3 夫を殺める計画
夫、ルスヴィンは毎週土曜日にとっておきのウィスキーを開ける。
これは彼以外だれも飲まない。そして、彼はこの酒をひとりで楽しむという習慣があった。
「そこに睡眠薬を入れておきますわ」
飲む場所もいつも決まっている。二階の北側にある書斎だ。
彼はそこで昔の文学小説を読みながらウィスキーを飲むのが好きなのだ。
「使用人は?」
「土曜日はいつもはやめに部屋にもどらせるの。かれらの部屋は西側だから物音に気づかれる心配はありません」
「ねえさんはどうするの? 屋敷にいたら疑われる」
「実家にもどっておきますわ。幸い」──と私は自分の顔の怪我をさし、「"理由"もありますもの。夫の暴力について母親に相談していたら、夫の家に物取りが入った。この筋書きでいきましょう」
「なら、家もそれなりに荒らしておかないといけないね。使用人が起きない程度に……。盗んだものは下手に持っておくと危険だから、殺人を犯してしまったことに動転してあわてて捨てていったことにしよう」
「ええ……」
「その偽造されたっていう手紙は寝室か書斎かな。最悪、夫を殺せなくてもこれは奪って処分しておくよ」
「…………」
「ねえさん?」
「いいえ……」
夫殺害計画を簡単に練っていく自分たちに私は違和感を覚えたが、もう引きさがるわけにはいかない。
くれぐれも気をつけてくださいませ、と私はキールに言った。
「だいじょうぶだよ。でも、もし俺が捕まったとしてもねえさんは他人のふりをしてね。かばうことはないからさ」
「……いいえ」
私は首を振る。「私たちは一心同体です。裁かれるときは、私も一緒ですわ」
「ねえさん……」
キールは声をつまらせる。「ああ、もっとはやく……」と子犬みたいな目を潤ませて彼はつぶやいた。
「なあに?」
「……ううん。なんでもないよ」
それじゃあ、来週の土曜日に。
キールはそう言って庭のベンチから立ちあがる。
どこにでもあるようなのどかな景色。私たちを遠くから見ているひとがいても、ひとを殺す計画の話をしていたとは想像もできないだろう。
私も立ちあがって彼を見送る。
キールの幼馴染ではなく、アーレント侯爵夫人として。
「どうかご武運を。キール・ベーデガーさま」
+++
そして当日。夜が更けるのを待ち、俺はアーレント伯爵家へと忍びこんだ。
塀を越えればいいだけだから庭には簡単に入れる。屋敷のなかにも、フローネねえさんが一階の倉庫の窓に細工をして完全には鍵が閉まらないようにしてくれていたからそこから入ればよかった。ちょっとせまかったけど。
──使用人は……いなさそうだな
倉庫のドアに耳をつけて気配を窺い、ほんのすこしだけ開けて屋敷のなかが真っ暗になっていることを確認する。
深夜一時過ぎ。もうみんな部屋で休んでいるだろう。
俺は暗闇に目が慣れるのを待って、使用人用の階段から上にあがる。
ねえさんが書いてくれた見取り図を頭に叩きこんできたけど、見るのと実際に侵入するのとじゃわけがちがう。それも暗闇のなかを。
何度か壁にぶつかりそうになりながらも俺は二階に行き、書斎のドアのまえまでたどりついた。
ここまできて、俺は自分の心臓がばくばく鳴っていることに気がつく。
このドアの向こうにいる男を俺は殺す。
──できるのか? ほんとに?
俺は上着の内ポケットに入っているバタフライナイフを服の上から手で押さえる。
武器は用意してきた、だけど。
これを自分がひとの体に刺すイメージがどうしてもできなかった。
ひとを殺す。言うだけなら簡単だ。
俺に──ほんとうにひとが殺せるのか?
足が震えた。怖くて逃げかえりたくなった。
いまならまだ引きかえせる。ベッドにもぐって、なにごともなかったかのような顔で眠ることができる。だけど。
俺がここで逃げたら。
ねえさんは一生、夫から解放されない。
頬をぶたれたねえさん。痣ができて腫れるほど顔を殴られたねえさん。
彼女のことを思うと全身が熱くなった。
近所のお屋敷に住んでいたお嬢さま。俺が遊びに誘うと、意外なほど気さくにつきあってくれたおねえさん。
なにかあったら、いつでも俺をかばってくれたフローネねえさん……
彼女を守るためなら。
俺は、ひとを殺せる。
俺は息を吸って吐いた。足の震えが止まったのを確認し、俺は書斎のドアを開ける。
部屋は橙色のランプで照らされていた。
左右の壁にぎっしりと革張りの本がならび、正面には重厚なデスク。そして、そこに俺が殺すべき男がいた。
イスの背もたれに体を預けてだらしのないいびきをかいている。
──こいつが。こいつが、ねえさんを。
怒りで目のまえが真っ赤になった。俺はバタフライナイフを取りだし、デスクの越しに男の胸に突きたてる。
ずぶずぶとナイフがめりこんでいった。ごほっ、と男が咳のような声を漏らした。
──起きたか?
もう一度刺すべきか。男の体に意識がもどったような気がして俺はあわてたけれど、それきりだった。男はもう動かない。
俺は左手でナイフをきつくつかんだまま、反対の手を男の鼻の下に持っていく。呼吸は──していない。
殺した。
俺は、ねえさんの夫を殺した……。
「……はっ、」
変な笑いがこみあげてきた。
こいつ──こいつ!
俺からねえさんを奪っておいて。不倫? しかもねえさんに罪を着せる?
ふざけたことしやがって。
「ねえさんはてめぇのものなんかじゃない、」
俺はナイフを両手でつかみなおし、刃をひねった。どぶりと赤い血があふれだす。
「ずっとずっと。俺だけのものだ」
そうだよね、ねえさん。
ねえさんは最初からこんなやつ好きじゃなかった。金のために仕方なく結婚したんだ。
こんなやつに好き勝手されてかわいそうなねえさん。もっとはやく俺が迎えにくるんだった。でももう解放されたよ。だいじょうぶ。これからはずっと俺がそばにいる。
大好きだよ。フローネねえさん。
そのあとで俺はデスクの引き出しから偽造された例の手紙を探しあてた。帰ってから灰にしようと決め、上着のポケットにしまう。
……適当に荒らしておかないと不自然だな。
そう思ったから、一階の食器室に行って銀のフォークとナイフを回収して書斎の床に適当にばらまいておいた。
盗みに入ったら住人が起きていて驚いて殺してしまった、というシナリオだからある程度揉みあったあともないとおかしい。なので夫の死体を床に転がし、デスクの上のグラスとウィスキーの瓶も床に落としておいた。
こんなところでいいだろう。
夫は死んだ。ねえさんは、自由だ。
書斎をでて階段を降りたところで、ねえさんが疑われないようにするにはねえさんの宝石とかも荒らしておいたほうがいいかもしれないと考えなおした。ねえさんのものにひどいことはしたくなかったけれど。
俺は二階に引きかえし、見取り図を思いだしながらねえさんの寝室のドアを開ける。俺は息が止まりそうになった。
「ねえさん──?」
そこには実家に帰ったはずのねえさんがいた。ベッドの上に座り、ランプの光が灯るなか、俺を静かな瞳で見つめている。
どうして。ここにいたら意味ないじゃないか。
「俺が心配だったの?」
「……それもありますが」
「心配してくれるのは嬉しいけど。ダメだよ、ねえさんは自分の家にいなくちゃ……」
そのとき、ぎし、と床が軋む音が聞こえてきた気がした。
ドアが開けっぱなしの書斎から。
「キールさま。私はひとつ、あなたに告げていないことがありました」
「……なに?」
「私は────
「────私は一度、夫を殺しています」
■■■
その夜、夫は私を自分の寝室に呼んだ。
『ベロニカとのちがいを教えてやる』
私ははじめて夫が伸ばしてきた手を振りはらった。
『やめてください! 私はもう、あなたのものではございません!』
『気でも狂ったか? おまえは私のものだ。私が金で支配したのだ。おまえの、髪の毛一本までだ』
夫は私を床に引きたおすと……
…………
……気がつくと私の手には灰皿が握られていて、夫は動かなくなっていた。
『あ、』
揺さぶっても夫は目覚めない。
殺した。殺してしまった。……夫を。このひとを。
『あ、……ああ……っ』
私は頭をかかえた。
どうしよう? どうすればいい?
このひとから逃げたいと思っていたけれど──まさか殺してしまうなんて!
『起きて、あなた。目を覚ましてください』
いくら呼びかけても夫は目覚めなかった。
私は泣きわめいた。殺人という思いもよらなかった事態をまえに。
夫の体はどんどん冷たくなっていく。
脈を測るまでもなかった。彼は完全に死んでいた。
私は──私は夫を殺した罪を償うため、二階の窓から身を投げようとした。
カーテンと窓を開けて。夜の闇に飛びこもうとしたとき、ううん、と後ろからうめき声が聞こえてきたのだった。
■■■
「そんな……」
私の話を聞いたキールは呆然とつぶやく。
書斎では起きあがった夫が「なんだ。酒が零れてるじゃないか」とぼやく声が聞こえてきていた。
夫は死んだ。けれど一時間も経たないうちに蘇った。
それが、あの夜の私の"絶望"。
「その上で──もう一度、あなたに問いかけます」
私は尋ねる。私を大切だと、夫のかわりに幸せにすると言ってくれた彼に向けて。
「私の夫を殺してくださる?」
【終】