4ページ目 眠り姫の目覚め
あれから、どうやって帰ったのか。
全く覚えていなかったが、漆原美咲は部屋のベッドにうずくまっていた。部屋の明かりをつけることすら忘れ、茫然自失としているうちに、気がつくと日が暮れかけてしまっていた。
「姉貴ぃー?晩ごはんできたってー!」
扉越しに弟の声が聞こえる。
「……いらない」
「えーっ?今日は唐揚げだよ?姉貴いっつもがっついてるじゃん?」
「食欲無いのっ!」
思わず声を荒げてしまう。軽い姉弟喧嘩はいつものことだが、八つ当たりのように怒ってしまったことにズキリと心が痛む。
少ししてから、足音が遠ざかっていくのを感じる。恐らく夕飯に行ったのだろう。
再び部屋の周りが静まり返る。
自身の呼吸音だけがゆっくりと聞こえてくる。
静かになると、今日のことが頭の中を無限に反芻する。
『美咲……さん……』
今日は愛乃の家に映画を見に行った。
そこで、偶然愛乃のことを押し倒してしまったんだ。
そこで、私は愛乃に吸い寄せられるような感覚に陥ってしまった。
近づく唇。紅潮した顔。
けれど、愛乃の瞳の奥に見てしまった。
何もかもを吸い込むような闇。
何も受け付けないような深い闇。
愛乃の心の中には、私への恐れと拒絶があった。
そこで美咲は気づいてしまったのだ。
自分が、愛乃を襲おうとしてしまったという事実に。
『ごめん、愛乃……ちが、違……私、こんなつもりじゃ……わたし……』
自分が訳もわからず愛乃を襲いそうになったこと。
愛乃に拒絶されてしまったこと。
その2つに感情がぐちゃぐちゃになった美咲は、愛乃の家を飛び出してしまったのだ。
(私、最低だ……)
場に飲まれたとか、いくらでも言い訳はできるのかもしれない。実際、女の子同士で遊ぶ時、ついノリでスキンシップをしたり、プリクラでふざけて頬にキスしたこともある。
けれど、今回の件はそんなものではない。
その場の雰囲気で、受け入れられていないのに、口づけをしようとした。しかも、相手はいつものグループの笑って済ませられる間柄ではない。人見知りで、不器用な愛乃なのだ。
到底許されることではない。
幻滅されたに違いない。
なのに。
『美咲っ………!!!……また、また学校で……ね……』
愛乃の泣きじゃくる顔が脳裏によぎる。
泣き声が、愛乃の言葉が、ずっと脳の中でリピートされる。
(愛乃……どうして、『また』って言ってくれたの……?)
『またね』という言葉が、美咲を拒絶したはずの彼女が言ったその言葉が、美咲の胸を呪いのように締め付ける。
言葉の真意を考えようとするも、何も考えられずに美咲は全てを拒絶するかのように、その目をゆっくりと閉じた。
◆ ◆ ◆
月曜日の朝、2年3組の教室。
テスト期間が始まるということもあり、教室はざわついていた。「勉強してる?」「試験期間今日からだって」とかいろんな声が聞こえる中で、その一角は静まり返っている。
そこでは藍原愛乃が本を読んでいた。
「眠り姫ちゃん、今日は起きてるね」
「ほんとだ。朝起きてるなんてめずらしー」
そんな声がヒソヒソと聞こえるが、本人は全く気にしていないようで、ページをめくる手は止まることはない。
普段、寝るか本を読むかのどちらかな愛乃は『実は髪を上げると美人』という噂から遠巻きに話題に上がることもあるものの、愛乃自身が周りと関わろうとしないため、話題に上がることは少なかった。
「よしのん、ちょっと時間ある?」
そんな中、愛乃に話しかけたのは同じクラスの宮島華乃だった。
「…今、忙しくて」
「……本読んでんじゃん。ちょっとみさきちのことで聞きたいだけだから」
その一言に、愛乃の手がピタリと止まる。
数秒してから、パタンと本を閉じてからスッと席から立ち上がった。そして、無言のまま教室を出ていく。
そんな愛乃の後をついていきながら、華乃は近くの女子に大きな声で
「ごめーん!今からよしのんと話あるから、1限サボるわ!」
と言って教室を出ていった。
「ハナちゃん、姫を連れてくみたい」
「えー?なんかやらかしたんかな、愛乃ちゃん可愛いからいじめんでほしいけど」
「馬鹿お前、まだ事情わからんやろ」
教室内ではそんな声が聞こえてきた。
屋上への階段は、夏の熱気が篭りとても暑苦しい。
そんな中、二人は無言で階段を上る。この高校は屋上は施錠されており、入ることはできないが、屋上に入る前に少しのスペースがある。めったに人が来ないので、生徒の間では教室では話しづらい密談や逢引のために使われていた。
立っていると汗を流しそうになる状況の中、二人は屋上前の階段に腰を下ろす。愛乃の頬にも汗が滲むが、それは暑さからのものではなく、ほぼ話さない華乃からの呼び出しによる冷や汗であった。
少しの間の無言を打ち破るように、華乃は愛乃の方を向いて、口を開いた。
「よしのん、みさきちと何かあったでしょ」
愛乃はまるで図星であるかのように、一瞬体をピクリと震わせる。
それから、
「……ないですよ」
と無愛想に言った。
『話すことなんてない』とでも言いたげに。
その言葉に華乃は眉をひそめる。
「みさきち、今日は学校に来てないの。いつもなら朝早く来てるのに、朝のホームルームに来てないんだよ。それに、LINEにも返事がないの。土曜日からずっとだよ?普段はこんなに未読無視をするような子じゃないのに……」
そう言いながら、華乃は愛乃との距離を強引に詰めていく。
愛乃は遠ざかろうとするが、壁際へと追い詰められて動きがとれなくなってしまう。「ひっ」と小さな声を漏らすが、華乃はそれを聞かなかったかのように距離をさらに詰め、愛乃の顔の横の壁にドン、と音を鳴らして右手で階下への逃げ道を塞ぐ。
「よしのんのグループや友だちに聞いてみたけど、誰もその日にはよしのんと遊びに行ってなかった。なら、あとは最近仲がいいあなただけしか思い浮かばない。よしのんなら何かを知っている、と思ったんだ。……知ってることを教えなさい」
口上は脅し文句のようになっているが、壁へと押し付けた華乃の手はわずかに震えていた。
「……………ないんですよ」
「……っ!!あんた絶対に何かあって⸺」
愛乃の変わりのない一言に華乃は思わず逆上しそうになる。
けれど、すんでのところで思いとどまった。普段寝てばかりで、感情を顕にすることのない目の前の少女の頬にポロポロと零れ落ちるものを見たからだ。
感情を表現することのない眠り姫が、目の前で泣いていた。
思わず押し黙ってしまう華乃の目線をまっすぐに見つめるかのように愛乃は顔を上げる。髪の間から、わずかに潤む瞳が垣間見えた。まだ震えながらも愛乃は少しずつ、言葉を紡いでいく。
「……………わ……ないんです…………………わからないんです……!私がどうしたらいいのかなんて……!」
愛乃が唐突に大きな声を出したので、華乃は驚きから大きく目を見開いて愛乃の方を向く。
今まで図書館の眠り姫と呼ばれた少女は、こんなにも感情を表に出すことなどなかった。ほとんど誰も見たことのないような表情で、愛乃は華乃に向かい合っている。
それは、まるであの時のようで華乃は懐かしさから目を細める。
「……そう、あなたにもできたんだ……」
ボソリと華乃が呟いたその一言は、狼狽えている愛乃には聞こえていなかった。華乃は壁に押し付けていた手をどけ、その手で泣く子をあやすように愛乃の頭を軽く撫でた。
「大丈夫、よしのんならきっとみさきちを元気にさせられる」
突然のことに、愛乃は肩をピクリと震わせる。
「そんなこと、無理……」
「無理じゃない。あなたにしかできないの。……傷つけたのなら、謝らないと。友だち、なんでしょ?」
華乃は先程までとは違う柔らかな表情で愛乃を見つめる。
愛乃には華乃の感情の変化の意味がわからず、ただただ困惑していた。
けれど、華乃が愛乃に言いたいことはわかった気がした。
「……私にも、できますか……」
「うん」
「……私、美咲さんを傷つけたんです。美咲さんは、多分……『本当の私』を少し知ってしまったんです………私のことを知って、美咲さんはきっと幻滅してる……」
震えながらも少しずつ心情を吐き出し続ける愛乃を見ながら、華乃はそれを寄り添いながら聞き続けた。そして少し明るい声で愛乃に語りかける。
「私の友だちは……美咲は、ちょっとやそっとで友だちを突き放すような子じゃないよ。それに、あなたのことは大切に思っている。だから……きっと、大丈夫」
その言葉を聞いた愛乃はまたグスグスと泣きだした。
華乃はそんな彼女を抱きしめるかのように腕を回し、彼女の背中を優しくさすった。
泣いて、泣いて、最後の涙がこぼれ落ちたのと同時に、愛乃はゆっくりと立ち上がった。
「……美咲さんに謝らなきゃ」
「……住所は知ってるの?」
愛乃の決意に満ちた表情が一瞬で崩れ去る。
「………………………………知らない」
その姿を見て、華乃は少し笑いながらも、愛乃に告げる。
「住所教えるから、LINE交換しようよ」
「…………うん、ありがとう……えと……」
「華乃でいいよ、私達、もう友だちでしょ?」
愛乃は一瞬ピタリと動きを止める。
華乃には愛乃の目が見えなかったが、恐らくびっくりしているのだろうな、と思った。
少しの間、華乃の言葉を反芻するかのように何かを呟いた後、愛乃はふわりと笑う。
「うん……華乃さん」
愛乃はめったに開くことのないLINEを開く。
友だち一覧は家族だけだ。そこに新しく追加された『はなの』の文字をしばらく眺めていた。そして、スマホをしまうと階段をゆっくりと降り始める。
華乃は、愛乃に後ろから声をかける。
「行ってらっしゃい!みさきちとよしのんが仲直りできたら、明日は一緒にスタバ行こ!」
「……ええ、約束!……本当に、ありがとう」
そう言って、愛乃は階段を降りていく。はやる気持ちから徐々にスピードが上がり、駆け下りるかのように進んでいた。
眠り姫は、長い眠りから覚めて再び自分の物語を進み始める。
初めてできた、本当に大切な友だちのもとへと行くために。
◆ ◆ ◆
愛乃と顔を合わせるのが気まずく、なんとなく学校に行く気になれなくて、美咲は高校に入ってから初めてズル休みをした。
父と母は心配しながらも、仕事に出かけていった。
弟すらも『姉ちゃん、大丈夫か?』と心配そうにしていたが、母に急かされて小学校へと飛び出していった。
それから、美咲は何をするでもなくぼんやりとスマホを眺めていた。そこに書かれているのは、『友だち 仲直りの仕方』『友だち 嫌われた』等々の検索履歴。
けれども、そこには美咲の心を安心させる言葉はなかった。
友達を襲いそうになった、と検索したときに至っては深く突き刺さる言葉が並びすぎていて、より傷ついてしまった。
「…………何やってんだろ、私」
早く謝らないといけない。
そんなことはわかっている。
けれども、体が動かない。
立ち上がろうとすると、脳裏に妄言が響くのだ。
『もう会いたくないです』
『近寄らないで』
そう拒絶してくる愛乃の姿が見えてしまうのだ。
それを思い描くと、足が前に進まない。
友だちからはたくさんLINEが届いている。
特に、華乃からは鬼のように送られてきている。
けれど、それに返す気にすらなれずに、マナーモードにしてしまっている。
『大丈夫?』
『体調悪い?』
『ゆっくり休んで』
優しい言葉が今はただただ辛い。
こんな私に優しくしないでほしい、とすら思ってしまう。
「…………どうしたらいいの、私は……」
ベッドの中でうずくまり、頭をかきむしる。
その時、玄関からチャイムが聞こえてきた。
(…………無視しよ)
どうせ宅配か何かだろう。そう思って無視していたが、数十秒おきにチャイムの音が何度も鳴らされる。
「……ああもう、うるさい!!」
普段は気にならないようなことにすら苛立ちを覚える。
さっさと帰ってもらおうと思いながらも、美咲は無愛想にドアを開ける。
「はいはい!どちら様ですかー?」
適当にあしらうかのように訪問者の顔も見ずに言い放つ。
けれど、違和感を覚える。格好がどう考えても業者のものではない。足元からゆっくりと目線を上げていく。
落ち着いた雰囲気の茶色のローファー。
季節外れのように感じる黒いストッキング。
膝丈くらいのスカート。
美咲たちの高校の指定のブレザー。
そして、目を隠す程の長い髪。
そこには。
「あっ……み、美咲…さん……」
そこには藍原愛乃がいた。
「……あっ……よ、愛乃っ……!?」
驚きと気まずさから苦笑いをしてしまう美咲に対して、愛乃は汗ばんだ前髪を横に流しながら微笑んだ。
「美咲さん……聞いてくれますか、私の話」
ダイニングに愛乃を通す。
席に座った愛乃は物珍しそうにあちこちをキョロキョロと眺めている。
家にあげないのは申し訳ないと思ってあげてしまったものの、土曜日にあったことを考えると、とんでもなく気まずい。
(愛乃、なんで来たんだろ)
怒っているような雰囲気ではない。
想像していた最悪な事態ではないことにホッとしたが、安堵してしまう自分自身に嫌気がさす。愛乃がどう考えていようと、愛乃を傷つけたことは事実なのだから。
愛乃はしばらくの間は部屋を見回しながら黙っていた。
沈黙自体は珍しいことではない。本を読んでいる時は喋らないことも多かったから、慣れつつある。だが、今は少し気まずい。
いっそ私から話してしまおうか。
誤った方が気が楽になるかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
愛乃が突然話し始めた。
「……み……美咲さん」
「うん、どうしたの……?」
愛乃の言葉がどんなものでも受け入れる覚悟はできている。
自分がしてしまったことなのだから、罵られようが、貶されようが、構いはしないと思っていた。
けれど、愛乃が話し始めたのは予想外なことだった。
「……美咲さんは、私の目、どう思いますか……?」
目を見てどう思ったか。
そんなことを聞かれ、美咲は一瞬意味がわからなかった。目が今回の件にどう関係があるのだろうか、と思った時、ふとある言葉が頭をよぎる。
『藍原さんの目に気をつけて』
華乃が美咲に耳打ちした言葉だ。
(愛乃の目には何かある……?)
いろいろ考えてもわからないので、美咲は普通に考えて答えた。
「愛乃の目は……綺麗だよね。見ていると吸い込まれそうな感じがして⸺」
そこまで言ってから、美咲はハッと目を見開いた。
初めて会ったあの日。
愛乃の家でのこと。
美咲が愛乃を欲するような気持ちになったのは、愛乃の目を見た時だ。
「…………気づいちゃった……?」
そう言うと愛乃は少し俯く。
そうすると、ほぼ表情は見えなかったが、美咲には愛乃が泣きそうなのが伝わった。
愛乃が言おうとしていることは、多分、彼女が最も隠したかったことだ。
「愛乃……」
何か言わなければ。
そう思うものの、どんな言葉をかければいいのか思いつかない。美咲が悩んでいる間にも、愛乃は少しずつ、少しずつ話していく。彼女の中の、心の奥底にあるものを。
「……私の目はね……、人を誑かす、悪い目なんです……」
愛乃が本来は話したくないはずの、記憶の奥深くに根付いた彼女の闇を。




