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ラウンド3:『聖典』と『偶像』~絶対なるものへの向き合い方~

(ラウンド2の議論を受け、スタジオには新たな緊張感が漂う。あすかが少し身を乗り出し、挑戦的な笑みを浮かべて口火を切る)


あすか:「さあ、皆さん!ラウンド3は、いよいよこの番組の真骨頂です!これからお話しいただくテーマは、それぞれの教えの『絶対的な拠り所』に関わる問題…そう、テーマは『聖典』と『偶像』!これらは、信仰の核心であり、時として激しい対立を生んできたテーマでもありますよね?皆さん、心の準備はよろしいですか?まずは『聖典』から参りましょう!」


あすか:「ラウンド1、2でも少し触れましたが、皆さんの教えには、それぞれ『聖なる書物』がありますよね。モーセ様には『トーラー』、ムハンマド様(アブー・バクル様)には『クルアーン』、ルター様には『聖書』、そして釈迦様にも多くのお弟子さんがまとめた『経典』があります。これらの『聖典』は、皆さんにとって、どれほど絶対的なものなのでしょうか?モーセ様、神から直接授かったとされるトーラーについて、改めてお聞かせください。」


モーセ:「(即座に、揺るぎない声で)トーラーは、単なる書物ではない。それは、シナイの山で、燃え盛る炎の中、神ご自身が私に託された、神の『言葉』そのものだ。(テーブルを軽く叩き)そこに記された律法、歴史、預言、その一字一句に至るまで、全てが神聖であり、永遠不変の真理なのだ。我々イスラエルの民は、このトーラーを昼も夜も口ずさみ、学び、その教えに寸分違たがわず従うことによってのみ、神の民として生きることができる。これを疑うこと、あるいは勝手に解釈を変えることなど、断じて許されん!」


あすか:「一字一句、絶対不変…!まさに『神の言葉』そのもの、というわけですね。ありがとうございます。アブー・バクル様、クルアーンについてはいかがでしょう?イスラムにおいても、クルアーンは絶対的なものですか?」


ムハンマド(アブー・バクル):「(モーセに同意しつつ、さらに強調するように)はい、その通りです。クルアーンは、全知全能のアッラーが、天使ジブリール様(彼に平安あれ)を通して、最後の預言者ムハンマド様(彼の上に祝福と平安あれ)に下された、一字一句違わぬ『神の御言葉』そのものです。それは、トーラーや福音書など以前の啓典の内容を確証し、同時に、それらに人間的な歪みが加えられた部分を正し、完成させる、最後の啓示なのです。クルアーンは、アラビア語で完璧な形で保存されており、その朗誦ろうしょうの美しさ、内容の深遠さ、そして未来を予見する記述など、それ自体がアッラーの存在証明であり、奇跡なのです。我々ムスリムは、このクルアーンを信仰と生活の全ての指針とし、その教えに絶対的に従います。人間の解釈が、神の言葉そのものの上に来ることなど、ありえません。」


あすか:「こちらも、絶対的で完璧な『神の御言葉』…。しかも、以前の聖典を『完成させる』ものだと。ありがとうございます。…さて、ルター様。お二人のお話を聞くと、まさに『聖典絶対!』という感じですが、ルター様は先ほど『信仰による解釈が重要だ』とも仰っていましたよね?聖書も、同じように一字一句絶対、ということではないのでしょうか?」


ルター:「(力強く頷き)聖書こそが、我々キリスト者の信仰と生活の唯一絶対の規範である!『聖書のみ(SolaScriptura)』!これは揺るがん!だが、それは聖書の言葉を、ただ文字通り、盲目的に受け入れよという意味ではないのだ!(声を大にして)聖書全体を貫いている中心的なメッセージ、すなわち『キリストによる罪の赦しと信仰による義』という光に照らしてこそ、個々の言葉の真の意味が理解できるのだ!律法学者やパリサイ人のように、文字だけにこだわり、肝心なキリストを見失っては、元も子もないではないか!」


ルター:「それに!(モーセとアブー・バクルの方を向き)聖書は、神学校の学者だけのものではない!神の言葉は、全ての人々、農民も、職人も、女性も子供も、自らの言葉で読み、理解し、そこから直接慰めと力を得る権利があるのだ!だからこそ私は、聖書をドイツ語に翻訳した!一部の権威者が解釈を独占し、民衆を惑わすようなことがあってはならんのだ!聖霊の導きによって、信仰をもって読む者には、聖書は必ず真理を語りかけてくれる!」


モーセ:「(不快そうに)ルター殿!それは危険な考えだ!神の律法は、素人が勝手に解釈して良いようなものではない!伝統と、神に立てられた祭司やレビ人たちからなる指導者の教えに従ってこそ、正しく理解できるのだ。それぞれが自分の都合の良いように解釈し始めたら、共同体の秩序はどうなるのだ!?」


ムハンマド(アブー・バクル):「(静かに、しかし鋭く)ルター殿の言う『解釈』こそが、まさに以前の啓典が歪められてしまった原因ではないのですか?人間の勝手な解釈が入り込む余地がある限り、それはもはや完全な神の言葉とは言えません。クルアーンがアラビア語で守られ、その解釈にも厳格な学問体系タフスィールがあるのは、まさにそのような危険を防ぐためなのです。」


ルター:「(反論して)いや!聖書そのものが、聖霊の働きを通して自らを解き明かすのだ!必要なのは、信仰と謙虚な心だ!教会の権威や人間の伝統を、神の言葉の上に置くことこそが、真の危険なのだ!」


あすか:「うわー!聖典の『絶対性』は認めつつも、その『読み方』『解釈の仕方』で、こんなにも意見が割れるんですね!『文字通り絶対派』vs『信仰による解釈派』!これは根深い対立です…!」


あすか:「…さて、この『絶対なるもの』への向き合い方、さらに議論が白熱しそうなテーマに移りましょう。(一呼吸置いて)それは…『偶像』です!神様や仏様を、目に見える『形』にすること、それを拝むことについて、皆さんはどうお考えですか?これは…特にモーセ様とアブー・バクル様にとっては、絶対に譲れない一線ですよね?」


モーセ:「(即座に、厳しい表情で)もちろんだ!我らが神ヤハウェは、シナイの山で、燃える柴の中から私に語りかけられたが、そのお姿を見せることはなかった!そして、十戒の第二戒で明確に命じられた!『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない』と!(声を荒げ)にもかかわらず、我が民は、私が山にこもっている間に、金の子牛を造り、それを拝んだのだ!なんという愚かさ、なんという神への裏切りか!目に見える形に頼ろうとすることこそ、人間が陥りやすい最大の罪の一つなのだ!それは、偉大なる神を、被造物と同じレベルに引きずり下ろす冒涜行為に他ならない!」


ムハンマド(アブー・バクル):「(モーセの言葉に強く頷き)全くその通りです。イスラムにおいて、アッラー以外の何ものかを崇拝すること(シルク)、特に手で作った像などを拝むことは、絶対に赦されない最大の罪です。アッラーは、形もなく、比類なきお方。その偉大さを、人間の手で作ったいやしい像で表現しようなど、愚の骨頂です。(厳しい口調で)預言者ムハンマド様(彼の上に祝福と平安あれ)は、メッカを解放された際、まず第一にカアバ神殿にあった360体もの偶像を破壊されました。それは、人々を真の唯一神アッラーへの純粋な信仰に立ち返らせるための、断固たる決意の表れでした。形あるものへの崇拝は、人の心を惑わし、真の創造主から目を逸らさせる、悪魔の囁きなのです。」


あすか:「(少し怯んだ様子で)ひぇぇ…!お二人の迫力、凄まじいですね…!偶像、絶対ダメ!絶対悪!ということですね…。わかりました…。では、この厳しいご意見を聞いて、ルター様、そして釈迦様は、いかがですか?キリスト教にも聖像画や十字架がありますし、仏教といえば、まさに仏像を拝むイメージが強いですが…?」


ルター:「(少し困惑したような、しかし反論の機会を窺うような表情で)モーセ殿とアブー・バクル殿の言う、偶像そのものを神として崇拝することの危険性は、私も認めよう。特に、当時のローマ・カトリック教会のように、聖人像や聖遺物に祈れば救われるかのような、迷信的な信仰が蔓延はびこっていたことは、断じて許されることではない!それはまさに、第一戒(唯一の神を信じる)を破る行為だ!」


ルター:「だが!神が禁じられたのは、それを『神として拝む』ことであって、必ずしも全ての『形』や『像』を否定されたわけではないと、私は考えるのだ!例えば、文字を読むことのできない多くの民衆にとって、キリストの生涯や受難を描いた絵画や、十字架は、信仰を教え、想起させるための有効な『手段』となりうるのではないか?問題は、像そのものではなく、それに対する我々の『心構え』なのだ。それを神の代わりとして拝むのではなく、あくまで神の恵みを覚えるための『記念』や『教育』の道具として用いるならば、一概に禁止されるべきではないだろう。」


あすか:「なるほど!『目的』と『心構え』次第では、像も役に立つ場合がある、と…。モーセ様やアブー・バクル様からすると、それでも『危険な言い訳』に聞こえそうですが…。では、釈迦様はどうでしょう?仏像について、ご自身はどうお考えですか?」


釈迦:「(静かに、一同を見渡してから)私がこの世で法を説いていた時、自らの姿を像にすることを許したことはありませんでした。なぜなら、私が指し示したかったのは、形あるものではなく、形を超えた『ダルマ』そのもの、すなわち覚りの智慧だったからです。(穏やかに続ける)しかし、私が入滅した後、人々が私の教えを慕い、その象徴として仏塔ストゥーパを建て、やがて私の姿を模した像(仏像)を造り、それに祈りを捧げるようになったと聞いています。」


釈迦:「(少し考えるように)それらの人々が、像そのものを私自身だと考え、それに執着しているのであれば、それは新たな苦しみを生む『迷い』と言わねばなりません。形あるものは全て無常であり、それに捉われては、真の解脱には至りません。しかし…。(わずかに視線を変え)もし、人々が仏像を拝むことで、私の説いた慈悲や智慧の教えを思い起こし、自らの心を静め、善き行いに励む『えん』となるならば…それは、人々を覚りに導くための一つの『方便ほうべん』、すなわち巧みな手立てと言えるのかもしれませんな。大切なのは、形に惑わされず、その奥にある『法』を見つめること。像は、あくまでそのための『きっかけ』に過ぎないのです。」


モーセ:「(憤然として)方便だと!?釈迦殿、それは詭弁きべんだ!神が明確に禁じられたことを、『方便』などという言葉で正当化するなど、断じて許されることではない!一度、形あるものに頼ることを許せば、民は必ずそれに惑わされ、真の神から離れていくのだ!金の子牛の二の舞になるだけだ!」


ムハンマド(アブー・バクル):「(同意して)釈迦殿の教えの真意は分かりかねますが、形あるものを崇拝の対象とすること自体が、アッラーの唯一性を損なう行為です。いかなる『方便』であろうとも、シルク(多神教・偶像崇拝)に繋がる可能性のあるものは、厳に避けなければなりません。道は一つ、アッラーのみを崇拝することです。そこに、いかなる像も介在する余地はありません。」


ルター:「(反論するように)いや、だから!問題は像そのものではないと言っているのだ!我々は十字架を拝むのではない、十字架にかかられたキリストとその贖いを信じるのだ!絵画を拝むのではない、そこに描かれた聖書の物語から教えを学ぶのだ!あなた方は、あまりにも『形』に囚われすぎてはいないか?信仰は、もっと内面的な、心の問題なのだ!」


モーセ:「内面の問題だと?ルター殿、あなたのその『内面』とやらが、いかに当てにならず、惑わされやすいものか!だからこそ、神は明確な『形』での禁止を与えられたのだ!外的な形を厳しく律することなしに、内面の純粋さを保つことなどできん!」


釈迦:「(静かに割って入り)皆さま、少し落ち着きましょう。怒りは、真理を見る目を曇らせます。形を『造る』ことも、形を『否定する』ことも、どちらも『形』への捉われであることに変わりはないのかもしれません。重要なのは、形があろうとなかろうと、心が何に執着しているかを見極めることではないでしょうか。」


あすか:「(圧倒されながらも、興奮を隠せない様子で)うわーっ!うわーっ!すごい!すごい議論です!聖典の絶対性から始まって、偶像を巡る大激突!『絶対禁止派』のモーセ様とアブー・バクル様、『条件付き容認/方便派』のルター様と釈迦様!それぞれの信仰の根幹がぶつかり合って、火花バチバチです!これぞ歴史バトルロワイヤル!」


あすか:「『絶対なるもの』聖典や神仏と、私たち人間はどう向き合うべきなのか…。文字通り従うべきなのか、心で解釈すべきなのか。形は必要なのか、むしろ邪魔なのか…。いやぁ、これは答えが出ませんね…!しかし、この譲れない一線があるからこそ、それぞれの信仰が形作られてきたのでしょう!」


あすか:「この熱気、まだまだ続けたいところですが、残念ながらお時間です!この白熱した議論を受けて、しばしの休息、『幕間』といたしましょう!皆さま、一旦スタジオを離れて、クールダウンしてきてください!」


(激しい議論の余韻と、次の幕間への期待感を残して、ラウンド3の終了を告げる音楽が鳴り響く。対談者たちは、まだ興奮冷めやらぬ表情で、あるいは疲れた様子で、席を立つ)

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 物質界の存在でありながらそれを否定する矛盾。  言ってることに間違いはないけど、形を否定することは自身の存在を否定することになりはしないでしょうか? いや、それ以前に神が世界に形を与えたことに 対…
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