1 夫と親友の裏切り
彼は答えた。
「何年かかっても。絶対に。
────俺は、ねえさんをあいつから助けだしてみせる」
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愛するルスヴィンへ
このまえのデート、とても楽しかったわ。乗馬も観劇も最高の体験だったけれど、一番印象的だったのは周りがみんな私たちを夫婦扱いしてくれたこと。
あなたにはフローネという奥さまがいるのにね。
でも仕方ないわ。あなたに釣り合うのは私のほうだもの。
もっとはやく出逢っていればあんな女と結婚することはなかったってあなたは言っていたけど、そう思うと運命って残酷なものね。
お互いに愛情はないのにそばにいるのはつらいでしょう?
あなたの心は私のものなのにフローネは気づきもしないのね。
まえに離婚の意思はないのか本人に聞いてみたけれど、ほら、あのひとの家はあなたから援助を受けてなんとかやっていけている状態でしょう? でもお金のために夫婦でいるなんて、浅ましいにもほどがあるわよね。はやくあなたを解放してあげてほしいわ。
ああ、はやくあなたと本物の夫婦になりたい。
今度はもっと長く旅行にいきましょうね。そこでたくさん愛しあうの。
私たちに子供ができたらフローネも離婚を承知してくれるはずよ。
願わくば、私たちに神の恵みがありますように。
また連絡するわ。
あなたのベロニカ
「──なにを読んでいる?」
つめたい声が飛んできて私ははっと顔をあげた。
「あ、あなた……」
いつ部屋に入ってきたのだろう。ルスヴィンは書き物机のまえに座っている私のところまで足音を立ててやってくると、私の手から手紙を奪いとった。一瞥するなり彼の顔が真っ赤になる。
「なんだこれは……!」
──それは私の親友、ベロニカから私の夫ルスヴィンに宛てた手紙だった。
封筒の宛名は私だったから何の気なしに開封して読んだのだけれど、そこに書かれていたのは私の知らない真実で。
手紙を読んで愕然としていると、夫がやってきたのだった。
「あなたは……」
不倫しているのですか? 私の親友のベロニカと?
このまえ、同性の友人と泊りがけで旅行に行くといってでかけていったのは嘘でほんとうは彼女と過ごしていたのですか?
けど私はその問いかけを口にすることはできなかった。
ばしん、と。夫にいきなり頬をぶたれたからだ。
「貴様、こんなものを偽造して……!」
「────」
「目的は金か? さらなる援助か? それともベロニカが若く美しいからといって嫉妬したのか? おまえはほんとうに卑しい女だな!」
「な……」
意味がわからない。じんじんと熱く燃える左頬を押さえながら、「なんのこ──」と私が言いかけると「とぼけるな!」と手紙を目のまえに突きつけられた。
「このインクはおまえが使っているものだろう。特別に調合させたもので、世界にふたつとない」
「あ……」
私の唯一の趣味がインク集めだ。
既製品だけでなく、メーカーに直接注文して世界にひとつしかないオリジナルのインクを調合してもらったこともある。
そのひとつが──紫と暗い青色を絶妙に混ぜた『Nachtviolen』だ。夜に咲くすみれのような色のこのインクたしかに私しか持っていないはず。親友のベロニカに貸したことはない。
──なのに、どうして?
「手紙を偽造したな」
「そ……そのようなこと、私は」
「このインクがなによりの証拠だ。待っていろ。すぐにおまえを裁判にかけてやる」
この、犯罪者が。
夫は手紙を懐にしまい、捨て台詞を残して部屋をでていった。
……はめられた。そう気づいたのは、部屋に静寂がもどってしばらくしてからだった。
インクは私が留守の間に使われたにちがいない。
子供ができるまで待っていられなくなったふたりは、私に離婚を突きつける理由を作ることにしたのだろう。それがさっきの手紙。
筆跡はまぎれもなくベロニカのものだった。でも私は、当然彼女と手紙のやりとりを何度もしている。筆跡をまねるのは簡単だと──裁判所は判断するだろう。
そして。
辺境の貴族の娘でしかない私より、侯爵であるルスヴィンの主張をみんなが信じる……
「──ああ、」
なぜ手紙を開封してしまったのだろう。なぜインクを厳重に保管しておかなかったのだろう。
なぜ──よりによってあのひとのもとに嫁いでしまったのだろう。
後悔してももう遅かった。私は手紙を偽造してルスヴィンとベロニカを陥れようとした犯罪人となり、家は取りつぶしとなる。
だれか。だれか、たすけて。
絶望のなかで助けをもとめたとき、こつん、と窓ガラスになにかがぶつかる音がした。
──こつん。こつん。
どうやらだれかが小石を窓に当てているらしい。
子供のいたずらだろうか。不思議に思いながらも私は窓辺にいく。
けれど庭に立っているのは子供ではなく、巻き毛のかわいらしい青年だった。
「……?」
だれだろう、と思いながら私は窓を開ける。
彼は二階にいる私に向けて手を振ると、人懐こい笑顔でこう言った。
「ひさしぶり、フローネねえさん!」
いまから十五年ほどまえ。屋敷の近くに住んでいた男の子と私は毎日のように遊んでいた。
彼の両親は靴屋を営んでいて、顔を合わせると彼はいつも私の靴をきれいに拭いてくれた。ベンチに腰かけた私の足をとって、宝石でもみがくように、丁寧に。いまでもその優しい手つきと、だれにでも愛されるような眩しい笑顔はよく憶えている。
一緒にいられたのは数年で、離れて暮らす祖父母の具合が悪くなったからと彼の一家は店をたたんで引っ越してしまったのだけれど──。
「キール。ほんとうにキールなのね」
私は庭へと飛びだした。
あれから十五年。私より低かった背は伸びて、顔つきもうんと大人っぽくなったけれど、彼の笑顔はなにも変わっていなかった。
そうだよ、と彼は私を見下ろして笑う。
「昔ねえさんが住んでいた屋敷に行ったら、ねえさんはもう結婚したって教えられてさ。顔見たかったからこうしてやってきたんだ。すごい屋敷だね。俺の店の十倍はあるかも」
「店って?」
「サン通りでカフェを経営してるんだ。ずっと田舎で靴磨きやってたんだけど、あるお客さんがカフェのオーナーでね。しかも変わりもので、俺に店を経営してみないかって突然持ちかけてきたんだよ。面白いでしょ? いま二年目だけど、ようやく常連がついてきて──」
にこやかに話していた彼は私がずっと右頬を押さえていることに気づき、どうしたの、と尋ねてくる。
「……なんでもないわ。ちょっと転んだだけ」
「転んで? 頬を?」
「…………」
彼は目つきを鋭くしたが、私は誤魔化すことさえできなかった。
彼との再会で忘れていた頬の痛みがまた襲ってくる。
「……ちょっと失礼」
キールは私をベンチに座るよううながすと、自分は私の足元にひざまずいた。私の片足を自分の膝の上において「きれいなヒールだね」と言う。
「でも、ちょっとねえさんの足のかたちには合ってないみたいだ」
「……そうかしら」
「そうだよ。これだと足によくない。実際、いま履いてて痛いでしょう?」
「わからないわ」
これは夫がよこしたものだ。
靴だけじゃない。ドレスも、アクセサリーも、すべて。夫の趣味だ。
嫁入りまえに持っていたものはすべて捨てさせられた。
夫がほっしているのは従順な妻。私は意思を持ってはいけない人形だった。
唯一、赦されたのがインク集めだったけれど。
夫が許可をだしたときからすべて仕組まれていたのだろうか。すべて、このために使うつもりで私は泳がされていただけだったのだろうか……。
そう思うと胸がきつく痛んだ。
紙の上で多種多様に踊るインク。それを見るときが、この屋敷で安らげるたったひとつの時間だったのに。
キールは私の足をじっと見つめる。
まるで、そこに私の五年間に渡る結婚生活のすべてが記されているとでも言うように。
やがて彼は言った。
「ねえさん……いま、幸せなの?」
「……どうして?」
「痛い、って。足が叫んでるみたいだから」
──幸せよ。
お金のために見得だけの男と一緒になって。昼は人形として扱われて。夜はおもちゃにされて。
それでも、と耐えていたけれど。たったひとりの親友のベロニカと不倫していたことと、彼女と手を組んで私を陥れようとしていることを知ってしまったけれど。
私には、分相応の……
「あっ……」
気がつくと涙があふれていた。
「ちがうの。これは」私はあわてて手でぬぐったけれど止まらない。次から次へと零れていってしまう。
キールは私の足を地面に下ろすと、ズボンのポケットからハンカチを取りだして私の頬をぬぐった。私の嗚咽が収まってきたころに言う。
「なにがあったか、俺でよければ聞かせてくれる?」