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ラウンド4:宗教と社会~異質な他者とどう向き合うか?~

(休憩を終え、スタジオに戻ってきた対談者たち。先ほどの和やかな雰囲気とは少し変わり、再び真剣な表情が並ぶ。あすかが中央に進み出て、落ち着いた、しかし強い意志を込めた声で語り始める)


あすか:「皆さん、おかえりなさい。幕間の和やかな雰囲気、とても素敵でした。でも!現実の世界に目を向ければ、宗教は、個人の心の救いだけでなく、社会のあり方、法律、そして時には国家間の関係にまで、深く、そして複雑に関わってきましたよね。」


あすか:「ラウンド4では、この『宗教と社会』、特に『自分たちとは異なる信仰を持つ人々、異質な他者とどう向き合うか?』という、非常にデリケートで、しかし避けては通れない問題について、皆さんの考えを伺いたいと思います。」


あすか「(少し声を潜め)歴史を振り返れば、宗教が人々に希望や秩序をもたらした一方で、悲しい対立や、時には戦争の原因となってしまったことも…残念ながら事実です。この光と影について、皆さんはどうお考えでしょうか?」


あすか:「まずは、共同体の『境界線』についてお聞きします。モーセ様、あなたは神に『選ばれた民』を率いたとされていますよね。その『選民思想』というのは、他の民族とは一線を画す、ということなのでしょうか?異教徒とは、どう付き合うべきだと?」


モーセ:「(威厳をもって、しかし慎重に言葉を選びながら)『選民』…それは、我々イスラエルの民が、他のどの民族よりも優れているという意味ではない。むしろ、それは神から特別な『使命』、すなわち聖なる『律法トーラー』を守り、神の義をこの世に示すという、重い『責任』を負わされたということなのだ。(厳しい表情になり)神は、我々が約束の地カナンに入るにあたり、そこに住む偶像を崇拝する異教徒の民と交わることを厳しく禁じられた。なぜなら、彼らの忌まわしい習慣に染まり、我々の民が唯一なる神ヤハウェへの信仰を失うことを、神は最も恐れられたからだ。偽りの神々に仕えることは、霊的な姦淫かんいんであり、必ずや神の怒りを招き、滅びへと繋がる。」

モーセ:「しかし、(少し語調を和らげ)神は同時に、我々のうちに寄留する異邦人に対しては、憐れみをもって接するよう命じてもおられる。『あなたがたはかつてエジプトの地で寄留者であったことを覚えなければならない』と。彼らが我々の神を敬い、律法に従うならば、共同体の一員として受け入れる道も示されている。だが、我々の信仰を脅かす偶像崇拝に対しては、断固として立ち向かわねばならん。それが、神の民としての務めなのだ。」


あすか:「なるほど…。信仰を守るために、異教徒とは明確な一線を引くけれど、寄留者への配慮もある、と。ありがとうございます。では、アブー・バクル様。イスラムの教えでは、ユダヤ教徒やキリスト教徒は『啓典の民』として、特別な扱いがあったと聞きます。これは、モーセ様の言う『異教徒』とは違うのでしょうか?」


ムハンマド(アブー・バクル):「はい。クルアーンにおいて、ユダヤ教徒とキリスト教徒は『啓典のアフル・ル・キターブ』と呼ばれています。彼らは、我々ムスリムと同じく、唯一なるアッラーから下されたトーラーや福音書など啓示を信じる民であり、その点で多神教徒や偶像崇拝者とは明確に区別されます。


ムハンマド(アブー・バクル):「(歴史的な事実を述べるように)ズィンミー制度というものがあります。イスラム共同体の統治下において、啓典の民は、ジズヤと呼ばれる人頭税の支払いなどの一定の条件の下で、その信仰を続ける自由、そして生命や財産の安全を保障されました。預言者ムハンマド様(彼の上に祝福と平安あれ)ご自身も、彼らとの間に契約を結び、共存を図られました。」


ムハンマド(アブー・バクル):「しかし、それは、彼らの信仰がイスラムと同等であるという意味ではありません。我々は、彼らの啓典が後に人間によって部分的に歪められたと考えており、クルアーンこそが最後の完全な啓示であると信じています。ですから、彼らにもイスラムの真理を受け入れるよう呼びかけます。そして、アッラーの存在を否定する者や、多神教徒に対しては、イスラムを受け入れるか、さもなくば…(言葉を濁すが、戦いも辞さないというニュアンスを含む)という、より厳しい態度を取らざるを得ない場合もありました。ただし、それはあくまで、アッラーのシャリーアに基づいた公正な秩序を確立し、共同体を守るためであり、無用な殺生や略奪は厳しく禁じられています。」


あすか:「『啓典の民』は保護するけれど、イスラムの優位性は明確で、多神教徒には厳しい…。共存と境界線が、そこにもあるわけですね。ありがとうございます。…さあ、ルター様。お二人の話を聞いて、いかがですか?ルター様の時代も、まさに宗教が社会を大きく揺るがした時代でしたよね。カトリック教会との分裂、激しい論争、そして農民戦争のような悲劇も起きました。異なる信仰を持つ人々との共存について、どんなお考えをお持ちでしたか?」


ルター:「(苦い経験を思い出すように、少し表情を曇らせて)…まさに、いばらの道だった。私が何よりも訴えたかったのは、個人の『信仰の自由』だ!神と人との間に、教皇や司祭が立ちはだかり、良心を縛り付けるようなことがあってはならん!誰もが、聖書を通して直接神の声を聞き、自らの信仰に基づいて生きるべきなのだ!ローマ・カトリック教会による異端審問や、武力による信仰の強制など、言語道断!(拳を握り)信仰は、強制されるものではなく、聖霊によって内から与えられるものなのだから!」


ルター:「(しかし、と複雑な表情で続ける)だが…現実は、私の理想通りにはいかなかった。私の教えが、過激な熱狂や、社会秩序を破壊しようとする動き(再洗礼派や農民反乱など)に利用されてしまった面もある。それは痛恨の極みだ。信仰の自由は守られねばならんが、社会の平和と秩序を維持する責任もまた、為政者にはある。(自身の経験を語るように)また、ユダヤの人々についてだが…当初、私は彼らがキリストの福音を聞けば、必ずや信じるだろうと期待していた。だが、彼らはかたくなにキリストを拒み続けた。その失望と怒りから、私は後に、彼らに対して非常に厳しい言葉を書き連ねてしまった…。(目を伏せ)今にして思えば、そこには愛が欠けていたのかもしれん。だが、キリストを否定する者と、神の国で共存することは難しい、そう考えたのだ。」


あすか:「信仰の自由を訴えながらも、現実の混乱や、異質な他者との共存の難しさに直面された…。特にユダヤの方々への厳しい言葉は、後世、非常に大きな問題にもなりましたよね…。ありがとうございます。非常に正直なお話でした。…それでは、釈迦様。(穏やかな釈迦に視線を向ける)これまでの議論、選民思想、啓典の民、宗教戦争…こうした考え方や出来事について、仏教の立場からは、どのようにお考えになりますか?」


釈迦:「(静かに、しかし明確な口調で)私が説いたダルマは、太陽の光が、貴い人も卑しい人も、善人も悪人も、分け隔てなく照らすように、全ての人々に開かれています。生まれや身分カースト、民族や信仰の違いによって、人が真理に至る道から排除されることはありません。王侯貴族であろうと、不可触民であろうと、自らの努力次第で、誰でも覚りを開き、苦しみから解放される可能性があるのです。」


釈迦:「(慈愛に満ちた表情で)仏教の最も大切な教えの一つは、『非暴力アヒンサー』、すなわち、いかなる生命をも故意に傷つけないことです。そして、もう一つは『慈悲カルナー』、他者の苦しみを自らの苦しみとして感じ、その苦しみを取り除きたいと願う心です。この二つの心があれば、異なる考えを持つ人々を排斥したり、ましてや暴力によって自らの教えを押し付けたりすることなど、ありえません。対立や憎しみは、さらなる苦しみを生むだけです。対話と寛容こそが、私たちが進むべき道だと考えます。」


釈迦:「もちろん、仏教の長い歴史の中にも、宗派間の争いや、時の権力と結びついて過ちを犯した例がなかったわけではありません。しかし、それは、仏陀(目覚めた人)の教えの本質から離れた、人間の弱さ、無明の表れです。真の仏弟子であるならば、常に非暴力と慈悲の精神に立ち返り、自らを戒めねばなりません。私が理想とする共同体サンガとは、特定の民族や国家に縛られず、ただダルマの下に集い、互いに敬い、学び合う、開かれた集まりなのです。」


あすか:「出自や民族に関係なく、誰にでも開かれている。そして、非暴力と慈悲、寛容…。なんだか、すごく…理想的に聞こえますね。ありがとうございます。」


あすか:「でも…(少し意地悪な質問かもしれない、という顔で)釈迦様、失礼を承知で伺いますが、歴史を見ると、宗教が原因で、本当にたくさんの人が傷つき、命を落としてきましたよね?皆さんの教えも、本来は人々を幸せにするためのものだったはずなのに、なぜ、時にこれほど残酷な対立や戦争を引き起こしてしまうのでしょうか?愛や慈悲を説く宗教が、なぜ憎しみを生むことがあるんですか?」


モーセ:「(厳しい表情で)それは、人々が真の神から離れ、偽りの教えや人間の欲望に惑わされるからだ!神の律法から逸脱すれば、必ず混乱と争いが起こる!」


ルター:「(同意しつつ)そうだ!そして、自らの義によって救われようとする人間の傲慢さが、他者を裁き、断罪する心を生むのだ!キリストへの真の信仰によらなければ、真の平和は訪れん!」


ムハンマド(アブー・バクル):「(冷静に)イスラムは平和サラームを意味します。しかし、アッラーの法に基づいた公正な秩序が脅かされる時、あるいは信仰が不当に迫害される時には、共同体を守るための戦い(ジハード)も、やむを得ない場合があるのです。それは、悪を放置することこそが、より大きな不正義と混乱を招くからです。ただし、そこには厳格なルールがあります。」


釈迦:「(静かに)争いの根源は、やはり、私たちが持つ『』への執着にあるのではないでしょうか。『私の考えが正しい』『私の属する集団が優れている』という思い込み(邪見)が、他者を排斥し、対立を生むのです。その『我』への執着を断ち切らない限り、表面的な平和が訪れても、根本的な解決にはなりません。」


あすか:「うーん…原因は、神から離れたから、人間の傲慢さ、正義のための戦い、我への執着…と、またしても意見が分かれましたね。でも、共通しているのは、争いの原因は『教えそのもの』にあるというよりは、『人間の側の問題』だ、ということでしょうか…?」


あすか:「(少し視線を遠くにやり)現代…そう、今私たちが生きているこの2025年にも、宗教が絡んだ対立やテロ、差別といった問題が、残念ながら後を絶ちません。もし皆さんが、今のこの世界をご覧になったとしたら、何と言われますか?そして、どうすれば、異なる信条を持つ人々が、本当に手を取り合って生きていける世界を、私たちは作ることができるのでしょうか…?」


(あすかの問いかけに、対談者たちはそれぞれの思いを巡らせ、沈黙する。スタジオには重い空気が流れる。この問いへの答えは、次の質問コーナー、そしてエンディングへと繋がっていくのかもしれない)


あすか:「…非常に重く、難しい問いを投げかけてしまいました。この答えを探すのは、このラウンドだけでは難しそうですね。宗教が社会の中で果たす役割、そして異質な他者との向き合い方…その光と影、理想と現実の複雑さを、改めて考えさせられました。」


あすか:「さて、白熱した議論はここまで!次は、これまでの議論で出てきた疑問点などを、視聴者(という設定)からの質問に答えていただく形で、掘り下げていきたいと思います!最終コーナー、質問コーナーです!」


(ラウンド4の終了を告げる、少しシリアスで、次の展開を予感させるような音楽が流れる)


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