生が褒めてくれる。
「そんな……」
「泣いていい。ただ、涙はちゃんとした場所で」
松永先生がそっとハンカチを差し出すと、歩美の目からは勝手に涙がこぼれ落ちた。彼女はハンカチでそっと涙をおさえる。
「女性の涙は、雑に扱ったら罰が当たるからね」
薫もそう言って小さく笑う。
「……時計の針は止まらない。でも、進む速度は自分で緩めることができるんだ」
周りを気にせず自分のペースでいいということ――歩美はさらに涙を流す。
「今日は“疲れた主人公”に、ちゃんと舞台装置がある」
綾小路先生がグラスを指で叩く。
「嫌な日ほど、台本の書き換え時だ。人生は一行で、景色が変わる」
「君は、変わっていいんだよ」
怜が続ける。
「私……」
歩美が口を開くと、四人のおじさまたちが一斉にこちらを見つめてくる。
「……誰かに、頑張ったねって……言ってほしかったです」
すると――四人が声を揃えた。
「頑張ったね」
渋くて優しい声のハーモニーが、心の奥まで伝わってくる。
悔しい思い、辛い思い、そして頑張ったねと言われて嬉しい思いが、一度に胸に込み上げてきた。
涙で顔がびしょ濡れである。
「泣き顔のまま帰るなよ」
怜がそっと、小さなプリンを差し出す。
「甘いものを食べてから帰るのが、ルールだ」
「ありがとうございます……」
歩美はプリンを食べてから会計を済ませ、扉に手をかける。
「また疲れたら寄りなさい」
「次の章、楽しみにしてる」
「いつでも待ってるよ」
「時間、整えてあげる」
四人の視線が同時に歩美を撫でてくる。
歩美は鼓動がおさまらないまま夜の街へ出た。
手元の名刺には――
――BAR LUPINE
“お疲れのあなたへ、心休める一杯を”
裏には、走り書き。
“次回来たら、誰かひとりに落ちるかもな”
「ひゃあっっっ!」
顔を覆って叫ぶ歩美。
夜風がさっきよりも少しだけ――優しく感じる彼女であった。




