みんなの質問コーナー
(ラウンド4の重い議論が終わり、スタジオの照明が少し柔らかくなる。あすかが笑顔で中央に進み出る。手にはタブレット端末のようなものを持っている)
あすか:「いやはや、ラウンド4も、本当に考えさせられる議論でしたね…。宗教が社会や他者とどう関わるのか、その理想と現実のギャップ…。私たち現代人にとっても、他人事ではありません。」
あすか:「さて、番組もいよいよ終盤に近づいてまいりました。ここまでの白熱した議論をご覧になって、リアルタイムで視聴者の皆さんから、たくさんの質問が寄せられています! 」
あすか:「わー、すごい数!(タブレットを操作する仕草) 全部ご紹介したいのですが、お時間の限りがありますので、いくつかピックアップして、対談者の皆さんに直接お答えいただこうと思います! これまでの議論で、ちょっと難しかったな、もっと詳しく聞きたいな、という部分をクリアにするチャンスですよ!」
あすか:「では、早速まいりましょう! まずは…あ、これはやはり来ましたね! ルター様への質問です!」
【質問1:ルターへ】
あすか:「ペンネーム『迷える羊』さんからです。『ルター様のお話を聞いていると、「信仰だけで救われる」というのは、とても魅力的に聞こえます。でも、正直、「じゃあ、努力しなくてもいいの?」「悪いことしても、信じてさえいればOKなの?」という疑問も湧いてきてしまいます。本当に、善い行いは救いに関係ないのでしょうか? それだと、社会の秩序が保てなくなりませんか?』…とのことです。ルター様、いかがでしょう?」
ルター:「(頷きながら、少し身を乗り出して)ふむ、良い質問だ! 多くの人が抱く疑問でもあるだろう。まず、はっきりさせておかねばならんのは、『信仰のみ』というのは、決して『何もしなくて良い』『好き勝手に罪を犯して良い』という意味ではないということだ!(力強く)先ほども少し触れたが、真の信仰、すなわち、キリストが自分の罪のために死んでくださったという神の恵みを心から信じ、感謝する信仰は、必ずやその人の生き方を変えるのだ!」
ルター:「考えてもみよ! 王様から莫大な借金を帳消しにしてもらった家来が、その後も王様に逆らい続けるだろうか? いや、むしろ、感謝のあまり、以前にも増して忠誠を尽くそうとするのではないか? それと同じだ! キリストによって罪赦された者は、その大いなる愛に応えたいと願い、聖霊の助けによって、自然と神を愛し、隣人を愛し、善き業に励むようになるのだ! それが、信仰から溢れ出る『実』なのだよ。」
ルター:「だから、善行は救いの『条件』や『原因』ではない。しかし、救われたことの『結果』であり、『証』なのだ。もし、『私は信じている』と言いながら、平気で罪を犯し続け、隣人を顧みない者がいるならば、その者の信仰は、残念ながら『死んだ信仰』、偽りの信仰であると言わざるを得ないだろう。真の信仰は、必ず愛の業を伴うのだ。社会の秩序も、真の信仰者が増えることによってこそ、より堅固なものとなるのだよ!」
あすか:「なるほどー! 順番が違う、というのはそういうことだったんですね! 救われるために善いことをするんじゃなくて、救われたから善いことをしたくなる…。納得です! 迷える羊さん、ありがとうございました!」
あすか:「では、次の質問です。これは…釈迦様への質問ですね。」
【質問2:釈迦へ】
あすか:「ペンネーム『自分探し中』さんからです。『釈迦様の「無我」という教えに、とても興味があるのですが、同時に少し怖さも感じます。「我」が無い、というと、自分が無くなってしまうような、空っぽになってしまうような気がして…。自分を大切に思う気持ちや、個性を大事にすることと、「無我」の教えは、どう両立するのでしょうか?』…とのことです。釈迦様、お願いします。」
釈迦:「(穏やかに微笑みながら)『我がない』と聞いて、不安を感じるのは自然なことかもしれません。人々は、『私』というものが、固定的で、永続的な実体として存在すると信じがちですからね。」
釈迦:「(静かに諭すように)しかし、私が説く『無我』とは、あなたが消えてなくなってしまう、ということではありません。そうではなく、『私』あるいは『魂』と呼んでいるような、独立した、不変の実体は、どこを探しても見当たらない、という真理を指しているのです。」
釈迦:「考えてみてください。あなたの身体は、常に変化しています。生まれた時と同じではありません。あなたの心も、喜び、怒り、悲しみと、絶えず移り変わっていきます。記憶も、感情も、思考も、全ては様々な原因と条件(縁)によって生じ、そして滅していく、仮の集合体なのです。どこにも、『これこそが不変の私だ』と指し示せるような、核となる実体は見つからないでしょう?」
釈迦:「『無我』を知ることは、自分を否定することではありません。むしろ、その逆です。『私』という固定的な観念への執着から解放されることで、人は初めて、変化を恐れず、他者との比較や自己中心的な考えから自由になり、真の心の平安を得ることができるのです。自分を大切にすることと、『無我』は矛盾しません。むしろ、執着から離れた、ありのままの自分(縁起によって生かされている存在)を受け入れ、慈しむこと、それが本当の意味で自分を大切にすることに繋がるのです。個性もまた、様々な縁によって現れている、尊い輝きの一つですよ。」
あすか:「自分が無いんじゃなくて、『これが自分だ!』っていう固定的な実体がない、ということなんですね…。変化する自分をそのまま受け入れる…。なんだか、かえって心が軽くなるような気もします。自分探し中さん、ありがとうございました!」
あすか:「さあ、どんどん行きましょう! 次は、アブー・バクル様への質問です。」
【質問3:ムハンマド(アブー・バクル)へ】
あすか:「ペンネーム『平和を祈る人』さんからです。『イスラムは「平和」を意味すると伺いましたが、一方で「ジハード」という言葉を聞くと、どうしても戦争や暴力といった、少し怖いイメージを持ってしまいます。この「ジハード」とは、本来はどういう意味なのでしょうか? 平和を重んじる教えと、矛盾しないのですか?』…とのことです。アブー・バクル様、お願いします。」
ムハンマド(アブー・バクル):「(真摯な表情で)『ジハード』という言葉について、誤解や偏見があることは、大変残念なことです。まずご理解いただきたいのは、『ジハード』とは、アラビア語で『努力』や『奮闘』を意味する言葉であり、非常に広い意味を持っているということです。(丁寧に説明するように)イスラムにおいて、最も重要で尊いとされるジハードは、『大ジハード』とも呼ばれる、自分自身の内面にある悪しき欲望や怠惰な心と戦い、アッラーの御心に適う、より善きムスリムになろうと努力することです。これは、全てのムスリムに課せられた、生涯にわたる奮闘です。」
ムハンマド(アブー・バクル):「そして、一般に『戦争』と結びつけられがちなのは、『小ジハード』と呼ばれるものです。これは、イスラム共同体や信仰が、不当な侵略や迫害を受けた際に、自衛のために武器を取って戦うことを指します。あるいは、アッラーの法に基づいた公正な社会秩序を確立するために、不正や圧制と戦うことも含まれる場合があります。しかし、これはあくまで防衛的な、あるいは極めて限定的な状況下でのみ許されるものであり、そこには厳格なルールが存在します。例えば、戦闘員以外の女性や子供、老人、聖職者などを殺傷すること、作物を荒らすこと、降伏した敵を虐待することなどは、固く禁じられています。」
ムハンマド(アブー・バクル):「ですから、『ジハード』即『聖戦』あるいは『テロ』と結びつけるのは、全くの間違いです。イスラムは、基本的には平和を希求する宗教です。しかし、正義が踏みにじられ、信仰の自由が脅かされる時には、それを守るための『奮闘』も必要となる場合がある、ということです。それは、平和そのものを守るための、最後の手段としての『努力』なのです。」
あすか:「『努力』や『奮闘』が本来の意味で、内面との戦いが『大ジハード』…。戦争はあくまで限定的な『小ジハード』なんですね。イメージがかなり変わりました。平和を祈る人さん、ありがとうございました!」
あすか:「それでは、最後の質問です! モーセ様にお聞きします!」
【質問4:モーセへ】
あすか:「ペンネーム『世界市民』さんからです。『モーセ様のお話に出てくる「選民思想」についてですが、やはり「神様はイスラエルの民だけを特別扱いした」ように聞こえてしまいます。他の民族のことや、私たち現代に生きるイスラエルの民ではない人々は、神様にとってはどうでもいい存在だったのでしょうか? また、神様が与えたという律法は、あまりにも厳しくて、人間には到底守りきれないように思えます。もし守れなかったら、その人はもう救われないのでしょうか?』…とのことです。モーセ様、お願いします。」
モーセ:「(厳しいながらも、どこか憂いを帯びた表情で)『選民』…この言葉が、しばしば誤解や反発を招くことは承知している。だが、繰り返すが、それは我々が他の民より優れているという意味ではないのだ。(諭すように)神がアブラハムを選び、その子孫である我々イスラエルと契約を結ばれたのは、我々を通して、神の聖なる御心と、義なる律法を、全世界に示すためだったのだ。我々は、いわば、神の真理を世に伝えるための『祭司の王国、聖なる国民』となるべく召されたのだ。それは、特権であると同時に、極めて重い責任なのだ。その責任を果たせなかった時、我々は他のどの民よりも厳しく神に裁かれることになる。」
モーセ:「神は、イスラエルの神であると同時に、全地の創造主であられる。他の民族のことを、決して顧みられないお方ではない。律法の中にも、異邦人への憐れみや公正な扱いを命じる言葉は数多くある。ただ、神の救いのご計画の中で、まずイスラエルがその光を受け、それを世界に広げるという順序があったのだ。」
モーセ:「そして、律法が厳しいという点についてだが…(ため息をつき)確かに、人間の弱さをもって、あの完全な律法を全て守り通すことは、不可能に近いかもしれん。私も、民も、幾度となく神の御心に背き、罪を犯してきた。(しかし、と語気を強め)だが、神は、律法を与えるだけでなく、同時に『悔い改め』と『赦し』の道も備えてくださっているのだ! 罪を犯した者が、心からそれを悔い、定められた犠牲を捧げるならば、神はその罪を赦し、再び受け入れてくださる。律法の目的は、人を罪に定めることだけではない。むしろ、我々がいかに罪深く、神の憐れみなしには生きられない存在であるかを教え、常に神に立ち返るよう促すためのものでもあるのだ。完全に守れなくとも、守ろうと努め、罪を犯せば悔い改める、その姿勢こそが重要なのだ。」
あすか:「選ばれたのは、世界への光となるため…。そして、律法は厳しさだけでなく、悔い改めと赦しの道も示している…。なるほど、一方的なイメージで捉えてはいけないんですね。世界市民さん、ありがとうございました!」
あすか:「ふぅー! 皆様、たくさんの質問に、本当に丁寧にお答えいただき、ありがとうございました! これまでの議論で、もやもやしていた部分が、かなりスッキリしたのではないでしょうか? 私も、すごく勉強になりました!」
あすか:「さて、名残惜しいですが、この歴史的な対談も、いよいよエンディングの時間が近づいてまいりました。最後に、皆様から現代を生きる私たちへ、メッセージをいただきたいと思います。」
(あすか、少し寂しそうな、しかし充実した表情で、エンディングへの橋渡しをする。スタジオには、再び静かで厳かな空気が戻り始める)




