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2 近づく限界



 私はキールにすべて話した。


 夫の不倫。親友の裏切り。そして、かれらが私を陥れようとしていることを。


「……ひどいな。そんなこと赦されるはずがない」


 けれど赦されるのだ。地位も権力も夫のほうが上なのだから。


「不運だったと思ってあきらめるしかないわね」

「そんなの!」


 ひとしきり泣くと私の頭は冷静になった。入れ替わるようにキールが声を荒らげる。


「ダメだ。戦おう。警察に行ってすべてを打ち明けるんだ」

「このあたりの警察はすべて夫の息がかかっているわ。かといって、遠方ではこんな夫婦間のごたごたになんて興味を持たないでしょう」


 それに証拠の手紙は夫が所持している。そのうえ、あれが偽造だと証明する方法がないのではどこに訴えたところで無駄だった。


「くそ……っ!」


 悔しそうにキールは歯がみする。


 ──たとえ彼にも私は助けられないとしても。こうして話を聞いてもらえただけで嬉しかった。

 これは破滅する私に神さまがくれた最後の奇跡なのかもしれない。


「ありがとう、キール。あなたに会えて嬉しかったわ」

「待って、ねえさん。あきらめちゃダメだ」

「もういいの。もう充分よ。どうせあのひとに勝てるわけないのだから」

「──俺のところにこない?」


 え、と私は彼の顔を見る。


「だいじょうぶ、カフェの経営は順調なんだ。ねえさんひとりくらい養えるよ。

 うちに逃げてくればいいよ、ねえさん」

「……そんなことできるわけないわ」

「でも、このままじゃ……!」

「実家が夫の世話になっているの。私が逃げたら、なにをされるか……」

「…………」


 それでも、とキールは言う。


「あきらめられないよ。ねえさんは俺の初恋で……大切なひとだから」

「え……?」

「友達に女のひとを紹介されたり、さっき言ったオーナーに娘さんと見合いをするよう言われたりしたこともある。でもぜんぶ断った。ねえさんのことが忘れられなかったから」

「…………」

「でも、俺もいつまでも独り身じゃいられない。だからねえさんの顔を見にきたんだ。ねえさんが俺じゃないべつの男と幸せに暮らしてるならあきらめようって。けど……」


 ──初恋の女性は。夫に殴られて、頬を腫らせていた。


「ねえさんが幸せじゃないなら、俺が夫のかわりに幸せにする。どんな手を使っても。本気だよ」

「キール……」

「絶対に俺はあきらめないから。またくるよ、ねえさん」


 使用人だろう、樹木を手入れするハサミの音が近づいてきた。

 キールは軽々とした身のこなしで塀を乗りこえると私の視界から消えてしまう。まるで風のようだった。


 ──そうだ。キールはあんなふうに運動が得意で。


「…………」


 私がけがをして泣いていると、いつでも『だいじょうぶ』と言って慰めてくれたのだった……。



■■■



 その夜、夫は私を自分の寝室に呼んだ。


 私ははじめて夫が伸ばしてきた手を振りはらった。


 夫は私を床に引きたおすと……


 …………



■■■



「ねえさん……?」


 次にキールが屋敷にきたのは二日後だった。私たちは前回のように庭で話すことにした。


 彼はスカーフで顔を隠した私を見てきょとんとしたが、すぐに思いいたったように「また殴られたの」と言った。私が無言でいると、手を伸ばしてきて、ごめんと謝ったあとでスカーフを取る。


 あの晩。夫に殴られた顔は紫色の痣になっていた。


「──っ」


 キールはショックを受ける。「こんな。こんな、ひどい……!」


 そのあとに私が受けた"絶望"について思いだして私はくちびるを噛みしめた。

「こんなところにいちゃだめだ。逃げよう、ねえさん!」とキールは私の両肩をつかんできたが、私は首を横に振った。


「無理よ。あのひとは化け物だもの。逃げられっこないわ」

「でも──このままじゃねえさんが……!」

「……もういいの。ありがとう、キール。一瞬でも夢を見れて嬉しかったわ」

「そんなこと言わないで、」

「あなたは、」


 私はキールの手に自分の手を重ねた。


「あなたは、私じゃないべつのだれかと幸せになって」


 キールは口を閉じる。

 彼の手が、傷ついたように私から離れた。


 これでいい。私と夫のことに彼を巻きこむべきじゃない。

 私はそう思ったのだけれど。


「……ねえさんは昔からそうだった」


 キールが発した言葉は私の希望とは正反対のものだった。


「俺たちが遊びに夢中になって屋敷の花瓶を割ったとき、ねえさんは『あなたは知らないふりをしていればいいから』って言って、俺を家に帰して俺のかわりにねえさんのおかあさんに怒られてくれたことあったよね。

 ねえさんは教えてくれなかったけど──あれはおかあさんのお気に入りの花瓶だったから、ねえさんは次の日まで地下室に閉じこめられてご飯抜きにされたんでしょ?

 でも、ねえさんは俺にそんなこと一言も言わなかった。俺が知ってるのも……このまえ屋敷に行ったとき、おかあさんが昔話として教えてくれたからだよ」

「…………」

「ねえさんは昔からそうだった。つらいときほどそれを隠そうとする。

 でも……俺はもう小さな子供じゃないよ。俺をかばってくれることなんてないし、嘘をつく必要もない。いまの俺ならねえさんを守ることができる」


 ──俺に助けを求めて。


 そうまっすぐに言われて、私は自分の両腕を抱きしめた。体がかすかに震えているのがわかる。


 ──キールなら夫から私を解放してくれるの? ほんとうに?


 心が揺らいだ。

 私では夫には立ちむかえない。でも、もしかしたら……。


 ああ、と私は神さまに向けて叫びたいような気持ちになる。


 ──神さま。あなたは、私が自分の運命に彼を巻きこむことを赦してくださいますか?


 答えは。裏切りと苦痛のなかからしか、返ってこなかった。


 私は彼に言う。それなら、と。


「私の夫を殺してくださる?」

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