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竜殺しの英雄と、神庭の少女  作者: 壱輝度
神域と、ふたりの祈り
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第三十六話 「天槍の祈り」

 森を抜けた先、ゆるやかな傾斜が続いていた。小高い丘のような地形の上へと続くその道には、なぜか枝も石も落ちておらず、まるで最初から“歩くために用意されていた”かのように整っている。


 その直前──森の静寂が戻った場所で、ほんのひととき立ち止まる時間があった。


 ディエレイは小さく息を切らし、肩を上下させていた。戦闘の直後、彼女の体力は限界に近かったのだろう。


 「……歩けるか?」


 声をかけたヴィーヴルに、彼女はこくんと頷いてみせたが、足元がぐらりと揺れた。


 反射的に彼が手を伸ばし、肩を支えようとした、そのときだった。


 ヴィーヴルの身体が微かに震える。手が一瞬、空気を裂くように止まった。

 記憶が、触れることそのものへの拒否反応を引き起こす。だが──彼女が倒れかけていた事実は、迷いを許さなかった。


「……っ、大丈夫か……?」


 かすかに歯を食いしばりながら、彼はディエレイの体をしっかりと支える。軽い。けれど、その軽さが痛々しかった。


 そのとき──


 「まあ、なんて無理をしているのかしら」


 背後から、柔らかな声が降り注ぐ。

 振り返るまでもなく、ヴィーヴルには誰の声か分かった。レヴだ。

 次の瞬間、その指先がふわりと動いた。見えない光が、そっとディエレイを包む。


 「……回復構文、ではないな……」


 ヴィーヴルの呟きに、レヴが微笑を浮かべる。


 「違うわね。これは“揺らぎ”の修復。祈りの子の、輪郭が少し滲んでいたから……整えておいたわ」


 言葉の意味は半分も理解できなかったが、確かにディエレイの顔色は目に見えて戻っていた。


 「……ありがとう、ございます……」


 か細くもはっきりとした声に、ヴィーヴルは少しだけ安堵を覚える。

 

 レヴはふわりと微笑むと、視線をヴィーヴルたちからそらした。そのまま踵を返し、ゆるやかに歩き出す。まるでこの森全体が彼女の庭であるかのような、堂々とした足取りだった。

 暴君もまた、何も言わずにその背へと続く。ただ歩いているだけなのに、空気の流れがわずかに引きずられるような圧を感じる。


 その姿が徐々に遠ざかるのを見て、ディエレイは小さく息をついた。かすかに肩の力が抜ける。

 その場に残された焦げた空気の中で、ふと彼女の目が揺れる。まだ微かに、足が震えていた。


 「……いった、ね」


 安心したように漏らしたその声は、風に紛れて消えていった。 

 だがその直後、ディエレイは小さく、囁くように言葉を漏らした。


 「……こわかった……」


 それはまるで、誰に届かせるわけでもない独白だった。ヴィーヴルはその声に、そっと視線を落とす。


 「さっきの……あの、ひと……」


 ディエレイの視線の先には、レヴの後ろを静かに歩く少年──暴君の姿。


 「あのとき、すごかった……音も、風も、ぜんぶ、ばらばらで……」


 震える手を自分の胸元に重ねながら、彼女は続けた。


 「……あんなに、動かないでいたのに……いちばん、こわかった」


 ヴィーヴルは一拍の間を置いてから、ぽつりと呟く。


 「……あいつは、今の状態が“素”だ。あれが普段の、冷たくて、何も感じてない、人形みたいな顔」

 「けど、抑えが外れたときは……“本物”が出る。止まらない」


 ディエレイは頷きながらも、まだ怯えた目で彼の背中を見ている。


 「動かないでいる方が、こわい……」


 その言葉に、ヴィーヴルもまた何かを思い出すように目を伏せる。


 「こちらへ」


 レヴがひとこと促すと、少年──暴君は黙ってその背に従った。


 その姿を見たディエレイは、ほんの少しだけ身をすくめた。きゅっとヴィーヴルの袖をつまむ。

 気配に気づいた彼は、さりげなく一歩彼女の前に出るように歩幅を変えながら、低く言った。


「……今のあれはレヴが手綱を握ってる。命令ひとつで止まる」


 ディエレイが小さく瞬きをし、こくりと頷いたのを見届けてから、ヴィーヴルは静かに歩き出す。




 空はまだ明るいというのに、木々の影はやけに濃い。空気もどこか澄んでいるのに、濃密な膜が一枚貼りついたような異様な静けさがあった。

 やがて丘の頂にたどり着いたとき、目の前の景色に、ヴィーヴルは思わず足を止める。

 森全体が、そこから一望できた。

 どこまでも深く広がる精霊の森。その樹海の上に、見渡す限りの霧と揺らぎが渦を巻いている。


 圧倒的な魔力濃度に、空間そのものがわずかに軋んでいる。

 生物の気配もない。音も、風も、気配すら──まるで存在が、何かに削ぎ落とされているかのようだった。


「……これは……」


 ヴィーヴルが低く息を漏らすのと、レヴが緩やかに振り返るのは同時だった。


「詳しい話は、お茶でも飲みながらにしましょう?

 “祈りの子”も、疲れているみたいだし」


 その言葉に、ヴィーヴルの背筋がわずかに粟立つ。

 状況も場所も一切無視したその口調は、優雅であるよりも、恐ろしく冷たい異質さを孕んでいた。


 ヴィーヴルは、その言葉に一瞬だけ眉をひそめた。


 ──お茶。


 この状況で、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。

 

 だが、ふと隣を見ると、ディエレイの瞳がかすかに潤んだまま、レヴのほうを見つめていた。

 思い出す。【神庭(しんてい)】のあの場所。あの光。あの温度。

 その横顔を見つめながら、ヴィーヴルはほんの一瞬だけ、【神庭】の光を思い出していた。




 ざわ、と空気が揺れた。

 

 視界の端、霧の向こうに、何かが動いた気配。

 構文干渉──いや、術式による観測。魔導国家の術式網が、森の異常に反応した。

 

 丘の先、森の反対側──視線の届く遥か遠くで、霧がわずかに脈打つ。

 風もないのに、空間が波を打つ。

 空の一点に、まるで“文字列”のような、幾何学構造の陣形が展開されていく。

 いくつもの螺旋が同時に回転し、世界の裏層に“検索”をかけるような挙動。

 それは、存在を探知し、排除するための“問い”。


 やがて雷光のような閃きをもって、斜面の先に向けて構文が放たれた。


 轟音。炸裂。森の一部が、まるごと焼き払われる。




 だがヴィーヴルは驚かなかった。いや、知っていたのだ。

 これは“観測”だ。攻撃ではない。

 

 魔導国家が用いる、空間座標探索構文──異常な存在を検知・特定するための術式だ。

 空間の歪みや魔力の偏差を探知するため、特定領域を照射して構造を焼き出す。


 本来は非殺傷。だが、術式は精密ではない。

 保護魔力を持たない者が巻き込まれれば、皮膚は裂け、意識は灼かれる。


 それでも彼らはこう言うだろう──「これはただの観測だ」と。

 それは滅びのための構文ではない。あくまで、解析のための“過剰火力”。


 ヴィーヴルは、それを知っていた。身を以て、痛みをもって。

 焼け焦げた皮膚の匂い。視界の端が白く染まった、あの夜。

 “これはただの観測だ”――その言葉を吐いた術士の顔を、彼は今も忘れていない。


「……やってるな、あいつら」


 呟いたヴィーヴルの声に、レヴが小さく笑う。


「……虫がうるさいわね」


 呟きは、まるで吹き払う埃を見つけたかのようだった。

 そして、すぐそばに控えていた暴君に向けて、なめらかな声で囁くように言った。


「私の愛しい暴君。お掃除、お願いできるかしら?」


 それは命令ではなく、お願いのかたちをした絶対命令。

 

 暴君は返事をせず、ただ口の端だけをわずかに吊り上げた。




 その瞬間、世界が軋んだ。




 何かが“起動”するような圧力。目に見えぬ歪みが空間に波紋を生み、空気の密度が一気に変化する。

 まるで存在そのものが、何か異質なものに上書きされるような感覚。


 空が鳴った。


 頭上に瞬く光輪。稲妻にも似た鋭い光の帯が、幾重にも空を刻みつける。

 羽ばたくような風圧が斜面を駆け上がり、森の葉を逆なでる。


 その中心から、何かが“落ちてくる”というより、“発現する”気配が迫る。


 それは命令ではなく、祝詞のような響きだった。


 「構文起動──蒼穹遠隔固定、穿て天槍、連襲(つらなりかさなる)


 その声と同時に、視界の上層に光の線が走る。  

 蒼穹の一点に“遠隔固定”された領域が閃き、そこに“天槍”のかたちを取った破壊の概念が生成される。  

 それは重力による落下ではなく、世界そのものに書き込まれた“罰”が物理を超えて現出した瞬間だった。

 

 目を見開いた瞬間、空が裂けた。

 視界の端、鋼のような光条が次々と閃き、雲を切り裂きながら落ちてくる。


 天空遥か──蒼穹に浮かぶ“虚座標の星”より、神々の鉄槌が投げ下ろされる。

 それはまるで、天の書板に刻まれた罰の文。その一行一行が、天の槍となって降るのだった。


 ディエレイが思わず耳を塞ぎ、びくりと肩を震わせる。

 その横で、ヴィーヴルは本能的に身を挺するように彼女の前に立ちふさがる。


 けれど衝撃波は、来なかった。


 レヴが、ほんのわずかに指先を動かす。

 その瞬間、爆風も震動も、そして耳をつんざくはずの轟音さえ──まるで空間そのものが呑み込んだように、音もなく霧散する。


 (なんだ、これは……)


 ヴィーヴルの胸中に、言葉にならない戦慄が走る。

 

 視線が、無意識に構文の流れを追っていた。

 だが──おかしい。定型の系統ではない。

 空間の固定が先に走り、そこへ“出力”が強引に滑り込んでいる。

 そして、さらにその間を裂くように“連鎖命令”が組み込まれていた。


 「……構文の系統が、違う」  


 詠唱──構築──発動。通常の術式はそういう“順序”を取る。  

 けれどこれは、“順番”を守っていない。違う系統の構築理論を、まるで暴力のように再編して叩きつけている。  

 起と転しかない。  

 導入も前提も、文脈すらなく、ただ結論だけが空に刻まれていく。

 

 ──あれは、“構文”ではない。

 ──あれは、“神への祈り”そのものだ。


 ヴィーヴルの呼吸が、一瞬止まった。

 技でも術でもない。支配の一言。


 自分が知っているはずの世界が、その外側から書き換えられている感覚だった。


 それは完全な静寂ではなかった。

 なおも遠くで轟く音が、空の奥から重なり落ちてくる。  

 二撃、三撃、四撃──槍は角度を変えて何本も、何層にも、森を穿ち続ける。

 

 着弾点から地表が跳ね上がり、周囲の魔力が瞬間的に断絶される。

 観測構文ごと焼却された空間には、“術式汚染”とすら呼ぶべき残滓が残り、あらゆる構造体の侵入を拒むフィールドが生まれる。

 森の一角から、魔導国家の観測構文が弾け飛ぶ。構造人形の気配も、魔術網の残滓も、すべてが一瞬で焼き尽くされた。


 それは、空の神殿より遣わされた審判の御業──その身を銀に焼かれた天槍は、尾を引く光と熱をまとうまま、空を裂き、大気を震わせて落ちてくる。天に選ばれし者の手によってのみ成る、神代の裁きだった。


 天槍が消えたあとも、大地には“焼け焦げた魔力の影”が残る。

 それは、見えざる封印のごとく、踏み入るものを拒む聖域の痕だった。



 

 空を覆う葉の隙間から差し込む光さえ、どこか歪んで見えた。

 残された森には、焦げたような匂いと、断末魔の余韻を思わせる震えが漂う。


 それでも、森は終わってはいなかった。

 すさまじい速度で回復していく。

 削れたはずの大地に、わずかに草の芽が覗く。

 焦げた木々の周囲に、霧が優しく流れ込んでいく。


 まるで森そのものが、静かに“傷を塞いでいる”かのように。


 ヴィーヴルは黙ったまま、その光景を見つめていた。


 傷つき、穿たれ、なおも再生を試みる森。

 その再生すらも、どこか“構文”による作用のように思えた。


 だが──いや、違う。

 あれは、ただの自然治癒ではない。


 “祈り”だ。


 目に映る再生の過程のあちこちに、微かな魔力の律動がある。

 それは、あの【神庭】で感じた“祈りの律動”と同じものだった。 空間が応じている。祈りという、構文にもできない想いに。

 風が吹いた。焦げた匂いと、微かな緑の気配を運ぶ風。 視線がわずかに揺らぎ、その目が遠くを見据える。


 ヴィーヴルは、かすかに息を吐きながら呟いた。


 「……全部、繋がってる……のか」


 ヴィーヴルが顔を向けると、ディエレイはまだやや怯えた様子を残しながらも、空を見上げていた。  

 その視線の先にあるのは、遠くゆらぐ“蒼穹”。  

 天槍が穿ち、再び静まり返った、祈りの天だった。


 祈りに応じて再生する森を、ただ黙って見つめていた。 

 構文の中心にいたはずの少年も、すぐそばにいた。 

 けれど誰も、あの存在に視線を向けようとはしなかった。 

 まるで、最初から風景の一部だったかのように。


 彼女は、確かに“祈り”を知っている。


 だからこそ、あの構文に含まれていたものが、単なる力ではないと、無意識のうちに感じ取っていた。


 レヴが、ちらりとディエレイの表情を見やり、微笑を浮かべながら振り返る。


 「さあ、お茶にしましょう。……祈りの子も、もう震えてはいないようだし」


 森はまだ、祈っていた。

 その静かな鼓動に、ヴィーヴルは【神庭】と同じ“気配”を確かに感じていた。

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