第二話 「神庭の少女」
やわらかな陽射しが、木々の隙間からこぼれ落ちる。
光を透かした【神庭】の空気は、森とは思えないほど穏やかだった。鳥たちのさえずりが遠くに聞こえ、風が葉を撫でる音が、子守唄のように耳をくすぐる。
「お昼、ぽかぽか……きもち、いいね……」
ディエレイが草の上に寝転がり、うとうととまどろむように伸びをした。
その頭のすぐ上では、掌ほどの大きさの妖精がぷかぷかと浮いている。光をまとう羽をぱたぱたさせながら、腕を組んでディエレイを見下ろしていた。
「こらディエレイ、起きなさい。さっきまで“森の気配がへん”って言ってたのに、寝転がってどうすんの」
「……でも、【神庭】のなか、あんぜんって……コンシェ、言ってた……」
ふにゃっとした笑顔で言いながら、ディエレイは目を閉じる。
「……いや、まあ確かにアタシはそう言ったけどさ……あーもう、ほんとアンタって子は……!」
額に手を当ててぼやきつつも、声には呆れと、少しの甘さが混じっていた。
「アンタね……その油断が一番こわいの。ちゃんと周りに――」
言いかけたコンシェの声がふっと止まる。 まどろんでいたディエレイのまぶたがぴくりと動き、空気がわずかに張り詰めた気がしたからだ。
「……?」
ディエレイが目を細め、ゆっくりと上体を起こす。 そのまま【神庭】の外に視線を向けて、じっと何かを見つめるように静かになった。
「……どうかしたの?」
コンシェが声をかけると、ディエレイはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……なんか、来てる……」
「はあ? 何が?」
「わかん、ない……でも、ちょっと……」
ディエレイは座り直して、まっすぐ結界の外へと意識を集中させた。昼下がりでもなお薄暗い逢魔の森の中、【神庭】のこの場所だけに、やわらかな木漏れ日すら幻のように揺らめいていた。空気は穏やかで、草の葉がそっと揺れる音だけが響いていた。けれどその先から、微かに、何かが――
「……風?」
違う。それは、風でも音でもない。 けれど確かに、何かが触れてくる。皮膚じゃなく、もっと深いところ――魂の奥をそっとなぞられるような、不思議な感覚。
「……この感じ、さっきも少しだけ……」
「ちょっと、ディエレイ?」
「気のせいじゃ、ない……。だって、【神庭】と……似て、る」
「似てるって……そんな、まさか――」
「見てくる、ね」
ディエレイは立ち上がると、結界の端に向かって歩き出した。
「……なに、かな…?」
ディエレイは結界の縁を目指しながら、小さく呟いた。
「気のせいじゃない?」
コンシェが眉をひそめ、心配そうに彼女の肩に追いついてくる。
「さっきも、あったの……ここ、くすぐったい……」
ディエレイは胸元に手を当て、目を細める。
「……【神庭】と似てるって言ってたやつ?」
「……うん。なつかしい、かんじ……」
「懐かしいって、アンタ……」
コンシェは困ったように羽をぱたつかせた。
「さっきまで『ぽかぽかで気持ちいい〜』とか言ってごろごろしてたくせに、急にどうしたのよ」
「えへへ……だって、ぽかぽか……気持ち、いいよ?」と、苦笑まじりに頬をかいた。
「ほんと、目が離せない子だわ……」
ぶつぶつ言いながらも、コンシェはそっとディエレイの肩にとまり、小さな手でつんつんとつつく。
「で、どうするの? 本気で“何か”を感じてるなら、一応警戒レベル上げるけど?」
「……まだ分かん、ない。でも……ちょっと、だけ、見たい」
ディエレイは気配を追うように、とことこと結界の縁へと歩いていく。
コンシェはあわてて肩からひらりと飛び降り、羽ばたいて彼女のあとを追った。
「ダメよ、あんまり外に近づかないで!」
「だいじょ、ぶ……すぐ戻る、から」
「そういう時に限って戻ってこないでしょアンタ!」
コンシェがぷりぷりと文句を言いながらも、ちゃんと寄り添ってくる。ディエレイは草を踏み分けながら、小さな声で笑った。
【神庭】の結界――その縁ギリギリのところで、ディエレイは立ち止まった。
「見えない、ね……」
結界の中は広く、数十メートルは余裕であるはずなのに、森の密度のせいで視界は思ったよりもきかない。陽の差し込む方角によっては、昼でも木陰が深く落ちていた。
「ほんと、見通し悪いわね……獣道どころか、通った形跡すらないじゃない」
コンシェが眉をひそめて、空中でくるりと一回転する。
「……もう、ちょっとだけ……広げ、るね……」
「ちょっと、ディエレイ? それ以上広げたら、展開の維持が……!」
言いかけたコンシェをよそに、ディエレイは両手を胸元で合わせ、ふわっと笑った。
「だいじょ、ぶ。ちょっと、だけ……」
すうっと空気が静まり、風が止まったような感覚が一瞬走る。そして、【神庭】の縁がまるで波紋のように広がった。
広がった範囲には、わずかに柔らかな光が満ち、草木のざわめきが次第に消えていく。まるで森が息を潜めたように。
結界の中――【神庭】には、静かに浄化の加護が広がっていた。
森に澱んでいた瘴気はすっと薄れ、風は凪ぎ、空気はどこまでも澄んでいく。
木々の合間を通る光は揺らぎを失い、茂みの奥まで視界がすっと伸びた。
自然に逆らうことなく、それでいて確かに“整えられていく”感覚があった。
まるで、そこが森の中の聖域であるかのように。
「……あれ?」
ふいに、ディエレイが立ち止まった。結界の際の少し手前、わずかに開けた茂みの向こう――草の影に、何かが見えた気がした。
「なにか……いる?」
けれど目を凝らしても、そこに見えるのはなんと呼んでよいのかも分からない、ぼんやりとした影だった。
木の根元にもたれるように、力なく崩れたようなその姿は、くすんだ布に包まれ、長い毛のようなものが泥と汗でぐったりと張りついている。手や足のようなものは見えない。ただ、風にわずかに揺れた布の端が、生き物の気配だけを感じさせた。
……魔物、ではなさそう。でも、見たことのない形。
ディエレイは、自然と足を止める。
「なに……あれ……?」
まじまじと見つめるディエレイの隣で、コンシェがぽつりと呟いた。
「……えっ? うそ、まさか……人間……?」
言った瞬間、コンシェは口元を押さえるようにして、はっと目を見開いた。
しまった、とでも言いたげにディエレイの方を振り返る。
「……にんげん?」
ぱちりと瞬きをして、ディエレイがその言葉を繰り返す。
じわりと興味の色がその瞳に灯っていった。
ディエレイの好奇心を煽ったのが分かって、コンシェは慌てて口をつぐむ。
でももう遅かった。
ディエレイは、ずい、と足を踏み出す。
「ちょ、ちょっと待ちなさいってば! ディエレイ!? 行っちゃダメだって!」
コンシェの声を背に、ディエレイは草の陰にしゃがみこんだ。
しゃがんだまま、茂みの切れ目から身を乗り出すようにして、そっと先をうかがう。
草むらの向こう、木の根元にもたれるように崩れた影。
くすんだ布に包まれた体。泥にまみれた長い髪が、ぐったりと額にはりついている。
生きているのかどうかも分からない。けれど、風が吹くたび、微かに布が揺れ、生き物の気配だけがそこにあった。
「……にんげん? ほんとに? ふわふわ……、あれ毛? 髪……?」
ぽつりと漏れた言葉に、コンシェが思わず反応する。
「やだ本当に人間だったわ。ディエレイ、アンタと似たような形してるでしょって――コラーー! 近づくなーーーッ!」
「でも、動いて、ないよ?……こわく、ないよ?」
「こわいとかじゃないのよ! 病気だったらどうすんの、病気! 魔物だったら変身して襲ってくるかもしれないでしょ!」
【神庭】の結界が守ってくれているとはいえ、コンシェの声には焦りがにじむ。
だがディエレイの瞳は、ただその影に向けられていた。
「うん、でも……たぶん、大丈夫」
呟くように言うと、ディエレイはひょいっと立ち上がり――そのまま、草の間を抜けて駆け出した。
数歩も行かないうちに足元の草に引っかかってぐらりとよろめく。それでも足は止まらず、勢いのまま、ふらふらと前へ進んでいく。
ぐったりと木にもたれかかる影が、目の前にあった。
近づくほどに、それが人であることがはっきりしてくる。
でも、思っていたよりも――ずっと、傷んでいた。
髪も服も泥と血で汚れていて、顔色はひどく悪い。
でも、動いていた。小さく、呼吸をするように。
ディエレイは立ち止まり、そっと膝を折った。
そして、迷った末に、声をかける。
「……だいじょう、ぶ……?」
風に紛れて消えてしまいそうな声。
けれど、その声が届いた、まさにその瞬間
男の体が、ぱたりと倒れた。
「……あっ……」
ディエレイはきょとんと目を見開く。
そのまま数秒、動けない。
やがて、おそるおそる口を開いた。
「し、しんじゃった……?」
風がそよぎ、草葉がわずかに揺れる。
森の音に混じって――彼の耳に、かすかに届く。
(……だいじょう、ぶ……?)
それは、遠くから聞こえた声。
幼くて、やわらかくて、どこか優しかった。
幻聴かもしれない。
けれど、たしかに耳に残った。
(……誰、だ……)
問い返すことはできなかった。
ヴィーヴルの意識は、そのまま、すとんと闇に落ちていった。