プロローグ
その空間は、あまりにも静かだった。
深い森のただなかにぽっかりと存在する、不自然な静寂の空間。
風の音も、枝の軋みも、外では鳴っているはずなのに、ここではそれらが夢の中のように遠く、柔らかく響く。まるで別世界のように。
その中心に、少女がひとり、ぺたりと座っていた。
白く柔らかな髪がふわりと揺れ、澄んだ水色と淡い金色――まるで朝露に光が差したような、透き通る二色の瞳が、ぼんやりと空を仰いでいる。
小さなリボンのついた白い上着に、ふわりとしたスカート。十代半ばとは思えぬほど幼い印象を与えるその姿には、それとは裏腹な神秘的な雰囲気と、どこか無防備な空気が同居していた。
その唇が、ゆるく開かれる。
「……今日、も……しずか……」
のんびりとした吐息が、空にとけるように消えていく。
しばらく空を見上げた後、少女の手は近くに落ちていた細い小枝を拾い上げた。
彼女はそれで地面に、円を描くように遊んでいる。くるくる、くるくると、穏やかな動作で。
「またぼーっとして……ほんと、結界から出ちゃダメなんだからね? この森、魔獣うようよなんだから! ちょっと、聞いてるの、ディエレイ!」
どこからともなく響いた甲高い声に、少女――ディエレイは、気の抜けた返事を返す。
……と、そのとき。
ふと、指先の動きが止まった。
風が一筋、結界の内側にすべり込んだように感じて、ディエレイは眉をひそめる。
目を細め、首をすこし傾けて、耳を澄ませるように辺りを見回した。
何か――気配のようなものを、感じた気がした。
でも、何もいない。ただの風。
数秒の沈黙のあと、少女はあっさりと肩をすくめ、枝を握り直す。
小さな枝を使い、円を描きながら、くるり、くるり。
重ねた線が複雑な模様を成していくそれは、本人にとっては遊び半分のような“らくがき”だった。
――けれど、それを真上から見下ろせば、どこか神秘的な気配を孕んでいることに気づくだろう。
まるで、今は失われた神代の時代に、女神が残した神聖紋を思わせるような、そんな図形。
彼女の周囲を守るこの場所――
それは彼女の能力によって作られた、特別な空間だった。
名を、【神庭】。
かつて女神に愛された勇者が持ちし祝福の一端、万能の〈恩恵〉の名である。
森が、息を潜めていた。
枝という枝が湿って重たく、空は昼だというのに薄暗い。
まるで陽光すら、この地を拒んでいるかのようだった。
地面はぬかるみ、そこかしこに倒木と苔が散らばる。
空気には濃い土の匂いと、どこか鉄のような、腐ったような臭気が混じっていた。
葉の隙間から、影が走る。
それは風のように――いや、風すら感じさせぬ静けさで。
男がひとり、木の幹に背を預け、息を潜めていた。
焦げ茶に近い黒髪には枯葉が絡み、乱れている。
着ている外套は黒く、裾は泥にまみれて重たく垂れている。
焼けた琥珀色の瞳が、じっと森の奥を睨みつけていた。
青年だった。
まだ若いが、どこか冷めた目元が年齢以上の老成を思わせる。
けれどその美貌は、ひと目見れば忘れ難い印象を残すだろう。
人目を惹く整った顔立ち――にもかかわらず、今はひどく消耗していた。
喉が渇いていた。腹も、痛むほどに空っぽだ。
それでも意識は鋭く張り詰めている。
幾度となく命を繋いできた彼の能力。
研ぎ澄まされた感覚で、その“淵”を踏みこなしてきた。
だが今は、その淵すら霞んで見える。
もう随分と、〈恩恵〉の発動を続けている。
身体にかかる負荷は限界に近く、集中が一瞬でも途切れれば、霧に紛れて蠢く“何か”に飲み込まれるのは避けられないだろう。
それでも止まるわけにはいかなかった。
背後の街道では、複数の影が必死に追っていた。
だがその足音も、視線も、もう彼には届かない。
「……お待ちください、英雄殿……ヴィーヴル殿っ!」
遠くから張り裂けるような声が飛んだ。
言葉には必死さが滲んでいたが、それが追いすがる兵士のものだと知れた時点で、ヴィーヴルの足はなおのこと止まらなかった。
背後から、枝を踏みしだく音が二、三度聞こえたが、すぐにかき消される。
霧が、音を殺したのだ。
枝を分ける指先が、かき分けた枝の隙間から覗いた苔に触れ、冷たく湿っていた。
根の浮いた地面に足を取られそうになりながらも、ヴィーヴルは迷いなく進んだ。
視界の端で何かが蠢いた。だが振り返ることはない。
目に見えず、音も持たぬ“それ”が、確かにこちらを伺っている気配だけが、肌に焼きつく。
誰もが忌避するこの森。
生きて抜けた者はひとりもいない。戻ってきた者は、誰ひとり、いない。
だから人々は、こう呼ぶのだ。
――【逢魔の森】と。
その名に違わぬ呪のような沈黙のなかを、ヴィーヴルはひとり、進み続ける。
ただ出口を求めて。
その先に、自らの“自由”があると信じて。