第三話 ヴォルフとジョバンニの帰り道
「それで――ジョバンニは、俺の事を怒らないのかよ」
ヴォルフが隣に座っているジョバンニに尋ねる。
ジョバンニは「なんにも怒んねぇよ」と、答えた――。
夕闇迫る中、二人は海の上にいた。彼らは、足漕ぎボートを漕いでいる。
――紗良が日本での記憶を頼りに描いたこの白鳥の形をしたボートは、アーサーとカイルでその再現に成功した。
彼らはこの精巧な白鳥型のボートを、島と本土を移動する唯一の交通手段として使っていた。
白鳥の首に吊り下げられたランタンの灯のもと、隣り合わせでペダルを踏みながら、ヴォルフとジョバンニは、今朝の紗良とのやり取りについて話していた。
ジョバンニの怒らないという言葉を最後に、ヴォルフはしばらく沈黙している。
俯きながら黙々とペダルを漕いでいるヴォルフを横目で見たジョバンニは、おもむろに口を開いた。
「そんなに気にすんなって、紗良だって本気で言ったわけじゃねぇよ。
まぁ、味噌汁を投げつけたんだ。食べ物を粗末にするのを紗良は一番嫌うからな。当分は――まあ、不機嫌だろうけど」
「投げつけてなんてないよ。ただ――ずらしただけだ……」
俯いたままヴォルフが気まずそうにして呟いた。
ジョバンニは、彼の言葉にふっと微笑みながら、
「ずらしただけでも、投げただけでも、どっちでもいいけどよ。ま、食いもんは、ちゃんと食え。そう言うことだよ」
わかったか? とヴォルフの頭を撫でながら尋ねるジョバンニに、彼は黙って頷いた。
ジョバンニは、ヴォルフにまたふっと笑みを浮かべて彼の頭をポンと叩いてから、前方に視線を移しながら話し始めた。
「――それにな。紗良は、お前を嫌いになったから番をやめるって言ったんじゃねぇと思うよ。あいつずっと言ってたんだよ、お前とあいつは歳が離れすぎてて伴侶としては成り立たないって、で、いつかはお前から離れなきゃならないってな」
「俺から――離れる……」
「そうだよ。お前だって大人になれば恋人を作ったり、それで結婚とかして家族を新しく作ることになるかもしれないだろ?
そんな時に紗良が『私、ヴォルフの番なんです』って、お前にくっついてたら、さすがにな――どんなにできた女でも、いい顔しないだろ。
だから、あいつ、そうなる前に消えるってずっと言ってたんだよ。
今回の事で、ま、紗良の事だから勢いに任せてお前に宣言したんだろ。
あ、もしかしたら猫耳少女の事をあいつに言ったからかも知れないな。
あいつ――お前の気持ちを優先したかったんだろうよ。
言ったタイミングは、おかしかったかもしんねぇけど、ま、番の事は、いつかはお前にも言わなけりゃならないとずっと思ってたことだったんだよ」
俯きながら黙りこくっているヴォルフに、ジョバンニは「大丈夫だ」と彼の肩を叩きながら、
「番の事は、お前はなんも気にする事ねぇぞ。お前が結婚して島を出ても、紗良が一人になることは絶対にないから。
あいつには、俺もカイルも、なんならアーサーさんだっているし、皆、あいつの面倒をみる気でいるから。
だから、お前はなんの心配もせずに、あの猫耳少女、エミリアちゃんだっけ? あの子といちゃいちゃして、青春を楽しめ」
いたずらな笑みを浮かべながらジョバンニは、肘でヴォルフを突いた。
ヴォルフは、頬を膨らませながら、
「エミィとは、そんなんじゃないよ。ただ、俺の初めて出来た友達で、それで――」
言い淀むヴォルフにジョバンニは、ニヤニヤとしたまま言った。
「ま、お前はまだまだガキだからな。恋だ愛だなんてまだまだわからんかも知れんが――ま、色々と今のうちに楽しんどけ」
青春だなと嬉しそうに笑顔を見せながらジョバンニは、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。
「ジョバンニは、わかってるのかよ。その恋とか、愛とか――」
軽くなったペダルに足を任せて、ヴォルフはちらりと横目でジョバンニに尋ねた。
ジョバンニは、彼に白い歯を見せながらにんまりと笑って、
「まったく、わからん」
短く答えた――。
「――さ、着いたぞ」
立ち上がってランタンを手にしたジョバンニが、ヴォルフの手を取った。
波打つ船着き場で、ボートからよろけながら降りた二人は、塔に灯がついていない事に首を傾げた。
「紗良のやつ、明かりもつけずに何やってんだよ。あ、もしかしてあいつ、ヴォルフと喧嘩したからって昼間っから酒飲んでそれで――おいおいおい、寝落ちか?」
塔への道を歩きながらジョバンニが不満顔で言った。ヴォルフは、罰が悪そうにして背中を丸めている。
ジョバンニは、前方を見据えたまま話し続けた。
「朝から不貞腐れてずっとってことは、晩飯は? マジか――はぁ。久しぶりに島に帰るって、あらかじめ、あんなにしつこくあいつに言ってたのに……ちんぴらくらいは作ってくれると思ってたのに、ああ、マジか――酒と……米くらいは、あるよな」
クソッと、勢いよく玄関扉を開けたジョバンニは、一目散に紗良の寝室へと向かった。塔の上から彼が紗良を大声で呼ぶ声が聞こえる。
バタンバタンと扉を開け閉めする音が何度も響き、しばらくしてジョバンニが階段を駆け下りてきた。
「紗良、上にはいなかったぞ。あいつ、もしかして居間で一人で飲んだくれて――」
全くと呆れた様子でため息を吐いたジョバンニは、すぐにその足を居間へと向けた。
一方、ヴォルフはジョバンニの後を追うことなく、トボトボと階段を昇り始めた――。
「紗良! 大丈夫か!? え? さ、紗良?!」
ヴォルフの耳にジョバンニの叫び声が響いた。紗良の名前を聞いたヴォルフは、無意識に獣化して一気に廊下を駆け抜けた。
扉に体当たりして居間に飛び込んだ狼が目にしたのは、困惑した表情で年若い女性を抱きかかえているジョバンニの姿だった。
ジョバンニの腕の中にいる黒髪の女性は、目を閉じているが、そこには確かに紗良の面影があった――。